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参【8月10日・午前7時40分~午前8時10分】


 結局、精留の瀧が見える端の部屋は再び正樹が使うことになった。

 元から霧絵が決めていたのか、それとも最初から運命によって決まっていたのか、後で霧絵に聞けばいいんだけど。


 空気を換えようと窓を開けると、涼しい風が入ってきた。

 瀧が近くにあるとはいえ、平屋なので地面も見えているし、崖縁がけふちというわけでもない。

 そもそも、以前正樹が驚いて窓から転げ落ちた事もあるし、ここから早瀬警部が入ってきた事もあった。

 よく考えてみたら、窓のある部屋が空白であることは殆どそうだった。


 けど、部屋に入る事は出来ても、部屋を出る事は出来ない。

 もし最初の深夏殺害の時を考えると、あの時間は眠っていたとはいえ、屋敷の中には誰かが必ずいたということになる。

 それに隣り部屋の春那が気付かなかったというのも腑に落ちない。

 まぁ、今まで起きた殺人を推理したところで本末転倒。

 一番大事なのはどう彼女達に報せるか、一人一人が注意深く行動してもそれには限界がある。

 それに澪と繭も灰色に近いところにいるので油断出来ない。

 それにやつらがこの榊山の防空壕を利用していることもわかっている。


 ――あの時臭いがしたからだ。まるで墨のような焼け焦げた臭いが……。

 その臭いがしたのは部屋に入ってきてからだったし、植木警視が蟀谷こめかみを撃たれた時は拳銃の焦げた臭いがした。


 ――防空壕……か……。

 いまだにどうしてあの時そこに逃げなかったんだろうと思ってしまう。もし逃げていたら別の未来があったんじゃないかと、死んだ後でもそう考えてしまう。

 誰かがそこに入らないようにしたのだろうか?


 布団を窓の縁にかけ、天日干しにしながら、部屋の掃除を始める。

 ほこりが余り出てこないのは、この部屋が香坂修平の部屋であったから……。彼がいなくなったのは今から三ヶ月前だった。

 突然辞めた彼が発見されたのは、あの時植木警視が話してくれた通り。

 それを大聖が知っているかどうかは今ではわからないが、今まで起きた自殺紛いの殺人と同様なのだろう。


『もう少し、訊いとけばよかった』


 そう思いながら、ふと疑問点が浮かんだ。

 どうしてあの時部屋に入ってきた脚本家は、早々に私たちを殺さなかったのだろうか?

