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拾. 1867年、油小路

1867年、油小路


「・・・・・・」

俗に謂う油小路事件の顛末に、沖田 総司の名は一貫して出てこない。

沖田はよろよろと俯せの体勢から起き上がると、先ず激しく咳をした。霜月に入ってからは、身体が常に熱を帯びている。霜で凍る季節なのに熱い。咳き込むと毎回の様に血を吐いた。

沖田は自らの身体を叱咤し、刀架に置いた剣を取る。刀の鞘を支えにしなければすっくと立ち上がれぬ程、今日は頗る調子が悪かった。釜茹でにされているのではと錯覚して仕舞いそうな痛い空気に、円い月がくっきりと浮んでいる。寒さなど微塵も感じられなかった。


其だけ、この日は病人にとって最悪な気候だったのである。


「!山野さん!?大丈夫ですか!?」

佐倉が八十八の額に乗せる手拭を替えようと平隊士の部屋に入ると、八十八が布団を掴んで激しく震え、浅い呼吸を繰り返していた。

「山野さん!!」

佐倉が声掛けをしながら八十八の身体を支える。風邪のぶり返しは之迄も幾度かあったが、ここ迄悪化したのを見たのは初めてだ。

「・・・・・・・・・心配要らねぇ・・・」

八十八は漸く口を利いた。が、その声はとても弱々しい。

「そんな訳無いでしょう!今・・・!」

動き出そうとする佐倉の腕を、八十八は縋る様に掴んだ。八十八は悪夢から醒めず未だ魘されているかの様に

「嫌な予感がするんでィ・・・・・・」

と、たどたどしく、今この情況にそぐわない言葉を呟く。佐倉が取り敢えず宥め、呼吸を落ち着けようとすると

「俺はいいから・・・・・・沖田先生を見てこい・・・・・・」

と、今度は突き放した。嫌な予感からの突き放しがいまいち繋がらない佐倉は、この怯えている様にも見える美青年に優しさを努めた。

「でも、沖田先生は先程お薬を飲んだばかりなので暫くは大丈夫かと・・・」

「いいから・・・・・・!」

八十八が余りに切実に言うので、佐倉は仕方無く一旦部屋を出た。之で八十八の気が済むのならばと思い、沖田の部屋の襖を叩く。

「沖田先生―・・・」

毎度恒例の事なので、其ほど神経質にならずに部屋の襖をすらりと開ける。すると其処には誰も居なく、血に滲んだ懐紙が至る処に散乱していた。

「――――!?」




油小路で最も事態の収束が早いのは、山口 二郎率いる月真院組だと思われた。沖田隊は隊の中でも腕の達つ者が揃っているし、指揮系統は実質山口のみなので命令が分れる事も無い。相手にする衛士の人数は他の組より多いが、其でも新選組(こちら)の隊士が圧倒的だし、宴会組と違って生け捕りにする義務は無い。山口自身、月真院に居る衛士に関しては皆殺しにする心算でいた。

特に、加納 鷲雄に関しては珍しく尾形から厳重な願いを受けていた。

『・・・・・・加納さんは、生きていれば必ず新選組に仇為す事をされる。二郎さんの手で確実に始末して欲しい』

尾形と山口は、伊東を誘き出す前に或る場処で打ち合わせを果していた。双方共、其処が次の事件の舞台となる事も知らずに。

『加納 鷲雄・・・・・・之は叉ぱっとせん名のやつだな』

ここでいう名とは加納という氏名ではなく剣やら学問やらでその名が通っているかという意味をもつ。加納は新選組時代には伍長を務めたものの、伊東の力でなれたものであって、実力ではない。特に何かに秀でているという話も聞かないし、実際に平隊士に師範代を譲る程度であった。

『・・・なれど、寝首を掻かれる可能性は大いにあるかと。能力を隠しているだけやも知れぬ』

『ふむ』

山口は肯いた。能ある鷹はの象徴たる人物がこう言うのである。信じたが良かろう。相手は鷲だが。其に、卑怯な性質なのは確かだ。

『阿部さんと次郎さんは、甲子さんの後に私が行なう』

『承知。他に関しては誰が始末しても構わんな』


「―――加納 鷲雄だな」

山口は抜刀した。御陵衛士は皆散り散りになり、宛らかくれんぼの如く、視界には長らく黒い頭巾を被った味方しか入ってこなかった。そんな中でも所々で味方の死体が転がっているあたりが雰囲気的には不気味でもあり、衛士の剣の腕が並ではない事が判る。

逆に謂えば、始末すべき衛士達がまだ月真院内に潜んでいるという事だ。

山口は佐野の時同様、断定調で相手に言った。山口は一方的に加納の貌を知っている。

併し相手も断定的な口調で、山口にこう返してきたのだ。

「のっぺらから随分イイ男になったな。斎藤 一」

! 山口は透かさず声のした方向に刃を突く。尾形が加納を警戒する理由が即座に理解できた。之は絶対に始末しなくてはならない。どこで正体がばれたのかは知らないが、生かしておけば危険である事は間違い無い。

「―――おおっと今は山口 二郎だっけか」

山口は刃をすぐに引き戻して自らが彼の場へ飛び込む。刃に手応えが無かった。だが、逃げていればすぐに見つかる筈である。

衛士等は月真院の間取を利用して新選組から逃げているだろうが、山口自身も彼等と同じ期間この屯所で過していたので通用しない。その筈なのだが、山口が突き当り迄真直ぐの廊下を駆けても加納の姿は影も形も無い。

「正々堂々としとらんな。怯懦め」

態と挑発する様な言葉を並べ立て、山口は部屋の襖を乱暴に開けて回る。突き当りを曲り切れる程の時間的猶予を与えてはいない筈だ。其でいて加納の姿が視えないのは、何処か手近な部屋に潜んでいるからに違い無い。

「正々堂々としてないのは貴様の方だ、山口 二郎。顔も名前も変えてしか我々の前に姿を現せんくせに。貴様と大石 鍬次郎だけは何が何でも地獄に(おく)って遣る」

安藤、安富。山口は監察二名を呼び出しながら己が大石 鍬次郎と共に並べられる理由について考えていた。

「はっ」

安藤 勇次郎が角を曲ってすぐに姿を現すと、間髪入れずに屋上(うえ)だと言った。直後に安藤は姿を消す。加納が逃げ道にしようとしていると思われる屋根の上に彼は既に向かっていた。屋根の上での戦なら監察の方が余程慣れている。

(―――佐野等の一件か)

京都守護屋敷での粛清事件。御陵衛士加盟後に彼が大石と組んだのは其位である。其も後処理程度だが。

・・・孰れにしろ、余計な事を知りすぎているので平隊士に戦わせる訳にもいかなくなった。妙な事を吹き込まれても困る。

「―――伊東先生には、どうせ大石の方が行ってるんだろう。佐野のあの時と同じ様にな」

―――矢張り、と山口は思った。とどめを刺したのは己と大石の二人だ。加納がそう言い切るあたり、残りのメンバーの死に尾形等元監察が関っている事には気づいていない様である。

安藤が屋上に向かう途中で声を掛けたのだろう、安富 才助が後れて山口の許に現れる。山口は安富に指揮を執らせ、槍を持った隊士達に広範囲に亘って天井を突かせると、自らは外に出た。(そら)を見ると、屋根の上で二つの影が跳躍している。

屋根の上という限られた土俵とバランスの取れなさの中で双方共器用に身を躍らせるが、二つの影が重なった瞬間に山口は門外へ出た。片方が倒れるともう片方が石塀へ飛び移り、更に路上へ飛び降りて月真院の敷地を出る。其は山口の側からの死角を利用したもので、疾風の如く迅く、跡形も無く消え去って仕舞った。

・・・その業、まるで忍の如し。

併し、山口は見逃さなかった。あれが加納だ。すぐさま風を追って走るも、山口は鎖帷子を着込み、鉢金を額に巻いている。片や、加納は股引姿で、まるでこの時が来るのを知っていたかの様な軽装備であった。

両者の距離は益々開いてゆく。併し其でも山口は見失う事無く追いながら、加納が現在向かっている場処について推理をしていた。

薩摩藩邸にでも逃げ込まれて仕舞ったら自分ではもう如何しようも無くなる。

(若しくは―――・・・)

―――山口は追っていっている内に、加納の往く先が薩摩藩邸ではないと判った。この方角は、薩摩藩邸のある方角ではない。

(―――之は)




ぐいっ

剣や槍、暗器等様々な武器が飛び交う中で、藤堂は突然予期せぬ処から腕を引っ張られた。永倉の手だ。その手は小さく、痛くない程度に優しく、併し振り払えない程に力強かった。

「!?」

藤堂は愕いた眼をして永倉を見下ろす。永倉は安心できる笑みで大きく肯いた。戦線に出ている幹部達も、夫々の武器を交せながら藤堂と永倉に目配せをした。永倉が藤堂を連れて走る。

