十八. 1868年、流山
1868年、流山
一瀬 伝八は会津へ。
永倉と原田は江戸に残り。
近藤と土方は下総へ進む。
「・・・・・・従ってくれるか」
土方は流石に憔悴の顔を隠し切れずに言った。無理も無い。近藤が甲府で新政府軍を食い止めている間、彼は神奈川・江戸と東奔西走し、援軍の要請に忙しく駆け回っていたのである。・・・だが、結局一軍も得る事は出来なかった。
永倉と原田は脱走する自軍の隊士を追って戦線離脱し、沖田は道中で病状が悪化し甲府へ着く前に江戸へ引き返させた。甲府に残った副長助勤は一瀬と尾形を残すのみ。
『・・・・・・』
『・・・・・・』
・・・一瀬と尾形の周囲は、敵の死体で山になっていた。
土方が発案した内容の詳細はこうだ。
今回も叉、多数の負傷隊士が出た。之迄の様に和泉橋や横浜に治療がばらけていれば収集に悪いと、会津藩が新選組の為に病院を用意してくれたのだ。其処へ負傷隊士を引率し、一瀬が向かう事になった。
新政府軍は甲州から江戸に向かって進軍して来ている。甲陽鎮撫隊を破った新政府軍の東山道分隊が、如何やら下総国から五兵衛新田(現・足立区綾瀬)を通って江戸に入るらしいという情報を得た。
依って、近藤・土方率いる隊が下総に進軍し、東山道分隊を食い止める。東山道分隊を破った後は北上し、会津で一瀬隊と合流する。彼等は甲州と同じく鎮撫隊を名乗り、名も大久保 大和(剛から改名)と内藤 隼人と称する。
新政府軍の狙いは他でもない江戸城だ。
そこで、永倉と原田には江戸に残って最後の砦となって戦う。所謂二段構えだ。彼等の率いる隊は靖兵隊の名を貰う事になった。
詰り、一瀬隊・鎮撫隊・靖兵隊の3隊を合わせて新選組と呼ぶのである。
―――・・・只、靖兵隊は江戸に留まる事になる為、近藤・土方や一瀬と共に戦う事は無い。
・・・・・・之迄も分れて戦った事はあるが、之迄の戦いとは違う様な空気がもう既に流れている。
「・・・・・・」
原田はしょんぼりしていた。
「何て顔してんだよ、左之」
永倉が原田の背中を叩いた。小さな手で叩いただけでも原田の大きな図体は揺れる。其程ショックが大きかったのだと謂えよう。
「・・・土方さんが、俺達を恃ってくれてるんだぞ。珍しく」
珍しくは余計だ新八。土方が疲れ切った顔に仄かに紅みをさした。本来の精悍な貌に少し戻った。永倉が、其でこそ土方さんの貌ですよと笑う。
「其に、江戸には戻って来るんでしょう。近藤さん」
「ああ。会津で一瀬と合流を果したら、江戸に戻って江戸で戦う。その時は、新八、左之助。お前達も一緒だ」
・・・全く、近藤は鼓舞するのが上手い。甲州勝沼の際も、土方が援軍探しに奔走している間、近藤は逃げ出そうとする兵達をずっと励まし続けた。援軍はもうじき来るからと、保証の無い事を言ったりもした。御蔭で、敗走以外の手立てが無くなると大久保 剛は嘘吐き呼ばわりされ、永倉と原田に苦情が飛び火した。永倉はそんな、どこまでも変らず染まる事の無い近藤に、感服し、愛おしくもあり心配でもある。
(・・・でも)
・・・・・・自分達(試衛館派)が去ろうとも尾形は残る。
「・・・・・・お前の言う通り、大石がいなくなったが、その始末はついているんだろうな、尾形」
「既に手は打ってあります」
尾形は先程から一度も表情を変えていない。其は一瀬も同様であるが―――尾形はしらっとした表情を保った侭
「只―――・・・あの名は暫くの間使わせて戴きとう御座いまする―――」
と言った。永倉と原田は尾形を見、首を傾げる。近藤と一瀬は読めない表情をしていた。土方は陰欝な顔つき故に意地悪な笑みとなり
「―――じゃあ、お前は今日から『二番』だ。・・・遣る事は変らないがな。近藤さんも、其でいいか?」
と、尋ねる。近藤の顔は少し険しくなったが、・・・仕方無いなという表情に変り
「―――いいぞ」
という科白を少し長めの息と共に吐いた。―――之で、副長助勤の職も消滅する。
「―――では、江戸で、出来ればあの日野の試衛館でまた会おう。試衛館は、我々新選組の生家とも謂える場処なのだから」
・・・・・・永倉が肯いた。原田も漸く一筋の希望を見つけた様に、何度も何度も肯いた。土方は全員の顔を一人一人、確りと見つめる。
近藤も全員の顔を見て、大きく肯いた。
「よし!新選組、いざ!」
この話し合いの翌日には、一瀬 伝八が負傷隊士を率いて会津へ先発する。その2日後には近藤・島田等数名が、更にその翌日には土方・尾形が五兵衛新田の金子 健十郎宅に遷った。
金子家に向かう前に、土方は千駄ヶ谷に寄ると言い出した。千駄ヶ谷には、新徴組隊士沖田 林太郎に協力を頼んで手配して貰った植木屋の屋敷が在り、其処に総司を匿っている。
松本 良順がわざわざ足を運んでくれるのが救いである。土方は沖田の見舞いをした後、別室に移って松本と話をした。松本は山崎の時と同じ表情で、同じ声色で、同じ言葉を述べた。・・・・・・即ち、覚悟をしろという事だ。
「・・・・・・あと二月程度だろぅ・・・・・・」
・・・・・・松本の語尾は、しゃくり上げて声が裏返っていた。為す術も無く死の宣告しか出来ない事にもう遣り切れないのだろう。
土方は自分でも冷酷だと思う程に、心乾いていた。涙一つ流れない。
・・・只、沖田が死ぬ迄の間は同志を死なせはしまいと、漠然と誓った。
「・・・・・・」
尾形は屋敷の門付近に立ち、行きに乗っていた駕籠を待たせ、土方を待つ。石塀の向うに迄太く枝を伸ばす桜を見上げた。・・・満開の時期だ。
「尾形さん」
―――― 尾形はぴくりと身体を震わせた。沖田に声を掛けられる迄、彼が背後にいる事に気づかなかった。彼がいると知って猶、彼の気配がまるで感じられないのだ。
「・・・・・・佐倉さんは何処に居られるのだろうな。貴方を看ていないとは・・・双方、土方副長と法眼の御叱りを受ける事になる」
「佐倉さんは厠ですよ。其に、今日は驚く程体調がいいんです。こんなに桜が綺麗なのに、花見をしないなんて勿体無いでしょう」
・・・・・・尾形は流し目で沖田を見た。江戸に帰還した辺りからだろうか。自身を度々見る沖田の静かな視線に、尾形は気づいていた。
気配が無いので自ら気づく事は殆ど無いのだが、ふとした時、ぼんやりと例の見透かした眼で自身を視ている。
「こういう日は何だかお団子が食べたくなりますねえ。・・・久々だな、食べ物を食べたいと想うのは」
沖田は縁側から外に出て、桜を観賞しながらゆっくりと此方に向かって歩いて来る。真直ぐに尾形を視た。・・・透き通る様な視線で。
「・・・・・・・・・」
沖田は微笑っている。
尾形は、果敢無い程に透き通った笑顔を浮べ、自身を見つめ続ける沖田を怖ろしいものでも見る様にして見ていた。先は長くないだろうという事も、彼ならそこで悟っただろう。
