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捌【8月10日・午前11時24分】


「あっち……」


 かんかんと照り出した太陽がのせいで、アスファルトが焼け、その熱気で上からも下からも感じられるほど、異常な暑さだった。

 僕はもう少し薄着で来ればよかったかもしれないと思いながら、首元のボタンをひとつ外し、出切るだけ暑さから逃れようしていた。

 街往くサラリーマンを見て、心底ご苦労様と云いたくなる。

 僕も気休めとはいえスーツを着ていたからだった。


 昨夜、電話先の女性から“採用されたら即泊り込みになるかもしれない”と云われていたため、簡単に見繕っていれたスポーツバックを持って、榊山付近の麓へのバスに乗り、漸く生きた心地をしていた。


 僕はこれからひとつの確認をしにいく。

 僕の目は幼い頃、工事現場でふざけて遊んだ結果、角膜を潰してしまい、失明していた。

 だけど、誰かが僕に自らの角膜を移植するようお願いしたらしい。

 その相手が誰だったのか、両親も病院も何も教えてくれなかった。

 それで僕は必死に調べて、先ずあの工事現場が“耶麻神旅館”のものだったこと。

 そしてその角膜を提供したのが、社長の伯母だったこと。

 それ以外はまだわからない。


 僕はどうしてもその家族に逢いたかった。

 そして、一言云いたかった。

 “ありがとう”……と


 目を潰したのは、入ってはいけない場所に入ってしまった自分に責任がある。

 だからそれを責めるのは理に適っていない。


 三日前、会社社長から日時を報せるメールが届いた。

 山に入れば、後は一本道のようだ。

 僕は彼女達に再び逢える事が嬉しかった。


 (――――あれ?)


 僕は何を考えているんだ?

 今から行く場所を僕は知らない。

 だから屋敷に誰かいるのか、どんな人が住んでいるのか、そんな事……。そんな事、知る訳がない。

 でも、如何してだろうか? ゆっくりと目を瞑ると薄らと誰かの賑やかな景色が見えてくる。


 上座に座っている綺麗な淑女が屋敷の主だろう。

 その人から見て、直ぐ左にいるのが会社の現社長。その前には派手なウェーブの掛かった高校生くらいの子。ボプカットの似合う少女。まだ幼い感じがする少女。

 そんな賑やかな中にお茶菓子を持ってきてくれる二人の使用人の女性……。そして、男性の影……

 それを楽しそうに見ているもう一つの小さな女の子。


 これは何なんだろう。

 デジャブならそうだろうけど、此処まで鮮明に覚えているものなのだろうか?

 思い出せば、直ぐにあの人たちの声が聞こえる。


 笑い声も……

 怒った声も……

 呆れ果てた声も……

 慟哭し、絶望し、朽ち果てていく姿も……


 僕は異常なまでに悪寒を感じた。

 決してバスの中が寒い訳じゃない。

 この景色を何度も見ている…… そう何度も……

 何度も、彼女達の成り果てた姿を見ている。


 それは抜け出せない“メビウスの輪”としか云えなかった。

 僕は何度も足を運び、そして僕を含めた屋敷にいる全員が殺されていく。


「あんたぁ、偉い身体震わしとるけど、さぶいんか?」


 隣りに座っていた老婆に声を掛けられる。


「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと今から面接なんで、緊張して」

 僕はそう云うと、「面接かぁ? 頑張り。もし落ちても諦めたらいかんよ……」


 この人は僕が落ちる事を前提に話をしているのか?


「一度や二度失敗しても、必ず思いがむくわれる時が来る。それを信じればどんな苦労も苦には肝心じゃろ? 大事なんは折れない事じゃ…… 自分の思いを決して……」


 老婆はゆっくりと僕を見遣る。不思議な事に彼女の目が若々しく、しわひとつ見当たらない。

 そこにいるのは確かに老婆だが、本当に老婆なのか……


「“榊山”はなぁ“逆鬼山”というてなぁ。決して鬼は入れんのじゃよ。入ってきても、“カミサマ”が守ってくれる。でもなぁ? “カミサマ”は人じゃから、人を助けるしか出来ないんじゃよ」


 老婆の云ってる意味がわからない。神様なのだから、助けてくれるのは……

 “カミサマ”は“人”を助けない。

 それは“カミサマ”も人間だから。

 だけど……“神様”は人を助けるのか?