「!?ちょ・・・新八っつぁ・・・!」

衛士達も唖然とした顔で藤堂と永倉が通り去るのを見ている。山崎などは篠原に出来た僅かな隙を逃さず突き、刀を抜いて懐に入る。篠原は辛うじて身体を捻ったものの、胸から肩にかけて浅手を負った。

「―――武士を目指す集団らしからぬ卑怯さだ」

篠原が幽かに血の滲む肩を押えながらも、落ち着き払った声で言う。

「俺は武士である前に忍やねんもん。新選組が武士になんのを支えんのが俺の仕事や」

山崎は血を振るいつつ相手の出方を俟って遣るも、眼はその態度ほど優しくはなかった。その眼を視て、篠原は新選組の方針が切り替った事に気づいた。

「―――あんたもせやろ?御陵衛士の、やけどな」

「―――山崎君。君は忍に向かぬ様だな」

グ・・・ググ・・・・・・

島田も何とか持ち直し、己の額に降り懸る太刀を服部の側へ押し遣る。服部の足下は死体だらけで、皮肉にも其が彼自身の運動の自由を奪っていた。

「うおおおおおおおお!!」

服部が獣の如く吼える。島田も負けじと、足を更に踏み込んで服部以上に大きな声で吼えた。

「負けるかこのオオオオオオオオオオオーーッ!!!」

「なに対抗してんだ、力さん・・・・・・」

流石は新選組随一のツッコミ隊長・永倉 新八。こんな時でもツッコむ事を忘れない。

「新八っつぁん―――!?」

―――一方で、藤堂は永倉の行動の意図が読めず暢気なツッコミに対するツッコミさえ出来ない。

「―――作戦を変更したんだ」

永倉が走りながら、ツッコミの時とは違う通り難い低い声で呟く。藤堂はぴくりと反応し、素直に永倉に従った。

元より、永倉は周到な用意無しに余裕を見せる様な人間ではないのだ。

「・・・・・・平助。お前は不動堂村屯所へ向かえ。近藤さん達が待っている」

藤堂は眼を見開いた。

「おらおら、如何した!一対一(サシ)で闘るのが怖いなら、二人纏めて懸って来いよ!!」

原田が演武でも興じるかの如く槍を振り回す。毛内 有之助と富山 弥兵衛は剣を握る時とは違う原田の鬼気迫る形相に思わず腰が退けた。結果的に其が原田の演武を増長させているのだが、莫迦だが美男で長身と名高い彼が演武を振るうとさまになりすぎて、毛内と富山は益々一歩も近づけなくなった。

「御陵衛士の奴等がなかなか遣る。特に力さんは厳しそうだ。土方さんから生け捕りにする様にと言われてるんだが、此の侭だとこっちが遣られちまう」

「!其って―――」

藤堂はこの局面でも自分が足を引っ張っている事に気づいた。自分が此処に来なければ、永倉等はここ迄苦労しなくて済んでいるのだ。

「・・・・・・勘違いするなよ、平助。お前は飽く迄斎藤と同じ間諜(たちば)で御陵衛士に居たんだ。任務を果したら局長副長に報告しなきゃならないだろ?だから責任を感じる必要なんか無いんだぜ」

「でも―――!」

「殺り合いなら俺達ゃ絶対に負けねぇよ」

―――永倉が藤堂の腕を離す。この道を真直ぐ進めば新選組屯所だと、短い指が告げていた。

「―――土方さんと源さんが10月に江戸で隊士募集に行って来てな、新顔が出動してるからお前や斎藤の貌を知らないヤツも多いんだよ。だから斎藤にも危険な仕事はさせてない。間違えて仲間に斬られるかも知れないからな」

だから自分を戦線から離脱させて一気に斬り込む方針に切り替えるという訳か。こんな面倒な事をするのも、凡ては自分を助ける為で。

・・・試衛館仲間はいつでも、自分の帰りを待っていてくれたのだ。

現場(むこう)には戻って来るなよ、平助。三馬鹿(オレたち)は絶対に敗けない」

「新八っつぁん―――・・・」

永倉が現場へ戻る。独り残された藤堂は、月明りの下に光って視える永倉の背中を見送った後、煌々と耀く満月に本の少し満たない月を見上げた。伊東さんはもう粛清されたのだろうか。刃を向けたのはおがっち―――?

京だけではなくこの日本(くに)を、否、其どころか世界たるものを照らしている月は、伊東の命の行方や尾形の真実も知っているのだろうか。

「――――・・・?」

月影に黒い塊が映り込む。その塊はついと亀の頭の如く上部が伸び、微かに人間の頭の形を成した。併し其以上は身体を起さぬ侭、屋根の上を低い体勢で移動する。地面の上に降りたのか、その後は全く視えなくなった。

月は再び、誰の妨害を受ける事無く爛々と夜を照らし続ける。

「・・・・・・」

影の消えた方向は、永倉の走って往った、即ち近藤の妾宅のある方向だ。

―――まさか。

・・・藤堂は不気味に浮び上がる月に視線を宛てた侭、ごくりと唾を呑んだ。



「臆するな!もう遠慮は要らないぜ!斬れ斬れっ!!」

「生きとっても死んどっても仕留めたヤツには給料弾むで!!」

現場に残った副長助勤・原田と山崎が背中合わせに各々の敵を相手にしながら自分預りの隊士達に発破を掛ける。御陵衛士は次第に、助勤以外の隊士とも戦わざるを得なくなってきて、形勢は完全に新選組のものになろうとしていた。

だが其でも服部 武雄の勢猛も止める事は叶わず、永倉隊の隊士は言う迄も無く応援で振り分けられた原田や山崎の隊の隊士も服部の別の人間の様に動く剣の前に斃れてゆく。

(俊の隊は―――・・・大石は、まだか―――!!)

いい加減、隊士も尽きそうだ。服部もいい加減身動きが取れないであろうに、という考えが頭を過ったその時、服部の足下が動いた。

「!?」

一瞬、死体が起き上がった様に見えた。というのであればまだ動体視力が有る方で、島田には実質自分と服部の間に誰か生きた人間が割って入って来た様に視えた。

御蔭で其が服部の蹴散した死体である事に気づくのに遅れ、島田は諸にその(むくろ)とぶつかって仕舞い、大きく体勢を崩した。

(目潰し・だと―――!?)

服部は周囲の死体を撒き上げて島田の剣を籠手ごと斬り落し、二刀流のもう一刀を島田の懐に捻じ込む。島田は剣を取り落したと同時に死体に躓き、背中から地面に倒れ落ちてゆく。

「―――一つだけ、貴方に問いたい」

―――服部が、最後だと思って自分から距離の離れてゆく島田に漸く口を利く。この男は弁の立つ伊東派の中に居て、無口な者だった。

「―――何故、ここ迄隊を守り、裏切った友を庇う事が出来る。何故そこ迄―――他者を信じられる」

島田は聞きながら、服部の青臭い問いに笑いたくなってきた。現に笑っていたらしい。

「何故笑う」

服部は当然だが目尻をつり上げて憤慨する。併し島田は笑いが止らなかった。いい齢してというのと、たった数ヶ月指導を受けただけで、役職は重なっていたと謂えど後は同僚に過ぎなかった尾形をやけに気にする理由が解った気がしたからである。

「いや―――昔の俊そっくりだと思ってさ」

尾形は京に来てから変れたが、この服部という男は尾形の裏切に由って叉も絶望に沈むのだろう。・・・そう想うと、少し不憫であった。

「なに死亡の伏線(フラグ)を一人で張り巡らしてんだ力さん!!」

「ふぐぉっ!?」

永倉が横から飛んで来て、島田と服部の間に割り込んで来た。その際に胸板を踏み台とするものだから、島田は派手に仰け反って地面に落ちた。

ギィィィィン!! 服部と永倉の剣がぶつかる。

「・・・・・・新八!戻って来たのか」

島田はがばりと起き上がり、うおっと飛び退いて門柱まで両手を地面に着けた侭後ろ向きに避難した。道理で痛くないと思ったら、死体の山をクッションにしている。

「過去を振り返っている暇があれば未来(まえ)を向けよ力さん・・・!新選組(オレら)だって、譲れないモノがあんだろ・・・・・・!」

言葉だけでは飽き足りず、遂に体当りの突っ込み迄咬ました永倉がカッコイイ事を言う。ま、その御蔭で島田は掠り創で済んだのだが。併し技量と謂うより重量の差で、永倉の剣はすぐに撥ねつけられて仕舞う。

「・・・・・・っ!」

・・・・・・当然だ。島田の腕力でも止められなかったのだから。

永倉は弾き飛ばされる様に空中で身を反すと、羽根の如くゆっくりと着地する。其迄の間に黒い何かが蠢いたのを島田は確認した。

「!?」

ぬっ、と着地したばかりの永倉の背後に黒き影が現れる。振り上げられた刀が、月の光に反射して白銀に色を放った。

「――――!?」

「新八―――っ!!」

原田と山崎が肩を跳ね上げ、永倉に降り懸る刃の存在を知った。島田が駆けつけようとするも、ずしりとくる身体の重さに思うさまに俊敏に動けない。服部との闘いが少なからず響いている様だ。今では永倉までの距離も遠い。

