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伍【8月10日・午前8時20分】


 今さらだけど、この屋敷の面積は広い。

 勿論、私が生きていた頃、集落のあった場所をそのまま土地にしているのだから、広いのは当たり前である。

 屋敷の目の前には人工の池があり、そのほとりに金色の鹿威しがある。

 繭の部屋から見える中庭には、鶏小屋が見え、その近くに農園、庭の外れに犬小屋があるという配列だ。

 タロウ達が渡辺に対して激しい警戒心を持っている為、今まで鶏小屋から、誰にも見付かることなく抜け出していたとしたら、その時々、全ての場合において起きていたタロウ達が吠えない訳がなかった。

 防空壕があったのは知っていた。

 だけど、麓の町なんかにあるような大きなものじゃなかったと思う。

 私が生きていた頃は既に戦争も終わっていたから、使う事はなかったけど、あの墨のような臭いは今でも覚えている。


(――あれ?)


 集落の防空壕は何か作業をしていた時ので、それこそ、高さなんて無かった。奥行きはあったみたいだけど……。

 それに壁に触れると、何時も手が汚れてて……


「どうかしたんですか?」


 考え事をしていた私に澪が声をかけてきた。


「あ、いや…… いい天気だなって思って」

「ふふふ…… そうですね。いい天気です」


 澪の足元にはクルルがいて、ずっと足元に首元を擦りつけている。


「ほんと、今日には父親になるかもしれないのに……」


 クルルを撫でながら、澪は呟く。


「タロウ! そうじゃないでしょ? 噛むなら思いっきり!」


 突然物騒な台詞が聞こえてきた。


「秋音お嬢様! 待ってるからいけないんですよ。逃げる動作をしないと、訓練になりませんよ」


 澪が秋音に聞こえるように叫ぶ。


「わかってるけど! タロウ早過ぎる……」


 秋音が諦めたような声を挙げると、その場にひざまずいた。


「お姉ちゃん。逃げられなかったね?」

「冬歌、あんたも遣ってみる?」


 笑われたせいか、秋音がそう云ったが、冬歌は激しく首を横に振った。

 遊びとはいえ、実は本気で走っていた秋音が逃げられなかったのだから、冬歌が勝てるとは思えない。

 そう自分でもわかったから、冬歌は首を横に振ったのだろう。


「鹿波さんもどうです?」

「えっと―― 私結構残酷ですよ? 逃げるならとことん逃げますからね」

「蹴るとかそう云うのはなしですよ?」


 澪がそういう。というか参加させる気満々って事?


「でも、それじゃ訓練にならないんじゃ? 犯人が何もしないで逃げるなんて事はありえませんからね」


 そう私が云うと、澪は少し考えて、「それじゃ、本気で蹴らないでくださいよ。この子達も一応訓練と云う事は理解してるはずですけど……。万が一、噛まれることは覚悟しておいてください」


 あれ? 今さり気無く危ない言葉が聞こえたような……。

 私が少しばかりたじろんでいると、秋音が腕につけていた、肘まである麻で出来た手袋を渡してもらい、それをつける。

 足にも噛まれても大丈夫なように同じものが付けられる。

 身を護るためとはいえ、結構重い。

 まぁ、犬に噛まれる前提で付けるのだから、これくらい厚くないと貫通するのだろう。


「では、逃げる範囲はこの屋敷から半径五十メートル。屋敷の外に出ても構いません。ですが、山に咲いている“勿忘草わすれなぐさ”を持ってくる事が出来れば、鹿波さんの勝ちです」

「“勿忘草”ってあの青い花?」


 一応タロウ達の散歩もしているので、山の中に何が咲いているのかはおおむねわかっているが、一応確認してみた。

 澪の変わりに秋音が頷いた。


「それじゃ、先に鹿波さんが屋敷の外に出て、一分後にタロウ達を放ちます。鹿波さんの臭いがわかるように、臭いを覚えさせますので……」


 いよいよ本格的に逃亡する役になってきた。まぁ元々そうなる事はわかってたんだけど……。タロウとクルルの鼻息が荒くなってきた。――もしかして二匹とも楽しんでない?


