肆【8月10日・午前8時15分】
「問4。“家にあらば妹が手まかむ( )旅に臥せるこの旅人あはれ” 括弧に当てはまるのは?」
「えっと…… “くさまくら”…… だっけ?」
「はい。“くさまくら”で間違いないですよ」
繭が正解を云うと、深夏は安堵の表情を浮かべる。
「ごめんね。忙しいのに手伝わせちゃって……」
「いえ、午前中の仕事は殆ど深夏さん達が起きる前に済ませてますから」
使用人たちの起床時間は、遅くても朝の四時前になる。
繭自身一眠りしたいところなのだが、特別眠くならないのは、この動作に身体が慣れているからである。
「それに秋音ちゃんたちがタロウたちの遊び相手になってますから、澪さんも自室で本読んでますよ」
「……ハナは犬小屋で寛いでるしね」
深夏は予想集を解きながら、談笑をしていた。
「それにしても、大学受験とかしないとばかり思ってましたよ?」
「それどういう意味?」
「いや深夏さんの事だから、高校卒業したらゲーム会社とかに就職するのかなとばかり……」
「いや、ゲーム会社に就職したいのはホントだけど。それならまず、大学までは行っておかないとね。それにどっちかと云うと税理士も遣りたいし……」
「――税理士ですか?」
また大きくかけ離れてるなぁと、繭は眉間に皺を作った。
「それじゃ問題出しますけど、原価(三百)売価(五百)の商品を売り上げ、小切手を受け取ったものを、当座とする仕訳をしなさい」
繭は本棚に有った簿記の問題集を手に取り、適当にページを捲らせて、目に入った問題を読み上げていく。
「えっと、当座に五百で売上が五百?」
「はい。正解です」
一応解説しておくと、この際、原価は無視していい。
要するに売価を小切手として受け取り、それを当座に入金する形になるため、当座五百。売上五百となる。
「まぁこれくらい簡単でしょ?」
「私にはチンプンカンプンですけどね」
なんでもそうだが、骨を掴めば一応は出来る。
――が、それを勉強したいと思わない以上は、確かに繭の云う通りだった。
それは深夏も同様で、大学受験の傍ら、税理士になるためにまずは簿記の勉強をしている。まぁ、大学を合格してからでもいいのだが……。
「大学はあくまで学歴保証。とはいっても今じゃ東大生でも就職出来ないって時代だけどね。頭はよくても、それを生かせる資格は欲しいじゃない?」
確かに就職難を考えると、本当に一握りと云われている。
バブル時代での話だが、大学卒業生が企業から内定を貰う場合、一人三、五は当たり前だったらしい。
まぁ、“泡”のように膨らみ過ぎて、弾け飛んだその代償が、今の就職難とも云われている。
云ってしまえば、当時の人は、ずっとこの現象が続くと思っており、危機感を持っていなかったらしい。
「繭はどうするの? 就職? それとも進学?」
「一応は此の儘使用人を続けようと思います」
「って事はこうやって談笑してるのも、後僅かなんだね?」
そう聞かされ、繭はキョトンとする。
「私ね。大学に合格したら一人暮らししようと思ってるんだ。これは大学受験を始める前から決めてたの」
繭は先ほど深夏が入ろうと思っている大学を聞いている。
確かにここから通うよりも、一人暮らししたほうが楽かもしれない。
「勘違いしないでよ。父さんや母さんには既に話してるし、許しを貰ってる。それに父さんから凄いこといわれた」
「何か云われたんですか……」
「“こんな箱庭にずっと買われてるようじゃ、お前の運命は高が知れてる”って……」
「それどういう意味ですか?」
「父さん曰く“井の中の蛙、大海を知らず”みたいなこと云いたかったみたい。色んなところに行ってる父さんだから云えるんだろうけどね?」
放浪癖のある大聖にそれを話したのは、今から三ヶ月前くらいだった。
別に何時話してもいいのだが、何時帰ってくるかわからない父親に許しを貰えるのがいつかわからない。早めに話して正解だったと深夏は思っている。
「それにね、援助金は一円もやらないって。手前の事は手前が面倒を見ろってさ。まぁそうなんだけどね……」
「それで最近澪さんから護身術とか教えてもらってたんですね」
「繭も教えてもらったら? 最近おなかでてるみたいだし」
深夏はクスクスと笑う。
「第二次世界大戦で旧日本海軍の主力戦闘機の正式名称は何?」
「えっと? “大和”?」
「不正解です。正しくは“零式艦上戦闘機”。そもそも“大和”は戦艦ですからね……」
「いきなり問題出すからでしょ?」
そう云いながらも、深夏は答えられなかった自分のほうが悪いと思いながら、机の隅においてあったコーヒーを黙々と飲み干した。
「ごめん繭、コーヒーのおかわりもらえる?」
「あ、はい。すぐに持ってきます」
繭は会釈し、部屋を出た。
深夏は猫背になって、首に書けているネックレスを手に取った。
自分の誕生石が先に付いており、滅多な事では取れないようになっている。
以前まではお守り袋に入れていたのだが、どういう訳か、姉妹達は全員ネックレスやらイヤリングにしている。その理由は本人達も覚えていない。
以前よりも多少小さくなってしまったが、それでも宝石の持つ煌びやかさは失う事はなかった。
それはこの山の持つ翠玉のような輝きを持つ森林も同様だった。
榊山を登ってくる観光客は多いが、その殆どは夏の時期にくる。
山自体は長野県の所有物だが、屋敷は以前持っていた持ち主の所有物になっている。
以前にも語ったが、この屋敷は休憩所である。
人が多くなるのもこの時期で、冬に比べて、雲泥の差を見せていた。
一応、長野県警から登山者の報告書を先日に貰うので、その準備はしているのだが、お盆に入るため、里帰りする人が多いらしい。
使用人たちも一応は忙しくなる事を覚悟していたが、普段通りの仕事になっていた。
「お待たせしました……」
「繭、今度の日曜って暇?」
繭が入ってきたことを確認すると、深夏は尋ねた。
「今度の日曜って、十三日でしたっけ? 何が御用なんですか?」
「プール行くわよ! プール!」
一応行き先が海じゃないのは、長野県が“内陸県”と言われており、さらには他の“内陸県”よりも海が遠い。
そのため、使用人の繭を半日以上も留守にさせれない考慮から、近くのプールに誘おうとしていた。
「十三日ですか?」
と、繭の不安げな表情を察したのか、深夏は理由があるのかと問いかけた。
「いえ、決して用がある訳ではないのですが…… 十三日というと盆ですから……」
「そっか、実家に帰るんだっけ? ごめん忘れてた……」
「いえ、別に帰っても誰もいませんから……」
「誰もいない、なんで?」
繭が小さく下唇を噛みしめているのがわかると、深夏は拙い事を聞いたかと思い、謝った。
繭は深夏の机に置かれているカップにコーヒーを注ぐと、一休みしたいと断りをいい、部屋を出た。
繭が里帰りできない理由は、両親が夜逃げし、その両方から連絡を貰っていないからだった。
一度休みの日に前住んでいたアパートを訪ねたが、既に他の人が住んでおり、大家から連絡先を教えてもらおうと思ったが、聞いていないと云われた。
親族や両親の友人達に居場所を聞いたが、誰も答えなかった。
というより、聞いた途端、激しく形相を変えられる始末だった。
姿を消したのは、繭がこの屋敷に住み込みに来た直後だった。
つまり両親は最初から夜逃げするのを決めていた。一人娘の繭に話すことなく……。
天涯孤独となってしまった今の繭にとっては、この屋敷こそ、自分の第二の実家であり、唯一頼りになるところだった。