島田でさえも間に合わない、だのに更に遠くで敵と戦っている原田が仲間を救おうと走った。併し間に合う訳も無い。

「新八っつぁーーーん!!」

原田も間に合わない事は解っていた。だから叫んだ。服部は島田との闘いに何らダメージを受けていないかの様に俊足で永倉に迫り、襲い懸る。

「―――新八っつぁん」

・・・声を荒げて己の名を呼ぶ島田や原田とは異なる穏かに落ち着いた声が、永倉の耳許に落ちてくる。随分と耳心地の良い声であった。永倉が振り返ろうとした時、後ろの影は彼の襟首を掴んで持て上げ、路上の端まで彼を突き飛ばした。永倉は呆然とした表情で受身を取る事も忘れ、島田が身体を張って何とか己の胸板で永倉の背を受け留めた。

「っ!?」

島田も永倉と同じ方向を見ると、みるみる内に顔に血の気が失せていった。永倉や島田の居る処に距離が近づいた原田も同様だ。

―――永倉が着地をしてからの彼等の一連の行動と、すぐ傍にある十字路からもう一つ別の影が飛び出して来たのは、時間的に粗重なり合っていた。永倉を突き飛ばしたあの影は正面を向き、服部の剣を受け留めてはいるものの、後ろには別の影が在った。腰から胸にかけて斜めに、剣が身体から突き出されているのが判る。

ツー・・・と口許から血が伝い、路地の真中に紅く色づいた。突き立てられた刃が抜かれ、力を失って倒れる時、その表情(かお)は何故か満足そうに視えた。

「間に、合っ・・・て・・・・・・良かっ・・・・」

―――藤堂が、己に釘づけになっている永倉と島田に微笑みながら仰向けに落ちてゆく。視界を塞いでいた服部の胴がどき、原田の姿も見える様になる。

側溝には水が流れている。藤堂が倒れる処には踏板が置かれていなかった。藤堂が反射的に伸ばした手を、永倉と原田が追い駆ける。



「平助!!」



尾形は背後を振り返り、序でにぐるりと周囲を見回した。

彼は珍しく小走りで京の町を移動していた。表立っては文官である彼が走る事も叉珍しいが、其よりは如何にもマイ‐ペースで通っている彼がいつに無く周囲に目を配りながら進んでいる事の方が珍しい。だが、まだ激戦区からそう遠く離れてはおらず、独りでいる。尾形は次の任務に移るべく、花屋町へ向かっていた。ここ迄が副長助勤としての仕事。花屋町への到着を機に彼は監察方の立場に戻る。斎藤 一が山口 二郎として副長助勤に復帰した今、尾形は御役御免となり叉一つ肩の荷が下りた。

―――人間の命が一つ散る毎に、尾形自身にも終りが視えてくる。大石の如く無限に殺し続ける事を職務とせず、山口の如く試衛館の後ろ盾がある訳でもなく、山崎の如く人にも仕事にも恭順していないこの男は、伊東一派が粛清されれば自身の職務も終る。陰謀の渦中に投入されてこそ生きる彼は、渦が消えれば自身も真っ(さら)となる運命にあるのだ。

「・・・・・・」

尾形は後の事など知らぬ顔で、再び歩を進め始める。

正面通との十字路を過ぎた辺りから急に気配が騒がしくなってきた。複数の気配、というのではなく、一つの気配が煩いのだ。

「―――尾形先生」

路地も奥に入り、かといって次の十字路迄は距離のある真中あたりで、尾形は声を掛けられた。奇しくもか、或いは京だから当然か、伊東を殺した現場と風景が似ていて、道は真直ぐで石塀に囲われており、近くに寺が在った。

「・・・・・・君が此処に在るという事は、新選組幹部の誰かが討たれたという事か」

・・・尾形が独り言ち、ゆっくりと背後を振り返った。手は既に刀の柄を握っている。

尾形の着物を濡らす伊東の返り血が、より一層夜闇に浮んで伊東を殺した犯人を主張していた。月は確かに油小路も照らしていたが、何をする事も無く彼等を只見下ろしていた。



「平助っ!!大丈夫かっ、平助!!」

原田が藤堂を支え、身体を抱え起す。藤堂は苦痛に顔を歪ませ、穴の開いた風船の如き呼吸をする。永倉が羽織を脱ぎ、藤堂の身体に巻きつけて止血を行なう。すぐ傍で服部と股引姿の男が耳打したが、原田や永倉には聞き耳を立てている余裕は無かった。

島田だけが二人の前に立ち塞がり、後ろの三馬鹿を庇う中で、服部が突如戦線から脱した。敵に背を向ける事も厭わず、一目散に逃げてゆく。

「!」

島田は咄嗟に服部を追うのを躊躇った。股引姿の男の正体に気づいたからである。原田も永倉も、離れた処に居る山崎は当然として、各々の事情から男の正体に気づかない。

「何してんねや島田はん!早よ追い駆けぇ!!」

山崎が戦いながら島田に対して怒鳴る。原田が戦いの輪から抜けて、山崎も今敵を複数相手にしている状態だ。上手い具合に攻撃を切り抜けながら、此方に注意を払っているのである。

「平助を刺したこいつは加納 鷲雄だ!」

原田と永倉が顔を上げて男を仰視する。山崎も知らない事であったのできょとんとはしたものの、重要なのは其ではない。

「だから何やの!早よ服部を追い駆けぇ!加納(てき)の相手は原田先生が出来るさかいに!」

山崎は原田を戦わせる心算でいる。手当てをしている永倉に関しては何も言わないところが藤堂の容体を知っていての冷酷さを表した。島田はそんな山崎の言葉を決して冷たいとは思わなかったが、名物トリオとして名を馳せた、久し振りに再会した友が一刻を争う状況になって、立ち会う事も許されず敵に立ち向かえと言うのは酷と、無意識下では考えていたのかも知れない。

「こっちには応援が来るさかい、でも、お・・・アイツは独りや!」

山崎は“尾形”と言おうとしたが、咄嗟に名を伏せた。その点では加納と聞いておいて良かった。尾形の裏切を加納は知らないかも知れないし、・・・何より“お”の音をこちらが発した瞬間の股引姿の男の空気に危険を感じたからだ。

「大石 鍬次郎の事だな・・・・・・?」

・・・・・・股引姿の男は、山崎等にしてみれば全く脈絡の無い名前を言うと、歯を剥き出して哂った。白眼の面積を大にして笑むその貌は誰がどう見ても異様な光景でしかない。

「いい事を聞いた」

男は舌嘗めずりをして顎を掻くと、山崎と戦っている篠原 泰之進に向かって問うた。

「こちらはもう大丈夫ですかね」

「見ての通り、我々が優勢だ。もう少しすればこちらも()ける」

篠原は余裕の表情で返した。何せ、一人に対して致命的な怪我を与えただけで3人の戦力が殺がれるのである。絆の成せる業だ。

この戦場に出陣(でて)きて、脱出(もど)る事を考えられるなど、新選組も随分と落魄れて仕舞ったものだと山崎は思った。

「なら、先に往きますよ」

理由は想像つかないが、加納は随分と大石に御執心の様である。尤も、加納は佐野と同様に伊東を殺したのは大石と思い込んでおり、片や山崎は佐野等粛清の企画者と伊東殺しの真犯人を知っているのだから、両者の考えが交わろう筈も無い。

「服部を追え!島田はん!!」

加納にも逃げられる。加納の口振りから察するに、彼は大石を捜しに行ったのだろう。大石には尾形隊の隊士が付いているし、何より腕に覚えが有る。だが服部は伊東殺しの真犯人を知って仕舞った。伊東殺しの真犯人は、伊東という大人物を手に掛けた割には何も持っていないのである。人情を逆手に取った非情な迄に鋭敏な頭脳を培った程度で、自分の隊は手離し、腕も永倉並みだ。決して弱くは無いが、相手が悪すぎる。

「早よせい!アイツも・・・藤堂先生と同じになるかも知れへんのやで!?」

「!」

三馬鹿の前から動けずにいた島田は、人情に引き摺られる事が新たな犠牲者を生み出す事もあるのだと頭だけではなく漸く実感を与えられる。凸凹三人組も三馬鹿と置かれた状況は変り無い。三人組の中間地点は三馬鹿の中間地点としていた事は変らないのである。

「―――此処は恃んだ、崎」

・・・島田が剣を差し、鉢金を締め直した。山崎は―――ああ。と応える。島田が尾形を救出に去った後、山崎は己に呆れ、今夜俺が討死するかもと思った。感情に流される人間は往々にして、目の前に居る人間の危機的状況に気づかなかったりする。

