廿捌【8月12日・午後3時15分】
「駄目だわ、やっぱりいない」
鹿波さんが悔しそうにそう愚痴を零す。
「やつらに連れて行かれたんですかな?」
「それはないと思います。人が死んでいる事を知らないのは、冬歌だけですから」
早瀬警部の問いに春那さんが答えた。
「眼球を抜かれただけで人は死ぬんですか?」
秋音ちゃんがそう尋ねると、早瀬警部は少し考えて、「血が大量に抜かれれば。しかし、あの短時間で人が死ぬる程の血液が抜ける事はないでしょうな? 早くて五分そこそこ。しかし、池の辺に血が一滴も散らばっていなかった」
確かに、あの時、池の辺には血なんてなかった。
冬歌ちゃんが眼球を刳り貫かれ、血を流して死んだのなら、その場に血がない事事態がありえない。
「それに、どうして殺されたのかですよね?」
春那さんがそう言うと、秋音ちゃんが「襲われたからでしょ?」
と、聞き返す。
その問い掛けに怪訝な表情を浮かべながら、「じゃなくて、どうして今になって殺されたのかって言ったの。だって、昨日の晩だって、澪さん達を殺した犯人が潜んでいたというのに、冬歌は一人で自室で眠っていた。犯人にとってはこれ以上にない絶好のチャンスじゃない? それなのに、殺さなかった…… まるで、殺す順番が予め決められているみたいに」
「たしかに、あれだけ酷な事をしている犯人が、たった一人で眠っていた冬歌さんを殺さないというのは如何せん可笑しいですな」
早瀬警部が腕を組んで、悩んでいる時だった。
「最初は渡辺洋一。これ以外が狂いだしてるのかも」
再び鹿波さんが僕の横で小さく呟く。
僕に聞こえる程度の極々細めた声だ。
「どういう事ですか?」
「貴方も記憶があるのならわかるはずよ。一回目も、二回目も、最初は渡辺が鶏小屋で殺された。でも、今回は私が一緒にいたから、殺されなかった。否、殺せなかった」
僕の脳裏に覚えのない映像が流れる。
そこには鶏小屋の天井に吊るされた顔のない死体は明らかに渡辺さんだった。
それは二度見ている気がするが今回は見ていない。
「今回はそれをする暇がなかったと?」
「そもそも、渡辺洋一が殺される事になっている事事態がやつらの台本にあったのかもしれない」
「殺されていることになっている?」
「思い出してみてっ! 渡辺洋一の死体は、本当に渡辺洋一の死体だった? 顔を耕されているし、精神的に参っていた正樹達は服装だけで渡辺だと判断したでしょ? 昨日の澪達だって、同様に誰一人、あの広間には入らなかった」
「鹿波さんは見ていたんですか? 僕達がそこにいた事を?」
「見てたわよ。でも何もしなかったというより、何も出来なかった。だけどね、一度如月巡査に春那と秋音が犯人を庇っていると言われた時、あの子達は無意識に私を庇っていたのかもしれない。もちろん、私の独り善がりな考えだけどね……でも、正樹も私が犯人じゃないと思ったんじゃないの?」
「わかりません。でも鹿波さんがもしその時の僕が犯人じゃないと思ったのなら、今の僕も鹿波さんが犯人じゃないと信じてます」
「ありがとう。でも、私は…… 私は……」
そう言いながら、鹿波さんは俯く。
「僕は何も出来なかった。否、何もしようとしなかったのかもしれない。だけど、今の僕は二度もあの殺戮を見ているんだ。もし、また同じ事が起きても――」
僕が決意を言おうとした刹那、厨房の方からガラスの割れる音が聞こえた。全員が……全員?
「は、春那さん? 秋音ちゃん! き、霧絵さんは?」
僕の質問に、一瞬二人は唖然としていたが、刹那、広間のどこにもいない事がわかった。
「っ! か、母さんは?」
「ちょ、どういう事? だって、さっきまで私の横に?」
たしかに霧絵さんは春那さんの隣にいた。
僕は立ち上がり、廊下に出ようとしたが、誰かがズボンを引っ張る。秋音ちゃんだった。
ジッと僕を見つめ、何かを言おうとしていたが、ゆっくり手を放した。僕は一瞬、理由を訊こうとしたが――
「正樹! ここは私がどうにかするから! 貴方は早く霧絵を探して!」
そう鹿波さんに言われ、僕は頷き、廊下へと出た。
僕はいの一番に書斎へと行っていた。
ここは冬歌ちゃんの白骨死体が発見された場所だ。
扉が開いているのが少し気になったが、どうしてか誰もいない気がしていた。
生きている人間はいない。
僕の予想は、厭になるくらい的中していた。
書斎には大きな机がある。
その机に俯せになっている深夏さんを見つけた。
僕は一瞬躊躇った。深夏さんは壁の方を向いている。
眠っているのだろうか?と、少し安心したが、近付く事が出来なかった。
それから十秒ほど待ってみたが、一向に動く気配なんてなかった。
否、動く訳がないんだ――
「――っく?」
僕はようやく深夏さんの寝顔を見た。声に出来ないほど、僕は絶句していた。
深夏さんの顔はまるで最初からなかったように、表面には髑髏が露にされていた。窪んだ双眸にはやはり眼球がない。
否、それよりもこれだけ綺麗に剥がされている。それなのに血の一滴も机には流れていなかった。違う所で殺されたという事だろうか。
考えてみたら、僕達がいない瞬間に殺している。刹那春那さんが言っていた事と鹿波さんが言っていた事が気になっていた。
『昨日の晩、冬歌を殺せたはずなのに殺さなかった』
『まるで最初から殺す順番が決まっているみたいに』
――殺す順番?
