十二. 1867年、伏見街道
1867年、伏見街道
伏見には孰れ新選組の全隊士が集結する事になるが、事件の時刻と合わせる様に予てからこの舞台に立っていたのは、山崎 烝と吉村 貫一郎、そして愈々戦陣に参加できなくなった沖田 総司と彼に付き添う佐倉 真一郎、加え護衛として本陣を離れる事となった沖田隊の隊士・山野 八十八と蟻通 勘吾であった。山崎・吉村と沖田隊は別に行動していた。
更に、彼等とは叉別に、近藤 勇と彼の護衛として本陣を離れた島田 魁等も後れて事件の舞台に立つ事になる。
他の隊士はこの日、大坂に下っていた。
「近藤の妾の宅が、醒ヶ井にあったろう」
伏見には薩摩藩邸が在る。その藩邸には、御陵衛士の残党である篠原 泰之進・阿部 十郎・内海 次郎・加納 鷲雄・富山 弥兵衛等が保護されていた。そう、彼等も事件の舞台にいる。
否寧ろ、彼等こそがこの舞台の主役と謂うべきなのであろう。
「・・・・・・あそこで、沖田 総司が療養しているらしい」
加納は底意地悪く眉を上下させ、手揉みをしながら言った。目の前には抹茶が湯気を上げており、羊羹が数切れ置いてある。
何処にでもある甘味処の風景だ。
「へぇ~。あの人、何かの病気だったの?」
富山が団子を数本纏めて口に入れて串をしゃぶっている。醤油にも砂糖を入れて食す程の極度の甘党だ。薩摩出身だからであろうが。だが、島田の様に滅びた味覚はしていない。
「労咳だと」
加納はそんな事まで入念に調べている。
「・・・けっ、ざまあ」
阿部が白玉で片頬を膨らませつつ乱暴な言葉を吐く。新選組を二度命からがら脱けただけあって、新選組に対する憎しみも一入だ。
「え~、じゃあほっといたって死ぬじゃん」
「馬鹿。そんな事は誰だって知ってんだよ」
富山の真意を汲まない返しに、加納は罵倒の声を上げた。とはいえ富山も、加納がわざわざ沖田の身辺についてこうも精査している理由をある程度まで読めてはいた。只、彼は薩摩の国柄と同じく機を読む方が上手く、拘りもそこ迄無いので彼の執着は理解し難かったかも知れない。
「近藤だって知ってる筈だ。だが其だと、近藤の思惑通りじゃねえか」
・・・一方で、阿部は善哉を食う手を止めて加納の意見に同調している。粘着質の加納とは、マイナスの話題で話が弾むのだ。
「・・・なるほどな」
阿部が歯を剥き出しにし、ニタリと綺麗ではない笑顔をした。神経質な迄にぎりぎりと髪を結い上げて出来た広い額の側面がぴくぴくいっている。
えげつな~と富山が呟き、前歯で羊羹をがじがじ齧る。次から次へと加納の皿から羊羹を摘み取っていくが、加納と阿部は気づかない。
この日の亥の刻。之は夜9時過ぎを指す。八十八が風呂から上がり、湯煙と共に浴室から出る。
日頃何をしていなくともこの男は常に女性をも圧倒する艶かしさをもつが、熱を帯びると色香が倍増する。湯気と共に現れる太腿は、湯気と同じ位に白く、其でいて桃の実の様に紅く色づいている。剣で鍛えている者のものとは思えぬすらりと伸びた脚を、透明の水が伝って落ちた。
「・・・・・・」
水分と熱を含んだ滑らかな肩に着物を滑らせ、きゅ、と帯を結ぶ。衽の合わせが緩く、鎖骨や腿が歩く度にちらりと見えた。其だけで八十八と廊下で出会った醒ヶ井の女は頬を紅らめるが、八十八当人は気にしない。
「・・・や、山野さま。御湯加減は如何どしたか?」
・・・・・・八十八は眼を細めて女に微笑んだ。流れる目尻がやや腫れぼったく、其が壮絶な色気を醸し出している。
「いい湯加減でした。此の侭すぐ外に出ても風邪を引かずに済みそうです。・・・ところで、監察からの連絡で我々は本陣と合流しないといけなくなりました。今夜中に出立しなければ間に合わない。・・・・・・駕籠を呼んで貰えますか?」
す・・・と八十八が沖田の臥せる部屋の襖を開く。沖田は最早そんな余裕も無かったが、彼の看病を続ける佐倉と蟻通は八十八のしどけなさに一瞬過剰に反応した。纏っている空気も日頃と異なり、冬の夜風と縁側の向こうに積る雪の白さも相俟って、雪女の類が現れたという感覚に陥る。妖艶すぎて不気味だ。
・・・・・・八十八が襖を閉める。
「・・・・・・佐倉。山崎 烝は昼間、本陣は大坂から伏見奉行所に発ったとお前に言ったんだな?」
「は、はい。そうですが・・・」
「―――そいじゃ、沖田隊は今から伏見奉行所に行こうや」
