廿漆【8月12日・午後2時24分】
吐き気がする。無造作に捨てられた躯達は何食わぬ顔で私と深夏、早瀬警部を見ている――気がした。
早瀬警部が松葉杖に凭れながら、犬小屋を見回っていた。
一緒に来ていたハナが哀れむように夫であるクルルの躯を舐めている。
その行為を止めさせようとする人は誰もいなかった。
止める事すら愚かだと思ったのだろう。
痛々しく見るに耐えない状況だった。
「何もないですね……」
一回りしてきた早瀬警部が悔しそうに呟く。
「狂犬病を患わせる菌か何かでしたんでしょうか?」
深夏がそう言うと、早瀬警部が頭を振った。
「否、それはないでしょうな。それにどう考えても彼らが家の人間以外のものを受け入れる事はまずないですからなぁ」
「でも、瀬川さんと鹿波さんにはすぐに懐いたよね?」
話が聞こえていたのか、中扉のところで大人しくしている冬歌が訊いてきた。
「確かに、一昨日だって、初めて来た瀬川さんを襲うかと思ったら、懐いてたし。それに、鹿波さんにもすぐに懐いてたわね?」
「タロウ達は本当にいい人は判断出来ますからな?」
そうは言っても、早瀬警部は納得していない表情を浮かべていた。
「でも、それを考慮に入れると、タロウ達をこんな目に合わせたのって、タロウ達が知ってる人って事よね? つまり、私達も知ってる人」
確かに、危険な物を食べさせる事が出来るのはタロウ達が知っている人。だからこそ、渡辺洋一が一番怪しい。
「でも、タロウ達…… 澪さんが遣ったやつしか食わないのよね?」
「えっ?」
私は驚きの余り声を挙げた。
「ど、如何したの?」
私の声に驚いたのか、深夏が訊いてきた。
「屋敷の人間なら誰のでもって訳じゃないの?」
「え、ええ。澪さん、調理師の他に、ドックトレーナーの資格も持ってるのよ。まぁ、これはハナの母親が警察犬だったし、取得したのは、この屋敷に来てから。タロウ達は正式には警察犬じゃないけど、それ相応の実力は持ってるのよ。で、日々の訓練をしてあげてるのが澪さんなわけ」
「それにね? 澪さんが熱で休んでた時、タロウ達の世話を私達がしたんだけど、ご飯全然食べなかったんだよ?」
「貴女達がしても?」
「言う事はきくけどね。でも澪さんの命令なら全部聞いてると思うわよ? 殺せ!って言えば、殺すだろうね?」
「深夏お姉ちゃん! 恐いこと言わないで!」
中扉の前で冬歌がそう叫ぶと、深夏は冬歌の頭を撫でながら「冗談よ、冗談! でも、可能性がない訳じゃないのよ」
深夏がそう言いながら、冬歌を連れて外に出た。
その後をハナが静かについていく。
深夏の言う通り、澪がタロウ達に命令して、殺し合いをさせたとしても「どうしてハナだけを逃がしたんだろう?って事ですかな?」
私が考えていた事がわかったのか、早瀬警部がそう言うと、
「タロウ達は澪だけの命令は必ず聞いていた。だとしても、どうしてそんな命令が出来るのかって事じゃないんですかね?」
私は一昨日見た白骨死体を思い出していた。
タロウ達自身、わかっていたのかもしれない。
この殺人劇をしている奴らを止めてほしい。
だから、私にあれを見せたのだろう。
そもそも……あの白骨死体は誰なのだろうか?
「へっくしょいっ!」
突然、早瀬警部が大きなクシャミをするので、私は驚いてそちらに振り向いた。
いきなり振り向いた所為で変に首をまわしてしまい、小さく変な音が耳鳴りの響いた。
さすがに耐え切れず、その場に跪き、項を摩っていた。
「寒くなってきましたな?」
「早瀬警部って寒がりなんですか?」
「否、今日は例年より寒いとは言ってたんですけどね。まさかここまで寒いとは思いませんでしたよ」
「だったら屋敷に戻りましょう? 先に出た二人も」
途端私は言葉を止めた。
慌しい声がこちらに遣ってきたからだ。
「早瀬警部っ! 鹿波さんっ!!」
入ってきたのは秋音だった。
息も絶え絶えに扉の縁に凭れかかっている。
肩は震わせていて、上目遣いに私と早瀬警部を見遣っていた。
「如何したんですかな? 秋音さん」
入ってきた秋音の表情を察し、ただ事ではないことは目に見えていたが、早瀬警部は敢えて落ち着かせようとして平然とした声を挙げていた。
「ふ、冬歌が……」
「冬歌がどうかしたの?」
その刹那、キッと私と早瀬警部を見ながら「死んでるんです! 池の辺で! 眼球を抜かれた状態で!」
――えっ?
