過去/4年前3
早瀬警部は岐阜県警に所属している知り合いと連絡を取り合っていた。
その警官は鑑識課に勤務しており、実際その事件現場へと臨場していたため、詳しいことを早瀬警部に報告してくれた。
「それであなたの見解はどうですかな?」
「私を含め、殆どが事故とは思っていないようです。鑑識の結果、死因は頭部強打によるものですね。仏さんを全部片付けてから、バスの中を調べたんですが、ガラスの破片殆どが内側にばら撒かれてたんですよ。発見された時、バスは運転席正面が下になっていました。その衝撃で窓が割れたんだと思ったのですが、元々から割れていた可能性があるんですよ。それを隠す為に、全部のカーテンを閉めていたんだと思います」
つまり、窓はカーテンを閉める前に割られていたということになる。
「でも、旅館を出るまではカーテンは開いていて、乗客の確認もしているそうですから、別の場所で硝子を割った……」
「その際、殺人を犯した……」
相手の警官は言葉をとめた。
「犯人は逃げたのか、それとも道連れで死んだのか……って事ですか?」
「そうなると、犯人はあの中にいて、それを証明するものがないということです」
うーむと早瀬警部は悩み考える。
鑑識の結果、致命傷は打撲のものであるとわかっても、それが事故が起きる前か後かによって違ってくる。
後者であれば事故によるもの。
つまりは自然的に死んだということになるため、犯人の特定はせず、事故の状況確認のみになる可能性がある。
……が、前者、つまり、一度何処かで停め、全員を鈍器なもので殴り殺し、窓ガラスを割った。
カーテンを閉めていたのは、それを悟られないようにするためだろう。しかし、車のスピード、及び、風によって捲れる場合があるが、余程の物好きでない限り、走行している他人の車の中まで気にも留めない。
さらにはうしろタイヤの片方だけにチェーンが着けられていないのにも疑問があったが、鑑識はどういう訳か、それに関して調べる仕草はしなかったらしい。
「で、貴方はそれに関して如何思ってるんですか?」
「私は貴方ほど偉い立場じゃないです。だけど、あの鑑識結果は不審的な部分が多すぎる。まるで事故が起きることを前々から知っていて、尚且つ、それを握りつぶすような……。早瀬警部は御存知ですかね? 岐阜県警の管轄内で起きた、大規模な転落事故の事」
彼の云っている事故とは“飛騨川バス転落事故”という、実際にあった事件である。
一九六八年(昭和四十三年)八月十八日、岐阜県加茂郡白川町の国道四一号線において、乗鞍岳へ向かっていた観光バス十五台のうち、観光自動車所有の二台のバスが、集中豪雨に伴う土砂崩れに巻き込まれて増水していた飛騨川に転落し、乗員・乗客百七名のうち大半の百四名が死亡した事故である。
その事件は転落事故というものでは、これを書き記している今でもなお、書き換えられていない大惨事といわれている。
しかし、これはあくまで“自然による災害によって死亡した”ことであり、“人為的なもの”ではない。
しかし、条件は今回の事件と極端に似ている。
「あの集中豪雨は他にも多大な被害を出してますからね。時期が時期だけに台風の予報以外はそんなに気にしなかったのが原因ですが……。ただ“凍結したさいに起きたスリップ事故”ではないと思っています」
「ほう、それはなんでですかね?」
「なかったんですよブレーキ痕が。若し不意を付かれたものだったらあるはずなんです。でも転落場所から半径百メートル内を探しても出てきませんでした」
「つまり、元から死ぬつもりだったということですかね? だったら元からチェーンなんて要らなかった……」
「若しくはそれすらカモフラージュだった……」
途端、電話越しから騒がしい音が聞こえてくる。
「すみません。早瀬警部。私も忙しいので……」
「いえいえ、構いませんよ。私は関係者を洗ってみます。勿論“人為的”という目線で」
「私も出来る限り協力します」
そう云うと、電話はプツリと切れた。
「警部、連絡っす。植木警部から……」
車に乗っていた連れの警官が窓から顔を覘かせながら、早瀬警部を呼んだ。
「――舞ちゃんからですか?」
早瀬警部はそう云いながら、無線を手に取った。