「―――あ、やっと思い出した」
沖田は桜の枝の下に差し掛った所で歩を止めて、掬い上げる様に尾形を視た。子供の様な、人懐こい笑みに表情が変る。
「―――沖さん・・・?」
「何で今迄気づかなかったんだろう。まぁ、でも、之ぐらいの齢でしたからね、お互いに」
そう言って、沖田は自身の腰上の辺りに手を浮かせて可笑しそうに笑った。―――尾形が瞳孔を大きくした。ふきっさらしの風が吹き桜の花弁が一斉にクルクルと舞い散る。桜の匂いが微かに香った。・・・好い匂いだ。と、沖田は郷里の春を堪能する。
「江戸の桜でやっと思い出したんですよ。気を悪くしていたらすみません」
沖田は苦笑すると、くるりと背を向けてゆっくりと離れて往った。早く戻らないと佐倉さんに怒られて仕舞う、とぼやきながら。
「―――あ、山野さんはお返ししますよ」
沖田が振り返り、思い出した様に言った。尾形はいまいちついていけていない様子で沖田を見ている。沖田はくすくすと笑って
「其にしても、永倉さんも原田さんも斎藤さんもいなくなって、土方さんだけでは何とも心許無いなぁ。
近藤先生をお願いしますよ、尾形さん」
と、おどけた口調で言った。・・・尾形は、静かに肯いた。
―――鎮撫隊出陣の日には、永倉と原田も駆けつけ、見送りに来てくれた。
「ぬおーーーーっっっ!!無事に還って来いよーーーーーっっっっ!!!」
原田はすっかりいつもの調子に戻って、出陣する凸凹達に抱きつこうとする。おおーーう!!之には島田が応じ、ぐっ、と男の抱擁を交した。
「・・・。むさッ苦しいな」
「まぁまぁ。八十も存外あっさりしてるもんな」
漢同士の熱い抱擁を冷めた眼(というか引いた眼)で見る八十八を永倉が宥める。
「・・・でも、本当に元気でいろよ。京に家族が居るんだろ」
別離の時でもテンションの高い原田と対照的に、永倉は心配を隠せない様子で八十八に言った。八十八は白けた様な一瞥を永倉に呉れると、にまぁ~、と惚気た様な笑みを浮べた。照れるだけで色を作った様に美しくなるから羨ましい限りだ。
「らしくねぇ事言ってんじゃねぇやい。其とも何でィ、羨ましいのか?八兄も早く女つくれよォ」
モテるだろぅ?その態ならよォ。八十八が永倉の頭をさすさす摩りながら言う。完全に小動物か子供の扱いだ。而も意外に動物や子供が好きらしく、めちゃめちゃ好意を持って撫でているのがわかる。
「はぁ・・・早く顔見てィなぁ、俺の娘」
「あーと・・・取り敢えずその撫でる手を止めようか。俺のモテない理由がわかった気がする」
「俺の所にも子供が生れたってつい最近文が来てさっ!」
わぁ! 島田との抱擁を終えた原田が、八十八と永倉に飛びついて来る。八十八と永倉は潰されて蟇蛙の様な声を上げたが、なにッ!?とすぐに聞き分けて八十八は原田の手を握った。
「いつ生れたって!?」
「去年の暮れだってよ!男だって!八十八っつぁんの娘も確か其くらいの時期だったよな!?」
子供の話で盛り上がる美男隊士二人。そりゃそうだよな、妻も子供も出来る筈だよ、だって手を握り合う其だけの姿でさえ浮世絵から抜け出て来た理想的な男女の様だもの。
「・・・・・・‘・ω・ ’」
「・・・・・・‘ ・ω・’」
島田と永倉の凸凹コンビはしょぼんと背中を丸めて地面にへのへのもへじを書き連ねている。いーもん。自分とは無縁の話だもん。
自分は剣で生きていくんだもん。
ずーん‘・ω・’
「・・・・・・天下泰平の世になったら、京に戻って子を見せ合おうな」
「・・・・・・ああ」
原田と八十八は固く握手し、約束を取り交した。・・・・・・島田と永倉は、ふ、と頬を緩め、男同士の約束を微笑ましげな眼で見る。
「・・・・・・力さんも、八十八っつぁんと無事に還って来て、京に子を見に来てくれよ」
「おう、勿論だ。お前も新八も、俺達が還って来る迄確り江戸を護るんだぞ」
・・・・・・原田と永倉は大きく肯いた。島田と八十八も二人を見て肯く。
―――屯所から、銃を背負った尾形が出て来た。
「おがっち!」
尾形が島田と八十八の横を通り過ぎようとする。永倉と原田が駆け寄った。尾形は予期せぬ来訪者に然して驚いた風でもなく
「・・・・・・左之さん。新八さん」
と素っ気無く言った。
「一緒に征けなくてごめんな」
「近藤さんと土方さんを、恃む!」
永倉と原田が頭を下げる。尾形は相変らず淡々とした口調で・・・ああ。とのみ答えた。特に感慨の無い表情をしている。
「・・・・・・でも、おがっちにも無事に還って来て欲しいんだ」
・・・・・・。尾形は何も返さなかった。大坂城の火事の時は之と似た事を口走って笑い飛ばされたりもしたものだが、今回は其も無い。
若しかしたら尾形は、今度こそは死を身近に感じているのかも知れない。・・・其も原田にしか想像し得ない事であるが。
「八十八っつぁんの娘が生れたのと同じ時期に、俺の所にも子供が生れたって文が最近来てさ」
「―――・・・ほう。其は目出度い」
尾形が表情を綻ばせた。大坂城で見せたのと似た表情で―――・・・其よりも優しい。永倉だけでなく島田も八十八も、呆気に取られて尾形の自然な表情に釘づけになった。
「・・・・・・おがっちにも、見て欲しいんだ」
原田は、思わずはにかみながら言った。
「―――八十の奥方の出産祝も、そういえば未だしていなかったな」
!? 尾形の口から自身についての物事を気遣う声が出てくるとは思わず、八十八に感動の鳥肌が立った。と同時に
「振り向かれると急に興味を失うんでさァ―――・・・追い駆ける過程が楽しいんだよぉ・・・・・・」
「なぁに考えてんだお前は」
「よく其で妻子持てたな・・・・・・貌か?やっぱり男は貌なのか?」
八十八が地面に崩れるのを、島田と永倉は呆れた目で見下ろしていた。ホント変んねぇなコイツら。
「其は、京に一度戻らねばなるまい」
「だろ?だからおがっちも生きて還って来てくれよ。江戸でもまだまだ案内してないいい処がいっぱいあるし、新選組幹部が通った試衛館にもぜひ来て欲しいんだ!」
尾形は肯きこそしなかったが、原田の話を聴いていた。いつに無く態度が柔かかった。死を身近に感じていたからかも知れない。
現に彼等は、他の三人と比べると死に最も近い場処にいた。
原田はこの1ヶ月半後、慶応4年5月17日(1868年7月6日)に死ぬ事になる。何故この時点で原田の死について記述するか。
其は、彼について記述する機会が本作ではもう無いからである。
原田の死も謎が多いとはいえ余りに有名である一方で、之から筆者が書き進める物も彼について記述する余裕が無い位に混乱している。近藤・土方率いる鎮撫隊の面々が原田と顔を合わせる事はもう無いという事だ。
