夢路彷徨
私は、その時駅のホームに向かおうとしている所だった。私が行きたい場所に向かうための路線はいくつかあったものの、その中で一番確実に空いていそうなものを選ぶ。
そのホームはなぜか、地上からかなり高い場所にあった。ホームに出るまでに、かなりの距離をエスカレーターで昇っていった。そのエスカレーターは不可思議なことに、普段駅では見かけることのない、段差のないゆるやかなものだった。
やっとのことでホームに出ると、わたしはそのエスカレーターの裏側の部分に行こうとした。普段から電車を待つ時は、人の比較的少ない階段の裏側にいることにしているので。
だが、そこは……そのホームの幅はやたら細かった。そう、三〇センチくらいしかなかったのだ。そして、とにかく高い。
うっかり下を見てしまった私は、おののいた。遥か先に地面がある。ここから落ちたら、命の危険がある、そのくらいには高かった。
今になってよく考えたら、それはとにかくおかしな現象だった。そこには電車が入ってくるはずなのだ。そんなに高いのはおかしいし、高いなら高いなりに電車のレールも高く設定されてなくてはいけなかった。まあ、その時にはなにもおかしなことはとして考えなかったのだけれど。
私は、その細くて高いホームの中、恐怖に震えていた。いつ落ちるとも知れなかったので。
折から、かなり強めの風が吹いていて、私の体をふらつかせた。
このままでは落ちる、とそう思い至った私は、そこからなんとかして移動すべきだと考えた。
普通に考えて、ここは元来た所に戻るのが良いだろう。しかし、私はそうしなかった。何故かは知らないが。
細いホームの上をふらつきながら、そして何故か張り巡らされていた頼りない黄色いロープと、がたがたするので余計恐怖をそそられるポールに時折つかまりながら、私はそのホームの端までたどり着いた。
そこまでは、エスカレーターで横に移動した距離よりは短かった気がする、とだけ言っておこう。理由は聞いてはいけない。そういうものだから。
端は、その高いホームを支えるためか、かなり太い柱と足場が組まれていた。私はとにかく地面の面積が大きくて安心できる所に行きたかったので、柱の周りにある柵を乗り越えて足場まで向かうことにした。
常識で考えたらありえない決断だが、その時はとにかくそれが「正しいこと」のように思えたのだ。
丁度その時、私はグレイのプリーツスカートに、ヒールの高めなブーツという、そういった探索におよそふさわしいとはいえない服装だったのだが、なりふり構ってはいられなかった。
足場に昇る際に、つい下を見てしまってついでに目に入った自分のブーツのヒールに、そういえばこんな靴だったと肝が冷えたのはまた別の話にしておきたい。
やっとのことで足場までたどり着き、一息ついた時のことであった。私は逆に困っていた。
――ここまで来たのはいいものの、これからどうすべきか。
そこまで思い至ったからである。
電車が到着したとして、ここから乗れるわけがない。だとすれば、私は一度この足場から降りて、あのホームを怖い思いをしながら戻らなくてはならない。
ここまで考えて、私はようやく自分が馬鹿なことをしたのだと認めるに至った。しかし、戻らなくてはいけないのだとしても、今すぐにはあんな怖い所には行きたくはない。そう思ってたじろいでいた時である。
「ちょっと、何をやっているの!」
そう、叫ぶ声が聞こえた。下の方からである。
「危ないでしょう!降りてきなさい!ねえ、聞いてる?」
私が下を向くと、こちらの方を向いて叫んでいる一人の女性がいた。年は三十代後半ぐらいの人で、ピンクのセーターを着て、買い物帰りなのだろう、手には袋を提げていた。
私が反応したことに気付いた彼女は、更に叫んだ。
「そこは、入っちゃいけないのよ!早く戻りなさい!」
私は、その彼女の言葉に反することはできなかったし、反論できる根拠もなかったので、こう叫び返した。
「ごめんなさい!すぐに戻ります!本当にごめんなさい!」
私は真実、彼女に対して申しわけなく思っていたのだ。少しだけ、口うるさい女性に対して反発しながらも、私が戻るきっかけを与えてくれたことには深く感謝していた。
そうして、そろそろと戻るために動き出した時である。彼女がまた、何事か言うのが聞こえた。
「あら?ねえ、あなた!あなたのじゃない?そこの、そう、それよ!」