「・・・・・・今からですか?」
コロコロ猫の眼の様に空気の変る八十八に、佐倉は翻弄される。
「―――ちゃんと説明しなさいよ、八十」
蟻通は未だ平常心に戻っていなかったが、文久3年6月の入隊時からずっと仕事が重なる為か、極偶に真面になる八十八の対応には佐倉より慣れている様だった。
「―――?」
沖田が苦しそうに、ん・・・と呻き、横向きに身体を動かそうとする。佐倉が沖田の身体を支え、彼の随分痩せて仕舞った手を握った。
「近藤先生・・・・・・土方さん・・・・・・」
・・・か細くて寂しげな寝言を、沖田は呟く。
「ほぉら、先生寂しがってるじゃねィか」
「勝手にそんな事していいんですかね・・・・・・」
―――そういえば、山野 八十八というこの男は一度たりとも沖田の側から離れた事が無い。
「いいじゃんか。昼間に大坂発ってんなら、奉行所にはもう着いていてもいいハズだろぃ?」
蟻通が沖田隊を軸としながら要事の際には井上隊・山口隊・原田隊と臨機応変に振り分けられるのに対し、八十八は一度もそういった事が無い。沖田が非番である時は勿論非番だし、八十八自身が病弱の為もあるが沖田の体調が愈々以て悪化した11月以降は、気候の変化が激しいと共に臥せる事が当り前の様になってきている。
「ダメだったら、勘吾が後で副長から怒られるだけの話だ」
「どうして僕なの」
佐倉が色々と考えを巡らせ始めた時には、八十八は既に襖を開き、透き透った肢体を冬の冷たい空気に晒している。元々緩く結んでいた帯が解け始めていて、着物が風に少しはためく。
「早く戸を閉めてください。沖田先生の御身体に障ります。・・・其に、山野さんも早く部屋に戻らないと叉風邪を引きますよ」
佐倉が責つく様に八十八の背に言った。部屋に戻れと言う台詞には、了解ったから、という意味合いが籠められている。
「俺もそう思ったところだ。準備してろよ。冗談じゃねィから。もう駕籠呼んでっからな」
八十八は振り返り、佐倉に微笑った。惜し気も無く肌蹴た素肌には、何処を見渡しても創一つ無かった。この男の愕く迄の強運と、おかされる事無く輝く事の出来る宝石を象徴するかの様に。
あれほど筆者が事件の舞台と囃し立てておきながら、伏見は雨霰が降り注ぐ事無く快晴の夜明けが訪れた。柔かな日光が白い世界を優しく包み、この時世なのに極楽浄土がこの世に存在するものかと錯覚して仕舞いそうだ。
―――併しこの“鬼”は、己の進む道は修羅と決めている様に凶相を貫き、光に包まれた世界を黒い足跡で染める。
ばしゃばしゃと氷の様に冷たい井戸の水を汲むは、昨晩、とっぷりと闇に浸かった夜更けの黒い世界の中で新選組本陣と合流を果した山野 八十八だ。水の張った真白な手に紅い唇を近づけ、紫の色にその紅を染めてゆく。
「山野」
“鬼”が井戸の向う岸から彼の名を呼び、炯々とした眼で睨みつけた。その眼光はひょっとすると雪が反射する日光より明るい。
併し、その鋭さたるや白と全く光源を異としていた。
・・・・・・山野は白い面を上げ、鬼副長と呼ばれる男を見る。
「話がある。―――ついて来い」
山野は土方にひとり呼び出された事に特に驚きを見せなかった。土方が有無を言わさず背を向けて歩き始めると
「―――・・・ハァイ」
―――妖しい笑みを彼の背に投げ、歩を進め始める。
「・・・ちっ、とんだ無駄骨だったぜ」
阿部 十郎が悪態を吐く。彼の内側に渦巻いている激情は、発散される事無く未だ燻り続けていた。
「・・・そーカリカリしなさんなってばよ。大体、其は俺の責任じゃねぇぞ?現に沖田は昨夜までは居たって近藤の妾から言われたんだろうが」
加納 鷲雄は阿部のねちっこさにいい加減辟易していた。しつこさにかけては加納も阿部に全く以て引けを取らないレベルだが、作戦が失敗すると加納は早くも次の手を講じるのに対し、阿部はいつまでも感情を引き摺る。
ところで、自分のせいではないと言いつつ、沖田が実にいい時宜で醒ヶ井にある近藤の妾宅を発った事について、疑り深い加納は或る可能性を考えていた。甘味処で話した内容に関して、何者かに聞かれた可能性である。
(・・・・・・新選組隊士らしい客は居なかったが。てかヤツらは今甘味どころじゃねぇハズだろ)