「余所見!」

「!」

篠原から蹴りを繰り出され、山崎はごほりと軽く咳き込んだ。ギリギリで急所を躱したので脇腹を掠っただけだが、衝撃で武器を落して仕舞った。

「うわぁ・・・」

言わんこっちゃない、と山崎は思う。自分も案外、島田に言えた立場ではないのかも知れない。

篠原 泰之進が姿を消す。山崎に不意討を掛ける為では無く逃げたのだと判ったのは、毛内 有之助と富山 弥兵衛が同時に斬り込んで来たからだ。

「何やのん、アイツ・・・・・・!」

山崎は己の身より、敵前逃亡した篠原に対して舌打をした。山崎自身、気心の知れた仲から卑怯だ何だと幾度と無く揶揄されてきたが一度戦うと肚を決めた敵を前にして逃げた事は一度も無い。無理と思うか思わざるか、敢て飛び込むか飛び込まざるか、そういうものは事前に決めておくべきで、飛び込んで無理と悟ったら自分の能力が浅はかだったという事だ。その責任は自分自身が取る他無い。

とはいえ、山崎が現在その立場にいる事からそう憤慨するのも叉説得力に欠ける。山崎は顔を伏せ、胸倉に手を突っ込む。

飛び道具にしかならない殺傷能力の低い武器を手に、胸倉から引き抜いて構えた時、毛内と富山が同時に血を噴いて倒れた。

「――――!」

「――――こりゃあ、相当暴れ為すっておいでで」

ぐあぁ!! 毛内が悲痛な叫び声を上げた。大石 鍬次郎が毛内の身体を踏み、彼の腹に槍を突き立てたからであった。隣には山口 二郎もいる。

「あ?あれ??大石はん・・・・・・?」

山崎は思わず口をヒクヒクさせ、引きつった笑みを浮べた。あなたをご所望の人がついさっきまで此処に居たんですが・・・・・・?

「・・・・・・間に合わなかった様だな」

・・・山口が三馬鹿の様子を遠目に見て呟いた。仮面を外したところで彼の表情が変化に乏しい事に変りは無かったが、その声は低く湿っている。

「・・・・・・加納 鷲雄に斬られましてん。腰から胸にかけてぐっさりと」

山崎は案ずる様に言った。併し最小限の報告にとどめる。其でも剣豪である山口は瞬時に藤堂の容体を理解した様だった。

が、瞳孔を一瞬開いただけで後は平時と変り無く、山崎の報告に私的な感情含まず返す。

「こちらも加納を追っていた。・・・・・・尾形さんに必ず仕留めろと言われていてな」

「尾形はんに―――?」

―――矢張り加納には何かあるのか、と山崎は想った。新選組時代は伊東一派の中では影が薄かったというのに。

「加納に、山口 二郎(オレ)が斎藤だとあっさり看破(みやぶ)られた」

「何やて!?」

山崎は思わず顔を蒼くした。4年余の期間に亘って誰にも覚られなかった斎藤の変装を看破(みぬ)くなど、可也の手練れではないか。

併し、此方には幾人か残って貰わなくては困る。この場は早く彼等に任せ、自分は藤堂の手当てに向かわなければならない。

此処で医術を使う事が出来る隊士は自分しかいないのだ。

「―――俺は月真院に戻る。此処は尾形さんの隊と大石さんに遣らせよう。おぬしは藤堂さんの手当てを恃む」

山口は山崎の願い以上に状況を汲み、淡々と指示した。こちらが気持ちを汲んだ方が良さそうな程に。

「―――了解(わか)りました」

だが、山崎は之以上詮索めいた気遣いはしなかった。ああ言ってこの指示が返ってきたのだ。

剣客は所詮、人を救う術など持たず、守る為には代りに何かを犠牲にする事しか出来ないのだとこの男自身が理解している。

「見してください!手当てします!」

山崎が三馬鹿の許へ駆け寄る。だが永倉が此方を向き、ふるふると首を横に振った。その目には、涙が滲んでいる。

原田は最早、涙を止める事が出来ずに声を殺している。せめて藤堂に覚られぬ様にと。二人共、もう解っているのだ。

「ーーーー・・・」

原田が顔を伏せて藤堂の肩を抱しめる。すると藤堂は、左之・・・・・・と力無く言い、掠れた声で楽しそうに笑った。

「いた・・・・・・いよ、左之・・・・・・」

「痛いか。そりゃ・・・そうだよな、平助よぉ・・・・・・!」

原田が堪え切れずに啜り泣きを始める。永倉が創口を押えながら、馬鹿平助・・・・・・!と声を出さずに叫んだ。

「俺なんか・・・・・・庇うからだ・・・・・・!」

・・・・・・藤堂は小さく、ゆっくりと、原田の腕が包んでいる肩から上を左右に揺らした。力の入らない手が、原田の両腕に伸びる。

「こっち・・・だよ・・・・・・苦しいよ、左之・・・・・・もうちょっと・・・・・・加減・・・」

「あっ、俺か!?俺の方か!?悪い、悪い・・・・・・」

原田が腕の力を緩め、自分の腕の位置まで持ち上げる力の残っていない藤堂の腕を握って遣る。

「相、変、らず・・・・・・馬鹿・・・力・・・・・・なん・・・・・・」

「三馬鹿なんだから仕方ねぇよ・・・・・・!」

永倉が洟を啜りながら、けらけらと笑う。原田と藤堂もつられて豪快な声で笑った。その盛り上がりは山崎を越えて、未だ衛士との戦闘を繰り広げて、というよりじゃれている大石等の耳にも届いた。

「もー暇してんでしたら隊士達を手伝って遣って・・・・。・・・・・・」

毛内の遺体を5つに裂いて遊んでいた大石が苦情を言う。併し、余命幾許も無い者と共に隊長が笑い合っているのを見て、大石は理解し難い様に眼を大きくした。

「・・・・・・ごめん・・・な・・・・・・左之・・・・・・新八っつぁ・・・・・・裏切って・・・・・・・・・」

藤堂の声がどんどんか細く、頼り無くなってゆく。原田も永倉も(かぶり)を振った。原田が藤堂の手で拳をつくり、其に永倉が己の拳をごつんと当てた。

「・・・・・・お前はよく遣った。立派な新選組隊士だよ」

・・・・・・ずっと笑っていた藤堂の眼が、遂に潤み出す。此の侭嘘を吐いて逝きたくはなかった。仲間だからこそ、三馬鹿だからこそ本心を隠した侭死ぬのは嫌だった。

「ち・・・・・・がうんだ・・・・・・俺・・・・・・迷って・・・・・・て・・・・・・「平助」

原田の大きな手が藤堂の拳をぐっと包んだ。

「解ってる」

・・・・・・藤堂の頬を一筋の涙が流れた。原田の手はとても温かく、この霜月の空の下でも寒さを感じない。包まれた身体も先程より熱く感じる。自身の体温が急激に下がって、原田や永倉の体温との差が大きくなっているのだろうと藤堂は思った。

「・・・知り合いから聞いたんだ。お前が苦しんでた事や、衛士に移った本当の目的・・・おんなじ三馬鹿なのに何で気づいて遣れないんだって、気持ちを押しつけるだけなのは子供(ガキ)と一緒だって、説教まで受けちまった。アイツ、意外とうるさいトコあるんだぜ。んで、ああ見えて結構お前贔屓でさ」

・・・・・・原田はわざわざ名前を伏せているが、藤堂はその人物が誰であるかを知っている。何気に長い付き合いであった。彼是1年、自分はその人物に見守られながら過した。まさに彼は藤堂の影と謂えた。一見性質が逆であってもその実同じ動きをしており、一蓮托生の関係である。光が消えれば影も消える。併し彼は一個の人間だ。ここで自分と共に消えなくていい。

「・・・・・・そう・・・か。なら・・・・・・」

もう自身に未練は無い。有るとすればその影の存在だけだ。未練となり得るものは、凡てその影が濯ぎ落してくれた。

「凸凹三人組には・・・・・・左之や新八っつぁんが受けた様な悲しみを――――・・・」

与えない様に――――・・・。藤堂はどこまでも優しい男だった。その優しさは3年近く前に亡くなった同門・山南 敬助に似ていた。

「平助!!」

永倉と原田が叫ぶ。沖田 総司がすぐ脇の道の角に身を潜ませ、彼等の別離(わかれ)を見届けていた。その顔は闇夜に溶け込む程蒼白かった。




「―――藤堂 平助先生です。あの方は御陵衛士を裏切った」

―――服部と尾形が対峙する。服部の声は感極った様に震えていた。その声には、怒りと入り混じって悲しみも滲んでいる。

「・・・・・・そうか」

・・・一方で尾形は、声色一つ変えず淡々と事実を受け容れた。覚悟していたと謂うよりは何の感慨も浮んでいない様な滑らかな応対だ。

「―――で」

剣の柄から手を離す。併し剣を離した瞬間に、尾形の眼光が鋭く服部を捉えた。その不気味な輝きは、刻が過ぎる程に益してゆく。

「君は何ゆえ此処にいる?」

服部は両手に剣を握っている。片や尾形は腕を組み、理解できない風を装った。内心が浮び上がってくる様なあからさまな演技だった。微塵の情けもかけて遣らない鬼の様な男だ。服部の口から出る質問が判っているのに、知らぬ振りも、敢て問わぬ事もしない。