次いで、沖田 総司。彼について記述できる機会ももう無いだろう。恐らくは―――・・・土方でさえ、死までに彼に会う余裕は無かったのではないかと筆者は思う。彼は慶応4年5月30日(1868年7月19日)、肺結核に因り死去した。沖田が死ぬ迄の間は同志を―――・・・土方はその誓いを果せなかった。だが少なくとも、沖田は同志の死を知らずに逝った事は確かな様だ。その点ではまだ救いがあった、と言う事は出来るのかも知れない。
扨て―――
新選組と名乗る事を許されず、流山へ進軍する事になった鎮撫隊は、その最期に於いて、救われるか否か。
沖田よりも先に逝って仕舞うもう一人の同志の話を、之からしようと思う。
土方は二度誓いを破った事になるが、ぼんやりとした頭で漠然と想ったに過ぎなかった其が、彼を地獄へ落す事になろうとは、誰も予期してはいなかった。
鎮撫隊総勢227名。内、新選組隊士は30名弱。二番と呼ばれる幹部に相当する隊士は、尾形、島田と、尾形・山崎の助勤復帰時に吉村 貫一郎と共に諸士取調兼監察を纏めた安富 才助、大石 鍬次郎と共に伊東 甲子太郎暗殺に立ち会った横倉 甚五郎、試衛館時代からの勇等の知り合い・近藤 隼雄と芳助兄弟。
―――流山着陣、4月2日。
「・・・・・・」
尾形は本陣である『味噌屋・長岡屋』に残り、近藤・土方と共にいた。晴れて“参謀”扱いである。此処には彼等と、局長附人数(仮同志であり局長の小姓)の村上 三郎と野村 利三郎、相馬 主計以下数名しかいない。
・・・・・・尾形はいつも以上に口数が少なかった。只管思案に暮れている様にも見えるし、ぼんやりと取り留めも無く思いを馳せている様にも見える。
「―――如何した?」
近藤が尾形に尋ねる。・・・・・・。尾形は答えなかった。声のした方に顔を向けてはいるものの、多分、視界に入れど見えてはいない。
「・・・・・・」
そんな尾形を土方は睨む様な眼で見ている。
彼等はこの時、徳川 慶喜より全権委任された幕軍の陸軍軍事総裁・勝 海舟の裏切と謂える暴挙を聞かされていなかった。
「・・・・・・少々、外へ。偵察をして参ります」
尾形が立ち上がる。彼は長岡屋に到着してから、早々に和服に着替えていた。洋装ではどちらとは知れずとも、軍人である事が判って仕舞う。
土方は尾形を視線で追った。言葉にしようの無い“嫌な予感”というものを、土方は懐いている。
「俟て」
近藤が引き止めた。尾形が目を大きくする。土方も驚いて、頬杖を突いていた顔を上げた。
「警備に出している兵もいるし、偵察にならば此処に居る平隊士に行かせれば良かろう」
―――・・・? 尾形はいまいち要領を得ない表情をする。土方は納得した様に掌に顎を埋め、阿部、菊地、行って来い。と指示した。
「お前はたった一人しか在ない壬生浪士以来の幹部なんだ。その自覚をして貰わなければ困る」
・・・土方がちらりと尾形を見上げた。・・・・・・。尾形は仕方無く腰を下ろす。今や尾形の存在は、試衛館同士の絆びつきに匹敵する程の大きさを彼等の中に刻み込んでいた。
「・・・・・・新八さん達が心配ですな」
尾形が、不意にそんな事を言った。その言葉に、土方の心の中に在った何とも言い様の無い不安が、急激に言語化され形になってゆく。
「・・・・・・其は、江戸城が奪られちゃいないかという事か?」
「其も御座いますが、道すがらの宿場の主の話では、赤報隊を名乗る者が度々聴取して廻り、宿泊もしているという事です」
「―――・・・新政府くせぇな」
「十中八九新政府軍でありましょう―――其も、密偵の気の非常に強い。一つの宿でなく、複数に亘って聴き回っているらしく。
宿の主は新選組の行方等も訊かれているそうです」
「其で靖兵隊が危ないと」
「左様で御座います」
・・・併し、其は流山に来て仕舞った鎮撫隊には如何しようも無い事である。永倉達に何とか正体がばれぬよう頑張って貰うしか無い。だが尾形はそういう事を言いたい訳ではない様だった。
「・・・只、鎮撫隊が懸念すべきはそこに在らず、先に江戸を奪われた場合の身の振り方でありましょうな」
―――・・・尾形は極めて落ち着いた視線で、近藤と土方の両者を見た。近藤の側に控えている村上 三郎と野村 利三郎が唖然とする。
「左様な事があるのでしょうか」
熱意あり、齢相応の猪突き勇さを持つ野村が近藤より先に口を開く。村上が慌てて肘でつつくも、誰一人として気にする者は無かった。
「―――新政府の兵がそこ迄宿場を出入しているとなれば、在り得ない事でもありますまい。・・・新政府が幕軍の想像以上に江戸に浸透している事の証でありましょう。可能性として、鎮撫隊が江戸と甲州の挟み撃ちを受ける事も考えておいた方が宜しいかと」
・・・・・・平隊士だけでなく、局長近藤も苦り切った顔をした。この男は常に最悪の展開となった場合の事を言う。決して楽観的でなく、慎重すぎる程慎重だ。
土方は逆に腑に落ちた気がした。
「―――今日の夜には島田の隊を本陣の前に布く」
「その方が宜しいでしょうな。兵があれば、如何程にでもなりましょう」
事態がどう転がれど、一刻も早く志願者を兵に育て上げ、増強するに越した事は無い。
彼等が流山に転じてまだ半日。彼等が陣を張っている事すら気づかれぬ様な段階だ。打つ手はまだまだ幾通りも講じられる。
―――併し、彼等は後一歩、真実からは遠い場処にいた。土方の中で進んでいた懸念の言語への翻訳は、尾形という辞書に因って誤った解釈を与えられる事になる。
「たのもう」
竹川 直枝という男が宿場の敷居を跨ぐ。
「はぁ、何方さまですか」
宿場の主の奥方が対応する。竹川を見て奥方はすぐ困惑した。この竹川という男、然して大柄な訳でもなく、愛嬌のある貌なのだが、余り関りたくなさそうな表情が奥方の顔には浮んでいる。
「そんな表情せんちゃ、すぐに出て往くけん。仲間を迎えに来ただけたい」
竹川はさらりと言って宿内を見回し、高野は居らんと?と尋ねる。薩摩とは少し違うが、ひどい南国訛りの方言だ。
「はぁ・・・高野さまといいますと、赤報隊の高野さまですか?」
「そうばいそうばい」
奥方が困った顔をしつつ、ちょっと待ってくださいねと言う。階段を上がり、暫くすると、着物と比べると遙かに細身の格好をした男と一緒に下りて来た。
―――着崩した洋式軍服、髷を切り取っただけのボサボサのさんばら髪。口には煙草。不良じみてはいるが官軍の身形に間違い無い。
「―――西郷どんは、聞けたって?」
「ああん―――」
・・・フゥー・・ッ。と軍服の男は煙を吐くと、吸い殻を地面に棄て、ジュッ。と靴の裏で火を揉み消した。奥方が顔をしかめる。
・・・立派な革靴を履き潰し、上着を肩に引っ掛けながら宿の出口をくぐる。出て来たのは―――元御陵衛士・阿部 十郎。
「新選組の近藤 勇は、流山にいる」
ドンッ!!
