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陸【8月10日・午前8時27分】


 長野県警察署の前に普通車が停まっている。

 本来そこには車が停めることは許されていない。

 入り口前で見張っていた警官がその車を不審に思い、車へと歩み寄るや、窓ガラスを軽く叩いた。


「すみません。ここは駐車禁止ですので、立ち退きを……」


 警官が言葉を止める。窓が開き、運転手の顔が見えたからである。それを見るなり、「これは失礼しました。植木警視殿」

 警官は背筋を伸ばし、敬礼する。

 運転席に座っていた植木舞警視が警官を見遣る。


「あ、ごめん。もう少しだけ停めさせてくれる? 早瀬警部に呼ばれてきたんだけどね。来たらすぐに行くって云われてるから……」


 舞はそう云うと、少しばかり欠伸をする。


「眠そうですね……」

「そりゃそうよ。今朝早く電話で起こされたんだから……。それに昨夜ゆうべは飲みすぎて」


 今日は非番だったのだが、他ならぬ早瀬警部の頼みとあっては、舞は断る事が出来なかった。


「それなら、署の駐車場を使えばいいのでは?」

「それでもいいんだけど……っと」


 バックミラーに自転車に乗った初老の男が映りこむと、舞はクラクションを鳴らした。それを近くでされたものだから、警官はたまったものじゃない。向こうから来る自転車もベルを鳴らした。