「それじゃ、門を開けて下さい」

 澪がそう云うと、秋音と冬歌が大きな門を開ける。「それじゃ、はじめ」


 と、澪が叫んだ。


(あー、もう! “藪から蛇”ってこの事を云うんだぁ!)


 そう思っても、後の祭なのには変わりないのだから、覚悟を決めるしかない。

 号令が掛かると同時に私は全速力で門の外に出た。

 が、五メートルほど山を登ると、徐々に歩みを遅めていく。

 山道で走るのは体力温存の為にも極力避けたい。

 本気で走るとしたら、タロウかクルルに見付かった時だ。

 それにしてもこの山の景色は気持ちがいい、と余裕が持てない。

 もう少し見たいけど、今はそれどころじゃないし……。とにかく、今は出来る限り距離を離すことが先決だった。


 本来、榊山は頂上まで登れるようにはなっていない。ちゃんと道があるにはあるのだが、手すり代わりのロープがある程度で、結構急斜面が多い。

 勿論、澪が“半径五十メートル以内”と云っているので、それ以上には行けない。それに“勿忘草”が咲いているのはその範囲内だということも知っているから、そう云ったんだと思う。

 山の上に行けば行くほど獣道になっていく。

 いよいよ野性の本能と云うべきか、こういう場所は彼らの方が有利にたつ事になる。

 出来るだけ早く“勿忘草”を見つけて、屋敷に戻らないといけない。が、どうやって見付からずに逃げるか……



 巴が逃げいている一方、澪はタロウとクルルに巴が使っているハンカチを嗅がせていた。

「澪さん。鹿波さんが逃げてから一分が経ちましたよ?」

 秋音がそう云うと、澪は犬笛を口に咥え……吹いた。するとタロウとクルルは耳を立たせ、視線を門の外に向けた。


「目標は臭いの主。相手を噛む事を許可する」


 澪がそう云うと、もう一度犬笛を吹いた。――さっきとは少し違って高い音。

 笛がなった途端、タロウとクルルは一斉に門の外へと出て行った。


「何遣ってるの?」

「今ね? 鹿波さんとタロウ達の鬼ごっこやってるの」

「鬼ごっこ?」


 中庭の方から春那と深夏が木の扉に手をかけて、庭を覗き込みながら尋ねると、冬歌が楽しそうに云ったせいか、深夏にはさらに状況がわからなくなっていた。


「訓練ですよ。鹿波さんが自ら申し出たんですから……」

「鹿波さん、足速いの?」

「山道だと、足が速いとかそう云うのは余り関係ないと思います」


 澪がそう云うと、秋音は首を傾げる。


「どうしてですか?」

「デコボコしている山道とならされている道とじゃ、走る感覚が違いますから……。多分鹿波さんもそこは理解してると思います」

「つまり、余り走る事はないって事?」

「そう云うことです」


 澪の説明を聞いて、深夏はだんだんと状況がわかってきた。


「それで、鹿波さんはどうしたらいいわけ?」

「山に咲いている“勿忘草”を持ってきたら勝ちとなってます」


 それを聞いて、春那は笑みを浮かべる。


「澪さん、仮に取れたとしても、この屋敷に入れなきゃ勝ちじゃないんでしょ?」

「はい。屋敷に入れなきゃ勝ちじゃないです」


 二人の会話に、秋音と冬歌が首を傾げる。


「屋敷の入り口はあの大きな門だけなのよ? そこを通らない限り、中には入れない」


 そう春那が云うと、門の方に指を差した。


「ほら、あそこ、クルルがいるでしょ?」


 秋音と冬歌は云われたとおりそちらを見ると、確かに門の前でクルルが鎮座している。


「ホントだ。でも、なんで?」

「タロウが囮になっているって感じね。仮にタロウが逃げられても、門の前にはクルルがいるから、迂闊に入る事は出来ない」

「でも、何か鹿波さんが勝ちそうな気がするなぁ……。本気で遣ってはいけないとはいっても、蹴る事は許されてるんだから」

「うーん。でも、タロウ達も訓練とはいえ、本気で来るんでしょ?」


 春那がそう云うと、「鹿波さんも…… 本気で来るって事?」