「っ!!?」
突如轟く銃声に、軍議中だった土方等は愕いて話を中断した。さっき、兵の配置を急ごうと言ったばかりだ。
「私が」
尾形がさっと立ち上がり、音を立てず味噌屋の2階に上がる。身を屈め、自らの姿が外から視えない様に窓際へ寄り外を見ると
―――敵がぐるりと鎮撫隊本陣を囲んでいる。
「・・・・・・――――!!」
バァンッ!!
直後、1階で大きな音がし、尾形はハッと振り返る。急いで階段を下りると、裏の勝手口から、偵察に出した阿部 準多と菊地 央が立て続けに奔り込んで来た。
「先生方!之―――!!」
阿部が手にする書状の存在に気づき、央さん扉!と尾形が後から入って来た菊地にあとぜきを注意する。
「何があった!?」
1階の混乱に近藤が部屋の中から叫ぶ。パニックの余りに近・・――と呼ぼうとする仮同志の声に被せて
「来てはなりませぬぞ大久保隊長!!」
と呶鳴った。周囲の音等に注意を向けつつ、阿部と菊地を手早く近藤等の居る部屋の中へと移動させる。
「如何した」
・・・土方が低い声で問う。息を詰めざるを得ない位に威圧的で迫力のある声だった。が、その御蔭で呼吸を落ち着ける事が出来る。
「・・・・・・っ、新政府軍に包囲されております」
尾形も努めて呼吸を押え、報告する。だが土方も其を聞き、流石に平静さを失わぬ訳にはいかなくなった。何だと・・・・・・!?と漏らす。
「たった一晩で!?」
尾形以外の二番の隊士や兵達は数キロ離れた処へ銃火器操作や斬撃刺突の訓練に出ている。何せ彼等の殆どが綾瀬や下総で集めた俄兵なのだ。土地にも慣れねばならないし、すぐには使える様にならない。・・・数百の兵に応戦など、本陣に居る数では出来よう筈も無い。
「―――阿部さんが書状を受け取っております」
―――尾形がすっかり冷静な声で切り出した。阿部が思い出した様に!そうです―――と言って土方に渡す。近藤が脇から覗き込み、共に声に出して書面を読んだ―――
「「―――『官軍大総督府東山道隊大軍監香川 敬三。武装解除ノチ出頭シ、訊問ニ答エルベシ。然ラバ、寛典ナル処置を以テ解放ス』―――」」
・・・・・・尾形、村上、野村、相馬、阿部、菊地。彼等は近藤・土方を囲む様に坐し、黙って書の内容に聴き入った。
「江戸城は陥落たのだろうか―――?」
近藤が気の抜けた声で独り言ちた。呆けている。土方はそんな近藤を何言ってんだ、あんた!と言って叱咤し
「たった一晩俺達がいなかっただけで江戸城が陥落されるものか!」
と、怒鳴った。説得にしては余りに悲痛で、虚しい響きの、声だった。
「・・・・・・江戸城が陥落たのだったら、俺はもう、切腹する」
!? 土方の冷徹な仮面が、崩れる。その綻びは伝播して、隊士全員に動揺が及んだ。
「おい」
「江戸城が陥落たら、もう新選組の役目は無いんだ。そうは思わないか?トシ」
「其以上は言っちゃなんねぇ」
「そしたら新選組は――――・・・・・・何の為に戦う事になるのだろうな」
――――・・・っ・・・・・・ ―――生き方を否定された様な錯覚に見舞われた。ならば自分は何の為に今迄この男を支えて来たというのだ。この男は軍議の中で、身の振り方というものを考えていたのだろう。切腹は武士の集大成だ。近藤にとって不幸なのは、土方や沖田という同志に慕われ命を差し出される一方で、彼等と違い、自身が誓いを立てている主君は極めて気紛れで利己主義的という事であった。
近藤は尾形を見る。近藤は再三再四、この男から尋ねられてきた。その度にらしくなく小難しく考え、結論を出し、作法まで会得した。
・・・この男在っての、武士道だったのだ。
「・・・局長がそう判断為さるのであれば、其も宜しいかと。その時は、私も共に殉ずるのみで御座います」
尾形の声には揺るぎが無かった。―――死ぬ覚悟など、この男は疾うに済ませている。・・・近藤が死ぬ事も、この男は考える事があったのだろう。
―――土方には、無かった。
傲りか其とも盲信か、近藤は自分が支えると心に決めていたし、近藤ならばと思っていた部分があった。まさか・・・自ら死ぬと言い出す日が来ようとは。
「―――・・・なれど」
尾形は言葉を続けた。その眼は近藤ではなく土方を見ている。土方は近藤と違ってまだ鋭さを失っていない。運命に抗う心算でいる。
「・・・副長の仰る通り、僅か一晩で御城が奪われたとは考え難く存じます。彰義隊がまず黙ってはおられませぬでしょう。・・・鎮撫隊が囲まれているのは、恐らく赤報隊たる組織が鎮撫隊の進軍を嗅ぎつけ、仲間を募ったからに過ぎぬからでしょう―――・・・」
「あんたは大久保 大和、俺は内藤 隼人だ。そしてこの組織は鎮撫隊だ。新選組だなんて外の新政府軍は知らねえ。此処で切腹するのは、まだ早いぜ近藤さん」
飽く迄脱走兵の取締りの為に流山に屯集した鎮撫隊であると言い徹せば、何事も無く解放されるかも知れない。香川 敬三たる会った事も無い水戸系軍人に、近藤・土方の貌が判る筈も無い。此処で死ぬのは、犬死にになる―――・・・
―――併し、近藤はこの時、哀しい笑みを浮べていた。之は、野村や相馬といった彼の小姓にはわかったが、土方や尾形は気づかない。
「―――最低限の要求に応じ、猶予を貰う方が良いのでは。返答に遅れれば遅れる程怪しまれまする」
「解っている。―――敵将との交渉には俺が行く。いいか、尾形は外に出るな。理解ったか」
――――・・・・・? 尾形は怪訝な表情をした。この流山に来てから、近藤も土方も自身を動かそうとしない。寧ろ、自身を隠すか遠ざけようとしている様に思える。
「―――トシが戻ったら、二人にしてくれ。之からについて話し合いたい」
・・・・・・近藤が尾形の肩に手を置いた。・・・体温の籠った生温かさが伝わる。・・・・・・。尾形は絶句し、近藤を見上げた。
「・・・・・・承知しました―――・・・」
近藤の表情がやけに安らかである事に尾形は漸く気がついた。近藤が何を考えているのか、この時の尾形には読めなかった。
土方が官軍長との面会から戻り、軈て武器弾薬が取り上げられた。武器の引き渡しは局長附が応じ、尾形は表に出なかった。之も近藤と土方の命であった。