そう考えた刹那、僕はあの日の僕の記憶を思い出していた。
あの時、渡辺さんが殺された後、誰が殺された? 深夏さん…… 春那さん――?
その後にタロウ達が無残に殺されていた。
二度の悪夢は必ずこの順番だった。
だけど、今回は渡辺さんが殺された後、僕と鹿波さん、そして秋音ちゃんが帰ってきた時には、まだ春那さんも深夏さんも殺されていなかった。恐らく、今回やつらが渡辺さんの後に殺そうとしたのは――秋音ちゃんだったんじゃ?
だけど、僕と鹿波さんが秋音ちゃんと一緒に学校に行っていたし、春那さんは会社に行っていた。
だったら深夏さんと冬歌ちゃんが狙われるはずなのに、やっぱり順番なのか? 予め書かれた台本があるのだろうか?
僕は再び深夏さんを見た。
そして下の方に目をやると、カッターシャツの胸元が無理矢理開かれたのだろう、ボタンが取れかけており、細い糸でようやく繋がっているといった感じだった。
首には冬歌ちゃんのと同じ赤いお守りが掛けられている。
僕はそれに手を掛けると、布の感触しかしなかった。この中には深夏さんの誕生石が入っていたはずだ。
僕はゆっくり、そのお守りを開いてみたが、中には何も入っていなかった。
やっぱりやつらは眼球のほかに、彼女達の誕生石も盗んでいる。
どうして前の僕はそれに気付かなかったのだろうか?
否、そもそも、彼女達がそれぞれが誕生石を持っていた事事態を知らなかったんだ。
やつらは眼球を盗んで、何かをしようとしている。
だけど、もしかしたら、その誕生石も何か意味があるのかもしれない。
「っ……!」
本棚から声が聞こえた。誰かいるのだろうか?
――まさか、犯人?
「……げほっ? ごほっ!」
その声は、まるで襲う事が億劫といった感じだった。
「あ、あの?」
僕がそう声をかけてしまう。
「若い男性の声? この声って……も、もしかして、貴方が瀬川正樹さんですか?」
そう言うと、本の山が徐々に盛り上がっていく。
恐らく、その中に隠れていたのだろうか?
「そ、そうですけど? あ、貴女は?」
僕が躊躇いながら訊くと、「申し遅れました…… 私は警視庁の管理官をしている植木舞と申します」
「う、植木舞さん? 早瀬警部が信頼している?」
「そう言ってもらえると有り難いですけど、今はそんな事は言えません。早く先輩に言わないと、取り返しのつかない事に――――」
そう言うと、ゆっくりと舞さんは僕へと近付いてきた。
「少し、肩を貸してはくれませんか?」
そう言われ、ようやく彼女の容体に気付いた。
彼女のお腹が真っ赤に染まっていたのだ。
彼女の表情もまるで絶望の中から一つの光を見つけた。
そんな感じだった。
僕は書斎を出ようとした時、深夏さんの死体を見た。
「私が隠れていると、犯人は深夏さんをあの状態で書斎の机に坐らせていました」
「あの状態って、それじゃ既に別の場所で殺されたって事ですか?」
「恐らく。しかし、その犯人がその事を早く早瀬警部や他の方々に言わないと」
たった数メートルほどしか離れていないはずなのに、もう何分も歩いていた気がしていた。
広間の襖を開けると、僕と舞さん倒れるように入っていた。
「ま、舞ちゃん?」
『舞さんっ?』
春那さんと秋音ちゃん……そして早瀬警部は予期せぬ来訪者に驚いていた。
心成しか鹿波さんも僕と舞さんを交互に見遣っていた。
「い、一体どこに?」
「しょ、書斎に……」
「書斎に? どうしてそんな場所に――」
その問いに舞さんはゆっくりと立ち上がろうとしたが、「動かないで下さい! 秋音、母さんの部屋から!」
「ちょっと待って、一人で行かせるのは危険でしょ?」
そう言うと、鹿波さんは着ていた服を脱ぎはじめた。
薄い紫のブラジャーを露にしながら「秋音、ごめん!」
そう秋音ちゃんに謝ると、着ていた服を裂いた。
裂かれた服は細く、まるで包帯のようだった。
否、包帯の代わりだろう。
それでも足りなかったのか、鹿波さんはズボンも抜き、下着のみの姿になっていたが、彼女の表情から羞恥心というものが見当たらなかった。
否、この状況で羞恥心なんて言ってられる場合ではないだろう。