彼女の言葉は指示語が多くてわかりにくかったものの、何かを指していることだけはわかった。
辺りを見回してみると、足場のある柵のもとに、ウォレットチェーンのついた、薄汚れたクマの財布が落ちていた。
彼女がそれを、私が落としたものではないかと疑うのは無理もなかった。なぜって、そこは基本的には立ち入り禁止の場所で、そんな所に物を落とすような人物はなかなかいそうになかったから。
なおかつ、普通にそこに出入りするような業者の人は、こんなクマの財布を持ち歩いているようには思わないから。
しかし、その財布は私のものではなかった。だから、私は彼女の叫び返そうとした。違います、と。
だがそれよりも早く、再び彼女の声が響いた。
「あらあなた、何をやっているの!それは、そこの女の子のじゃないの?よしなさい!」
え、と思ってみると、そこでは一人の男性がそのクマの財布を拾おうとしている所だった。
どうやら彼女は、その財布が私のもので、彼がそれを取ろうとしているように思ったようだった。私は彼女に叫び返す。
「違います!私のじゃありません!」
彼女は訝しんでいるようだったが、詮索はしなかった。まあ、これほど高低差がある場所で詮索するのもどうかと思ったのかもしれない。
どちらにせよ、私は今、この足場から降りるのに忙しかったので、彼女がそれ以上きゃんきゃん吠えないでいてくれて安心した。気が逸れると、うっかり滑って落ちてしまいそうだったから。
私が昇っていた足場から降りると、財布を拾っていた例の男性が声をかけてきた。
「なんでこんな所にいるんだ、子どもが」
その言い方に少し反発したくなった。私はもう二十歳を過ぎています、と。
しかし、私がしたことはあまり誉められたことではないので、子どもだと思われていた方が都合がいいと思い直し、言いかえすのを止めた。
それに、どうやら六十がらみのように思えるこの人から見れば。充分子どもであることに変わりはない。
私は、少しうつむきながら、正直に話すことにした。
「あの……ホームから落ちてしまいそうで怖くて。だから、足元のしっかりしている所に行きたくて……それで」
それを聞いて、男性は溜め息をついた。そして、私に向かって付いてくるよう、顎をしゃくった。
男性は、そのままホームに向かう。その背中に声をかけた。
「あの……」
「ん、なんだ?」
「ええと、……また、そこのホームを通らなくちゃいけませんか?……。いけませんよね、ごめんなさい」
聞いた後、我ながら馬鹿な質問をしたものだと思う。あわてて打ち消して謝るが、意外なことに男性は微かに首を傾げた後、あるものを指差した。
「怖いのなら、そこのエレベーターに乗ればいい」
「……え?」
指差す先を見てみれば、なるほどそこにはエレベーターが鎮座ましましていた。
――但し、業務用の。
「……いいんですか?」
恐る恐る尋ねた私に、男性は軽く頷いた。
「別にかまわんだろう。乗れ」
「はい!ありがとうございます!」
慌ててぴょこんとお辞儀した私は、素早くそのエレベーターに乗り込んだ。それを見届けて、男性は軽く操作をした後、自分もまたそれに乗り込んだ。
エレベーターを出てすぐに目の前にしたものに、私は驚いた。なんとそのエレベーターの前、すぐに上り坂になっていたのだった。
こんな状況のエレベーターなど私は初めて見た。
驚いていると、男性が早く出るようにと私を促した。
そこから出て見渡してみると、どうやらそこは倉庫らしかった。かなり大きなものらしく、何台ものトラックが出入りしているのが見える。
男性はそのトラックのうちの一台を指差して、「乗れ」と言った。
「え?」
と思わず聞き返した私に、彼は簡単に説明する。
この倉庫は、あの駅の地下にあって、かなり広いものなのだそうだ。そしてその出入り口は、駅自体からはいくらか離れた場所にあるらしい。
そしてこの男性は、駅の入り口まで私を送ってくれるつもりらしい。
知らない男の人の車に乗るというのは、少し私に危機感を抱かせたが、他に仕方もなかったので、私は大人しくそれに乗った。
この男性がどことなく私の祖父に似ているような風貌をしていたのも、その危機感をいくらか軽減させていたようだ。
しかし、その思いも、トラックが動き出した瞬間にどこかに吹き飛んでいった。
男性はいきなり、思いっきりアクセルを踏んだのだ。
「――っっ!」
舌をかみそうだった。
ものすごい勢いで発進したトラックは、そこがまるで無人の荒野であるかのような勢いで驀進した。