 いや! 助けはしない。それは幻想だから……。

 若しあの山に“カミサマ”がいたとしたら、“カミサマ”は僕をどう思っていたのだろう。

 逃げてばかりで誰一人助けられない。そしてそれから逃げようとしている。

 人を助ける事は実は簡単なこと。だけどそれを実行することが難しい。

 それは自分を犠牲にするということが出来ないから、態々他人に自分の命を犠牲にしてまて人を助ける義理はないから。

 僕は目を瞑り、ゆっくりと開いた。

 そして二、三度同じことを繰り返す。


 若し僕の目が真っ暗なままだったら、太陽の明るさも、月の果敢無い光も、忘れていたのだろうか?

 父さんの怒りながらも、実は優しそうな顔も、母さんの優しいけど、実は父さん以上に恐い顔も。

 そして…… あの人たちの笑顔も見れなかったのかもしれない……


「おばあさん。ありがとう。何かわからないけど…… ありがとう」


 僕は老婆に向けて云ったはずだった。

 だけど、座っていたのは僕と対して変わらない年の女性で、嫌そうな顔をして僕を睨みつける。


「あの? ここにおばあさんが座ってませんでした?」


 僕が座っている場所と老婆が座っていた座席は両端に分かれて、つがいになっている。だけど女性が座っている場所の横には子供がいて、とても老婆が座れる場所なんてなかった。


「す、すみません……」


僕が女性に謝っていると、「次は…… **** ****」

 榊山付近のバス停を通り越し、次のバス停を報せるアナウンスがバス内に流れる。


「あ、すみません。ちょっと停めてください……」


僕は運転手に声を掛け、バスを停めてもらう。


「すみません。本当にすみません」


 僕は通り去っていくバスが消えるまで何度も御辞儀をした。僕のせいで遅刻してしまう人がいたかもしれないからだった。


 バス停からじゃなくても、榊山がどこにあるのか一目でわかった。

 小さな…… 標高二百メートルもないんじゃないかという小さな山……。

 僕は山の入り口までが描かれた地図を片手に…… 歩き始めた。


「行ったみたいね……」

 と、正樹の隣りに座っていた女性が発する。


『彼がどんな運命を辿るのか、盲の私にはわからない。だけど、彼に光が差し込むなら、私は闇を受け入れましょう…… 金鹿之神子として……』


 女性の目は異常なまでに濁っていた。


『“巴”さん……、貴女が若し再び彼を手助けするのなら、貴女自身がその真実を知りなさい……。これは神子になれなかった人間の戯言。だけど戯言も決して戯言じゃない。戯言の中に真実が混ざっている事だってあるから……』


「お母さん…… ほら、次のバス停だよ?」

「そう? それじゃ降りましょうか?」


 女性が少女の手を取るのを確認したかのように、バスはゆっくりと停めた。


「ありがとう……」


 女性はバスを降りる際、運転手に一言礼を言った。「ありがとう!」

 それを真似て少女も礼を言う。

 意味などわかっていないかもしれない。

 運転手が大きな笑みを浮かべたのを感じたように、また女性は運転手に御辞儀をした。


「それじゃちょっと歩くけど、頑張れる?」

「うん。だって今日は“知恵ともえ”がお母さんの杖代わりだもの!」


 少女が自分の胸を叩くと、女性は“なんとも頼りがいのある杖だこと”と、嬉しいような、困ったような、なんとも云えない複雑な笑みを浮かべた。



 昼食の準備と正樹が来る時間が迫っているせいもあり、私と繭は厨で澪の指示を受けていた。


「あ、繭? シチューの鍋、火をもう少し小さくしてくれる? それから鹿波さんは西瓜を半分に切ったら、そのスプーンで実を丸く穿ほじり取って、ボールの中に入れて」


 昼食の用意は既に終えているのだが、どうやら夕飯は豪勢なものにするらしい。

 ふと、壁に掛けられている時間は十二時十五分……

 確か正樹が来るのが一時……


(――――あれ?)