「・・・・・・」
・・・・・・尾形は独り、屋根裏に身を隠し、坐して時間を持て余していた。引き渡し現場とは距離が遠く、此処には金属の擦れ合う高い音だけが断続的に聴こえる。
―――尾形は無心に、自身の手におさまる刀子を見つめる。刃の反射光を取り込んで、瞳が鈍く光を放った。
「――――・・・」
・・・・・・感傷などは、微塵も無かった。
すとん、と刀子が彼の着物の中へと消える。刀子が消えた後になって、鍔に打ち込まれた金の模す杉の紋が浮き上がって視えた。
―――夜になり、一同は近藤・土方に拠って元居た昼間に会された。新政府軍の方もそろそろ痺れを切らしている。袂別の刻は近づいていた。
「―――力さん」
訓練を終えて戻った時には本陣が包囲されていた為、鎮撫隊の兵達は新政府軍の囲む外側に配置して動向を見守る事しか出来なかった。突入しようにも、油断の無い新政府兵達は外側に対しても警戒を怠らずにいる。
「・・・・・・八公」
・・・・・・島田の顔は暗闇の中であるにも拘らず真っ蒼と判る。
幹部として長を務める島田の隊には、今回は八十八が配属されている。八十八が島田の隣へ行き、物陰から本陣を覗き込む。
「・・・あそこに・・・俊が・・・・・・」
「ああ・・・・・・」
近藤・土方の名は敢て避けた。何処で誰が聴いているのか判らない。彼等の正体が知れれば、決して只では済まされないであろう。
「・・・・・・アイツは・・・・・・いっつもこういう目ばっかりだよな・・・・・・」
八十八が唇を震わせて、本陣を睨みつけている。こういう時に不謹慎であるが、その姿さえ美しかった。噛みしめられた唇が、紅と凛々しさを引き出している。
「俊なら屹度如何にかしてくれるさ・・・・・・今迄だってそうだった。屹度・・・大丈夫だ」
併し状況は以前と同じでも時流が違う。時流を払い除けて事態を好転させる程の力があの繊細な男にあるのか、島田にとっても其は微妙であった。
「自刃は撤回した。之から出頭する。新政府の方も、もう俟ってはくれないだろう」
近藤ははっきりとよく徹る声で隊士に告げた。死ぬのをやめるという事で、隊士は皆ほっと安堵の息を吐いた。だが土方だけは、眉間に皴を寄せた侭険しい表情を崩さずにいる。・・・寧ろ、つらさを堪えている様な悲愴さを隠そうと必死に視えた。
「・・・・・・なれば、私が局長と共に」
尾形が近藤の付き添いを申し出る。土方の表情が益々硬くなった。・・・近藤は首を横に振り、優しい眼で尾形を見る。
「いや、君は此処に残ってくれ」
「―――・・・局長?」
尾形は流石に不審さを露わにする。が、近藤が制止し、其以上を言わせなかった。
「お前に対する指令はトシに頼んだ。之からはトシの言う事を利いて遣って欲しい」
・・・・・・。尾形は答える事無く、恨めしそうな眼で近藤を見上げる。自らを睨む尾形に、近藤は一通の手紙を差し出した。
「―――之を」
・・・! 尾形の眼が不安げに揺らいだ。局長附隊士も呆然と、近藤の握る手紙を見る。其は最早覚悟ではない。遺言と謂えた。
「俺が往った後に、読んでくれ」
「・・・受け取りませぬぞ」
尾形は拒んだ。自身を表に出さなかったのが本当に匿っていたというのなら、其は余計な事である。そんな事より、大久保 大和は近藤 勇と知れていなく説破すれば釈放される可能性があるのだから、通常の様に自分を交渉役に連れて行けばよいのだ。
「―――斯様な仕打は、ありますまい」
尾形は怒りを滲ませた。近藤は広島の時と同じだ、と言った。あの時も留守居役のトシにこうして渡したものだと。
「広島の際は私も随行致しました。広島と同じなれば―――」
「膽次」
―――近藤が鋭い眼光を尾形に向け、厳しい声で言い放つ。・・・尾形はびくりと肩を跳ね上げて、其切黙った。土方は顔を上げ、哀れむ様な眼で尾形を一瞥した。
「―――・・・よくぞ立派に成長して新選組に入隊してくれた。武田君がいようと、伊東さんがいようと、君が新選組の参謀である事は私の中で変りはしなかった。・・・戦いに於いて、上の立場の者の配置に偏りがあれば、隊全体に綻びが出る。其は君が忠告してくれた事だったな。俺とトシも此処で袂別れる。新八と左之助も其で袂別れた。山口も然りだ。次は―――君の番だ」
近藤の眼差しと声は、先程の様な優しく、穏かなものに戻っていた。併し、その顔は力強く、誇らしげだ。自慢できる同志を沢山持てたという誇りに満ちている。
「俺と相馬は此処を出た後、江戸に戻る。幕軍総裁の勝どのに助命嘆願すれば、決して悪い方向にコトは運ばねえだろう。新選組本体は安富に任せ、山口のいる会津に向かわせる。阿部と菊地はその隊に加わってくれ。―――・・・そして、お前だが」
・・・土方が早くも指令を与える。土方が真直ぐな視線で尾形を見つめた。尾形も直り、土方と向き合う。
「・・・幸いにして、お前は唯一新政府のヤツらに存在を知られていねえ。動きはお前が一番取り易い筈だ。村上と野村が近藤さんについて行く。お前は陰から状況を観察し、近藤さん達が無事に護送られるのを見届けてくれ。そして護送先と出来れば処遇の情報も入手し、報告を恃む」
近藤が納得していない様な表情で土方を見る。土方はいいんだ、という風に首を縦に一度振っただけで、聴き入れず話を進めてゆく。こうでもしなければ尾形は頑として命令を聴き入れぬだろう。
『・・・・・・俺は君主になりたいんじゃない。武士として、自分の信ずるものの為に美しく散りたいだけだったのだ。武士で・・・在りたかったのだ』
・・・・・・土方と二人だけの話し合いで、近藤はこんな事を言った。その為ならばどんな汚い事にも目を瞑ろうと。
結局は武士ごっこの延長でしかなかったのかも知れない。土方や沖田と違って試衛館時代からの仲でない尾形含めた凸凹三人組を、手柄になり難い裏の仕事に手を染めさせる事に対する抵抗は少なかった。驕っていた時期もあったかも知れない。島田は一時期不満を洩らし、八十八は元々立場を与えられていない事もあり何処吹く風であったが、尾形は飽く迄臣下で在り続けた。
―――其は武士としては当然の振舞いで。