私はその衝撃に耐えるのに必死で、何も言えなかった。
男は、そんな私の様子など知らず、軽い調子で声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、行きたいのは西口か東口か、どっちだ?」
どちらでもいい、と正直そう思わないでもなかったが、聞かれたからには答えないわけにはいかない。
「西口……で、お願い……します」
息も絶え絶えにそう言った私だが、男性のその後の反応に心底おののくことになる。
「西口……ね。普段はあんまり回さないんだが……どっちだったか。……こっちか!」
その言葉に慄然とした。このひどい運転の人が、よく知らない道を行ったりしたらどうなることか。
「東口で!東口でいいです!」
そう叫んだが、後の祭りだった。男の口にした言葉は、私をどん底にまでつき落とした。
「んなこと言ったって、嬢ちゃん。もう曲がっちまったぜ、悪いがそこは我慢してくれ」
もう私は口を開く元気すらなくなって、黙り込んだ。フロントガラスから前の景色を見ると余計に恐怖をそそられると、この短い時間で学んだので、うつむきながら、できるだけ安全に早くこの苦行が終わって欲しいと何かに祈った。
その苦行の終わりは、案外早くやって来た。但し、あまり良くない形で。
「――っっ!」
最初に発進した時以上の衝撃をくらって、私はばっと顔をあげた。
「――っっっっ!」
そして、目にした衝撃の光景に、顔をあげなければよかったと心底後悔した。
がりがりと体に響く衝撃は気のせいなどではなく、トラックは物凄い勢いで石段を走り降りていた。
降りた先で、トラックは勢い良く右を向いて旋回する。そしてまた突き進もうとして、その走りを止めた。
「うん?ここの道じゃあ、なかったか?」
人家の正面に衝突しようとしたトラックを寸での所で止めた彼が、のんびりとそう呟いた。
色々と反応したい所はあったが、私にはもうそんな元気は沸いてこなかった。
「待ってろ、嬢ちゃん。ちょっとそこの家のやつに道を聞いてくるから」
そう言って彼はトラックから降りた。
私も残り少ない精気を振り絞って、一緒にトラックから降りた。
「私も……行きます」
既に存在だけで恐怖の対象となってしまったこのトラックの中に、これ以上いたくなかったからである。駅まで近いようならば、このまま歩くことも考えていた。というか是非そうしたかった。
かくかくと笑う膝をなんとか抑え、その民家の戸を叩く彼の後に続く。
だが、……今日私は、とことんついていないらしかった。
戸を叩いて呼び掛けてみたものの、その家から反応は帰ってこなかった。しかし人はいるらしい。なにか喋っているような声がする。
気付いていないのかもしれない、とさらに大きく声をかけてみるが、反応はなかった。
しびれを切らした彼は、ガラリと戸を開けて中に入っていってしまった。それにぎょっとさせられたが、そのままにしておくわけにもいかないので、後について行くことにした。
一応、お邪魔します、と声だけかけて。
中に入ってみた先の部屋には、二人の少女がいた。
紫の長い巻き髪をした、可愛らしい少女と、紫紺のショートボブで、きつい顔立ちの少女だ。
紫の少女はふわふわとしたワンピースを着ていたが、紫紺の少女は黒い、どこかの学校の制服を着ていた。
紫の少女は気だるい目線でソファに寝そべり、紫紺の少女を眺めていた。紫紺の少女の方は紫の彼女には見向きもせずに、ピアノに向かって立ち、鍵盤に指を滑らせながら血走った目で、辺りに散らばる楽譜を睨みつけていた。
「あー、お取り込み中、か?」
彼は言う。流石の彼も、この空間に流れる一種異様な空気に呑まれたようだった。
紫紺の少女は、いきなり闖入してきた彼を恐れた様子もなく、ギンと睨みつけると、
「そうよ、見てわからないの?誰だか知らないけど、邪魔しないで頂戴」
と言い放った。
とりあえずこの人たちから道を聞くのは難しいだろうと判断した私が、別の人に聞こうと彼に言おうとした時だった。
「何か悩んでいるのか?俺でよければ、話を聞くが」
彼がそう言ったのだ。
私はぎょっとした。こんな怪しい侵入者に、そんな事を話す人物がいるわけがないと思い、何か言おうとした。しかし、そんな私を遮るかのように、紫紺の彼女が言った。
「曲が……できないの」
ここで私が、
(え、話しちゃうの?こんな怪しいのに?)
