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過去/24年前


 二十四年前、まだ長女である春那が里子として屋敷に来ていないちょうど夏の暑さが紛れてきた秋の夕暮れ時、霧絵の体調が思わしくなかった。

 彼女は生まれつき体が悪かったが、それとは違う――まるで心身が崩れたように臥していた。


「霧絵、起きてるか?」


 大聖が覗き込むように部屋の襖を開け呼びかけたが、霧絵は応えない。


「おなか、いただろう? 清水しみずくんにお願いして、何か作ってもらおうか?」


 と、催促したが、まるで空虚くうきょの中にいるかのように霧絵は全く反応を見せない。

 まるで魂が抜け、人形のようになった自分の妻を見るや、大聖はやり場のないいきどおりを感じていた。


 霧絵が悪い訳ではない。もちろん、大聖自身が悪い訳でもない。

 それも『運命だった』と割り切れる事も出来た。

 だが、この憤りを……。怒りを何にぶつければいいのか――

 大聖は霧絵に悟られないように、顔を俯かせた。


 それは今から二週間ほど前、霧絵が妊娠五ヶ月目を迎えた頃であった。

 元々体が弱い霧絵にとっては、その身に宿した命が最初で最後だという覚悟があった。

 再び出切る事は皆無に等しく、むしろ、計画的に子供が生まれたとしても、霧絵自身、生きているかさえ賭けであった。

 それでも、胎児が動いているのを、生きている事を実感し、霧絵と大聖はそれだけでも十分幸せだった。


 麓では祭がもよおされており、気分転換にと大聖が、霧絵や他の使用人たちを連れ、祭へと訪れていた。


「人混みは危ないからな、しっかり俺の握ってろ」


 大聖は霧絵の手を決して離さないようにしっかりと握った。

 霧絵も離れないようにと指を絡める。

 この人混みの中、もし霧絵のお腹に誰かが誤ってぶつかってしまわないようにと、大聖は常に霧絵を隣りに連れていたが、霧絵にとっては歩き難いことこの上なかった。

 賑やかに響き渡る祭囃子に負けないほど、明るく騒いでいる子供たちが、身長が低いということもあり、ちょこまかと人混みの中を駆け抜けていく。


「元気ですね」


 と、霧絵は小さく笑みを浮べたその時、子供の一人が霧絵にぶつかった。


「あ、ごめんなさい……」


 子供は一言謝りを云い、友達を追い掛けるように人ごみの中に消えていった。


「ははは…… まったく子供は元気だな?」


 大聖は苦笑いを浮かべながら霧絵を見たが、霧絵は何も云わなかった。驚いたのか?と大聖は思ったが、そうではない。

 謝ったのだから、ゆるしてやるのが筋と云うものである。

 しかしそれが“殺人”としたら?


「げぇほぉ!」


 それは大きな咳込みだった。


「げぇ…… ほぉ…… げぇほぉ……」


 大聖はいつもの喘息だと思った。

 しかしそれが口元から流れなければ、どれだけよかっただろうか?