「出勤ご苦労様です。早瀬警部」


 早瀬警部は自転車から降り、署内にある駐輪場に自転車を停めに入ると戻ってきた。時間にしてそんなには経っていない。

 早瀬警部が助手席側のドアを叩くと、舞は鍵を開ける。


「すみませんね。寝てたんでしょ?」

「寝てましたよ。今日は非番ですから、夜中の三時くらいまで酒呑みながら溜め録りしていたドラマとか見てたんですから」


 舞は刺激入りのガムを噛みながら、ギアを動かす。


「安全運転でお願いします」

「警部、私がPCパトカーをエンストしたの、好い加減忘れてくれません?」


 舞は早瀬警部を睨みながら云う。「……煙草良いですかな?」

 早瀬警部は助手席側の窓を少し開け、紫煙をふかした。

 十分ほどして、車は耶麻神旅館の前にある喫茶店の駐車場に停めた。


「警部、こんな早くに喫茶店は開いてないんじゃ?」


 舞の言葉を無視するかのように、早瀬警部は喫茶店の入り口のドアノブを回し開くと、カランという鈴の音が聞こえた。

 舞は一瞬、何があったのかわからなかった。

 開かないと思っていたドアが、当たり前のように開いたからだ。

 もちろん、店の中に人がいれば開いたかもしれないが、店の中に入ると、外の明るさとは打って変わって、真暗なままだった。


「すみません。ママさん……」


 早瀬警部が店の奥に声をかける。

 数秒して、黒髪に白髪が混じった長髪の淑女が出て来た。

 見た目からして早瀬警部と同じくらいか、それよりも少しばかり下だろう。

 女性は二人に会釈すると、棚からカップを取り出し、カウンターに乗せた。


「あ、私まだご飯食べてないんですよ? ママさんなんか見繕って、あ、舞ちゃんはどうします?」

「あ、ブラックで」


 舞は早瀬警部の問い掛けに答える。


「ママさんの煎れるキリマンは格別ですからね。私はいつも朝はここに来るんですよ……」


 ただ黙々とコーヒーを作る傍ら、女性は早瀬警部が頼んだ料理を作っていく。


「コーヒー……」


 そう女性がポツリと呟く。


「……え?」


 舞は一度聞き返した。


「あ、もういいんですか? 舞ちゃん。この店セルフサービスなんですよ」


 早瀬警部がコーヒーメーカーからサーバーを取り出し、カップに注いでいく。

 女性は物臭なのか、それともあまり人と喋るのを極力避けているのか、あまり口を開こうとはしない。

 コーヒーに対しての拘りはないのだろうか?と、舞は頻りに女性を見遣る。


「舞ちゃんはブラックでしたね」


 早瀬警部が確認するように、舞に尋ねる。


「えっと、砂糖はどこですかね?」

「警部、確かこの前、糖尿病の疑いがあるって云われませんでした?」

「そうでしたっけ?」


 早瀬警部が惚けた顔をする。


「太っても知りませんよ」


 そう一言釘を刺すと、舞はカップに口をつけた。

 何ともいえない香りと味が口の中に広まった。


「どうです? 美味しいでしょ?」

「はい。何で今まで知らなかったんだろうって云うくらい美味しいです」


 そう舞が云うと、女性は小さく笑みを浮かべる。


「早瀬警部……」


 女性は出来上がった料理を早瀬警部の前に差し出す。


「おっ? 今日は“炒り玉子”ですか?」


 そう早瀬警部が言うものだから、


「警部? この場合“スクランブル・エッグ”が正しいと思いますけど?」


 舞は喫茶店で出したのだから、そう云うべきだと思っていた。

 もちろん当の本人も家でなら“炒り玉子”と云っている。


「細かい事は気にしない。要は食べられればいいんですから……」

「そういうものですかね?」


 舞は早瀬警部の食べる姿を見ているうちに、お腹が空いてきたのか、女性に自分もと頼むと、すぐに皿に盛って、舞の前に出した。既に作っていたことになる。


 数分後、「ふぅ、食った」

 と、早瀬警部は自分のお腹を叩く。


「それで、警部? まさか私を朝食に誘っただけ何てことないですよね?」

「駄目でしたか? 舞ちゃんも結構美味しそうに食べてたじゃないですか?」

「そりゃ、料理は美味しかったですし、キリマンも美味しかったですけど」

「わかってますよ。それじゃ本題に入りましょうか?」


 早瀬警部はそう云うと、店のドアに鍵をかけた。


「ママさん? 今日は少しお話をしてもらいますよ」


 早瀬警部の不可解な行動に、舞は首を傾げた。


「あの、警部? 何か事件でもあったんですか?」


 舞が確認するように問う。


「いえ、事件は既に時効を迎えていますよ」


そう云うや、女性から笑みが消えた。


「四十年前に起きた政治家一家惨殺事件。舞ちゃんも噂くらいは知ってるでしょ?」

「はい。確か当時長野県議員だった小倉靖を含む家族四人が殺された事件でしたよね?」

「その通りです。しかし、当時、今みたいにDNA鑑定なんてものはなかったですからね。発見された白骨が、家族のものだったという証拠がなかったんです」

「それじゃ、仮に殺されてなかったということですか?」


 そう舞が問うが、早瀬警部は首を横に振った。


「いえ、白骨の傍に小倉靖の身分を証明するものがありましたからね。間違いなく本人だったんでしょう。ですが、残った家族のうち、誰一人身分を証明するものがなかった。ですよね? 鮫島渚さん?」


 早瀬警部が女性に向かってそう云う。舞は何のことだかサッパリだった。


「貴女は自分の両親を耶麻神乱世に殺されたと思い、自分と同い年の霧絵さんに近付いた……」

 早瀬警部がそう問いかけると、女性……鮫島渚は頷いた。


「ちょ、ちょっと待って下さい! 確か鮫島渚は、三ヶ月ほど前に殺されたはずじゃ?」

「舞ちゃん、その時発表された渚さんの年齢…… 覚えてますか?」

「えっと、確か三十六……あっ!」


 舞は何かを思い出し、唖然とする。


「春那さんの秘書をしていたのが鮫島渚。それじゃ、殺された役員の鮫島渚は?」

「どちらも私と云う事になります」


 渚がそう云うと、舞の思考はさらに混乱してきた。


「ちょっと待って下さい。同姓同名ではなく、全く同じ人物? でも、確か春那さんの秘書をやっていた渚さんの年齢は、大聖さん達と代わらないから、四七歳前後……」


 丁度あの惨殺事件で発見された小さな白骨死体の大きさと重なる。


「まさか、その時の生き残りが?」

「生き残りなら、どれだけいいか……。丁度その時私は母の実家にいたんです。でも、家に帰ってみると、周りに警察や近所の人たちがいて、私が殺されたって云うんです。私が話しかけてもまるで信じられないものを見るかのように」

「そりゃ、綺麗に家族四人分の白骨が見付かったんですからね、渚さんが殺されたと思ったんでしょう……」

「その後、私は母方の性を名乗り、両親や兄を殺した犯人を探していました」

「そしてその犯人かもしれない耶麻神乱世とは?」


 舞の問いかけに答えるように、渚は首を横に降った。


「事件が起きた一週間後、事故で亡くなったそうです。それと警部さんが推理していた、暴力団も極めて少ないと思います」


 渚の言葉に、早瀬警部は首を傾げた。


「おばあちゃんが両親の白骨を見た時、あまりに綺麗過ぎると驚いていました。もし家の中で殺して、骨だけを取り除いたのなら、血がこびり付いているはずですし、家中が血の海になっていたと思います。ですが血の後がひとつもなかったんです」