「・・・・・・伊東先生を・・・・・・殺したのは、貴殿か」

「・・・・・・」

・・・・・・尾形は答えなかった。事実、答えなくても身形が証明していたが、この時、尾形の口許に笑みが浮んだのが決定打となった。

「きっさまああああぁぁぁぁぁ!!」

服部が二刀の刃を振り翳して尾形に襲い懸る。尾形は剣を抜き、一太刀、二太刀と避けて服部の側面と移動する。腕を斬り落す心算で籠手に刃を振り下ろすも、そう旨くもいく筈も無いと重々承知している。

服部が半ば無理矢理に身体を反転させ、尾形の剣を受け止める。勢いづいた服部の腕力に、尾形は剣の柄を両手で握った。構わず追い討ちを懸ける服部のもう一方の剣を、服部に剣を止められた時の反動を使って躱す。だが、その巨体が揮う感情に任せた力に尾形の身体は思いの外吹っ飛び、石塀に背を叩きつけられるところを、鞘を垂直に当てる事で衝撃を和らげた。

「・・・・・・解せぬな。何をそんなに(いか)る必要がある」

・・・尾形は立ち上がり、悠然と剣を持って此方に近づいて来る。構えもせず、何処からでも攻撃が出来そうな程無防備だ。

「私が甲子さんを斬ったのと同様に、御陵衛士(あなたがた)も平さんを斬ったではあるまいか。充分仇討(ほう)に適っておろう」

「法や数の問題ではない!!あの方には・・・伊東先生の代りなんぞ、他に存在しやしない・・・・・・!!」

「そうかね」

キッ、と服部の眼が見開いて、再び刃がぶつかり合う。いつの間にか尾形の剣を握る手が左右で逆となっていた。だが、服部の圧倒的な腕力に片手で刀を防ぎ切る訳も無い。

白足袋を履いた下駄が砂利に埋り、後ろに押されて砂煙を上げる。尾形はもう片方の手を使わず、刀の峰に己の額をつけ、力を加える。

「・・・・・・甲子さんの掲げた尊皇倒幕は、既に他の者が果した。その時点で替えなど幾らでも利こう。(かい)さんが御陵衛士を脱して陸援隊に加入したのは左様な理由と聞いている。皆さんが新選組の村山 謙吉を土佐に引き渡したのも動機としてはそう変らぬ」

・・・・・・尾形の髪がぱらぱらと、峰に切られて落ちてゆく。軈てその額からは血が滲んだ。彼は鉢金を持ち歩いていなかった。

「―――孰れも、互いにとっては数多き敵の内一人を偶々籤で引き当てた感覚と寸分違わぬのだからな」

「ーーーーっ!!」

「新選組の引き当てた籤が甲子さんで、御陵衛士の引き当てた籤が平さんに過ぎぬのよ」

「この―――っ・・・・・・裏切者――――!!」

尾形がもう片方の柄に手を掛ける。飛んでくるもう一方の服部の刃をその柄を引き出して防ぎ、一歩前に出て服部の足を踏んだ。

服部が怯んだ隙に、額で押えていた剣を服部の其から離し、服部の首筋目掛けて突く。

「・・・・・・・・・!!」

剣は皮を裂いただけで急所に至らず、服部の頸からは少量の血のみが散った。併し服部は之迄一度も見た事の無かった尾形の剣技に戦慄く。尾形に指南を仰いだ事が幾度か有ったが、この様な腕がある事を一切覗わせなかった。

――――ただ。

「―――一方向からしか物事を視ぬ人間は之ゆえ好かぬ」

服部の内心に対する非難を含んだ様な声が少し離れた処で聴こえた。尾形の羽織の肩口がひらひらしている。頸を衝かれた際に服部が咄嗟に防御を受けていない方の剣で裂いたのだ。

尾形は暫く脇を押えるとすぐに刀でひらひらした部分を切った。下地の着物が黒く滲んでいる。

「・・・・・・新八さんと左之さんも、君と同様に哀しんでおろうな」

・・・・・・諭す様な独り言の様な、本心の垣間見える事を尾形は呟く。併し其もここ迄だった。人間など所詮、あらゆる凡てを考慮して動く事など不可能で、其を目指した結果が藤堂や山南の末路なのだ。事情を知ろうと知るまいと、大抵の人間はすべき事が変らない。

愁いながらも緻密な計算が見え隠れする。切った袖で手早く止血するのを見、服部は叉惑わされたと思った。

この男の手口は、別の可能性の提示や意味深長で曖昧な言い回しをする事に拠って相手を混乱させ、時間稼ぎを図る事と謂っていい。寧ろ其以外では愚直なほど実直に陰も日向も生きていた。

「だまされるものかっ・・・・・・!!」

・・・・・・。尾形は身に覚えの無い怪訝な顔つきで剣を握った。髪が切れたからか、眼元が幾らか明瞭(はっきり)と視えた。

服部の中の何を呼び起したのかは判らぬが、動きは先程の彼自身を凌駕していた。妾宅前で新隊士を相手にしていた時は五分程度しか実力を出していなかったのかも知れない。加減を忘れて仕舞った今では十割が尾形一人に向けられている。

「・・・・・・」

尾形は表情を殆ど変えずにいたが、剣は確実に防戦一方となっていた。永倉ほどではないが、尾形も体格に恵まれている訳ではない。片や、服部は原田や島田を超えている。歴然とした重量の差がそこにはあり、無闇矢鱈に受け止めれば刀ごと飛ばされ兼ねない。

尾形は二つ僅かな時間差で来る太刀を夫々躱す。後ろに大きく跳躍し、服部と距離を取る事を図るも、その重量でどう遣るとそんな瞬発力が出るのか、着地した時にはすぐ傍まで迫って来ていた。一太刀目は避け切れず二太刀目を受け止め、尾形は己の二太刀目に手を掛ける。一太刀目を終えてすぐの服部のがら空きとなった正面に、抜いたばかりの剣を逆袈裟に斬り込んだ。

斬ッ―――!!

「!」

服部は衝撃で後ろに仰け反るも血は出ない。血が流れたのは尾形の方で、視界が一気に(ひら)けると同時にどくどくと生温い液体が視界の中に入っていくのが判った。

「・・・・・・」

・・・・・・尾形が眼を大きく開いて、剣を握った侭指を血の源流へ這わせた。左こめかみから額の真中にかけて斜めにぱっくりと割れ、そこから血が溢れ路地まで汚している。雨粒の如く顎からぽたぽたと手に落ちてくる血を、尾形は意外にも子供に返った様な顔で見つめていたが――――・・・軈て、にんまりと愉しげに微笑った。

「―――・・・鎖帷子(くさり)は怯懦の証故、着けぬと聞いていたがな」

「・・・・・・俺だけだ」

と、服部は言った。服部が斬られても血を流さなかったのは、着物の内側に鎖帷子を着込んでいたからであった。

「他の衛士は着けていない。彼等は討死する覚悟で近藤の元へ往った。だが俺は違う。武田観柳斎が御陵衛士(われら)の屯所を嗅ぎ回り、貴殿に視線を送った時に、あの男は貴殿の使いだと俺は疑った。そして俺は心に誓ったのだ。貴殿が御陵衛士を裏切った時、貴殿を討つのは俺の役目だと。俺は、恥を晒してでも貴殿の傾倒する新選組から同志を護ってみせると決めたのだ」

・・・・・・。武田が死んでも猶ここに到る迄自分の足を引っ張ろうとは、流石に尾形も思いも寄らなかっただろう。同時に、服部の意外な執念深さに辟易しているに違い無い。

「―――何ゆえ私に其程に注目する」

尾形は当然の疑問を口にした。

「―――その様子なれば甲子さんの遺骸を見て来たのであろう。・・・君は戦いを途中で抜けて甲子さんの助勢に奔ったと見受けられる。私を追う余裕が有らば、私なぞを優に超える剣豪を相手にしている篠原さん達の許へ戻ったが、よほど君の決意に適っていると思うが」

「―――阿部と内海の帰営を狙って、奇襲を懸ける気だろう、貴様」

「――――・・・ほう?」

己に流れる血液に気を取られていた尾形が、漸く興味を惹かれた様に服部 武雄を直視した。その表情は愉悦に浸っている。

阿部 十郎と内海 次郎は、伊東が酒宴の誘いを受けた時点で出張に出ており、今夜晩くに帰営予定だった。詰り、伊東が襲われた事も御陵衛士が危機的状況に置かれている事も、尾形の裏切さえ、彼等は知らない。

「其に、同流と知ったからには俺がこの手で片を付けねばなるまい」

尾形は先程以上の血を流しながら、今回は手当てをしなかった。両手が塞がって布を裂く手が無かったのだ。両手は剣を握っている。片方の剣でも鞘に納めるそぶりを見せようものなら斬られ兼ねぬ程に、両者の空気は緊迫していた。