 前の事を考えると、二時半くらいじゃなかったっけ?

 それに正樹を呼び出したのは春那だけど、実際は霧絵だ。


「すみません。ちょっと奥様に訊きたい事があるので」


 私は二人にそう云うと、厨を出て、霧絵の部屋へと歩き出した。


 襖を開くと部屋の隅で敷かれてる布団に霧絵は眠っていた。


「あ、鹿波さん?」


 傍らで霧絵と話していた春那が私に気付く。


「奥様はお休みのようですね」

「はい。先ほど仮眠を取ると」


 春那は霧絵の布団を直すと私の方を見直した。


「春那お嬢様に一つ尋ねたいんですが、確か瀬川さんが来るのは二時半だったと思いますけど……」


 そう尋ねると春那はコクリと頷く。


「はい。確かに最初はそうだったんですけど、母さんが急遽時間を変更したみたいなんです」


 ――――霧絵が?


「直接、母さんが瀬川さんに電話したみたいで」

「でも突然の時間変更で驚かれたんじゃ?」

「ですけど、突然の時間変更はよくある事ですし、ただ昨夜電話したみたいなので支障はないと思います」


 私は霧絵を見遣る。仮眠とはいえ寝息を立てている。


「すみません。それと昼食の用意が出来ましたので」

「わかったわ。母さんは瀬川さんが来るまで寝かしといてくれないかしら?」


 春那はそう云うと、スッと立ち上がり、部屋を出て行った。

 正樹を早く屋敷に来させる理由は、結局、霧絵から直接聞いた方がいいのだろうけど、これからの事を考えると、今はゆっくりと休ませた方がいいのかもしれない。


「鹿波さん……」


 部屋を出ようとした時、霧絵が小さく声を掛けて来た。


「瀬川さんを早く呼んだのは、少しでもあの子達と一緒にいられる時間を与えたかっただけの理由です。そうでなければ予定通り二時半にしていました」

「正樹が私と霧絵同様に記憶があるという保証はないのよ?」

「それでも、あの子達が瀬川さんに逢いたい事には変わりないと思います」


 霧絵は確認したわけでもないのに、確信したような口調で話す。


「それは貴女が逢いたいと云う理由もあるんじゃない?」


 私が悪戯っぽく云うと、霧絵は小さく笑う。


「確かに、私も瀬川さんに本当の事を云いたいですからね……」

「本当の事? でも、正樹が春那の弟だったって事は教えてるんでしょ?」

「はい。ですが、私は瀬川さんに謝らなければいけないことがあります」


 霧絵が正樹に謝ることはないはずだ。

 あの晩、霧絵は正樹に謝っているし、角膜提供者が自分の姉だったことも、正樹に金鹿之神子の力が宿っている事。


「独り善がりですかね?」

「……えっ?」

「四年間、こちらから連絡も何もしないで、あの時、突然のように話して、それで満足しているのは、私の独り善がりですね」

「私の勝手な意見だけどさ? 本当の事を云われたほうが逆にスッキリするんじゃないかな? あの事故で正樹が盲になっていても、逆になっていなくても、事故の原因を知った方が……」


 そう云いながら、私は言葉を止めた。

 実際、事故の原因がわからない。確か鉄骨が落ちてきて、それが正樹の目に当たって……

 ちょっと待って! それじゃ正樹は…… 殺されても可笑しくなかったんじゃ?