店はおやつどきで繁盛していたから客の一人一人なんて憶えていないし、逆に謂えば騒がしかったから会話の内容が其程遠い席まで届いていたとも思えない。向かいの二人掛けの席に座っていた餡蜜を食す娘達はお喋りに花を咲かせていてどう考えてもこちらの話なんて耳に入っていなかったし、後はいやに無愛想で幽霊みたいな男の客が傍を通り過ぎ、店を出た位だ。其も、富山に羊羹を全部食われた事に気づいて奴を殴り飛ばした時の事である。
「もういい」
「え?あっ、おい!」
加納があれや之やと疑ってかかっていると、阿部がぷいと拗ねて部屋を出て行って仕舞う。
「何処へ行くってんだ?」
今迄の思考より導き出した加納の保守的な答えは、この伏見薩摩藩邸から出ない事である。御陵衛士残党の沖田 総司襲撃計画を知る新選組側の人間が在ると半ば確信している加納には、油小路の様な惨劇が叉すぐ新選組に拠って計画されるであろう事を予期していた。あの時は綿密に対策を練る事が出来たが。
「何くだんねぇ事訊いてんだよ」
併し、阿部は感情的になっている。というか、之が阿部の普通なのだ。沖田でなくてもいい、とかく新選組にとっての要人を陥れて、彼等の立場を揺るがす事に生甲斐さえ覚えている様な男なのである。
「武器を買いに行くんだよ」
島田 魁が金戒光明寺の高麗門で叉も馬を侍らせている。近藤を待っていた。近藤は今日、会津藩の重臣と共にこの金戒光明寺で軍議を行なっていた。
「!近藤局長」
・・・・・・ 近藤が浮かない顔をして島田達の許へ戻って来た。戦況は芳しくない様だ・・・が、島田等は敢て其には触れず、近藤が大仕事を叉一つ終えて来た事を労わった。
「お疲れさまでした局長。ささ、馬にお乗りなせ」
「・・・ん。ああ」
島田達がいつもの調子で迎えると、近藤は少しホッとした表情になった。
島田“等”や“達”に含まれる近藤の護衛には、主に横倉 甚五郎という男が在る。彼は池田屋事変後に入隊した、時期でいえば大石 鍬次郎と同期に当る。油小路事件では大石の率いた尾形隊に属し、大石とは何かと共通点の多い男である。
この時にはもう一人“達” に含まれる護衛には、新入隊士の井上 新左衛門が在た。
「・・・・・・」
馬上でもこめかみを揉みながら溜息しかその口から出ない近藤を、島田は窺い見る。こういう帰りの道などはいかん・・・いかんな・・・・・・やらむぅ・・・・・・やら、何やら弱音めいたものを島田に漏らしたりするのだが、今回は自重気味だ。恐らく井上が居るからだろう。
だが、そんなに態度に滲み出ていれば、弱音を吐こうと吐くまいと似た様なものである。
否、其以前に世相を視れば、もはや彼等の時代でない位誰もが理解している。だが。
「不動堂村じゃないにしろ、帰ったら土方副長が居りますし総司も帰って来とります。八公が汁粉を作っておるでしょうから、其でも食いながら皆で対策を立てましょう」
・・・・・・近藤が脱殻の様な眼になって島田を見る。横倉は眼球から黒眼が逃げた。詰り、白い眼で視た。井上はぽかんとしている。
「・・・・・・相変らずだな、お前達は。何であんな処で汁粉を作るんだ・・・・・・」
近藤は呆れ果てた声を出した。
「・・・全く、文久3年5月組の我が道ぶりは入隊当初から質も全然変っとらんな。この前も、久々に天満屋で尾形と会えば無駄に本は増えとるわ、山崎君は山崎君で女装趣味に更に磨きがかかっている様だし・・・」
そうなんだ。横倉と井上は古株隊士達の違った側面を(少し歪んだ方向から)垣間見て、彼等にも始りの時期が在った事を実感した。隊士が既に100、200といる中に入隊した彼達は幹部隊士を身近に感じる機会など無かったし、前身が壬生狼と揶揄された小汚い極小集団だと知らぬ者も多い。
「・・・・・・我々試衛館ですら、時代の流れを前にしては敵わん結束だったというのに」
―――近藤は暫し、過去の記憶を掘り起す様に空虚な眼をして虚空を仰いでいた。併し、空を一頻見上げると踏みしめる土の有り難さが解る様で、安心した様に
「・・・其でも、お前達は変らないでいてくれるな」
・・・穏かな表情を、島田に向けた。
彼等は丹波橋を通過しようとしていた。島田が何気無く周囲を見渡すと、松が欝蒼と繁捲っている空き家が眼に入った。
キラリと光る穴が松の中に埋め込まれている。
「・・・・・・!局長!!伏せてください!!」
島田が叫ぶと同時にその穴から八尺玉が飛び出し、ごうっ!!と天地を揺るがす音が聴こえた。弾は近藤めがけて真直ぐに飛び、
ズシャッ!!