「もしもーし。舞ちゃん。首尾は如何ですか?」
「如何ですかじゃないですよ? 勝手に届け出も出さないで、岐阜県警の警官と合同捜査して、副署長カンカンでしたよ!」
「はははっ! まぁ云うだけ云って自分は何もしない人の言葉なんて気にしなくていいですよ」
「はぁ……。先輩くらいですよ、自分より階級が上の人に、何の躊躇いもなしに意見出来る人って……」
「まぁ、舞ちゃんも近々昇任試験を受けるんですから、階級は私よりも上になりますよ?」
早瀬警部はカカカッと笑うのを聞いて、舞は呆れた表情で溜息を吐いた。
「前々から訊こうと思ったんですけど、警部ほどの実力を持った人が、どうして昇任試験を受けないんですか?」
「うーん。何ででしょうかね? まぁ簡単に言えば、めんどくさいからですね」
そう早瀬警部が言うと、小さく何かが崩れるような音がした。
「め、面倒って……。まぁ警部らしいといえばらしいですけどね……」
「それに貴方はキャリア組。私は巡査から歳と経歴で警部になっただけですよ」
「でも、実力だけで四階級も上がったんてるんですから、私なんかまだまだですよ」
「まぁ巡査長は無いようなものですかね。性格には三階級ですよ」
“巡査”の次の階級である“巡査長”は。正確には階級外である。巡査で成績が優秀で経験が豊富な者に与えられる。
「まぁ、舞ちゃんが落ちるとは思ってませんが、合格祝いに何か御馳走しましょうかね?」
「それは結果がわかってからにしてください。確実なんてものはないっていつも云ってるのは警部ですよ。それで鑑識の人はなんて?」
そう植木警部が訊くと……
「それに関してはちょっと場所を変えましょうかね? 試験は明日でしたね? なら暇じゃないでしょうけど……。いつもの場所で」
早瀬警部は場所を濁らせたのは、警察の無線は自分たち以外にも仲間内にも聞こえている可能性がある。
曖昧に云えばわかりにくいという判断である。
そして色々と交流関係がある早瀬警部が植木警部とどこで待ち合わせるかを調べるのも苦難である。
車はエンジン音を吹かすと、昼通りの道路へと消えていった。
同じ頃、耶麻神旅館本社最上階(三階)にある社長室では、大聖が椅子に深々と座り込み、仰け反り返っている。
その目の前にはテーブルがあり、それを挟むようにふたつソファがあり、春那と渚が向かい合うように座っていた。
「そうか、あくまでも転落事故の事は隠すわけか……」
「うん。でも会社の人たちはみんな不審がってる。私はやっぱり隠すべきじゃないと思うし、人が死んでるんだよ? 会社に責任がなくても、旅行を切り出したのは元より私なんだから」
「確かに旅行に関してはお前が言い出しっぺだ…… でもな? 大河内くんたちをリストラにしたのはお前じゃない。そして俺でもなければ霧絵でもない」
大聖の言葉に春那は静かに頷くだけだった。
「これからどうする? 今はお前が社長だからな…… お前の好きなようにすればいい」
「でも、私は肩書きを持っているだけで、殆どみんながしてくれてる。それは凄く感謝してる」
春那の答えに大聖は意外にも溜息を吐く。
それは答えを間違えているわけではなかった。
「だったらそれでいいだろう。いいか? 部下ってのはな、上を信頼しているからついていくんだ。どうしようもなく駄目な政治家に国民がついていくと思うか? それに、する前から諦めるのは好きじゃないしな。だから、お前がやりたいようにしろ。責任はお父さんが取る!」
「私も陰ながら応援してあげる」
「ありがとう。二人とも……」
春那はそう云うと、スッと立ち上がった。
「館内放送で社員全員に集合をかけてみる。まだわからないことがあるけど、でも、大切な社員が……」
春那がドアノブに手をかけようとした瞬間、ガチャッという音とともにドアが開いた。
「春那お嬢様? 今そんな話をして、社員の仕事に支障を齎したらどうするんですか?」
入り口を塞ぐように、大柄の男が立ちはだかっており、そのうしろから声は聞こえた。
「齎すも何も――。じゃぁ、一体いつ話すんだよ? 人が死ぬってのはなぁ、殆どが偶然の産物なんだ。そりゃぁ、死ぬ時期がわかってれば覚悟は出来る。でもなぁ、余命半年って云われて、いざ半年が経ったら死ぬって訳じゃないんだよ? それより後もあれば、それより前って事もある。人の死ってのはそう云うもんなんだよ」