 と、冬歌が云った。


「鹿波さん…… タロウ達を殺すような事はないかもしれませんけど、万が一と云うことがあります」


 澪がそう云うと、春那と秋音は“まさかね?”と互いを見遣った。

 ――が、澪はそうでなければ訓練にならないと本気で思っていた。

 巴の云う通り、実際の犯人が何もしないで素直にお縄につくとは思えない。

 殺すことはなくても、無事ですむとは考え難かった。

 それはどうやら門の前で見張っているクルルも同様で、どういう訳か、タロウの走っていた先をジッと見つめていた。まるでおそれるように……



 一応耳を澄ましてみる。野鳥のさえずり以外には何も聞こえない。

 勿論、足音は私だけ。

 歩いていくうちに勿忘草が咲いている場所が見え、二、三輪摘むと、それを懐に忍ばせた。

 物事は大抵、直ぐに終わるほど甘くはない。

 カサカサとうしろの林から音がなり、黒い影が私に覆い被さる。

 ――刹那、左腕に激痛が走った。


「っく!」


 しかつらになりながら、痛む左腕を見ると、案の定、タロウが思いっきり私の腕を噛み付いていた。

 勿論そうするように云っているし、私も了解している。だからこそ、ここからがこの訓練の本番になる。


「タロウ、いつまでも噛んでんじゃないわよっ!」


 私はそう云うと、自由になっている右手を使い、太郎のお腹に掌底を食らわした。

 その衝撃でタロウは私の腕から口を外すが、その衝撃で噛まれるとは別の、千切れるような痛みが全身に走った。

 掌底が効いたのか、タロウは横に倒れ、体性を整えようとする。

 その間、私は屋敷の方へと逃げる。


 刹那、背後から只ならぬ冷気が漂う。

 振り向かなくてもわかる。それがタロウのもつ血なのだから、代々受け付いてきた警察犬の血なのだから……

 弱い犬ほどよく吠えるとはよく言ったもので、強い犬はあまり吠えない。

 自分を大きく見せる事にあるのだが、本当に強い犬には、威圧感がある。――今のタロウがまさにその通りだった。

 決して大きく吠えていない。

 小さく喉を鳴らしているだけ……。それが大きく聞こえ、身震いを覚えさせる。


 私が一歩でも動けば、すぐに飛び掛れる体勢になっているはず。

 だけど、屋敷に戻らなければ私の負けになる。

 正直、負けるのは死ぬことよりも嫌いだ。

 たとえ訓練でも、本気で“殺す”くらいはしないと……。

 そう思った私は、一気に山を下った。

 その刹那タロウが私に襲い掛かる。

 数メートルほど下り、丁度“足場の悪くないところ”に足が付くと、


「タロウ、ごめんねっ!」


 私は踵を返し、丁度飛び掛ってきたタロウと視線が合う。

 刹那、タロウの首元を狙って正拳を入れると、そのまま首輪を掴み、地面に叩き付けた。それを食らってなお、立ち上がるタロウに賞賛を挙げたい。

 でもこっちも殺される覚悟で逃げている。

 恐らくタロウも殺さない程度とはいえ、本気で来ている。

 本気で来ているのに、こっちも本気にならないほど、私は器用じゃない。


 何度も私に食らいつこうとするタロウを殴り飛ばしていく。

 いつしかタロウの口元から血が垂れてきたが、そんな事はお構いなしに、ただひたすらに私に向かってくる。

 応対していくうちに足場が悪いところに入り、泥濘に足を取られ転倒してしまった。

 それを待っていたかのように、タロウは私に覆い被さり、口を大きく広げる。


 前足は両肩を掴み、固定され、足掻けば足掻くほど、爪が食い込んでくる。

 私が苦しんでいるのを見て、タロウは一瞬“勝った”と云いたそうな目をするが……。

 そう云うのを“自意識過剰”って云うんだ。

 私は両側からタロウの腕を掴み、引き離そうとする。勿論タロウが素直に引き離れようとはしない。

 自分の体重をさらに乗せてくる。足場が悪いため、上手く力が出ないけど……。


(爪が身体から離れればいいんだ)