「―――同流?私の剣は我流だが」

恍けた様に聞き返しつつも、尾形の口角は上がっていた。先程からずっと哂っている。まるで、次々と発かれてゆくのを愉しんでいるかの様に。

「―――・・・ずっと不思議だったのです、尾形先生。貴方は剣を揮わないのに、貴方の剣に対する見立ては誰よりも真を射ていた。(こと)、新井 忠雄先生ですら看切る事が出来なかった二刀の動きを貴方は実にあっさり看切った。実戦(さきほど)も、平隊士や島田 魁では出来なかった返しを貴方はした。―――之を同流と謂わず何と謂おうか!」

―――服部は二刀を構え、ざざっ!と砂を巻き上げて奔る。尾形も二刀を構えた。服部にとって、その構えには憶えがある。

「貴方はどこまでも爪を隠す。その構えは我が流派のものだ。貴方は―――二刀流の使い手か」

「―――私の郷里を知っているかね、服部(とり)さん」

尾形は最早避ける事をせず、正面から服部の剣が来るのを俟った。乾いた空気に風が起き、砂埃と血の玉が宙に舞う。

「我が(くに)に二刀流なぞ珍しくもない。他の流派(けん)と同様に、藩を()る際に幾つか技を偸んできただけの事よ。尤も」

ずぅ・と尾形は摺り足で一歩進んだ。たんっ・と逆の足を強く踏み込む。服部自身も馴染の薄い独特の調子の動きだ。併し服部の出身でない肥後では200年以上に亘ってこの動きが伝統として伝えられている。

―――まるで能の様な教養ある幽玄な動きで、よほど身体に染み込んでいなければ即座にこの動きは出ない。

「・・・・・・()が流派は私の体格(からだ)には合わぬ故、出来る事ならば使いたくなかったがな」

尾形は踏み出した次の三歩目で剣を二本手にした侭身を躍らせた。服部の刀の一刀を受け止め、もう一刀を勢いも利用して撥ねつけると、脇の付近を目掛けて突く。鎖帷子を着けていても打撃は其形に肉体にも響く。服部が怯んだ隙に受け止めた方の刀も払い、本命の頸を狙う。

ザシュ!

「・・・・・・!」

ざんっ!

―――服部の頸から血が噴き、尾形の着物の腹が裂ける。尾形も服部と同様に鎖帷子を着けていた。併し服部の力は並みでなく、刀で防いだにも拘らず遠く迄飛んだ。ずる・・・と刀を支えにして立ち上がる。

「・・・・・・なれど、仕方あるまい」

肩の付け根と頸を押えて立ちすくむ服部と、額の血が視界を邪魔しながら漸く立ち上がる尾形。尾形は、暗闇では気づかれぬ本の僅か身体が揺らいだ。恐らく血の流しすぎだろう。其でも何処と無く愉しそうにしている。

「―――良かろう。冥土への道を同流の者と共に歩むのも悪くはない」

・・・・・・尾形 俊太郎。肥後脱藩浪士である事以外の一切が謎に包まれていた男。だが彼は新選組幹部でも数少ない、格式高い家柄と確かな教育を受けて育った生粋の武士であった。・・・只、武士でない者達が武士となるのを支えんが為に、己の武士としての一切を捨てた点が彼を闇と謎の渾沌に落し込んだだけで。

「・・・・・・道連れに、付き合ってくれるな、同流よ」

―――あれ程明るく光を放っていた月が、雲の翳りを帯びている。




藤堂は静かに目を閉じた。拳がゆるゆると解けてゆき、だらんと手が垂れて指先が原田の手首に擦れる。・・・之から眠りに就く様に、原田の胸板に自身の頭を預ける。

「ーーーー・・・」

原田と永倉は、両側から藤堂を抱しめる。藤堂はもう苦しいとは言わなかった。原田と永倉の腕に擁かれて眠るその表情は、心地好い夢を見ているかの様に安らかだった。

・・・山崎は何の言葉も掛ける事が出来ず、三人の後ろに立ち尽していた。


「・・・・・・」

藤堂との別離をこの男は果さなかったものの、彼の旅立ちを確と見届けていた。・・・同時に、自分の内側でも何かが事切れるのをこの男は感じた。

「あ!沖田先生!」

この男を捜して不動堂村一帯を奔り回っていた佐倉が、漸く十字の曲り角で壁を背に立つ男を見つける。この男自身、藤堂の最期を見守ろうと彷徨い歩いて辿り着いた様であった。

「勝手な外出は慎んでください!今夜はこの地帯は危険ですし、寒さも身体に障ります!いい加減、御自分が病人だって自覚を持って貰わなければ困ります!」

日頃の当てつけと一緒ではなく本当に体調が危うい状態なのだと佐倉は伝えるのだが、沖田 総司は何の反応も示さない。

「・・・沖田先生?」

いつも見せる「あ、佐倉さん」という穏かな笑顔も、時折見せる様になった鬱陶しそうな表情も今夜は無視した様に向けない。立った侭身動き一つしない沖田に、佐倉は其処は()と無い不安を感じた。

「沖田先生?大丈夫ですか沖田先生!?」

佐倉が切羽詰って沖田に声を掛ける。併し沖田は佐倉の呼び掛けに応える事の無い侭、佐倉が肩に触れた瞬間、崩れる様に倒れた。

どさり・・・

「沖田先生!!」

「!?」

―――佐倉の裂ける様な声は、角を曲った先に居る山崎の処まで響き亘った。

「何ぞあってんか!?」

山崎が即座に特定して佐倉達の元へ駆けつける。着物に点々と血を滲ませて倒れている沖田が視界に飛び込んできて、佐倉のみならず山崎も初めは気が動転した。

「まさか・・・襲われてん!?」

「気づいたら屯所を出て行かれていて、此処に立っておられたところを見つけたんです。声を掛けたら倒れられて・・・!」

藤堂先生の顔を見に病を押して来たんか、と山崎はすぐ理解した。藤堂の死を心の何処かで予感していたのだろう。沖田はそういうところがある。剣客の勘が鋭いのが仇となった。

「担架や、佐倉はん。あと、先生を運ぶ応援を屯所から連れてきぃ!」

山崎が触診を始めながら、早くも佐倉に指示をする。眼には冷静が戻っていた。山崎の視線を受け、佐倉も徐々に落ち着きを取り戻す。

「は、はい!」

佐倉が急いで来た道を引き返す。その後ろ姿に向かって

「安心しぃ、傷はついとらん。あったかい処に寝かして薬を飲んで貰えば、屹度良くなる」

山崎が現時点で判る事を佐倉に伝えてくれる。佐倉はほっと頬を弛める。安心を与えて貰った為か、涙が目尻に浮び上がった。

山崎が来てくれた御蔭で、自分は余計な感情(にもつ)を背負い込まずに適切な行動を起す事が出来る。凡ての事情を知ってくれている様な気がして、佐倉は気の休まる思いがした。




―――剣先が己の方に向き、袴の布地が切れる。もう一方の刀に力を入れて距離を開こうとするも、動くのは相手の巨体ではなく己の足だ。

ばっ!

急激に一歩退いて無理矢理に距離を離す。服部が慣性で前のめりに傾き、尾形は後ろに大きく倒れる。服部の刃と離れた刀の内一本を背後の地面に突き刺し、之以上背中が落ちるのを防いだ。突き刺した方の刀から手を放し、もう一方の刀を左から右に持ち替える。鎖帷子を着けた服部の肩口を深く斬り込み、服部の肩からは血が滲んだ。

「―――ぬおおおっ!!」

併し腕はまだ生きている。尾形は右で斬るなり素早く身を退いた。そして地面に刺しっ放しの剣を逆手で抜き、左側面から来る服部の刀を其の侭受け止める。併し服部の凄まじい力に剣先は再び己の方を向き、自身の腰にも剣が吸い込まれ始める。

ず・・・ずず・・・・

ここで尾形はたんっ・と足を踏み込んで服部の懐に入り込む。ザクリと刀が断つ音が尾形の腰の辺りから聞えた。左の刀が向きを変え服部の頬を深く裂いた。踏み込んだ足と逆の足が服部の腹を蹴り、両者は二刀を手にした侭身体を仰け反らせて後ろへ下がった。

「――――・・・・っ」

尾形は敵に覚られぬ程度によろめきながら立ち上がる。併し、息は確実に上がっている。腕もいつしか痙攣を起していた。

第一、体格差は圧倒的なのに身に着けている物は服部と然程変らないのである。如何に片手剣法で操れると謂えど、一本持つのと二本持つのとでは身体にかかる負担が違う。之は尾形自身が言った様に、体格に恵まれている同流の服部を前にしては二刀流など彼にとって不利の方向にしか動かない。其でも二刀目に頼ったのは、窮地に陥った時に漸く見せた尾形の唯一のクセだと謂えるだろう。