 自分に不利がある状況なら、殺してしまっても別に不思議ではないし、むしろ口封じのために殺すことも考えられる。

 でも、植木警視が“香坂修平が変死体で発見された”と、私たちに話し終えたまさにその時に現れている。

 まるでタイミングを計っていたかのように……。

 つまり、私たちの話を廊下で聞いていたという事になる。

 あの後、一人残った早瀬警部がどうなったのかは知らないけど、殺されたことには変わらなかったのだろう。


 私が来た事でいくらかロジックエラーが起こっていた事も確かだ。

 あの舞台で最初に殺されるはずだったのは、多分秋音。

 それを私たちは一時的にとはいえ、彼女を屋敷の外に連れて行っているし、春那も会社の方に行っている。

 タロウ達が殺されたとも考え難い。

 澪と繭の死体が偽物だったと考えると、タロウ達の死体も用意されていただろうから……。


 澪が共犯だと考えると、タロウ達を殺すとは考え難いし、どちらかと云うと、殺人の道具としてはこれほど頼れるのはないかもしれないからだ。

 渡辺以外にはなついているので、逆にそれにつけこんで殺す事だって可能だったけど、今まで噛み傷の様なものはなかった。

 だから、タロウ達が事実上殺人の道具にはなっていないということになる。


 ――だけどタロウ達が子犬たちを噛み殺し、自らも死に追いやっていたところを私自身が見ている。

 澪が何かをしていたとは考えられない。

 彼女は屋敷の中で姉妹達と生まれてきた子犬達の名前を考えていたから……。

 仮に犬小屋の鍵を澪が何者かに渡しておき、それで犬小屋に……。


 いや、それじゃタロウ達が吠えるから、私たちが気付かないわけがない。

 あの時アリバイがなかったのは正樹と繭。

 正樹は自分の部屋で休んでいたし、早瀬警部が入ってきた事も私自身が知っている。

 だからこそ、あの瞬間だけアリバイがないのは繭だけになる。

 一時的に正樹の部屋を訪ねているが、その後のアリバイがない。

 それに彼女だったらタロウ達が騒ぐこともないだろう。


 早瀬警部が植木屋に扮した犯人グループを見かけても、やつらがおとりだったと考えられ、早瀬警部を犬小屋から遠下げるのが目的だったのかもしれない。

 その間に繭が何かをしたということになる。

 簡単に狂犬にしてしまう事を……。


 しかし、どうしてハナだけ無事だったのか……。

 そこだけが私の中では妙に引っ掛かっている。

 元からいなかったのか、最初から殺さなかったのか……


「こらぁ、クルル! 駄目だよ、それ新しい人のお布団なんだから」


 窓の方から冬歌の声が聞こえたので覗いてみると、干している布団にクルルが自分の鼻を擦り付けていた。

 一応クルルの首輪には紐が繋がってはいるが、冬歌の手から離れている。

 ドーベルマンは本来、好奇心旺盛である。

 それゆえ飼い主も余程の体力がなければ育てる事は出来ない。

 それを考えると冬歌は何で散歩なんてしようとしてるのかが疑問に思ってしまう。

 もう少し身を乗り出して奥の方を見ると、タロウも外に出ていた。

 それと一緒に秋音もいる。


「何してるんですか?」

「タロウ達と遊んでるの」


 と、私の問いに冬歌が答える。

 いや、それは見てればわかるというか、どちらかというと遊ばれてる気がする。


「でもどうして紐を付けてるんですか? タロウ達だったら、門を閉めておけば出て行く事はないと思いますよ」


 そう冬歌に云うと“あ、そうか”と云った表情で門の方へと行き、門を閉めた。


「クルル? それ以上鼻水つけたら、叩くけど?」


 私がそう云うと、理解したのかクルルは冬歌たちのいる方へと歩んでいった。

 布団の方に目をやると、クルルが鼻を擦り付けていたところにはべったりと濡れた後があり、布団のシーツどころか、中の綿まで染み込んでいた。



 広間では霧絵が大聖から渡された山形に作ろうと思っている旅館の計画書を、春那と照らし合わせていた。


「山形って、桜桃さくらんぼ以外に何があるの?」

「確か米沢牛が有名じゃないかしら? 観光地だと愛宕神社、上杉謙信の縁の地もあるから、それ関係の場所。お祭りだと山形花笠まつりや芋煮会があるわね……」


 一応、にわかとはいえ、山形の観光パンフレットを何冊か読みながら、霧絵は答えた。


「それじゃそれにあわせた観光計画を前提にした方がいいかもね?」


 春那は計画書に色々と旅行ブランを書き記していく。

 旅館はその場所から近い方がいいのだが、今では大小関係なしに運営されている。