「ぐうっ!!?」
近藤の右肩を貫き、夕闇の向うへと消えた。
「局長っ!!」
もう一発放たれ、其は井上の額に命中した。井上が倒れ、後頭部から血を流す。横倉が急いで抱え起すも、即死だった。
「おぉ~、命中した」
・・・空き家から人影が現れる。声は一人だが、出て来たのは一人ではない。ぞろぞろと、いる。更には交差点の角から槍を持った男達が現れ、近藤達新選組は囲まれる。
―――御陵衛士の残党か
近藤と島田は確信する。声は富山 弥兵衛だ。槍を持つのは篠原 泰之進と加納 鷲雄。阿部 十郎は鉄砲を抱えている。見知らぬ衛士も数名いた。
・・・と、その名も知らぬ衛士がぐゎらりと倒れた。音も無く、刃が衛士の胸を貫いている。
同時に、手裏剣が飛んで来て篠原や加納の身体に命中する。二人は槍を取り落した。
カランカランカラン・・・
・・・篠原と加納は愕然として、辺りをきょろきょろと見回した。
(暗器、だと―――?気配なんて全然感じやしなかったが―――)
(まさか、あの山崎も近藤の護衛に陰から監察していたというのか―――?)
―――衛士の斃れた場処から、長刀を背負った忍装束の男が現れる。眼元以外の総てが黒に染め抜かれている為、誰かを特定する事は出来ない。島田ははっとした顔になり、忍の出で現れた処に近藤の退路を見出した。
黒装束の男は文字通りの俊足で近藤の前に躍り出ると、苦無を操作して御陵衛士全員に攻撃を浴びせ懸けた。衛士達は立て続けにくぐもった呻き声を上げる。
島田は馬の手綱を引っ張り、尻を叩いて嗾けた。馬は頻りに脚を動かし、駆け出す準備を整える。
「局長、大丈夫ですか。痛いでしょうが決して力を抜かんでください。今から馬を奔らせます」
「ぐ・・・・・・し、併し」
近藤は鞍に身を伏せ、血の溢れる肩を押えながら荒い息を吐いた。忍は刀を抜き、縦横無尽に衛士を斬り倒している。
「此処はアイツが喰い止めてみせます。だから局長は早く!俺もすぐに本陣へ戻って、新八と左之助に応援を恃みます!」
馬が近藤を乗せて墨染の方角へ消える。島田と横倉は顔を見合わせ、奔って近藤の過ぎた先へ向かった。島田と横倉が伏見奉行所へ到着した時、副長土方は既に事件の凡てを把握しており、近藤を一番奥の部屋で安静にさせていた。
土方はすぐに永倉に指示して彼の隊と沖田隊を現場に急行させた。医師も疾うに呼んである。医師が到着し、近藤を完全に任せられる様になってから、土方が
「島田」
と、横倉はいなく彼一人のみ自分の許へ呼び出した。
「・・・・・・はっ」
島田は緊張の面持ちで肯いた。彼が土方に呼ばれる事自体が珍しいが、今回の近藤狙撃の非は、護り切れなかった自身に在る。
併し、土方が島田を呼んだのはその件について彼を責め立てる為ではなかった。
「・・・・・・!」
島田が入れ。と言われて呼び出された場処に足を踏み入れた時、正面には山野 八十八が坐っていた。
「八公・・・・・・!?」
・・・・・・山野は冷たい石の床に正坐をし、気怠げな、衰弱した様な笑みを島田に向けた。
「之は・・・・・・「話を聞かせて貰おう」
土方が島田の背後に立ち、重い扉をぐぉんぐぉんと閉めた。此処は伏見奉行所の大きな土蔵で、出入口は土方が今立つ所しか無い。
「言わない選択肢なんて無いぜ。―――島田、山野。芹沢さんが生きていた頃から在隊していたお前達なら、吐かせる為に俺がどんな手でも使う鬼だって事を―――知らねぇ訳がねぇだろう」
・・・・・・焔が揺らめき、土方の像が黒く、うすぼんやりと浮んでいる。この日は、水溜りに厚氷が張る程の厳しい寒さだったと云う。
伏見街道丹波橋に永倉 新八隊が突入する。丹波橋付近には井上 新左衛門の遺体と、手負の衛士が数名、元新選組では富山 弥兵衛や阿部 十郎あたりが残っている。
「おぉ~。もう来た、はや~っ」
富山が銃をがちゃがちゃ言わせながら身体を後ずさらせる。富山の銃は近藤を撃った衝撃で留め金の部分が壊れて仕舞った。詰り、富山はもう銃が使えない。