加え、尾形の方はいつまでも額の血が止らず視界が翳み始めているのに対し、服部には未だ急所一つ命中させ切れずにいる。

「・・・・・・」

・・・尾形は身体を固定させた侭、頻りに黒眼を左右に動かした。巨体の動きを見失ったのである。月が雲に蔽われて姿が視えなくなったと謂うよりも、眩暈に因って動きを捉えづらくなっている様だった。

「尾形 俊太郎!」

「――――」

尾形は剣を振り被る。その動きは先程と比べると遅い。そんな己を自覚している様で、尾形はこんな時でも嘲笑する様に口角を上げていた。

「伊東先生の仇として、貴殿の首、貰い受ける!!」

「――――――させるかあああっ!!」

ドオオオォッ!! 島田 魁が服部の背後に飛び懸り、バッサリと背中に一筋入れる。愕いた服部は咄嗟に振り返り、尾形に浴びせようとしていた一太刀を島田に向ける。島田はその巨漢からは意外とも謂える俊敏さで服部の太刀を避ける。尾形は服部の剣が届かぬ処に着地し、片方の剣を鞘に仕舞った。

「―――魁さん」

「無事か!?俊!」

島田が尾形の安否を気遣いながら服部と刃を交える。尾形は殺気を明かにして服部の背後を狙った。無論、別々の生き物の様に二刀を駆使する服部は、振り返り尾形の左から来る剣をも止める。

「―――無事だ」

尾形が門柱の前に着地し、島田と隣同士に並んだ。血を流している額の傷どころか着物のあちこちがみすぼらしく破れ、髪形まで愉快な具合に変っているのに澄まし顔をしている尾形を見て、島田は思わず

「・・・・・・いや、無理すんな?」

と憐れむ様に言った。尾形がじとっとした眼で島田を睨む。

「・・・この感じだと、天満屋にはまだ行ってなさそうだな」

・・・鉢金も巻かず、装束もまだ酒宴の前に会った時と相違無いのを確認して、島田は勝手に納得する。

「・・・・・・この御仁が、私に用が有るらしく」

尾形は要領を得ない声色で服部 武雄の事を言う。服部が自分に執着する理由が心底理解できないらしい。

「・・・・・・うん。お前は鬼だよ、俊」

「は?」

島田は若干と言わずドン引きした視線で尾形を見た。・・・尤も、だからこそ武田が切っ掛けとなって生れた自身に対する服部の疑念を払拭する事が出来ず、自身が狙われる結果になったのだろうが。

「甲子さんの事なら仕方あるまい。・・・其を追及するならばぶつかり合いの喧嘩なぞ出来ぬ。町人やら百姓に鞍替えした方が人を大切に出来るというものだ」

・・・半ば服部に聴こえる様に言った。服部はギリッと歯を食い縛る。島田はどちらの気持ちも理解でき、眉を寄せた。否、双方共に互いの意見を理解してはいる。だからこそ尾形の方は、之でも教え諭す様に言っているのだ。

だが服部の心境としては、伊東の事だけではないのだろうと島田は想う。

伊東を殺された事は勿論だろうが、殺したのが尾形であるという事実が服部にとって望んでいない現実であったに違い無い。加納の様に疑い深いだけの人間であったなら、始めから篠原達に同行せずに尾形を殺しに行けば良かったのだ。確証を得るまで尾形に伊東を任せたのは、まだ服部の中に信じていたい部分があったからかも知れない。忠義深い服部にとって、入隊して最初に手解きをしてくれた尾形が新選組時代の師匠である事はずっと変らないのだから。

併し、尾形がその絆された心を知るなど、終ぞ無い。あったとしても、潔癖すぎる程に一本筋の徹ったこの男がそんな“絆”を受け容れる筈も無かった。

「・・・だから、此処は私が相手をする。魁さんは阿部さんと次郎さんを―――「馬鹿言うな!」

島田が怒鳴りつけ、尾形は度し難さを露わにする。昔から尾形と島田は仕事に関しては相性が悪かった。人間を、自分自身をさえ任務の一環に組み込んで考える尾形と常に父親の様な鷹揚さで仕事に私情を持ち込む島田は偶々意見が同じになってもそこに到る経緯が真反対な位反りが合わない。互いに、一言えば八察して十遣ってくれる山崎の方が仕事相手としてはいいと常々思っている。因みに八十八、お前は論外だ。

「・・・・・・この事態に。強がりなのではなく効率を求めて言っているのだが」

「その傷で効率もへったくれも無い事はお前が一番解っているだろうが!何でも自分だけで片をつけようとするな!」

偶の奇跡で仕事が一緒になるとこの不毛な会話から共同戦線の幕が開ける。一度任務を共にしてからは尾形が其形に空気を読んでこうなる事を極力避けていたものの、久々の共同戦線で忘れていたのか其ともそこ迄考える余裕は残っていないのか、不毛な会話に突入してから尾形は後悔の気色を見せた。

「・・・・・・助勤の指示を利かぬ伍長は貴方くらいだ。新八さんに言って鍛えて貰わねば」

「親父の言う事を利かない息子もお前くらいのものだな。局長に注意して貰わんと」

尾形が早々に折れる。年長者に意見を譲るというよりはこっちは勝手に遣るからそっちも勝手に遣ればいいという感じであった。ん~さすが肥後もっこす。

「阿部と内海の処へは往かせん!!」

服部が一刀両断し、二人の間を切り裂く。両腕を広げ、二人を同時に相手取る姿勢を見せる。尾形が血を飛ばしながらも剣を受け止め服部と剣戟を繰り広げる。続いて島田が服部の懐に入り込む。併し、一方を相手しているにも拘らず服部の腕力は全く分散されておらず、斬り込む前に島田の剣はもう一方の剣に拠って弾かれる。

「ぬう・・・・・・っ!?」

「―――右と左は別の生き物と考えて頂いたが相違無い。私の存在は気にせず、大の大人を一人で相手している感覚で戦う事だ」

尾形が服部の左手の剣を受け止めながら島田にアドバイスする。自分の方に注意を向けながらもきちんと応戦できている尾形を、口を開けた侭阿呆面で見ていると

「―――来ているぞ」

「ぬお!!」

島田は間抜な声を上げて間一髪で受け止める。尾形が視界に入ると如何も自分の方だけに集中できない。とは謂え、島田の怪力は尾形に斬られた肩に可也響いたらしく、ぐ・・・!と服部はくぐもった声を上げた。

島田がその隙を衝いて服部の刀を払い除け、斬ッ!!と服部を鎖帷子ごと袈裟斬りにした。

「――――ッ!!」

―――遂に、胸への一太刀が服部の口から血を吐き出させる。

併し。

「ぬん!!」

―――服部の刃はどちらともまだ生きている。払った刃は雨となり、島田の頭上に容赦無く降り注ぐ。島田は直前に気づいて避けるも刀を握る側の二の腕の肉を削がれる。思わず刀を手放しそうになるも、何か悔しいのでぐっと握り直し、腹に向かって突き刺して遣る。

「・・・・・・!」

痛みの余りに服部が思わず反っくり返る。どや・・・と島田が妙に自慢げな顔をして剣を引き抜く。さっきからこの人は何服部に対抗しようとしているのだ。

併し、この強靭な肉体を持つ男から剣を抜くのも叉一仕事で、抜き切る前に更なる衝撃が島田を襲った。素早く元の位置に戻っていた服部の刀が島田の刀を叩き折ったのである。打撃が両肩に響き、更に左手側から剣が薙がれて来る。尾形の胸倉が切れ、黒い珠が内側から艶を放つ。

「・・・・・・うおっ?」

折れた刀の柄を握った侭島田は退くも勢いがつきすぎ、左斜め後ろで息を切らす尾形を捲き込む。服部から5間ほど離れた路上に二人揃って吹っ飛んだ。

どさっ!

「・・・・・・っ」

・・・・・・悶絶する二人。何この展開。島田が参戦してから何だか事の運びがおかしいのだけれど。いやでも、着実に相手は深手を負ってはいるのだが。

「・・・・・・貴方は私の邪魔をしに来たのか・・・・・・つくづく合わぬ」

「いやぁすまん」

尾形の声が遂に怒気を含む。調子を狂わされていると感じていたのは作者だけではない様だ。流石そこは凸凹要員である。

「ぐ・・・・・・!」

服部が島田の刀を腹にぶら下げた侭此方へ向かって来る。島田が脇差を抜こうとするも、尾形が前に出て剣を受け止める。島田は利き手に深手を負っているのだ。併しまさかまさかで尾形の刀も折れる。

「!」

相手が再び大きく振り被ったその間を縫って尾形が二刀目を抜く。

―――尾形が刀を抜いた時、胸倉からキラリと黒光りする珠の輪が滑り下りた。暗闇でも輝きを失う事の無い其が数珠である事に気づいた刹那、服部は刀を振り上げた姿勢の侭、雷に打たれた様に動かなくなる。

「・・・・・・尾形先生―――・・・」

ズザッ!!