 タロウも私の考えが経験上わかったのか、腕を伸ばそうとするが、爪が服から離れるや、天地がひっくり返る。


『キャンッ!』


 ――今までで一番大きな悲鳴。勿論、泥濘ぬかるみなので、痛みは柔らいているはず。

 タロウが起きてこない事を願いながら、屋敷に戻ろうとするが、それでもタロウは私を逃がしはしない。

 さすがに走ったり、急に体勢を変えたりして、私の体力も後の事を考えると、これ以上使いたくなかった。


 タロウはふらふらと立ち上がり、体勢を整える。

 そしてゆっくりと私に近付くが、どうも様子が可笑しい。

 あれほど感じていた恐怖が微塵も感じなくなっていた。

 その証拠に、タロウは私を襲えるほどの場所まで来ても、一向に襲う気配がしないし、それどころか、足元まで来ると、自分の首元を擦り付けていた。

 ――つまりタロウは降参したという事になる。


「……っ、戻ろっか?」


 私がそう云うと、タロウは大きく高々と遠吠えをした。

 それは自分の負けを素直に認めた証でも有ったらしい。


 屋敷の前に差し掛かると、目の前にクルルが鎮座していたが、私を見つけるや、直ぐに屋敷の方へと入っていく。

 屋敷に入ると、何時の間にか春那と深夏がいて、私に声をかけてきた。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。そりゃ、防具がなかったら大丈夫じゃなかったかもしれませんけど……」


 私と春那が会話しているのを横目に、タロウは澪のところに歩み寄る。


「タロウ、大丈夫……?」


 澪がタロウの頭を撫でながら、色々なところを擦る。


「いっぱい殴られたみたいね」


 澪がそう言うや、全員が“本当にするとは思わなかった”と、私に視線で訴える。


「待ってください! 鹿波さんはこの子のためを思って、本気で抵抗してくれたんです。本当に犯人を捕まえるほどの警察犬なら、殴られたり、蹴られたり、殺される覚悟を持たないと警察犬じゃないと思います!」

「でも、これは訓練でしょ? 鹿波さんは遣り過ぎてる」

「確かにやり過ぎかもしれません。でも、殺人を犯した犯人が何もしないで、警察犬に捕まりますか? もし、ナイフを持っていたら? 銃を持っていたら? 鹿波さんは何も持たないで、タロウをここまで負かしているんです! 人間が丸腰でこの子に勝てるなんて、ずっと思ってませんでしたから……」


 澪がそう云うと、タロウはゆっくりと犬小屋に歩んでいく。

 そのうしろをクルルがついていった。


「鹿波さん。本当にありがとうございます。あの子のトレーナーとして、感謝します」


 澪が深々と頭を下げる。


「それと春那お嬢様。タロウには確かに打撲の痕はありましたが、致命傷になるものはひとつもありませんでした。少し塗り薬を塗れば大丈夫ですから……」


 春那はそう云われ、なんともいえない表情を浮かべる。


「澪さん? 鹿波さんの傷の手当てをお願い」


 澪はそう云われ、私のつけていた手袋や、足につけていた防具を脱がしていく。

 腕も足も血だらけになっていて、噛んだ痕がところどころにあった。


「ちょっと、タロウも本気で噛んでたって事?」

「アマカミって云うのがありますからね。秋音お嬢様が訓練していても、遠慮していたって事ですよ」


 秋音が驚くのも無理はなかった。

 タロウは遠慮していたとは思っていなかったからだ。


 ――――本当に大切に育てられてたんだな、あの子達も……。

 大切に育てられているから、忠誠心が生まれる。

 その忠誠心があるからこそ、タロウは秋音を本気で噛もうとはしなかった。あくまでじゃれあいの中での訓練だとわかっていたから……。

 私の時はどうだったのだろう。

 やっぱり訓練としてだったのか、それともあれでもまだ、本気じゃなかったのか……。

 澪と秋音に手当てしてもらいながら、私は少しばかり日が高くなっていく空を見上げながら、そう思った。


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