阿部も似た様な状況だ。阿部は砲術師範を務めていた位だから腕は良いが、井上に対する狙撃でその腕を発揮して仕舞った。ちっ、と舌打をして銃を捨て、ギンと鋭い音を立てて剣を抜く。
「・・・・・・そんな乱暴な抜き方してると、剣が傷むぜ?」
生粋の剣士永倉が、スラリと剣を抜いてみせた。其の侭真直ぐ正面に振り下ろし、剣先を阿部と富山に向ける。
「行けっ!!」
永倉の鶴の一声で、新選組隊士が衛士に向かって突撃する。阿部が力任せに新隊士の寄せ集めを次々とぶった斬っていく。
ギィン!!
一隊が崩れ隊長永倉と一騎討ちになった時、阿部は総ての怒りを刀にぶつけた。
「剣なんか大っ嫌いだよ。序でに新選組もな。だから―――全部ぶっ潰して遣るよ」
永倉という頼もしい応援が来た為に、忍は御役御免となる。忍の男は富山が銃をぶっ放した空き家の松に姿を紛らせ、屋根へと登った。屋根の上は意外な程に風が強く、地上で刃を交す音は遠く離れた地で起きている出来事であるかの如くか細い。
男は地上で行なわれている戦闘を一瞥すると、正面を見据えた。―――屋根の上に自分以外の男の姿が存在する。
相手も同じく、忍装束を着ていた。・・・その忍は徐に懐に手を入れ、暗器を出す。男は後ろへ跳躍し、今し方立っていた所には手裏剣が刺さっていた。
男も跳躍しながら負けずに苦無を投げる。屋根は矢張り足場が悪い。ぐらりと少し危なっかしい着地の仕方をして、体勢を立て直した。だが相手の忍は相当場慣れしているらしく、男の苦無を物ともせずに屋根の上を全速力で駆け迫って来る。駆けながら鉤縄が繰り出され、男は鉤縄を躱して背中の鞘から剣を抜いた。忍の脳天に向かって真直ぐに振り下ろす。
「―――其で“忍”主張するんは、ちぃとばかり気ぃが早い気がしまっせ」
剣は、忍の脳天を弾く直前で止った。男が眼を見開く。
「――――」
忍が鉤縄の方の腕を大きく振り、籠手に縫いつけた小袋から粉末が飛び出した。粉末は男の眼に諸に入り、涙で視界が眩む。
「・・・・・・!」
腕を大きく振った事で、鉤縄は大きく宙に舞った。鉤縄が我が身に迫るのを感じ、男はかろうじて身を避けた。
が、鉤が男の剣に引っ掛り、くるくると縄が巻きついてゆく。
くん!と忍が鉤縄を引っ張ると、男はもう自分の意思で剣を動かせない。
「―――所詮、あんたは剣士や。忍にはなれへん。忍んなるには、あんたは正直すぎるで」
――――。男は空いている手を使って更なる武器を懐から出そうとしたが、諦めた。ここで悪足掻きをしたところで、もう意味は無いからだ。
「島田はんも山野はんも、既に土方副長の手に落ちとる。残りはあんた一人だけや。もう―――帰って来てええねんで?」
忍は目から下を蔽っている頭巾を下ろし、素顔を晒した。山崎 烝であった。「おかえり」とでも言いそうな、文久3年5月入隊組の間では嘗て考えられなかった家族的な笑顔を向けている。
・・・・・・男も頭巾を下ろした。随分と様相は変っていたが、尾形 俊太郎に相違無い。若干山崎と重なっている顔の右側だけ下ろした前髪に、左こめかみの深い創痕。後ろ髪を高い所で結んだその貌は、可也若く視えた。
・・・否、若く視えるのではない。若いのだ。
沖田や藤堂と年齢の変らぬこの男が、土方とは別の方面でずっと新選組の牛耳を執ってきたのだ。まさしく、隊内外の陽動を貫き続けた、新選組の参謀であった。
「・・・長かったわー、もうー」
山崎がようやっと肩の荷が下りたと肩を落す。そう。4年にも亘る鬼ごっこは終りを告げたのだ。之が尾形にとっての終りであった。結局は、尾形にとって最も手強かった相手は土方と山崎という事になろう。
土蔵の扉が開き、山崎と尾形が中へと入って来る。篝火の赤い焔が、暗闇を抜けたばかりの彼等を照らす。中には、土方と島田・山野が火の前を囲んでいた。
「―――俊!」