 舞はゆっくりとキリマンを飲みながら、渚の言葉を聞く。


「それじゃ、暴力団の線が薄いというのは?」

「父が暴力団に多額の援助金を与えていた事を知ったのは、自分が中学生になってからです。それに何度もおばあちゃんの家に黒服の男が何回も家に訪ねに来てましたから」

「もし彼らが両親を殺していたら、訊きにくるはずがない……。そういうわけですな?」


 早瀬警部がそう云うと、渚は頷いた。


「それと両親が榊山に住んでいた金鹿之神子と接点は?」

「ありません。それにあの山は屋敷が建つまでは、誰一人入る事は許されてませんでしたから……」


 四十年前、集落を襲う事件がなければ、恐らく今でも集落は存在していたかもしれない。

 しかし、あの事件以降、榊山は開通され、観光客が多くなっていったのも現状である。


「耶麻神乱世でもなければ、暴力団でもない。そして神子がしたわけでもない……」


 唯一の生き残りが証言した事はまた事件を0に戻しただけだった。

 いや、早瀬警部はそれが始まりと云う意味の“0”ではなく、終わりという意味での“0”と思っていた。

 何故なら、四十年前のあの時、誰一人“殺されていない”のだから……

 “殺される”というのは“他殺”を意味する。

 なら“自殺”に“殺される”という表現は当て嵌まらない。

 日本ではじめてDNA鑑定を取り入れた事件は一九八一年に起きた“みどり荘事件”とされている。

 勿論当時の確立は余りにも低いため、被告人は無罪とされている。


 それを四十年前の一九六〇年代にする事はまずありえない。

 行方不明になった人間と、発見された白骨の背格好があっていれば、それが本人だと思ってしまうだろう。

 どういうわけか、渚に関しては曖昧だった。

 本人が生きているにも拘らず、周りの人間は“渚は死んだ”とされているのだ。


「警察……」


早瀬警部がそう呟く。


「四十年前の事件。余りにも早く捜査を打ち切ったんですよね。まるで何か拙い事があったような……」

「両親を殺した犯人は、もしかしたら、渚さんが生きていた事に気付いた……。いや、助かったと云った方がいいですかね?」

「ちょっと待ってください? それって」


 舞は早瀬警部の考えがわかったのか、慌てふためく。


「仮にですよ。殺しを実行した犯人が、私たちの身内なら、事件を隠蔽することも、捏造することも考えられます」

「でも、白骨死体はどうするんですか? いくら文脈を変えることが出来ても、そんな簡単に白骨死体が見付かるなんて事……」

「――無縁仏を使ってという手もありますよ」


 と、早瀬警部が呟く。

 まるで鬼畜極まりない考えだが、そう考えても不思議ではない。

 雪山で遭難し、遺体となって発見されたものは身分証明がなく、届出がなければ、無縁仏となる。

 その中に親子連れの死体があっても万が一だが可笑しくはなかった。


「遺骨はないんですか? 今だったら、DNA鑑定でわかると思いますけど」

「四十年前に死んだ人間のDNAデータがあればの話ですけどね」


 早瀬警部に釘を打たれ、舞は苦虫を噛みしめる様な表情を浮かべる。


「証拠がなければ何も出来ない。全く、今も昔もそこだけは変わりませんね。やつらが死体を白骨で発見させたのは、身元をわからなくしているのと同時に、残酷な行いだと我々に思わせる……」


 コーヒーを飲みながら、早瀬警部は言葉を捲し立てる。


「でもどうして中立の立場にいる警察が?」

「耶麻神乱世に多額の援助金を貰っていたか、中に腐った人間がいたのか……」

「それだとやはり、耶麻神乱世が企てたと考えられませんか?」

「ここらでは知らない人がいないほどの大富豪ですし、悪い噂もありましたがね。実際それを耶麻神乱世がしたものと云う証拠がひとつも出てきていない。全部が全部、噂や推測なんですよ。榊山で起きた猟奇事件も、当時は耶麻神乱世が企てたものとされていましたが、事件があったのは政治家一家の一週間後。つまり耶麻神乱世はその時既に虫の息だったか、死んでいたという事になります」

「資料では集落にいた人間は全滅だとされていますが?」

「水深中学校の大山千智校長がその集落の生き残りですからね。まぁ性はばれない様に変えてるんでしょうけど……」


 それなら少なくとも集落にいた人間は全滅していないということになる。


「それに耶麻神乱世がどうしても集落を立ち退かせたい理由が薄らとですが、大山氏から聞いてますしね」


 何時の間にそんなことをしたのだろう?と舞は首を傾げた。


「それこそ集落は六十年以上前からあり、密かに防空壕もあったみたいです。その防空壕が当時の耶麻神乱世にとって、口から手が出るほどに欲しいものだったのかもしれない……と」

「――防空壕を?」


 舞がその事を尋ねようとすると、早瀬警部は懐から手帳を取り出す。


「そこから歳出されていた石炭を欲していたそうです」

「石炭を? でも戦中ならまだしも、四十年前だと既に利用価値は余りないんじゃ?」

「石炭は平野から深いところにあるものですが、榊山のはそんなに深くなかったんですよ。それに防空壕にしていたのは集落から少し入ったところだったので、校長先生もそんなに詳しくはなかったみたいです。鉱内はもっと奥だったそうです」

「もし本当にそれが目的だったとしたら、やはり猟奇殺戮は可笑しいですよ。話し合えば研究で遣わしてもらえる」

 舞がそう云うと、「ガスも何も通っていない集落で、石炭は何よりも貴重なもの。それを知らない人間にやれるほど、私たちは優しくない」


 早瀬警部が言葉を発する。


「え?」

「隔離された集落にとって、貴重な資源を第三者に与えられるほど心に余裕はなかったって事ですよ……」


 早瀬警部は財布を取り出し、支払いを済ませ、足早に店を出た。


「あ、待って下さい!」


 舞は渚に深々と頭を下げると、早瀬警部の後を追った。

 その二人を見送りながら、渚は一人、コーヒーを飲んでいた。


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