 新しく造るとしても、観光地から離れていることが多い。

 故に観光バスや送迎バスの手配もしなければいけない。

 それに一番重要なのは旅館で働く従業員の手配だ。

 本社から何人か指導員として転勤させる事も出来るが、あくまで旅館運営の指導であって、旅行プランはその地元の従業員に任せた方がいい。

 云ってしまえば、有名な場所しか見せない観光会社と違い、地元の人間しか知らない場所を提供してくれる可能性があったからである。


「百聞は一見にしかず……」


と、霧絵がポツリとそう呟いた。


「この屋敷は本来、この山に登ってくる人への休憩所だったのよ。それなのに、おじいさまは私有物にしようとした」


 霧絵自身、乱世に対する思いは異常なほどの憎悪であった。

 別に耶麻神という名が有ろうが無かろうが、生まれ付き体が弱かった彼女にとっては、世間の目などどうでもいいものだった。

 大学で大聖と出逢い、駆け落ち同然でこの屋敷に来た時、丁度前の主が大聖にこの屋敷を貸し与えている。

 というよりかは土地自体を与えていると云った方がいい。


 ここなら霧絵の療養にもいい場所だし、何より二十五年前とはいえ、都会に出れば排気ガスや騒音で、療育どころではない。

 確かに最新技術がある病院で治していった方が治りはいいが、幼い頃から受けていた精神的ダメージはいくら技術が高くても、治せるものではない。


 二十四年前、霧絵が春那を養女として受け取る以前に、自分の身体を犠牲にしてまで、大聖への恩返しがしたかった。

 それが水子となった時はどうしようもないほどの虚空であった。


「春那、私は貴女と同じくらいの時に子供を産もうとしていた」


 突然そんな話をされて、春那は口にしていたコーヒーを噴出しそうになる。


「ちょ、ちょっと、母さん? いきなり何言い出すの?」


 春那が慌てているのを見ながら、霧絵は小さく微笑む。


「貴女はそう云う人いないの?」

「い、いないわよ。それに今は仕事で忙しいから、恋愛なんて……」


 春那は布巾で汚してしまった箇所を拭いていく。


「母さんと父さんが大学で学生結婚したのは知ってるわよね?」

「うん。お父さんの執拗な交際申し込みに折れたって……」

「あれね、本当は母さんが申し出たの……」


 意外な答えに春那はキョトンとする。


「母さんが生まれ付き身体が弱くて、貴女たちを産むことなんて無理な話だったの。でも、結婚はしたいなって思ってた」


 霧絵は真剣な話をする時、決まって手遊てすさびをする。


「大聖さんと出逢ったのは、大学に入って二ヶ月くらいの時だった。他にも執拗に付き合ってほしいと云ってくる男の人もいだんだけどね。みんないいとこの坊ちゃんで世間知らず、人を利用するしか考えてない人ばかりだった。母さんと付き合おうとしてたのも、今も変わらない耶麻神という性を持っていたから。困った時に援助してくれるだろうと思ったんでしょうね? 私の家はすでに勘当されているって知らずに」


 春那自身、耶麻神という性が嫌いだった。

 別に当の本人が特別凄い人間でもないし、十六の頃、霧絵の体調が悪くなければ、普通の高校生をしていたかもしれない。


 今でもそうだが、春那は仮の社長である。

 本来役員の中から社長就任を決めるのだが、霧絵が助言する形で、春那を社長にしている。

 勿論、高校生になったばかりの春那にとっては、殆どが右往左往の毎日で、両親が過酷なまでに忙しい事は重々わかっていたが、実際遣ってみて、くじけそうになる事は多かった。

 特に一番砕けそうになったのは、四年前に起きたバス転落事故である。


「でもね、大聖さんは違ってたのよ。別にいいところの坊ちゃんでもないし、誰にでも優しかった。勿論怖いところもあったけどね。はじめてデートした時だって、他の人は洒落たカフェとか、綺麗な夜景が見えるところとかだったんだけど、大聖さんが連れて行ったところは山の奥。人が通らないような獣道を歩いていくの……。私が休もうと云っても、大聖さんはそれを聞こうとはしなかった。どうしてこんなところに私を連れてきたんだろうって疑問に思ったけど、その場所に着いた時、あ、時間が無かったんだなって」

「――時間が無かった?」

「見せたかったんですって……。夕焼けで紅く染まった景色をね。それは本当に自然で、一瞬の景色だったけど、私には他の人と一緒に見た夜景なんかよりも綺麗に感じた。だって、夜景は夜になれば、雨が降ろうが槍が降ろうが、街の電気がついていれば見れるでしょ? でも、夕焼けは晴れてないと見れないし、多分前から見せようと思ってたんでしょうね」