「霧絵、大丈夫か? 霧絵っ!」


 大聖はこの時のことを思い出しても、未だに理解出来なかった。

 今までも、霧絵が吐血する事はあっても、ここまで激しいものはなかった。

 周りもあわたしくなり、大聖は霧絵を落ち着かせようと、人の少ないところにゆっくりと連れていこうとすると、周りの人たちは何も言わず、スッと体を避けていく。

 大聖はその度に小さく頭を下げた。


 大樹の下にペンチがあり、大聖は霧絵をそこに座らせた。

 吐血は収まったが、霧絵の顔色は蒼白に染まっている。

 渡辺や他の使用人たちと連絡を取ろうにも、当時、まだ現代ほど携帯電話は普及されておらず、またズボンのポケットに入るほどコンパクトと云えるものではなかった。

 そして、先程の騒ぎは祭特有の賑やかに掻き消され、使用人たちが気付いてくれるとは考え難かった。


「霧絵、大丈夫か?」


 大聖は霧絵の背中をさすりながら声をかけた。


「た、大聖さん?」


 漸く霧絵の声が聞こえ、大聖は一安心した。

 しかし霧絵の表情は穏やかではない。


「どうした、まだ苦しむのか?」


 霧絵は静かに首を横に振る。ふと、大聖は違和感を感じた。

 その違和感を確かめるように……。ゆっくりと地面を見遣った。

 そこにはまるで水が流れた跡があった。

 それが霧絵の足元まで続いている。


 今まで大聖は霧絵を休ませる事に必死で気付かなかったが、夜店の明かりがそれを照らしたことで、霧絵が気分を悪くした理由がわかった。

 ――霧絵は破水したのだ。

 破水は胎児を包む卵膜が破れ、中の羊水が流れたことを云う。

 しかし霧絵はまだ五ヶ月目で、破水が起きるとは考え難い。

 それとは全く違う別のもの……。その水の轍には血が混じっていた……。

 大聖は最悪な想像しか出来なかった。――“流産”という二文字だけしか……


 大聖は霧絵を急いで大和医院へと連れていった。

 規模は小さいが、婦人科の医師が手伝いで来ていたため、すぐに見てもらい、検査が始まった。

 ――検査はものの十分も掛からなかった。

 診察室から大和とその医師がロビーに顔を出す。

 霧絵は診察室に残ったままである。


「大和の爺さん。霧絵は? 胎内なかの子供は?」


 大聖の問いかけに、大和と産婦人科の医師はだんまりを決めていた。

「まさか、嘘だろ? なぁ?」


 大聖はわなわなと身体を震わせながら、大和医師の肩を掴んだ。


「大聖、残念だが……」

 大和は顔を俯かせ、言葉を発した。

「何が原因で卵膜らんまくが破れたのかはわからんが、破れた以上、もう胎児がお腹の中で育つことは出来ん。それに霧絵さんが子を孕んだこと自体が奇跡的ということはお前も知ってるだろ? もう子を宿す事は出来ないと考えても可笑しくはない」


 大聖自身も霧絵が次に子を孕めるとは思っていなかった。

 それほどまでに霧絵の身体は弱かったから、最初で最後の子であったから……。

 だからこそ、大聖の心の中では、やり場のない怒りがこみ上げてきていた。


「大聖、彼女の子が、あんな事になった経緯を教えてくれんか?」

「さっき祭に行ってきた。その時、子供が霧絵にぶつかったんだ」

「それが原因とは考え難いな……。その前の霧絵さんの体調は?」

「――いや、いたってよかったよ。だから霧絵を祭に連れていったんだ」


 大聖と大和、婦人科の医師はあれこれ原因を考えていたが、“死んだ胎児が生き返る”事は決してなかった。


「とにかく、今は霧絵さんを安静にしないといけない。彼女を支えてやれるのはお前だけなんだぞ……」


 大和の静かな声に大聖は頷いた。

 大聖と霧絵は駆け落ちであるが、霧絵の両親が結婚自体を条件付きで許している。それは耶麻神の名を絶やさない事だった。

 霧絵には姉がいたが、それは結婚した時にはじめて聞いた。

 霧絵はそれまで、ずっと一人だと教えられていたからだ。

 他にも親族はいたのだが、殆どが耶麻神の名を名乗ろうとはしなかった。


「くっそぉ……」


(行き場のない怒りは何に向ければいい?

 原因である子供にか? いや、子供に罪はないじゃないか?

 ちゃんと謝ったんだ。ぶつかった事をちゃんと謝った。

 それを赦してやるのが大人ってもんだろ?

 偶然なんだ――偶然、ぶつかった拍子に卵膜が破れたんだ……)