「――――・・・」

―――島田と尾形は眼を見開いて、次の瞬間には絶命していた服部を見つめた。服部の首の中央から槍が伸び、すぐに縮んで穴が開いたと思うと通潤橋の放水の如く其処から血が噴き出した。服部の躯は二刀を振り上げた仁王立ちの侭暫く倒れず、血の尽きる迄ずっと立ちっ放しであった。まるで、弁慶の最期の様であった。

「・・・・・・」

・・・・・・尾形は虚ろな眼で、服部が段々と人の色を失ってゆくのを見ていた。零れ落ちた黒い数珠を、乱暴に自身の胸倉に押し込んで。

「・・・・・・左之助・・・・・・」

―――雲が月を通過して、一層銀の耀きを増す。

月明りに照らされた原田の顔は白銀の光を受けて白く、乾いていた。涙の乾いた痕がくっきりと見える。原田の槍が服部の首を刺し貫き、死に至らしめたのであった。

「・・・・・・大丈夫か、おがっち、力さん」

・・・・・・原田の声は、日頃の彼からは想像できない程に低かった。島田は言葉を失う。今迄同じ三人組として時に張り合い、時に一緒に馬鹿を遣った片割れである三馬鹿の中で、何かが弾けたのを感じたからであった。

尾形は立ち上がり、立往生を続ける服部の横を通り過ぎる。透かさず島田が尾形について行き、其と無く支えると共に若しや動くやも知れぬ服部から彼を護った。

・・・・・・併し、服部は軈て、力尽き斃れる。

崩れ落ちる服部を背にして、尾形は振り返る事無く前に進んだ。懐の中の数珠を握り締めた侭。

原田と向かい合う。

原田の背後には、監察の大石・岸島がいた。

「―――大事無い」

「・・・・・・良かった」

そう返す原田の声には、その言葉が含む安堵や嬉しさが感じられない。声も乾き、持つ槍と同じ直立不動の姿はまるで抜殻の様だった。

「・・・・・・済まなかった」

尾形は湿り気を帯びた声で言った。彼がこの声で話す夜はいつも、空に円い銀色の月が浮んでいる。

「謝るなよ・・・おがっち・・・・・・仲間だろ・・・・・・」

原田は途切れ途切れに言った。槍を持つ手は震えている。自身の所為でこの男が真の同志(とも)との最期の別離(わかれ)を存分に出来なかった事を、尾形は理解しているのだろう。併し、如何して原田がその道を選んだのかは解らないに違い無い。

「―――・・・何故」

尾形は掠れた声で問うた。この男にしては珍しく、答えを知る事を恐れている様な声であった。知ったところで如何なる訳でもない、只雁字搦めにされるだけだ。

今回の油小路にしても、絆が招いた抗争であり、同門の絆さえ無ければこの様な後味の悪い結末にはならなかった。其だけで無く

・・・山南 敬助の切腹さえも免れたかも知れないのに

「はは・・・何言ってんだよ、おがっち・・・・・・」

―――乾いた地面に、ぽとりと一滴、きらりと光る透明な粒が落ちた。

「・・・・・・凸凹三人組には、三馬鹿(オレたち)の様にはなって欲しくなかったんだ・・・・・・」

――――・・・。静かな涙を流して笑う原田の気丈な顔を、尾形は曇った表情で見ていた。尾形のみならず文久3年5月の入隊者は常に試衛館出身者と一定の距離を保ち、試衛館派と芹沢派、試衛館派と長州間者、試衛館派と伊東派の、夫々の対立を客観的に見てきた。内部抗争が勃発する度に彼等はどちらに与するか選択を迫られ、結果、当時助勤に抜擢された尾形と山崎、永倉と親しい島田と奇跡の強運の持主八十八を除いて同期は皆殺された。

新選組を怨んでなぞいない。只、彼等は自分以上の価値をもつものなど山程存在する事、与せねば自分の存在が消える事、併し存在が大きくなりすぎると―――・・・失った時、道連れに消えなくていいもの迄消えて仕舞う事を、試衛館派以上に感覚で知っていた。

「・・・・・・・・・」

尾形には、伊東を任される迄服部に慕われる覚えも、藤堂との別離を中断されて迄原田に援けられる謂れも無い筈だった。依って絆も無い筈だった。絆という名の(しがらみ)が他人事では無くなっている事に、尾形は、そして恐らく山崎も気づき、若干の後悔を始めている。

「篠原 泰之進と富山 弥兵衛、加納 鷲雄を取り逃しました」

服部が一撃で仕留められなかった時に一斉に斬り懸る為の増援部隊がぞろぞろと正面通や花屋町通から現れ、死体を回収する。

尾形は岸島の報告に脳内で更に阿部 十郎と内海 次郎を足しながら

「・・・・・・其で、局長副長は何と」

と、月光の所為か少し蒼白い顔をして訊いた。

「撤収と」

「ふむ」

尾形は身を反し、バサリと羽織の翻る音を立てて花屋町通の方面に消える。袖や正面をずたずたに裂かれた羽織だが、背には皴一つついていない。

「お、おい、おがっち何処に行くんだよ!」

原田が目尻に溜めた涙を消化し切れぬ侭尾形を追おうとする。其方は不動堂村屯所と逆方向だ。目尻に溜った涙の粒が空中に散る。

―――島田が原田の前に立ち塞がり、動きを止める。

「ちょ―――、何でだよ力さん!?「(いとま)を貰う」

―――!?原田の腕の力が急激に抜ける。槍が持主の手を離れ、砂利の中に埋った。島田が原田の肩を掴み、強く左右に己の首を振る。

「・・・・・・おがっちまで、いなくなるのか」

「局長副長に言えばわかる。何なら後で、其処の魁さんに訊いて貰えればよい」

・・・尾形の姿はもう視えなかった。最後の方は声か風の音なのかの区別もつかない。


「・・・・・・」

尾形が角を右へと曲り、懐から黒い数珠を出した。数珠玉と同じ程暗い眼に其を近づけ、ぼんやりと珠の色を見る。

「―――胸躍りましたでしょ?」

――――・・・。尾形が角を曲ってすぐの処で胡坐を掻いて石塀に寄り掛る大石 鍬次郎をちらと見下ろした。大石、この男も神出鬼没だ。

「・・・もっと素直に愉しんでいいんじゃないですか」

・・・大石がにたりと酷薄な笑みを浮べた。この男の笑みはいつも、身の毛が弥立つ程に不気味だ。そして・・・其は尾形の笑みと似ている。

「・・・君が反面教師となって、私は君の様にならずに済んでいる」

尾形は嘲る様に言うと、懐に数珠を仕舞い、夜の彼方に消える。大石の眼から見ても尾形という男は、よくよく正体の判らぬ男だ。

・・・フン、と大石は鼻で嗤うと、油小路の方へ歩いて往った。



―――斯くして、油小路事件は終結を迎えた。



芹沢派と同じ暗殺事件でも、今回はまるで遅効性の毒を塗られたかの様に新選組内部はじわじわと侵されて往った。藤堂の死に、沖田の病状の悪化。新選組の軸と謂える試衛館派隊士に次々と襲い懸る悲劇に、幹部は嘗て無い程に大きく揺らいだ。永倉と原田の纏う雰囲気が先ず変り、山崎も極力沖田や佐倉と一緒に居る様になった。・・・まるで、何かを予感しているかの様に。

その両方に精神を蝕まれ、誰よりも己を責め苛んでいるのは土方である事を知るのは井上 源三郎くらいしかいない。彼も叉、可愛がっていた弟分達が倒れ、其に伴なって離れてゆく同志の心に焦燥しない訳にはいかなかった。以前と全く空気が変らないのは、貌が以前と全く違い、名前さえも変っている山口 二郎くらいのものであった。


其でも新選組の舵取りを止める訳にはいかない土方は、師走に入って更に組織編制を改変した。

副長助勤には正式に山口を入れ込み、幹部は之で6名となった。山崎を除いて、全員が試衛館出身である。

―――助勤名簿に尾形の名は無かった。

結局この年、尾形が新選組屯所へ戻る事は無かったが、彼の行方はその事後処理や混乱に追い立てられて有耶無耶に掻き消えた。

原田は近藤や土方に訊ねる心算であったが、いざ日常に戻って藤堂の死に直面すると、その様な心の余裕はとても持てなかった。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

・・・・・・島田と八十八は特に尾形の話題に触れる事も無く、通常通りに汁粉を食べて各々の隊務に戻って往った。その様子はいつもと変り無く、之ぞ凸凹と謂えるものであったが、同志がいなくなって猶その態度が変らないのは少し異様でもあった。


併し油小路事件は新選組崩壊の序章に過ぎなかった。彼等は更なる時代の荒波に呑まれてゆく。

尾形がいない間に薩摩藩が中心となって王政復古の大号令を宣言、新選組が新選組でなくなる日が遣って来る。

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