 霧絵は虚空を仰ぐ。春那にしてみたら、これ以上ない惚気のろけ話なのだが、本当に楽しそうに話すので、話の腰を折らないようにしていた。


「それから山に登ったり、川に行ったり……」

「お父さんとデートした場所って、母さんにはきつい場所ばかりじゃない? それなのによく一緒に行ってたね?」


 あれ?と不思議に感じながら春那は話の腰を折る。

 そう訊かれ、霧絵はクスクスッと噴出す。


「病気は体力勝負だから、普段から身体を動かしてないと勝てないって云ったのが切っ掛けかな? 確かに精神だけじゃ病気は治らないけど、治すって心から誓っていることと、それにともなう体力が五割を占めてる。薬は進行を防ぐくらいにしかないって……。ほら、余命幾泊もない人が、意外に永く生きていけたのは死にたくないって心から思ってたからじゃないかしら……」


 霧絵は春那の目を見て云う。


「母さんね、本当は去年死ぬ筈だったの……」


 突然そう云われ、春那は信じられないような複雑な表情を浮かべる。


「でも、母さんはまだ生きていて、貴女とこうして話してる。それが不思議で堪らない。もしかしたら、まだ私には遣るべき事があるんだろうって……」

「そんな弱音云わないで、母さんらしくない……」


 春那がそう云うが、霧絵は小さく笑みを浮かべる。


「明日からの二日間、貴女に……。いいえ、私たち家族にとって重要な出来事が起きます。だけどくじけない心と信じる心があれば太刀打ちできます」


 霧絵の話すことは荒唐無稽で意味がわからない。

 だけど真剣な表情をしていて、春那は霧絵が嘘をついているとは思えなかった。


「瀬川正樹さんは貴女の弟に当たるの。やっと見つけて、どうしても貴女に教えたかった。勿論、瀬川さん自身は知らない」

「私に兄弟がいるなんて聞いた事……」


 春那は言葉を止めた。両親かもしれないと云うこと。


「若し、それが本当だったら、どう接したらいいのかな?」

「それは貴女が決めることよ。本来あなたたち姉妹は血が繋がっていない赤の他人。でもね、私からすれば、あなたたちのためなら死ぬ事すら惜しくない大切な存在なの……」


 春那はその言葉に耐えられなくなったのか、立ち上がり、広間を出た。


 庭の裏口から屋敷に入る短い廊下は、使用人が使わない以上は誰も来ない。一人で考える時や辛い事があると、春那は決まってここにいる事が多かった。

 春那は握り拳を作り、どこを見る訳でもなく、慟哭することも無かった。


 確かに姉妹は赤の他人である。だけどそれがなんだと思ってしまう。

 姉妹ではない事は知っているし、自分同様育てることが出来ず、大聖や霧絵にお願いして、妹達も養子として来ている。

 それはここで働いていた使用人達も一緒だった。

 赤の他人だけど一つ屋根の下で一緒に暮らしている。

 それが理由もなしに辞めていった。何の理由も云わず……


 春那はあの時、霧絵に恋愛は無理だと答えた。

 いや今の自分では新しい恋愛は出来ないと答えたかったのかもしれない。

 三ヶ月前、突如として行方がわからなくなった香坂修平に、使用人としてとは別の感情を持ち合わせていたからだった。


「修平さん…… 何処にいるんですか…… 何処に……」


 春那がそう呟く。彼の安否を心配し、仕事に精も出ていない。

 恋人とは云わないが、春那にとって大切な存在が目の前から消えた。

 それがどれだけ辛い事なのか、先ほどクルルに汚された布団のシーツを洗いに脱衣所に来ていた巴には痛いほどわかった……。

 そして二人が二度と再会する事が出来ないことも……


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