―――其以上でも以下でも無かった。
併し武士になる為の踏み台に過ぎなかった彼等が、どんどん使えなくなってゆく。彼等が無能になっていったのではなく、自身の判断が正常に働かなくなっていったのだ。目の前の武士を見れば見る程、武士への道程が離れていく気がした。
『・・・あんたは本当に残酷な男だよ、勇さん』
土方は心から同情した。武士を武士として死なせて遣らないのだから。絆などというものは本来は存在しなかった筈だ。併し、いつの間にか芽生えた近藤の情が柵をつくり上げて仕舞った。
「・・・・・・承知しました」
・・・尾形は漸く肯き、近藤から文を受け取った。
「済まないな、膽次」
近藤は晴やかな顔で破顔した。
大久保 大和こと近藤 勇が村上 三郎と野村 利三郎を伴って新政府軍に出頭する。新選組本陣は遠目から、近藤等が連行されるのを確認した。
「―――!?」
「・・・・・・・・・!!」
島田と八十八も近藤の姿を見、出そうになる声を必死に殺した。周辺の隊士も口を押えて黙っているが、表情は歪み、場景に釘づけになっている。
「まさか―――!?」
八十八が潤んだ眼を島田に向けて、答えを求める。幹部の考える事など万年平士である八十八にはわからない。
「・・・・・・わからん。だが、隊長達に何か考えがあるのかも知れん。・・・内藤隊長にしろ、俊にしろ、本当に見込みが絶望的だったら、大久保隊長だけを差し出しはせんだろう」
島田にも土方や尾形の考える事はよくわからない。だが、彼等の性格はこの5年で掴んできた心算だ。
・・・現段階で、土方も尾形も姿をまだ現していない。彼等は望みをまだ捨てず、陰で一手を講じているのかも知れない。
「―――島田隊長」
―――兵の最後列の後ろ、詰り結構な距離のある位置からであったが、密やかなるも徹りのよい低い声が島田の耳を刺激する。だが、きょろきょろしたのは島田だけ。頻りに動く大きな影を頼りに、若い隊士が兵の波を掻き分けて遣って来た。相馬 主計である。
「相馬―――!無事だったのか。本陣に居る他の皆は?」
「皆無事です。本陣は既に蛻の殻となりました。内藤隊長は江戸に向かっておられます。そこで、この相馬、内藤隊長より島田隊長にこう言う様に仰せつかっております。隊は安富隊長に一任し、島田隊長は相馬と共に之より江戸へ同道してください。・・・安富隊長にもこの事はお伝えしなければなりません。安富隊長は何処にいらっしゃいますか」
早くも安富 才助を捜して立ち上がろうとする相馬の手を八十八が引っ張って再び坐らせる。・・・相馬は、不覚にもどきりとした。
「俊・・・尾形 俊太郎は如何なっている」
八十八は声を抑えて相馬に尋ねた。相馬は野村と同期で齢が殆ど違わないが、冷静な男だ。この時したのは、目を細める事のみだった。
「・・・先生は大久保隊長が護送されるのを確認されましたのち、江戸へ。山野先輩は此の侭安富隊長の隊に付かれ、会津に向かわれてください」
相馬が声を落して答える。近藤に陰で護衛がついていると知れると不味い。八十八はそうかと肯くと、見違える程冷静になった。
「力さん・・・俊を、恃む」
八十八が凸凹仲間に仲間同士の事を託ける。・・・島田が嘗て、三馬鹿以外に恃まれた事が無い事を。
「ああ」
島田はにかっと笑って言った。八十八も心強えェや。と笑う。同志の絆が生み出す希望に、相馬は少し目を大きくして瞠っていた。
連行された近藤達は、武蔵国越谷宿(埼玉県越谷市)に向かって夜通し歩く事となった。越谷宿に到着すれば、護送隊が待機しており其処からは駕籠に乗って東山道隊の本陣である板橋宿に入る事になる。
「・・・・・・」
堂々たる足取で、近藤は密林の中を歩く。4月とはいえ、日光街道は少し冷える。張り詰めた空気は自然が演出していた。
一方、尾形は樹々を目晦ましに近藤等の行き先を上から見下ろしている。背には銃を担ぎ、其以外に武器は持っていない様に見えた。
「・・・・・・」
ぼぅ・・・と不知火の如きゆらゆらした灯が遠くで漂っている。併し、その灯は近藤等の進行方向にあった。尾形はすぐさま樹を下りて彼等より先に灯の許へ近づく。灯は一つなのではなく、弱い炎が複数に分れて松明一つ分の耀さを放っていた。
・・・・・・炎の数だけ人間がいる。・・・更に目を凝らして視ると、うっすらと駕籠が灯に照らされて白く光っているのが判った。
(・・・・・・)
・・・・・・駕籠は、越谷宿で待機しているのではなかったか?
「・・・・・・」
尾形は息を一層潜ませ、更に距離を近づけた。太い樹の幹を背にして、喋りに興じる背後の男達の奔放な会話の内容を聴き取る。
「はぁ~ん?其で、西郷どんに教えてあげちゃった訳!其って、裏切どころか売っ払ったって事だよなぁ?」
「ばってん、其があったけん捕まえる事が出来たつばい」
・・・・・・やけに馴染みのある声だ。孰れの声も知っている。一層耳を欹てて聴くが、尾形の顔から徐々に血の気が失せていった。
「勝さんてぇのもなかなかえげつない事するもんだねぇー」
―――加納 鷲雄が、近藤の護送経路であるこの日光街道へ来ている。
「・・・・・・!」
首実検―――・・・尾形はすぐに加納の役目を察した。新政府軍は最早聴く耳持たず、近藤 勇という男を問答無用で捕えようとしている。而も、彼等は大久保が近藤であるという事に、一定以上の確信を得ていた。
土方も尾形も、甘く見ていた。鎮撫隊隊長大久保 大和の正体が既にばれていようとは想像もしていなかった。何処から秘密が洩れたのか即座には想像し難かったし、首実検などという武士ですら置き忘れてきた風習を、革新派の新政府軍が遣るとは思えなかったのだ。
―――加納が、ニタ・・・ッと嗤った。
「・・・・・・・・・」
・・・加納は此方の存在に恐らく気づいている。近藤が加納と此の侭面通しで顔を合わせれば、近藤は絶対に助からない。
尾形は銃を構えた。加納を確実に狙う必要は無い。銃声で混乱させ、騒ぎに乗じて近藤等が逃げる隙を作ればよいだけの事。
・・・・・・加納と、近藤を連行する東山道隊の間合を計った。
―――その背後には、篠原 泰之進の姿が在る。
ドンッ!