八十八が白い顔に血の気を戻し、尾形の所へ駆け寄った。八十八は彼此油小路以前から、尾形と顔を合わせていない。油小路で怪我をしたと島田経由で知ってから、彼はずっと尾形の事を心配していた。
「あぁあ・・・!キズモノになっちまったじゃねェかい・・・!瞳も輝きを失っちまってよォ・・・・・・!御陵衛士だな!?御陵衛士のヤツらが俊を傷つけやがったんだな!?あんにゃろウゥゥ今から乗り込んで叩っ斬って遣る・・・・・・!」
尾形の瞳に輝きが無いのは今に始った事ではないと思うのだが。この場に居る全員がそう思ったのだが、八十八にツッコもうと思う人間は誰も在ない。
「―――よぅ、“参謀”」
土方が煙管を口から離し、すかした顔で尾形に言う。尾形は神妙な顔つきを変えない侭、土方に対して一礼した。
「―――尾形、島田、山野」
土方は煙管を歯に当てながら、文久3年5月入隊の凸凹三人を夫々じっくりと見た。奥から島田・尾形・山野と横並びに坐し、尾形を土方の正面としている。山崎は土蔵の出口付近に立ち、同期の告白に立ち会っていた。
「お前達、グルだな」
山崎が愕いた顔をして凸凹三人組を見る。最も大きく反応したのは島田で、山野もぴくりと表情を強張らせる。併し、尾形は折り畳んだ両脚の膝に拳を載せた侭、微動だにしなかった。
「・・・・・・尾形が来てもコレとはな」
土方が尾形を真直ぐに睨みつけた。・・・だが、煙管を口に含んだ瞬間、ふっ、と哂いが零れる。土方はこの時、尾形 俊太郎というこの男をこの刻に到るまで処分する気になれなかった己と処分に至れなかった己の時宜を礼賛した。この教養人が武田観柳斎や伊東 甲子太郎と違い、筋の徹った武士そのものである事を視貫いていたという証明になるからだ。この教養人は断じて独断的に隊内を引っ掻き回し、土方や山崎を翻弄してきたのではない。庇うべき司令が上層に在り、その命令に従って動いている。
・・・そう、宛ら土方と山崎の関係の如く。
「―――尾形。お前が壬生浪時代の自分の立場を最大に利用して、俺からの憎まれ役を一手に引き受けていた点に関しては感動すら覚えるぜ。まさかあんな時期から既に陽動に出ていたとはな」
「ほう―――・・・何ゆえそう思われます」
島田と山野が、土方と論戦を組み交す尾形を窺い見る。山崎も土方と尾形の両者から眼を離す事が出来なかった。
凸凹三人組がグルとは一体如何いう事なのか。島田は監察の時期があったからともかくとして、山野が其らしい動きをしたのを山崎は一度たりとて見た事が無い。
「・・・俺に一から十迄言わせるか。まぁいいだろう。文久3年5月入隊組は全員が胡散臭い連中ではあった。中でも壬生浪士が神経を削いだのは、長州出身でありながら行動を一切起さなかった馬詰と、当時宮部 鼎蔵が権勢を振るい藩が尊攘に傾きつつある肥後から来たお前―――だ。後の連中は尻尾を出すのが早かったから即座に始末が出来たがな。
―――馬詰は池田屋のどさくさに紛れて隊を脱走したよな?其にお前が一枚噛んでいねぇか―――俺は今でも疑っているんだが」
馬詰 柳太郎は彼等の同期で、山野と本作の初期に紹介した馬越 三郎に並ぶ美男五人衆の一人だ。こうなったら美男五人衆を全員制覇しよう。他の二人・佐々木 愛次郎と楠 小十郎も彼等と同時期入隊で、この時期の入隊者は容姿面で豊作と近藤・土方は言ったものだ。
・・・この二人は、孰れも長州側間者として殺害されているが。
馬詰は美しく優しい隊士であったが、剣は其程強くなく、優しさは気の弱さとして映り出身も相俟っていじめに近いものを受けていた。池田屋事変当日に隊を脱したという記述が遺されているが、その日に屯所に残って指揮を執っていたのは総長山南 敬助と尾形だ。
・・・・・・だが、この問いに対する尾形の返答は無い。