 しかし、それが原因とは考え難い。

 むしろ破水を起こす原因は大きくなった胎児に今まで包んでいた卵膜が耐えられなくなり、破れてしまったと考えるのが妥当である。

 だが、妊娠五ヶ月で生まれたとしても、身体は出来上がっておらず、肉すら出来上がっていないだろう。


 悔しさと悲しみが込み合い、混乱するような感情が大聖に襲い掛かる。

 しかし夫である自分がしっかりしなければという責任感もあった。


「大聖さん……」


 うしろから声がし、大聖は振り向いた。

 そこには余りにも身窄らしいほどに衰弱した女性が、薄闇に溶け込んでいる。

 それが霧絵である事に気付くのに永くかかった。


「霧絵、身体は大丈夫なのか?」

「私は……私は大丈夫です……」


 大聖は霧絵の震える肩を抱き締め、静かに宥めた。

 霧絵は決して声を挙げなかった。

 声を張り上げ、心をすっきりさせることは出来たかもしれない。

 でもそれで子供が戻ってくることは決してない。

 だからこそ、自分の心の中にしまいこむしか方法がなかった。

 霧絵は検査入院をしなくてはいけないと大和に云われ、大聖は重たい足取りで屋敷へと戻った。

 その山中、心ここにあらずと云わんばかりに、大聖の足取りは重かった。


 屋敷では祭の余韻で使用人たちがそれぞれ買ってきた土産や話を肴に宴会をしていた。

 それが外までわかり、大聖の足取りをさらに重たくさせる。

 門を潜り、玄関の前に来た大聖を、タロウの祖父に当たるギルが小さく吼える。

 忠誠心の強いドーベルマンが主人を吼えることはない。

 それほどまでに大聖は別人に変わっていた。

 ギルは自分が吼えたのが大聖だと気付くと、シュンとした表情で見返すと、大聖は何も言わずギルの頭を撫で、玄関の戸を開けた。


 屋敷の中に入り、さらに賑やかであることを実感させる。

 広間に入ると、いの一番に渡辺が大聖に気付いた。


「よう、大聖! 遅かったじゃないか?」

「お帰りなさいませ、大聖さん。祭は楽しめましたか?」


 霧絵の従姉妹いとこである鮫島渚が大聖に声をかける。

 大聖はそれをただ無言で頷くと、周りの使用人たちが、いつも明るい大聖に違和感があることを気付くのに数秒も掛からなかった。


「大聖、霧絵さんはどうした? 一緒に帰ってきたんじゃないのか?」

 渡辺がそう尋ねると、「みんな、楽しい酒の席をにごしてしまって恐縮だが、聞いてくれ」


 静かに大聖が口を動かすと、全員が各々の行為を止めた。


「霧絵が子を宿していることは、みんな知っているな?」

「はい。それは私たちも楽しみにしております。もしや、奥様に何か?」

「いや、霧絵は無事だったよ……」


 その言葉に全員が凍りついた。


「霧絵さんは無事だった……」


 確かめるように鮫島渚が問い掛ける。


「霧絵は無事だった。でも、中の子は――」


 大聖は静かに声を荒げた。

 病院であれだけ涙を流し、またここでも泣くのか?

 渚は大聖の背中を擦りながら宥め、他の者たちも、その空気を察し、誰一人騒ごうとはしなかった。


 翌日、胎児が亡くなった事を大聖は霧絵の両親に話した。

 二人とも驚き、父親からは「どうして連れて行った」

 と罵声を受けたが、それを母親が宥め、助け舟を出してくれた。

 二人とも子供が原因で破水を起こしたとは考え難いと判断し、さらに子供に罪はないと云った。

 しかし、約束を守れなかった事を云うと、意外な返答があった。


 だったら、大聖が耶麻神の性を名乗ればいい。


 それはつまり婿になれと云うことだった。

 しかし、子が生まれることはないかもしれないのに、自分で終わってしまうかもしれない。

 霧絵の父が一言、悪魔のような提案を出したのだった。


 それは生まれてきた子を養子に取る事だった。

 子を生んでも経済的に育てる事が出来ない。

 また痛みに耐え生んだにも拘らず、子を捨てる親がいる。

 つまりはそんな子を、養子として育てないかと云うものだった。

 あまりにも人の道徳に反するものだったが、大聖はそれに答えた。

 後日、霧絵にも話をし、彼女の了解を得た。

 数ヵ月後、屋敷にやってきた赤ん坊こそ、後の春那である。

 ――その後、同じ理由で深夏、秋音、冬歌が屋敷に預けられ、今の状況になっていく。


 冬歌が屋敷に来た時、大聖はこの『家族』だけは二度と失いたくないと決意していた。

 それは家族の中でも、大聖しか知りえない過去があったからである。

 彼が霧絵の両親から云われたことは――



いよいよ最終回となる第四話です。余りにも長い内容ですので、更新頻度が今まで以上に早いです。

今回は第三話中に出てきた『四姉妹は霧絵と大聖の実の子供ではない』という複線の答えです。

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