くるくるコーヒー
濃い目の熱いコーヒーに、クリームの入ったピッチャーを傾ける。黒にゆっくりと白が渦を巻き、くるくると定まらない模様を描く。
ここは雰囲気が良くて味も良い、人気のあるレストラン。随分と前に遥か先の予約を入れて、やっと今日この日を迎えた。
もう既に食事を終えて、このコーヒーはアイスと一緒に並んでいる。少しとろけた丸いバニラの山に、カシスの濃い赤が流れた姿はとても綺麗だ。
一口。一緒にすくって口に運ぶと、冷たい甘さと酸味が広がり、とても幸せな気分になれた。だから前は見たくない。
正面の席に座るのは、五年ほど付き合いのある彼。でも、あともう少しで過去形に出来る。
今日は……今日が二人の最後の日。彼とはもうこれで終わり。これを食べ終えたら店を出て、お互いに違う場所へと帰って行くの。
何度も何度も話をして、結局何もまとまらなかった。だから、前から予約を入れてた今日、この店で終わりにしようって。そういう事に決めてたの、二人で。
不思議な事に、それだけは簡単に一致した。そうね、彼もキャンセルなんてもったいないって思ったのかしら?
この店に来たのは二度目。一度目は付き合いだして一年目のクリスマス。彼は少し無理をして、あの日を素晴らしいものにしてくれた。
でも今思えば、あれが二人のピークだったのかもしれない。
柔らかいお肉の煮込まれたビーフシチューは美味しくて、お店自家製のパンも、香ばしくふんわりと甘かった。あの日は綺麗な色の赤ワインを傾けて、綺麗に光る街に出た。
今日の彼は、終始落ち着かない様子だった。美味しい料理にも気はそぞろで、雑談には生返事。勿体ないって心底思うけど、もう何も言いたくない。
そしてやっと今、彼が口を開いた。
「……なあ、前にここ来た時どうだった?」
あの時はまだ、お互いに学生だった。でも今日の私たちは仕事帰りの待ち合わせ。彼のスーツ姿も、既に板に付いている。それだけの時間が過ぎたのだ。
「もちろん幸せだったわよ」
回るコーヒーの模様を見つめたまま、私は答える。
「じゃあ、あの時みたいに……」
「ないない、無理でしょ?」
「だから、俺が悪かったって」
「だって、あなたは私じゃ足りなかったんでしょ? でも私には……手に余るのよ」
最初に写真を見つけたのは、三年目に入る頃だった。隣りの女は誰なのか、気になって気になって眠れなかった。食欲も落ちて、体調はガタガタで。とうとうさりげなさを装って、尋ねてみたら……平謝りされた。
それからしばらく経って二枚目、それも結局許してしまった。そして今回は四枚目。
もう怒るだとか、泣くだとか、そういうのが面倒になっているのに気付いてしまった。この人はこういう人なのだ。だからもう、それでいいかなって。
だけど、ただ一つだけ疑問に思う。どうして彼はいつも、分かり易い証拠を残してきたのだろう?
「五年間。私はつまずいたような気がするけど、おかげで良い勉強にはなりました」
私はスプーンを置き、彼に向かって頭を下げた。そして彼は、言葉にならない声をもらす。そしてまた言葉を失った。
彼がこの後何を言おうとして、今日この時間をどう運ぶつもりでいたのかは、分からなかった事にしておく。知るつもりなんて全然ないから。
アイスを綺麗に食べ終えて、次のスプーンに持ち替える。手にした銀色は、照明の光を浴びてキラキラと光り美しかった。それをそっとコーヒーの中に入れ、くるくるとかき回す。
そして私は、ようやくきちんと彼を見た。
悲劇をきどる主人公はかくあるべし? 彼はそんな顔でアイスにスプーンを刺している。相変わらずね……だから。
言いたい事は言った。料理も美味しかった。だからもういい。
コーヒーとクリーム、二つが混ざると新しい色が出来上がる。味も変わる。おまけに香りが良くて、嗅ぐとほんのり嬉しくなる。私はたぶん、そんな事に憧れている。
コーヒーのカップを傾け、口に含むと優しい味がした。ほら……私はきっとこうなりたいのだ。
私は鞄から封筒を出し、テーブルの上へと置いた。
「じゃあ、ここにお金置くわね」
あらかじめ用意しておいた私の分の料金だ。もう私たちの間には、おごったりおごられたりの、そんな関係は存在しない。しちゃいけない。
「あ、うん」
「じゃあね、バイバイ」
「……ああ」
席を立って、軽く手を振って、私は一歩踏み出した。最後に見た彼の目は、たぶん縋るような色だった。けれど、彼の言葉はそれだけだ。
ありがとう、何も言わないでいてくれて。
分厚い木の扉を引いて店の外に出た。外気はひやりとし、私は思わず身を震わせた。お店の中はとても暖かかったから。
外は店に入る前と、そう変わったところなんてない。車の行過ぎる音や、人々の話す声、そして街の明かりは相変わらずだ。けれど今の私には、その全てが違うような気がしていた。
、私は、これから新しい自分になる。私の通ってきた時間を踏み台にして、次の色へと変わるのだ。そして、もっともっと良い女になってやる。
一人で歩く街の夜、私は小さなガッツポーズで、自分にそう誓うのだった。