「旦那様の意見もわかります。ですが……。元より社員でも何でもない、赤の他人である貴方が、会社に口を出さないでくれませんかね?」
大柄の男のうしろにいる男がそう云うが、大聖は鼻で哂った。
「はっ? そんな独活の大木に隠れてるやつがよくもまぁ、いけしゃあしゃあと……。手前こそ、意見があるんならこっち来て云いやがれ。それになぁ、意見ってのは言い合うためにあるんだろ?」
「私は喧嘩は好きではないので遠慮しておきます」
「喧嘩じゃねぇよ、討論だ! それとも、隠すしか脳のないやつは、意見すら出来ないって訳か?」
「減らず口を……」
隠れていた男が小さくそう呟く。
それは近くにいた春那には聞こえていたが、春那は敢えて聞かず、視線を大聖に向けた。
「おい、独活の大木……。そんなところに突っ立ってたら、社長が通れないんだけどなぁ?」
大聖がそう云うが、大柄の男は微動だにしない。
「大切な用があるんです。退いてくれませんか……」
春那が静かに申し出ても、男は動く気配がしなかった。
「主以外の命令は聞かないってか? 結構な忠誠心で……」
「当たり前ですよ。彼は私の右腕ですからね。私以外の人の命令は聞きません」
高々と笑いながらも、結局は大柄な男のうしろに隠れている人間の戯言など、大聖の耳には入ってなかった。
一歩、また一歩と大聖は男に近付き、
「もう一回云う。社長は大事な用があるんだ……。そこを退いてやってくれないか?」
それでも男は立ち退こうとはしなかった。
「お前、結構な忠誠心を持ってるが、従う相手を間違えたかもな……」
そう大聖が口走った途端、大柄の男はくの字になった。
「あがぁあああ? がはぁああ?」
よく見ると大聖の拳が男の鳩尾に深々と沈んでいた。
「お父さん?」
「春那、お前は自分の遣りたい事をしろ! 云っただろう。責任はお父さんが取る! 渚さん、娘を頼む!」
「わかったわ! 春那ちゃん、いくわよ!」
渚は春那の手をとり、放送室へと走っていった。
「こんなことして許されるとでも思ってるんですか?」
「思ってねぇよ。それにこれで俺の勝ちだ……」
大聖は言葉を止め、足元を見た。
「うわっと?」
くるりと視界は天井を向き、刹那大柄の男が大聖に圧し掛かった。
「くっそ! 降りろ! こら!」
「ジタバタしても無駄ですよ? 彼は体重百キロはありますからね……」
黒服の男が見下すように笑う。
「百キロ……かぁ? 結構重たい……な!」
苦しみながらも、大聖の表情には余裕があった。
「がぁはぁ……」
再び大柄な男が咳き込んだ。
それは大聖が掌で男の両脇腹を強く押したからからである。
「さっさと降りろ……」
大聖は決して大きいわけではない。身長は一七八センチくらいである。対して、横でのた打ち回っている男の身長は二メートルを軽く超えている。
大聖自身、そんなに力を入れて鳩尾をしたわけでも、掌底を食らわしたわけでもない。
急所を食らわされて、耐えられるのは至難の業である。大柄の男が決して弱いわけではない。油断していたからである。
「おい! 何をしている! 起きなさい!」
黒服の男がそう云うが、横で倒れている男が起き上がる事はない。何故なら、いつの間にか泡を吹いて気を失っていたから……
途端、チャイムがなり、ザザッという音が壁に備えられているスピーカーから聞こえた。
「社員の皆様、勤務中に失礼致します。昨日発生した転落事故について、今わかっている事を報告します。転落したバスの乗客はバス会社の運転手、及びバスガイドを除いては、全員がこの会社で働いていた人たちです。報告が遅れて申し訳ございません!」
その声を聞いて、大聖は煙草を吹かした。
「さぁて、これがどうなるのか見てみたいものだな?」
「こんな事をして、後でどうなっても知りませんよ?」
黒服の男は、未だに起き上がらない大柄な男を見捨てるように去っていった。
「置いてかえるな……」
そう呟きながらも、主を間違えた男を哀れむように見つめる。
スピーカー越しからは、春那が今わかっている事故に関しての詳細を話している声が聞こえていた。