と思ってしまったのは無理もないこととして皆さんに納得して頂けると確信している。だがそれはともかくとして、紫紺の彼女は既に話しを始めてしまっていた。
「私……ここにいるこの子と、あともう一人……男の子とで、グループを組んでいるの。結構有名なのよ。私が演奏して、彼女が踊るの。だけど……」
「曲ができないのか。それは……作れないのか、演奏できないのか、どっちの意味だ?」
「作れないの!いつも作ってくれているのはもう一人なんだけど……できないって言ってどこかに行っちゃったの!それで、私が何とかしなくちゃって……でも、できないの!私じゃ、……無理なの。いくつかそれらしいものはできたんだけど……違うの!こうじゃないの!」
「それは……」
彼は、どんな反応を返して良いものか悩んでいるようだった。
私は、思わず口をはさんでしまう。
「あの……貴女が作った曲というのを、聞かせてもらってもいいですか?ちょっと興味があるので」
彼女は目を瞠った。そして、少しためらった後、頷いた。
「ええ……別に、いいけど。大したもの、じゃ……」
そう言うとピアノに向かって座り、軽く息を整えた後、メロディを弾き始めた。
「これと、後……」
何度か指を止め、五曲ほど違うメロディを奏でる。弾き終わると、彼女は自嘲するように笑った。
「ね、大したことないでしょ。こんなの……」
だが、私の感想は違った。
「そう、ですか……?私は好きですけど……最後に弾いてくれたやつ。綺麗だったのに……」
「え?」
彼女は虚をつかれたような顔をした。呆然とした後、私に問いかける。
「本当に?」
だが、私が返事をする前に答えた人物がいた。紫の髪の彼女だ。
「ええ、私も好きよ」
「……どういうこと?だって貴女、違うって言ったじゃない!」
紫紺の彼女が、紫の少女にくってかかる。それに、紫の少女は気だるげに答えた。
「このグループの曲としては合わないとは言ったけど。それ、貴女に似合ってていいと思うわ」
「……」
紫の彼女の言葉に、紫紺の少女は黙り込んだ。だが、どこかふっきれたかのような様子が、明るくなった表情からわかった。
私の隣にいた彼は、どこか満足そうな顔をして頷いた。うまくまとまった、とそう私も思った。
その瞬間。
――台風が、やって来た。
「やあやあやあやあ、諸君!この僕様のお帰りだ!聞け、そして慄くがいい!我らが楽士と踊り子君、曲が、出来たぞお!」
そう叫びながら、部屋に躍り込んできたのは、金の髪がきらきらと眩しい美少年だった。……いろいろと残念な感じの。
彼は手にしていた楽譜をピアノの前に叩きつけると、高らかに笑いだした。
私と彼はこの事態について行けずに、ただ沈黙するしかなかった。
だが彼女たちは違ったようだった。紫の彼女は先程の気だるげな様子が嘘のように少年のもとに走り寄って、楽譜を覗き込んでいるし、紫紺の彼女は早速少年の楽譜とピアノをつき合わせて音を奏で始めた。
完全に取り残された私たちは、どちらからともなく顔を見合わせると、何故か肩を落としてその家を後にしたのだった。