弐【8月10日・午前6時10分】
「あ、春那姉さん、醤油取ってくれる?」
「冬歌、魚も食べなさいよ!」
「また腕上げたんじゃないんですか? 澪さん?」
――とまぁ、こんな感じでいつもの明るい食卓である。
私は繭の横に座っており、目の前には澪が座っている。
その横に渡辺。
上座には霧絵が座っており、それを挟んで左から春那、深夏、右に秋音、冬歌と座っている。
十人ほどが座れるテーブルとはいえ、それほど大きく、余裕があるわけでもないので、手を伸ばせば、秋音に当たる距離だった。
「あれ、味噌変えました?」
「いいえ、変えてませんよ? いつも使っている信州味噌ですけど」
味噌汁を啜っていた春那に訊ねられ、澪は不思議そうに首を傾げる。
「姉さん、寝てないから味覚が悪くなってるんじゃない?」
「いや、それはないわよ。さっきコーヒー飲んだ時、苦いやら甘いやらってわかったし」
「あの、お気に召さなかったら……」
澪が申し訳なさそうに尋ねる。
「あ、大丈夫よ、別に美味しくない訳じゃないから。いつもと違う感じがしたから吃驚しただけ」
春那は小さく笑いながら云う。
澪はそれを聞いてホッと胸を撫で下ろしていた。
先ほど厨にいた時、澪が不審な行動をしてない事は、その時丁度いた春那も知っている。
「そう云えば、今日来る新しい使用人の人ってどんな人?」
深夏が口にモノを含んだ状態で霧絵に尋ねる。
「深夏、咥えたまま喋らない」
霧絵に注意され、深夏は口にしたものを丸呑みする。
それを見てから、霧絵はお茶を一口飲む。
「――瀬川正樹さん。東京で大学に行ってるんですって……」
「へぇ、じゃ東大とか慶大とか行ってるんでしょうかね?」
「もしかしたら、東大は東大でも、東北農業大学とかだったりして」
と、深夏が笑いながら言う。
「深夏姉さん、それかなり古いボケだと思うんだけど?」
姉妹や澪と繭が正樹のことをあれやこれやと噂する。
「部屋は鹿波さんの隣で、精留の瀧側になります。手が空いた時にでも掃除をしてくれませんか?」
霧絵にそう云われ、私を含めた使用人たちは頷いた。
「渡辺さんは、今日採れた鶏の卵を旅館の方に持っていってくれませんか?」
「わかりました。先方も喜ばれるでしょう」
渡辺は霧絵の要望を、『何の疑いもなく』了承した。
――となると、渡辺は帰ってくるまでは屋敷にはいないという事になる。
ふと霧絵が私の方を見遣る。
何か云おうとしたのだろうが、視線を渡辺に移すと、物言わず食事を再開した。
「ごちそう様でした」
と全員がそう云うと――――
「冬歌、宿題一緒にしようか?」
秋音がそう尋ねると、冬歌は笑顔を浮かべながら頷く。
「繭、ちょっと一眠りしてくるわ」
「豚になりますよ……」
繭は呆れた表情で言うや、
「この口かぁ? この口が云ってるの?」
と、深夏は繭の唇を摘みながら、振り回す。
「母さん、山形に新しく作る旅館の話だけど……」
春那は霧絵に今度作る支店の相談を持ちかける。
――まぁこれが普通なんだろうな。
何故、こんなに明るいこの屋敷で惨劇が起きるのだろうか?
その原因を知っているのは、渡辺だということはわかっている。
だけど、それを証明するものがわからない。
わかっても掻き消されている……
「どうかしましたか? 鹿波さん……」
私がジッと渡辺を見ていたせいか、渡辺が何かあるのかと思い、私に尋ねてきた。
「あ、いいえ……」
丁度澪が食器を持って厨に入って行くのが見えた。
それを追うように、私も厨へと入った。
多分、渡辺にしてみれば、逃げたように見えただろうな。
「澪さん、何か手伝うことあります?」
「あ、それじゃ皿洗い手伝ってもらおうかな?」
そう云われ、私はコンロの方に目を遣った。
味噌汁が入っていた鍋は何も入っていない。
まるでギリギリの量で作られたような感じだった。
「あの、もしおかわりとかされたらどうするんですか?」
「それは大丈夫よ。味噌汁は基本的に朝食べるものでしょ? 寝起きは胃の調子がいいとはいえないから、大抵は一杯分の量しか食べないの。それにね、朝は食べた方が頭の回転はいいのよ……」
澪はそう云いながら、余り口を動かしはしなかった。
私は洗った食器を布巾で拭くくらいだった。
そんな感じで終わったのは八時くらいだった。
広間には夏休みの宿題をしている秋音と冬歌がいる。冬歌はわからないところがあると秋音に尋ねていた。
『Aさんは午前十一時二十五分から午後三時二十七分まで遊びました。Bさんは午前十時四十五分から午後二時五十四分まで遊びました。AさんとBさんどちらが長く遊んだでしょうか?』
冬歌の目の前に広げてある教科書の問題を一瞥する。
――どうやら算数の文章問題らしい。
「えーと、Aさんは十一時から三時まで遊んでたから、四時間二分遊んでて、Bさんは十時から二時で四時間九分遊んだから、Bさんのほうが長く遊んでるね」
秋音がそう云うと、冬歌は云われたとおりに記入していく。
――いや答え教えたら駄目でしょ?