―――銃声が密林に響き亘り、営巣で休眠していた烏が一斉に飛び立つ。
「落ち着いて!」
「静かにしろ!」
隊列に乱れが出る。東山道隊隊長の香川 敬三と副参謀の有馬 藤太がすぐに収めようと努めるも、所詮は新政府の兵も旧幕府から寝返った者ばかりの俄兵。我が身かわいさに逃げ出す者さえばらばらと出て来た。
そんな味方兵とは異なり、敵陣の頭領である近藤は貫禄があり冷静であった。銃声の意味を即座に理解し、其が尾形からのものだと気づく。
そして
「―――村上君、野村君、君達は逃げなさい」
―――と、厳かな声で言った。
「え・・・?」
「・・・私の正体は、どうも露見ている様だ」
・・・村上と野村の表情が強張る。近藤は射る様な視線で己の之から進む道を見つめた。人魂の様に揺れる灯が点状に浮んで見ゆる。
近藤には逃げる気など欠片も無かった。
「隊長もゆきましょう・・・!」
村上は涙声で懇願した。野村は気の強い眼で睨んでいる。過去の尾形を見ている様だと、近藤は痛々しいその視線を微笑ましく想った。
「隊の長が敵前逃亡など、其こそ武士の名折れだろう」
近藤は鷹揚とした態度で言った。
・・・―――自身を近藤だと知る者には大体の目星がついている。其は新選組が全盛期時代に遺した負の遺産に由るものだ。衰退期しか目にしていない若い彼等を道づれにする事は無い。
・・・近藤は自身の右肩を押えながら、想った。―――彼の右腕はもう、肩から上に上がらない。
山崎の命を奪った者の事を、近藤は土方や尾形から聞き及んでいた。土方自身も危険な位置にいた事が「俺を庇って」という台詞から窺えた。だから俺の失態だ、と土方は言ったが、其は違う。・・・自身が彼等を盾にした様なものなのだ。
尾形にしても、幾重にも手を重ね周囲を欺く事に依って今日まで命を繋いでいるが、其も当人がその者と接触して仕舞えば凡てが水の泡に終る。或いは今の銃声から貌を見られている可能性がある。
「局長命令だ―――・・・」
近藤は呟いた。村上と野村は局長命令という言葉に懐かしさと畏怖を抱いた。同時に、その言葉が周囲に洩れていないか不安になる。
「“御陵衛士”だとトシ達に伝えてくれ。其だけでアイツは解る。至急、恃む」
近藤の有無を言わせぬ声に、村上と野村は反論できなかった。
「・・・は!」
と村上が先に行動に移し、脱走兵に交じって風にうねる樹々の奥へと消えてゆく。自分達を逃がす為の命令であるのか本当の意味での局長命令なのかは判らないが、“御陵衛士”の粛清は入隊してすぐであった為参加はしておらずとも因縁は多少風の便りで知っていた。之が本当の局長命令ならば、今の内に此処を離れていなければという判断であった。
「―――扨て」
・・・併し、もう一人の判断は違った様である。
「野村君」
野村 利三郎が梃子でも動かぬ頑固さで近藤の隣に張りついている。
「私は往きませんよ。副長の許には三郎が向かいましたので局長の許を離れる理由が見つかりませんし、私は論理では動きません」
きっぱりと言い切りながらも、野村の声は少し震えている。至近距離で初めて目にする近藤の威厳に怯んだのであろう。
「・・・・・・私の首一つでは、足りないかも知れんぞ」
近藤は極力厳しい表情で言った。・・・併し、弱い。こういう信念に溢れた表情には、近藤は幾度と無く押し切られてきた。何せ自分がそういう性格なのであるから、気持ちが理解できるのである。
其でも最終的には総司にも尾形にも同道を許さなかったのだが、ここ迄頑固者が多いと流石に断り疲れて仕舞う。
「始めから生き残る気なんてありません。美しい死に方も考えておりません。人間など、死ねば血と肉の塊に過ぎませんから。
只、名誉の死はあると思います。局長と共に死ねるならば、之程名誉な事はありません」
・・・・・・近藤の雰囲気が急にすとん、と和やかになる。呆れというか、諦めの境地だ。この男は恐らく、誰にも説得できまい。
感情表現がストレートである分生意気にも聞えるのだが、其は代表的な若い隊士が沖田を筆頭にして妙に屈折しているからなのだろう。柵が無く若い者はこういうものなのかも知れない。
「・・・なら、往くかね」
近藤は歩き出した。
銃声の騒ぎで思う様に進めない隊列を、近藤と野村は無言で追い抜いてゆく。其に気づいた中堅であろう先頭の兵達が、速歩ながらたじろがず二人の後ろをついて行った。
―――軈て、人魂の漂う樹々の最も奥まった、林の中間地点へと足を踏み入れる。
「―――よぉ」
・・・加納 鷲雄が人魂を握り、友人に対する挨拶の如く馴れ馴れしく声を掛ける。併し見開かれた瞳は、猛禽類の様に光っていた。
「―――大久保 大和。改めて、近藤 勇?」
近藤は、加納の地獄へ葬送る瞳に全く動揺しなかった。寧ろ伸びやかに―――・・・誇らしく、林全体に響き亘る様な大声で彼は最後の名乗りを挙げた。
「如何にも。私が新選組局長・近藤 勇である!」
「―――あの忍にしては随分と注意が散漫だと思ったが、あぁたがまさか本当に生きておったとはな。
―――尾形 俊太郎―――・・・」
篠原 泰之進が肩口を押えて負け惜しみを言う。肩からは血が手の指を伝わずぽたぽたと草原に散っている。
「死したのはその忍の方です。泰さん―――・・・」
―――一方、尾形も頬から胸迄を一直線に斬られ、頭巾が切れて素顔が露わになっている。碧玉に視える程冷め切った眼球で篠原を見銃剣に変貌を遂げた先程の銃の切先を突きつける。
「・・・・・・ほう―――・・・死んだかあの忍は」
篠原は意外そうな顔をした。この忍は如何やら自分の仲間が山崎を殺した事を知らないらしい。尾形は眼を酷薄く細める。
「―――・・・遣ったのは貴方がたの仲間ですが」
・・・・・・近藤の声が、彼等のいる処にもはっきりと聴こえてくる。併し尾形は全く反応しなかった。自ら篠原へ近づき、ぐんぐん間合を詰めていく。その足取には迷いや沈重さが感じられない。
「・・・・・・尾形君」
刃が壁一重のところで頸元を触れるも、篠原は動じない。寧ろ空気は―――篠原の方が余裕がある。篠原は冷静に少しずつ退きながら
「あぁた―――怒っているね?」
と、言った――― ―――斬ッ・・・!