「ちょ、ちょっと待って下さいっ! 姉さん、確かそこの箪笥にタオルあったよね?」
秋音ちゃんにそう言われ、春那さんはテレビのうしろ斜めにある箪笥を開け、真白なバスタオルを鹿波さんに渡した。
タオルを渡された鹿波さんは、ようやく自分の姿に気付いたのだろう。
小さく悲鳴を挙げると、そそくさとタオルを身体に巻いた。
恐らく、無我夢中で行動してしまった所為で、自分がどんな姿をしていたのかわからなかったのだろう。
「その格好じゃ、寒いでしょ?」
春那さんがそう言うと「ありがとう。でも……」
と俯きながら、春那さんと秋音ちゃんを見遣っていた。
「咄嗟の判断でしたし、鹿波さんの行動は間違ってません……」
秋音ちゃんがそう言うと、鹿波さんは安堵の表情を浮かべた。
「舞ちゃん、少し休みましょう。報告はそれからでも」
早瀬警部がそう言うが、舞さんは遮るように「それじゃ、それじゃ駄目なんです! やつらが、渡辺洋一と坂口繭、大内澪がグルになって、耶麻神グループの連続自殺を仕向けていたんです」
その言葉に対し――「ど、どういう意味ですか?」
春那さんが信じられない様子で答えを待っていた。
「春那さん、繭さんがどうしてこの屋敷に住み込みで働いているのかはご存知でしたよね?」
そう舞さんが言うと、春那さんは少し考えて「ええ、深夏と同じ学校に通っている繭さんが朝に弱くて、電車でも一時間はかかる場所に暮らしているから、不便だと思った深夏がここに住み込みでアルバイトさせてるのよ」
「ねぇ、その場所って、本当に一時間もかかる場所なの?」
「待って! 確か…… **町だったから この町の高校に通うにしても、やっぱり一時間以上かかる」
仮にも住み込みさせている手前、実家の住所は記憶にあったのだろう。
春那さんが愚痴を零すように吐いた。
「――にしても、何故、そんな事を?」
僕が不思議そうに言うと「深夏姉さんを監視するため?」
秋音ちゃんも不思議そうにそう呟く。
「そう考えると、道理があいますな?」
確かに繭さんが関与していたのなら、これ以上にない適材適所だ。
「でも、もし澪さんと繭さんが犯人なら……理由は? どうして澪さんはタロウ達をあんな目に合わせる理由があるの?」
「澪さんがタロウ達を懐かせ、自分以外の人の命令を余り聞かせなくしたのなら、元々殺しの道具として」
途端、舞さんは口を止めた。
それ以上言うと、彼女達を傷付けてしまうと思ったのだろうが、時既に遅しと言った感じに、二人は暗い表情を浮かべていた。
しかしそう考えても可笑しくはなかった。
現にタロウ達は澪さん以外の命令は余り聞かないと二人自身わかっていたからだ。
「正樹? 舞さんの言っている事が本当なら」
そう鹿波さんが声を掛けて来て、そちらに振り向くと、彼女は先ほど春那さんから渡されたタオルを肩にかけているだけだった。
僕は冷静を装いながら――
「渡辺さんも、澪さんと繭さんも殺されてなんかなかった。広間で見たあの二つの死体は彼女達のものではなかった」
「ええ! まるで四十年前の政治家殺人と同様に」
「つまり、あの一家殺害も」
「予め用意していた背格好の似た、他人の白骨死体を用意して、恰もその政治家が殺されたように仕向けた!」
「でも、どうしてそんな事をしてまで何が理由で?」
「正樹、書斎には――」
「深夏さんがいました」
そう僕が告げると、春那さんが立ち上がり、廊下に出ようとしたが僕は止めた。
「如何して止めるんですか?」
その行動に春那さんは僕を睨みながら問い掛けた。
「冬歌ちゃんの死体を見た君達なら想像出来るはずだ」
そう僕が言うと、秋音ちゃんも立ち上がろうとしていた最中だったが、意外にも冷静に僕の考えを察してくれたのだろう。
その場に坐ると、ジッと僕の表情を伺いながら「眼がないんですか?」
その問いに答えたのは舞さんだ。
「眼だけで済むのなら――あんな! あんな綺麗な顔だったのに」
「――だったのに?」
その言葉で深夏さんの死顔が想像出来たのだろう。
「ひぃっ! いぃやぁあああああああああ――――っ!!」
春那さんが僕の横で跪き、絹を裂く声をあげた。