状況が理解出来ず、いや理解なんて出来やしなかった。
さっき、ほんのついさっきまで、私や早瀬警部と一緒にいたのに……?
「ど、どういう意味よ? 冬歌が死んだ? 殺された? 無理でしょ? だって! 深夏が一緒にいたのよ! ハナも一緒になってついているのよ! それに! もし危険な事があったら! いの一番にハナが吼えるでしょうがっ!! しかもっ!! あの二人が出てから、まだ三分すらも経ってないのよっ!!」
「私だって! 私だって鹿波さんと同じ意見ですよ! ハナが危険だと察ししたのなら、吼えるように訓練していますし! それに深夏姉さんの姿も見えないんです!」
私と秋音は興奮の余り、頭が整理出来ていない。
「それに! なくなってるのは目だけじゃないんです! あの子の持っている誕生石もなくなってるんです! あの子が袋に直すのはちゃんと見てましたから!」
「とにかく行った方がいいですな」
早瀬警部に言われ、私と秋音は頷いた。
池の辺に行くと、春那と霧絵が跪いていた。
そのうしろで正樹がジッと池を見ている。
冬歌の死体は、眼球が抜かれていただけだった。
窪んだ場所から、未だに血が流れ落ちている。
それ以外に外傷は一つもなかった。
何一つ、冬歌が抵抗していたという形跡もなく涙腺だけが赫々に糸をひいていた。
「鹿波さん、ちょっといいですか?」
珍しく正樹の方から声を掛けてきた。
静かに正樹の横へと歩いていく。
「深夏さん見ませんでしたよね?」
「秋音にも訊かれたけど、それだと先ずハナがどうしたのか、でしょ?」
「僕もそれを思ったんです。ハナが吼えなかったのが不思議でならない」
「冬歌が危険な目にあっているのに吼えなかった」
私がそう言うと、正樹は小さく頷いた。
「でも、それだとハナ自身が冬歌を裏切ってるって事よ? あの子を安心させようと思って、ずっとついていたんだから」
「勝手な想像ですけど、冬歌ちゃんが深夏さんと一緒に屋敷に戻った後、深夏さんの目を盗んで此処に来たって事はないんですかね?」
「それだと、ますますハナが一緒じゃないと説明出来ないでしょ? 冬歌がいなくなった事をいち早く気付くだろうし、それにそのハナも深夏もいなくなってる」
私はそう言いながらも、正樹の推理も一理あると思っていた。
だけど、それだとやっぱりハナが一緒じゃないのが釈然としない。
「問題は犯人は眼球と紫水晶を盗んでいったって事よ?」
「金鹿之神子は眼球だけじゃないんですか?」
「基本的には遺伝だから……でも貴方と同様の事も出来なくも」
「どうかしたんですか?」
「私、確かに憎悪に蝕まれて、挙句の果てに麓の人間を皆殺しにした。でも、だから可笑しいのよ」
「可笑しい?」
「だって! 私の死体は精霊の瀧に沈んだままなのよ! 四十年前、警察が大量殺戮の捜査をしていて、私の死体が見つからなかったら、不思議に思うでしょ? 私が犯人かもしれない! 私が逃亡して指名手配にしている! でも、既に時効は迎えてるし! そもそも私はあの夜に死んでる! それにすでに死体は腐敗していたり、滝に住んでいる小魚の餌になって、ほとんど白骨でしょ?」
私は出来る限り声を抑えながら言った。
「それでは、四十年前の出来事を知っている限り話してくれませんかな?」
突然うしろから早瀬警部に訊かれ、私と正樹は声も出なかった。
「皆さん、冬歌さんの死体を広間に連れて行きました。それで鹿波さん? 私の父から聞いた話は政治家一家の件だけなんですかな?」
「私が聞いたのはそれだけだし、そもそも直接は聞いてません。文之助さんが祖母に聞いてましたし、第一、私も祖母も政治家の名も知りません。怨みを持つ事事態ありえないんです。神子の力はどのように発揮されるのかはご存知のはずですよね?」
私がそう説明すると、早瀬警部は腕を組んで、「つまり、政治家に感じては貴女と怜さんは関与していないということですな?」
「それだけははっきり言えます。でも、この山で鹿狩りをした麓の人間を皆殺しにしたのは私です。麓の人間はそもそもこの山のしきたり、いいえ、この町のしきたりを破った!」
「――鹿狩りですな?」
早瀬警部がそう言うと、私は頷いた。
「えっと? どういう意味ですか?」
正樹が釈然としない顔で私に尋ねる。
「鹿は神の使いだと言われているの。この山にはそれこそ多くの野生の鹿がいたんだけど、第一次世界大戦の犠牲になって、ほとんどの鹿が焼死してしまった。それでも一匹だけ生き残った鹿をおばあちゃんや集落の人達が大事に育ててたんだけど」