「―――まぁ、其を今更問い詰める気はねぇさ。脱走者の統制もまだ緩い時代だったしな。・・・只でさえ疑われ易い位置にいるお前が突飛な意見ばかり出して隊の足を引っ張るのは常に引っ掛っていたぜ。が、其も、池田屋の頃は武田、油小路までは伊東がいたからそいつ等を牽制する為だと睨んでいた。新選組参謀の座を擅にしていた連中だからな。・・・大方その読みは中っていた。お前は確かに武田や伊東を欺き、学閥を凡て破滅に追い遣った。だが少なくとも、伊東が入隊するより以前は牽制の対象は武田ではなかった筈だな」
・・・・・・尾形は之に関しても特に際立った反応を見せなかった。土方を正面から見据え、黒眼がちの瞳は静かに先を促している。
「島田はこの時既に監察の職務を得ていたから問題ではなかった筈だ。助勤と監察の情報の遣り取りも、事件に依っては無くも無い。本来は尾形が助勤で島田が監察の立場をずっと続けていく心算でいたんだろうが、在ろう事か平助が伊東を連れて来た。伊東の頭脳に島田では太刀打できない。だから、より自由な時間を手に入れて伊東に接近する為に、尾形は極めて自然な形で助勤職を降りた。島田は伍長に降りるという形で其と無く近藤さんの護衛に就いた。近藤さんは、伊東の入隊を誰よりも歓迎している様に見えてその実誰より警戒していたのさ」
尾形と島田は仕事に全く重なる部分が無い様に見えていたが、こういうところで実は繋がりが出来ていたのである。伊東一派の入隊後については之で大方説明がつくだろう。併し、伊東一派入隊以前の彼等の動きについて知らねば、彼等の正体を知る事は出来ない。
「そんな近藤さんだ。其に決して伊東に劣らぬ頭脳を持つ尾形がいれば、武田なんて懼るるに足りねぇ。なら、何で怪しまれる言動をわざわざ取って、戦線に出ようとしなかったか?勿論、武田の牽制も兼ている。武田の引き起す問題はあの頃は凄まじかった。山野を守る為でもあったんだろう。だが一番の目的は、何かと病に臥せがちな山野に其と無く接近する為だ。そして、俺の注意を自分に集中させ、山野に向けさせない為。・・・尾形、お前の陽動の対象は、飽く迄俺だったんだな?」
山崎が、島田が、山野に注目する。土方は煙管を口に銜え、斜め下から見上げる様に尾形をねめつけた。山野はたじたじとした眼差しで尾形の顔色を窺い、助けを求める。・・・・・・尾形はここにきて、姿勢一つ変える事無く聴いていたが、ややまつげを伏せて
「・・・・・・何ゆえ、そう思われた」
と訊いた。
「・・・・・・確信を得たのは昨晩、山野が総司を連れて本陣と合流した時だ。其迄は山野の動きに関しては殆ど注意を払っていなかった。伊東がいた時期は別として、尾形と山野、尾形と島田、そして山野と島田、夫々頻繁に情報を交換し合ってたんじゃねえのか」
―――汁粉会で。病人と介抱者として。近藤の御伴と幹部として。
「―――山野、お前は喩えるなら総長の様な位置だな。情報は総て耳に入れている。だが、天地がひっくり返る様な状況にならねえと絶対に動かねえ。そんな役は特別な職を持っている尾形や島田より平隊士のお前が遣る方が都合が好い。
―――一番の危機は昨夜だが、其より前に、尾形が伊東に付きっ切りになり、島田が近藤さんの護衛になった頃、山野が動かなければならねえ問題が起きた。―――総司の―――労咳、だな?」
『・・・・・・沖さんが妙な咳をする。池田屋で昏倒したとも聞いている。近藤局長も心配しておられる』
尾形が白玉を噛み切り、口の中で冷ましながら言う。島田と山野が白玉を口に持っていくところで箸を止め、尾形の方に顔を向けた。
「・・・・・・病状はゆっくり進行していく。山野は其と無く総司を視ている様にしていたが、愈々総司が剣を握るのが難しくなった時に、いつでも盾になれる様に常に近くに居る様にした。他の隊士なら怪しむところだが、時季も時季で、病弱な山野なら部屋に閉じ籠っていても誰も叉かとしか思わねえ。総司の傍には佐倉がいる。が、アイツは護衛じゃない。護衛も勿論できるが、アイツには総司を看護て貰わなくちゃならねえ。其に、本当に具合が悪かろうが、盾になる分なら別に問題にはならねえからな。