「渡辺さんが犯人だったって事ですか?」
僕が舞さんにそう聞くと、彼女は苦しそうに息をしていた。
「そもそも、渡辺さんが何を目的でこのような事をしているのか。恐らく、一番その答えに近付いていたのは」
秋音ちゃんがそう言うと、春那さんが何かわかったような顔で「父さんだった……それじゃ! 父さんを殺したのも?」
「恐らく、渡辺洋一が仕向けたのでしょうな?」
早瀬警部が悔しそうな表情を浮かべ、僕を見ていた。
「ねぇ、秋音……途端に使用人の人が立て続けに辞めていったのって、父さんが殺される一ヶ月前だったわよね? その時ってさ、妙に渡辺さんの機嫌がよくなかった?」
「う、うん、いやなくらい覚えてる。あの時、春那姉さんが不謹慎だって怒ってた事も」
その話題になった途端、二人の表情が曇っていた。
「あの時の渡辺さんの笑っている顔が、いやなくらいに気持ち悪かった。だから私、恐くてちょっと注意したの」
「それが理由という訳ではないですな? もっと前から、否、もしかすると、春那さんが生まれるずっと前から――」
その言葉に秋音ちゃんが「ずっと前? それじゃ、父さんと母さんに出会ってからですか?」
「それよりも前なのかもしれない」
鹿波さんも曇った表情を浮かべていた。
「父さんたちに出会う前から殺す計画をしていたって事ですか?」
「霧絵の祖父、二人からしたら曾祖父さんに当たる耶麻神乱世が、この榊山で鹿狩りを仕向けた…… 恐らく……」
途端、鹿波さんの視線が舞さんに向けられていた。
「そもそも、どうやって舞さんはこの屋敷に来れたんですか? 道中は土砂崩れで…… まさか! あの土砂を登ってきたんですか?」
そう言うと、舞さんは小さく頷いた。
「はははっ! 彼女らしいと言えば、彼女らしいですな? さすが! 澪さんのお姉さんだけの事はある!」
早瀬警部の言葉に、僕はおろか、鹿波さんも、春那さん、秋音ちゃんも信じられない表情を浮かべていた。
「二十数年前、親の離婚で、澪は母方、私は父方に引き取られました。それから、ずっと逢っていません。澪がここで働いている事を知ったのは、今から五年前――――早瀬警部と一緒に、大聖さんにお会いした時でした」
「その事を澪さんは?」
「知らないと思います。私に逢った時も、余所余所しかったですし、離れ離れになったのはあの子がまだ生まれて間もなかったですから」
舞さんが上目で全員を見ながら、自分と澪さんの関係を述べた。
「えっ? それじゃドックトレーナーの」
「はい。舞ちゃんも澪さんも私と同じ、警察家系でしたからね。もしかすると思いましたが、いやいや、これ以上に自分の勘が当たるとは思いませんでしたよ」
その言葉に鹿波さんが首を傾げながら「どういう意味ですか?」
と、早瀬警部と舞さんを交互に見遣った。
「ドックトレーナーとは名ばかりに、実際は警察犬育成士の資格を取らせていたんです。そもそも、彼女は空手もやってますし、警察犬の訓練には飴と鞭が必要ですからな――いや、それ以上に優しさもあったのかもしれませんね」
「だったら、だったらどうして? どうしてタロウ達をあんな目に?」
春那さんが俯きながらそう吐き捨てるが、「だったら、ハナはどうして? もしタロウ達を殺したのが澪さん達だったとしたら、どうしてハナはあの時生きてたの?」
確かに、タロウ達を殺したのなら、ハナ一匹を逃がした事にだって理由が……
まさか? 僕はありえない事を考えていた。
その表情がわかったのだろうか、鹿波さんも信じられない表情で僕を見ていた。
「やつらの中に記憶の障害を受けていないやつがいるって事?」
そう考えれば納得する。今までの順番が今回と違う事。
もし、二度の渡辺さんの死体が、渡辺さんのものではないと説明がつくのなら、あの二度の死体は?
澪さんと繭さんの二度の死体は如何説明出来るんだ?
それに答えるようにあの音が響いた。
僕と鹿波さんにしか聞こえないのだろう。
他のみんなはそれ以外の事で頭が一杯だったのか。
それとも本当に僕と鹿波さんだけしか聞こえないんだろうか……
鹿威しが鳴った。