「だからこそ、この山には入れないようになっていた」
「ええ、今みたいに道はキチンとされてない獣道だったのよ。まぁ、私や集落の人たちは慣れてるから全然思わなかったけど」
「あっ! それで昨日獣道を通ったんですね?」
「取り敢えず正樹が獣道を通れた事すら凄いんだけどね? それに、あの一本道以外は何も変わってなかったから、頭の中に入ってたのよ」
私がそう言いながら、指で道を描いた。
「そもそも、集落が出来たのは明治の終わりだって教えてもらってる。それから、一回もこの山から誰も降りてないのよ。それでも山道を知ってるのは、一回だけ山を降りた事があったの。道が出来始めたのは、私が生まれてすぐだった。その時、集落で感染病が流行ったのよ。後々解かった事だけど、それは毒を盛られた熊を食べた所為だったの。私はその時、熱を出していたし、喉も通らなかったから無事だった。その日、私だけ粥を食べただけ」
「ほかに食べた人はいないんですか?」
「私の家は誰も口にしてないし、第一、おばあちゃんお肉嫌いなのよ」
そもそもあの山に熊が出て来た事はなかった。
第一、集落にまたぎなんていなかったし、取りに行くにも罠を張って、猪を獲りに行ってたくらいだった。
途端、私の表情が和らいだのだろう。
「どうかしたんですか? 何か物欲しそうな顔してましたけど?」
「あっ? 否、ちょっとこの山で狩りをしていた人の事を思い出したらね? 何を思ったか、きいても怒らない?」
珍しく私の方が責められてる気がしていた。
「そりゃ内容にもよるでしょうが、何を思ったんですかな?」
早瀬警部がそう言うので、私は少しばかり深呼吸をしてから「否…… 牡丹鍋食べたいなって」
そう言い放つと、正樹と早瀬警部が私を見ながら、唖然としていた。
「そう言う事を言う空気じゃないのはわかってるの! でも、頭の中でそう思ったんだから仕様がないでしょうに!」
「ああ、確かに牡丹鍋はある意味珍しいですからな?」
「今はね。でも、昔は鯨の肉すら当たり前に食べてたけど?」
「鯨って、今は捕鯨って禁止されているんじゃ?」
「昔は当たり前に食べていたんですよ。私が小学生の頃、学校の給食で出ていたくらいですから。若い人は高級品ってイメージがありますかな? でも、スーパーとかに行けば、普通にありますけどね」
何か、話が徐々にずれていっている。
まぁ、いつもの事だし、この中にヒントがある可能性だってある。
「そもそも、どうして捕鯨が禁止されているんですか?」
「いやまぁ、ほとんどが動物愛護がなんちゃらかんちゃらでしょうな?」
「でも、それだと、自然の摂理に反してるのよね?」
「と、言いますと?」
「だって、鯨が食べる魚の量って、想像が出来ないでしょ? その魚を糧に行商をしている人にしてみたら、鯨は厭なものでしょう? 確かに、鯨を庇うのはいい事かもしれないけど、それだと、さっき言ったみたいな事が起きる。そもそも、狩りだって、生き延びる為の手段でしかないのよ」
途端、私は言葉を止めた。
「どうかしたんですか?」
「早瀬警部。鹿威しの意味ってわかります?」
私がそう訊くと、早瀬警部は少し考えてから、「庭に獣を近付けないように、強いては屋敷の中に近付けないようにする為」
「本来は……でも、屋敷の周りは塀で囲まれていて、屋敷を出るには、あの大門を潜らなければいけない。それに、あの鹿威しは私がいた時にはなかったし、獣が集落に侵入してきた事なんか一回もなかった!」
「一回もですか?」
正樹が驚きながら、私に尋ねる。
「ええ、一回もね。別に塀があったりとかじゃなかったの。まるで獣自身が集落に入る事を拒んでいるみたいだった。千智おねえちゃんと山茶花を取りに行った帰りに、獣に襲われた事があって、その時何とか集落まで逃げれたんだけど、獣はうしろまで近付いていて、もう駄目だって思ったけど、その寸前に身体が集落のところまで入ってたんでしょうね? 獣が急に踵を返したように山の方へ去っていったのよ」
「確かに、まるで入るのを拒んでいるように感じますね」
「獣が入ってこないって事は、何か嫌いな臭いがあるとかじゃないんですかな? そう言うのには敏感ですからな?」
早瀬警部の言う通り、野生の獣ほど敏感なはずだ。
人間では捕らえられない臭いがあの集落、もとい、この場所にはあると言う事なのだろうか?
私は屋敷の壁に寄りかかり、空を仰いだ。
少し肌寒い夏空には、まるで何一つなかった。
雲ひとつ。どこを見ても流れていなかった。