「時速六十キロの高速バスを二時間十分乗りました。その間、三十分間を時速一キロで歩きました。最後に時速九十キロの電車に一時間三十分乗りました。合計で何キロ進んだでしょうか?」
冬歌がそれを考えていると、うしろで澪が、
「バスは先に二時間を計算して、六十×二。それから一時間は六十分ですから、十分だと六分の一。時速は六十キロだから、その六分の一を走ってるって事になります。バスでの乗車距離は百三十キロ。三十分は一時間の半分だから、一÷二。だから歩いた距離は〇.五キロ。電車は一時間半だから、九十×一.五。だから百三十五キロ進んだことになりますね」
「それじゃ、進んだ距離はそれを足せばいいの?」
「はい。進んだ距離ですからね」
「えーと、それじゃ、百三十+〇.五+百三十五っと……」
冬歌は記入し、答えを出す。
「二六五.五キロ……でいいの?」
と、不安そうに尋ねる。
「はい。正解です」
澪にそう云われ、冬歌は安堵の表情を浮かべる。
「澪さん? 好きって“like”でいいんだっけ?」
「例文では“私は野球がとても好きです”になってますから、“I Love baseball”になりますね。ただの好きでしたら“like”でもいいんですけど、“とても好き”になりますから、“love”の方になります」
「“love”って“愛してる”って意味だよね?」
「普通はそうですが、愛してるは好きの延長線みたいなものですから、意味的にはとても好きと同様だと思います。私もそんなに英語が得意な方ではないので、間違ってるかもしれませんが……」
「ううん。ありがとう」
秋音も色々と考えながら宿題をしている。
私が難しそうな顔をしているのが見えたのか、秋音が心配そうに尋ねてきた。
「あ、いや、私余り勉強しなったので……。英語なんてチンプンカンプンで……」
一応嘘はいってない。
そもそも私が生きてた頃は英語なんて使えなかったし、野球もストライクは“いい”、ボールは“だめ”と日本語に直されていた。
英語を使おうとすると御法度だとも聞いている。
まぁ、集落がこの榊山で、時間が止まっているような場所だったから、英語なんて蚊帳の外みたいなものだった。
「鹿波さん、お母さんから新しくこられる使用人の方が入る部屋を掃除するようにって、先ほど云われませんでした?」
秋音にそう云われ、私は頷く。
「早く行った方がいいですよ。今日雨が降るって云ってましたから。しかも、だいぶ強いみたいですよ」
澪にそう云われ、腑に落ちなかった。確か、雨が降るのは十一日の時だったはずだから、またズレてると云うことになる。
「あ、澪さん。座布団も干しておいて下さい。ここ最近は天気が悪くて、干せなかったじゃないですか?」
「ふかふか座布団気持ちいいよね?」
冬歌がそう同意を求めると、秋音が笑顔で答えた。
「わかりました。それじゃ失礼します」
澪はそう云うと、彰子を開け、廊下へと消えていった。
秋音を見ると、不安そうな顔をしていた。大雨と聞いて、雷を連想したのだろう。
「大丈夫ですよ。そんな簡単に雷が落ちる場所じゃないですから……」
「それはわかってるんですけど、嫌いなものは嫌いなんですよ」
秋音はそう云うと、黙々と宿題をしだした。
拙い事云ったかな……。そう思いながら、私は静かに廊下に出た。
秋音が雷を怖がるのは、幼い頃、誘拐され、目の前で一緒にいた男の子が撃たれた事にある。
それから耳元を劈くような音は極端に嫌っている。
雷の音自体が駄目ではなく、それを思い出してしまうためなのはわかっている。
それにしても、当時何故誘拐犯は秋音を誘拐したんだろうか?
一応前の秋音の事を話しておくが、秋音は学校では耶麻神というだけで蔑視され、さらには顧問の大川から金を巻き取られているという嘘の噂を流されていた。それを私と正樹が協力して、解決という形になったという事になっている。
この舞台での秋音は、知らない生徒はいないと云われるほどのフルート吹きとなっているらしく、耶麻神というのは軽視されているようだった。
プロの音楽家から目を付けられているというのも、強ち嘘ではない。
私は音楽の事はてんでわからないけど、秋音の音色は聞いてて癒される。
一応顧問だった大川は存在してはいるが、吹奏楽部の顧問ではないらしく、顧問で育児休暇を取っている江川が、推薦で別の教師を顧問しているそうだ。
HPからの変更点ですが、徒歩が早すぎるとの指摘を受けたので変えました。時速一キロは遅いですかね?