―――そして昨晩、油小路以来山口と入れ替りに天満屋に潜み、伏見を偵察していた尾形から山野に連絡が入る」
『―――御陵衛士の生き残りが沖さんの命を狙っている。醒ヶ井に居る事も既に把握されている。早く沖さんの身柄を遷した方が良い』
『な・・・!?何だって!?』
窓の隙間から聞えてくる背を向けた尾形の声に、山野の声は室内でわんわんと反響した。山野の肌を包む湯の面がぶつかって、ぴちゃんと滴が空中で跳ねる。
「山野が総司について醒ヶ井の妾宅に来ている事を尾形に教えたのは―――島田、お前だろう。尾形が天満屋に潜伏してから接触する機会なんて幾らでもあった筈だからな。何だってお前は近藤さんの護衛だ。近藤さんは油小路事件から何度か天満屋に足を運んでいる」
―――そうだったな、山崎。土方は山崎に確認する。
―――は。山崎は急に名を呼ばれても冷静に対処した。併し内心では驚いていた。ばれない様に近藤の後ろを尾いて行けと命令された当時は不審ばかりが浮んでいたが、土方の目的は寧ろ島田の方にあったのか。
今この時の種明しの為に。
「―――そして、今日。尾形は新選組に戻って来た。近藤さんが撃たれるという状況を知ってな。結果的には間に合わなかったが、お前が伏見奉行所に来た事が何よりの証拠だ。島田や山野との繋がりが無ければ、山崎に捕まって伏見奉行所に来る事は無かったんだからな」
―――尾形は静かに瞳を閉じた。観念したという様子ではない。是とも非とも答えを土方に告ぐ事もしない。只、否定をしなかった。状況が是を物語っている。言い訳の無い尾形の姿勢は潔ささえ感じる。百姓だった子供の頃から憧れ続けていた“武士”像とはこの様なものだったかと土方はぼんやりと想った。
(・・・・・・凡ては逆や)
山崎は想った。尾形が之だけ危険な橋を渡っているのに首皮一枚まだ繋がっているのには、島田や山野が何らかの謀いをしているからだと山崎は何と無く気づいていたが、其でも答えに辿り着けなかったのは彼等との絆を育む事をずっと避けてきたからかも知れない。
「―――尾形、島田、山野」
土方は三人を順繰りに睨み、最後にちらと山崎を見た。・・・? 山崎は身を乗り出して土方の方へ身体を傾けた。―――何なのだ?
「・・・俺は、お前達を仲間だと思った事は無い。お前達とは新選組という繋がりしか無い。だから―――余計な真似は許さねえ」
・・・名指しされた三人は誰も、土方の言葉に感情的な反応をしなかった。そういうものに慣れた世代なのである。島田が少し寂しげな顔をしたが、厭になる程承知している。
「・・・だが、お前達がそんな気を回せるヤツらだとは端から思っちゃいねえ。・・・・・・どれも之も全部命令されて遣った事だな。そして尾形―――・・・幹部の時期が長かったお前に命令できるのは副長を除いてたった一人しか在ねえ」
「其以上は、我々の範囲には御座いませぬ」
尾形が撥ねつける様な口調で返した。過敏な程に反応が早い。この男は元々人情に対し変に潔癖だが、敵意さえ感じさせる土方を睨む表情は、何かを匿う必死さが垣間見えた。
「―――我々は、之以上について語る口を持ち合わせておりませぬ。理由は土方副長御自身が能々(よくよく)御存知の筈」
・・・・・・。土方は思わず黙った。確かに土方自身の言った理論に依れば、試衛館時代からの仲間でもない彼等を問い詰めるのは御門違いというものだ。・・・否、山崎や島田は解っている。土方が決して本心では彼等を突き放し切れていない事を。
だが尾形は其を酌まない。本心が何処に存在しようと、表に出したものがすべてだ。其は土方自身が実践してきた方針でもあるのだ。
・・・そう。土方と尾形は考え方が似ている。
「―――じゃあ、其以降は俺が言おう」
―――土蔵の扉が開く音がして、一同は一斉に出口の方に視線を移した。
吉村と大石に身体を支えられながら、局長・近藤 勇が中へと入って来た。