―――尾形の背から血が噴き出す。ぐらりと身体が傾き、篠原を前に崩れ落ちる。いつの間にか彼の背後には、洋装の男が立っていた。
「久しか振りばいなぁ、尾形俊」
尾形が銃剣で篠原を突き、振り返って胸倉から抜いた苦無を男に投げる。篠原は跳び上がって避け、男も苦無を回避する。
「――――・・・・・・清さん・・・・・・」
尾形は喘ぎながら言った。
「生きておらしたとは・・・・・・」
「其らこっちん科白たい。あた、服部さんに殺されたとじゃなかとね」
―――先程まで加納と共に面通しの場に居た竹川 直枝である。尾形はこの男の事をよく知っていた。
この男も、元新選組隊士なのである。
新選組時代は「清原 清」の名で活動していた。併し、彼は尾形が広島へ出張中に隊を脱走している。新選組は隈無く詮索した様だが彼は結局見つからなかった為死んだものと思われていた。まさか、生きて御陵衛士と接触していようとは夢にも想わない。
「・・・肥後の人間は、こがな生き方しか出来んのか」
篠原が尾形と竹川を見つつ、呆れた様に言った。
「らしくなかな尾形君。あぁたは忍というよりは剣士だが、竹川君が背後に居らした事に気づかぬという事はまさかあるまい。あぁたはもうちっと有能だと御陵衛士の時は思っとったが・・・―――其とも、あの忍や近藤 勇が我等の手に懸った事が、そがな腹立たしかったか」
・・・・・・尾形は緩慢な動作で篠原の方を向き、顔を上げて篠原を見遣った。風を受けた前髪が眼元を蔽って表情を隠す。併し―――その貌に不意に口角が上げられたのを見て、篠原と竹川は僅かながら怯んだ。
「・・・・・・なるほど―――・・・確かに、主達は其が意味では新選組の仇敵とも謂える」
尾形は可笑しそうにくすりと哂った。・・・・・・その笑みに、篠原と竹川はゾクリと背筋を凍らせる。
「・・・之で、主等と戦う理由が出来た」
すっと尾形の袖口からナイフが滑り落ち、双方に向けて投げた。両者とも左右に散って避ける。二人は互いに背中合わせになり、尾形が刀を振り下ろして来るのを俟った。
―――キラリと光る物が視えた。併しその向うに尾形の姿は無い。篠原が躱してすぐに、今度は銃声が直近で轟いた。
「!!」
暗器の飛んで来る方向と銃声の方向が違う。竹川は今ので撃たれた様だ。呻き声を隠した心算ではあったが
「!竹川君!上た!」
擁護しようとする篠原の前には撒菱が落される。尾形 俊太郎が上空から降って来た。銃剣を槍の如く垂直に持ち、竹川目掛けて振り被る。篠原が咄嗟に小柄を投げつけ、其が尾形の銃剣を持つ腕に刺さる。も、尾形は構わず其の侭の速度で銃剣を振り下ろした。
竹川はぎりぎりのところで免れる。尾形が着地し、竹川に突きを繰り出した。竹川は辛うじて刀で防ぐ。その間に篠原が追い着き、背後から尾形を斬りつけるも彼は篠原を見向きさえしなかった。
背中に叉一筋、傷が入り、そこから血が滲み出るも尾形は動じない。拮抗状態から脱した竹川が尾形の右腕を傷つける。併し、尾形はまるで怪我をしていないかの様に右腕を使い、銃剣で其の侭竹川の刀を薙ぎ掃った。
―――竹川は体勢を崩して尾形の懐に飛び込むも、尾形の左手は既に苦無を握っていた。頭突きを試みる竹川の額に狙いを定めている。竹川が眼を見開いていると、尾形の先にいる篠原が髑髏並みの大きさの石を彼の後頭部に振り翳していた。
がくん、と尾形の体位が大幅にずれた。御蔭で苦無は明後日の方向に飛んで往ったが、篠原の振り翳した石が竹川の視界に飛び込んで来る。
「――――っ!!」
ゴッ!!
「なっ・・・・・・!!」
石が脳天を直撃し、竹川が意識を失う。竹川の刀を奪い取った尾形は彼の後ろへ回り、背中から心臓を一突きした。鍔が竹川の背に届く程深く刺し、その刃先は篠原に迄到達する。
「ぐ・・・・・・!!」
竹川は声を上げる間も無く、血を盛大に吐いて斃れた。篠原は胸を押えてよろけたが、視界が拓けた瞬間、目の前にナイフが飛んで来てこめかみを掠る。
ずるっ・・・屍から刀を抜き、尾形は銃を投げ棄てた。右腕が血だらけでもう余り動いていない。着物も、紅の羽織を着せられたかの様に赤黒く染まっている。全身から血が滴っていた。・・・其でも、尾形は哂っている。
―――・・・其どころか、身体が自身の血に濡れれば濡れる程、尾形は逆に活き活きしている様に見えた。
「・・・あぁた・・・・・・此処で、刺し違う気な」
篠原もニィと哂って刀を構えた。尾形は例の如く構えない。
「・・・・・・漸く、肩の荷の下りたのでな。・・・後は、主ば遣って仕舞いぞ」
・・・この男には、もう生きる理由が無い。背中を斬られれば武士の恥だけに新選組には最早戻れない。併し、其はこの男にとって然したる問題ではなかった。富士山丸のあの刻に、この男は己の武士道を疾うに捨てている。打刀も脇差も、油小路事件や鳥羽・伏見に因って失われてからは拵えていない。尾形は、隊服が洋装に替ると同時に一切の刀を差す事をやめた。銃の指揮を執り、刀を捨て、己の中の武士を捻じ曲げてでも生きようと思ったのは、其等を手離してでも守りたいものが在ったからだ。だが、其ももう無い。
この男には、自らを生に繋ぎ留める絆も退路ももう用意されていない。柵を持たぬ者は強かった。
尾形が刀を手に突っ込んで来る。篠原は咄嗟に受け止めた。刀についた竹川の血脂が飛び、二人の頬を濡らす。
ぴっ
ぐ・・・・・・っ,触れ合う刃と刃が血脂に滑る。二人は離れ、再び刃を交わらせる。尾形が真剣を握ったところを之迄見た事の無かった篠原は、尾形の剣士としての実力を完全に見誤っていた。
「っばっ・・・・・・!」
篠原の頬に創が奔る。愕いて腰が退けた一瞬の間に、尾形の姿が視えなくなった。たん!と高く足を踏み込む音がしたと同時、篠原の腹が真一文字に斬り割かれて血が噴き出した。
「・・・・・・・・・!!」
―――この男、永倉ほどの剣の腕はあるのではないか
「・・・・・・さっき言うた事は、撤回しよう」
剣ではこの男に敵わない。其に、この男に怖いものなどもう存在しないのだ。篠原は後ろへ跳躍すると刀を仕舞い、分銅鎖を出した。分銅が地面を抉り、土埃が尾形の足下に発生する。
尾形がすかさず間合を詰め、篠原に飛び掛る。篠原は分銅鎖を強く手前に引き、半身をくねらせて尾形の剣を躱した。擦れ違いざまに尾形の身体を力任せに突き飛ばし、動きに隙を無理矢理つくる。尾形は遂に倒れ、分銅鎖の鎖が弾き刀も失われた。
ドッ
刀が遠い地面に刺さる。篠原が尾形の胸倉を開き、護る武器の無い彼の胸板に渾身の力で拳を打ちつけた。
ごっ!
・・・・・・血を吐き、尾形の頭はがくりと後ろへ垂れる。篠原は尾形の袷から手を離し、その肉体が朽ちる姿を見送ろうとしていた。
ズッ
「・・・・・・!?」
突如息が出来なくなり、篠原は眼を忙しなく動かした。脇差が一本、自身の鞘から無くなっている。
生温かい赤黒い液体が、真直ぐな何かを伝って自分から流れ出している。触れると自身の指も切れ、赤黒い液体が其処からも出てきた。液体が伝う硬いモノは、月の光を反射して鋭く光を放ち、叉酷く冷たく寒く感じた。
・・・・・・篠原の胸を斜め前から、脇差が貫いている。
「・・・・・・さよ・・・なら・・・・・・泰、さん・・・・・・」
尾形が脇差を抜き、地面へと投げ棄てる。篠原は眼を見開いた侭、血を噴いて尾形の前に跪き、斃れた。
程無くして尾形もその場に頽れる。篠原があれ程気を付けていた胸元の武器は既に使い果している。・・・腰元に手を遣り、取り出されたは、金の装飾を施されている例の刀子。尾形は刀子を抜き、鞘を捨てた。左手で逆手にして刀子を持ち、天に掲げた。刃先が篠原の脇差と同じ様に青白く光っている。
―――尾形は刀子を垂直にし、己の腹に向かって思い切り振り下ろす。ざわ・・・と樹々が突風を受けて騒ぎ始めた。
「俊!!」
―――・・・刃が腹に触れる頃に、風に名前を呼ばれた気がした。