「まさか…… 誰かが正樹を殺そうとした?」

「すみません。そのことは瀬川さんに直接云いたいんです……」


 霧絵はそう云うと、布団を被り直した。

 私は部屋を出る時、霧絵を一瞥し、静かに襖を閉めた。



 広間では姉妹達が昼食をとっていた。


「冬歌、そろそろ山葵わさびを入れてもいいんじゃない?」


 深夏が悪戯っぽい笑みを浮かべながら、チューブを冬歌に見せる。


「やだ。辛くなるもん。それに山葵は鼻を痛くするんだよ」

「でも、山葵入れないと大人にはなれないわよ? やっぱり素麺そーめんには葱と胡麻、そして山葵でしょ?」

「それじゃ? 山葵を入れてない私はまだ大人じゃないって事だ……」


 春那がそう云うと、深夏はアタフタとする。


「でも、春那姉さんはアレルギーがあるじゃないの? なんだっけ? 蕁麻疹じんましんとか出るんでしょ?」

「まぁそうなんだけどね…… でもなぁ、やっぱりお寿司だけは山葵が入ってるの食べてみたいわ」


 春那はそう云いながら、ボールに入った素麺を自分のお椀に入れ、啜り込んだ。

 冬歌はほんの少し練り山葵をチューブから出し、つゆの中に混ぜる。そして、麺と絡ませて啜った。


「んんぅんん……」


 山葵が利いたのかどうかはさておき、冬歌は口を押さえて悶絶する。


「うわ、本当に入れたんだ」

「み、深夏姉さん! まさか冗談で言ってたの?」

「当たり前でしょ? 私だって山葵苦手なんだから!」

「でも、食べ始める時入れてたよね?」

「入れる振りしてたの」

「ああもう! 冬歌? 水飲んで」


 春那にそう云われ、冬歌は半ば強引に麺を飲み込んだ。


「みぃかぁ?」

「ごめんって! だから! そんな目で睨まないでよ!」

「今回は冬歌がアレルギーじゃなかったからよかったけど! あんた! アレルギーの恐さを知らな過ぎるわよ! 蕁麻疹だけじゃなくて、口腔こうこうや喉のれにかゆみ、鼻づまりだってあるんだから! それが原因で死ぬ事だってあんのよ!」


 さすがにそれは言い過ぎだろ?と、深夏と秋音は思ったが、実際アレルギーが原因で死んだと云う事件もあるため、春那がホラを吹いてるわけではなかった。

 そう云うことがあるからこそ、春那はアレルギーの恐さを知っていた。

 数分後、賑やかだった姉妹達とは打って変わって、使用人たちは黙々と食事を終えた。



 中庭でしていた布団やら座布団を取り入れる。お天道さんは空気を読んだのか、全部入れ終えた頃にはどんよりと空が曇りだしていた。


「こりゃ、一雨来るかもね?」


 額からしたたり落ちる汗を腕で拭いながら、繭が天を仰ぎながら云う。


「新しく来る使用人の人は、傘持ってきてんのかしらね?」

「天気予報じゃ、時々雨って言ってたから、持ってきてるんじゃない?」


 澪はそう云うと、座布団を重ね、客間へと運んでいく。


「それじゃ、私たちは瀬川さんの部屋に布団持っていかないとね」


 そう云うと、繭は敷布団のほうを、私は掛け布団と枕を手に取り運んでいく。

 丁度使用人たちの部屋が並ぶ廊下に差し掛かると、部屋から渡辺が出て来た。


「おや? もう乾いたんですかな?」

「ええ。今日は以外に早く乾いたみたいで」

「そうですか……」


 渡辺はかわやの方へと歩くが、ふと立ち止まり、「そういえば瀬川さんは何時来られるんで?」

「確か、一時くらいに……」

「男性の使用人は香坂くんがやめてから私だけでしたからね。いやはやこの老体には答えますよ」

「何云ってるんですか? 渡辺さんは奥様や旦那様と変わらないんですから、まだまだこれからですよ?」

 私がそう云うと、渡辺はクスクスと笑い出す。


「ははは…… まぁ最近の若いもんは態度だけはデカイですからなぁ。何時まで続くか見物ですよ」


 そう云うと渡辺は踵を返し、奥へと消えていった。

 私は出来る限り聞こえないように溜息をいた。


「ほら、鹿波さん。急いで下さい」


 繭にそう促され、足早に正樹の部屋へと入った。

 布団を部屋の隅に重ねておき、部屋の換気をよくする為、窓を開け、新鮮な空気を取り入れる。

 窓から精留の滝を見下ろす事が出切るのだが、人が見える訳ではない。

 正樹が最初に来た時の晩。あの瀧で誰かを見ている。

 勿論、私ではない事は、私自身がわかっている。

 それなら一体誰だったのか……


「鹿波さん、布団直すの手伝ってください」


 繭にそう云われ、私は仕事を再開した。


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