廿陸【8月12日・午後1時13分~後1時40分】
厨房で春那さんと深夏さんが釈然としない顔を浮かべていた。
僕が何事かと尋ねると、水道の水が流れないらしい。
蛇口を全開にしても、一向に水の一滴も落ちてこない。
「さっきまで流れてたわよね? 味噌汁とか」
「否、味噌汁は瀧の水を一度暖めて作ってるから、最後に使ったのは、ケーキ作った時の洗い物」
二人が首を傾げながら、そのまま厨房を後にした。
シンクの下は引き戸になっていて、そこを開けると目の前に灰色のパイプが見えた。
特別不思議な感じはしない極一般的なやつだ。
水が漏れている訳でもないし、第一、全開にした時に水が流れてきているはずだ。ただ、直そうにも知識がない。
厨房を出ると、早瀬警部が僕に話し掛けてきた。
「水が流れないみたいですね?」
「そうみたいですね。もしものことを考えて、精留の瀧に行って汲んで来ようと思ったんですけど」
「この状況じゃ無理そうですな?」
早瀬警部がゆっくりと広間の隅っこに坐る。
「今度は餓死させる気でしょうか?」
「それだったら、深夏さんが野菜を持ってこれなかったんじゃないんですかね?」
「確かに、奴らはいったい何を考えているのか?」
「植木警視とは連絡取れないんですか?」
「携帯壊れてますけど?」
深夏さんの問いに、早瀬警部は苦笑いを浮かべながら答える。
「僕の携帯を使っても良いので、まだ土砂崩れのところにいるかもしれませんし」
そう言うと早瀬警部は難しそうな顔で「もういないかもしれませんね」
「えっ?」
「彼女は私より立場上、上司ですからね?」
「でも、植木警視は早瀬警部に」
「彼女も葛藤してくれているんですよ。立場上組む事はまずないですからな。まぁ、私が調べられない事を調べてくれてはいますが」
ゆっくりと早瀬警部は視線を霧絵さんに向けた。
今までの疲れが出てきたのか、霧絵さんはウトウトしていた。
「霧絵さんがどうかしたんですか?」
「実は少し前に耶麻神家の事を調べなおしたんですけどね。その報告書を作ってくれた人が妙な事を書いていたんですよ」
「妙な……事?」
「会社で連続して自殺しているというのは前に話しましたね? それより前に一人いなくなっているんですよ」
「行方不明って事ですか?」
「否、行方不明というよりは既に亡くなっていると言った方が良いでしょうな? 名は【大河内智紀】、耶麻神グループを大きくした張本人ですよ」
「懐かしい名前ですね?」
「やはり覚えてましたか?」
霧絵さんが横目で僕達を見ていた。
「智紀さんとは幼馴染で、会社運営の時はよくしてもらっていました。ただ、四年前に私はこの躰だったのでいけませんでしたが」
「あれは酷い事件でしたな」
早瀬警部は思い出したように目を細めた。
「何があったんですか?」
「四年前の冬。本社の社員数名で岐阜の白川卿に観光旅行に行ったそうです。世界遺産にも登録されている白川卿の合掌つくりは有名ですからな」
「その帰り道、バスの運転手の運転ミスで崖から転落したんです。乗客員全員が即死でした」
それを聞くや、一瞬、頭に痛みが走る。
今までと違う痛みだった。
「でも、この事件は公にされなかった」
「どうしてですか? そんな大事故なのに報道されないのは可笑しいんじゃ?」
「瀬川さんの言う通り、こんな大惨事を公にしないのは可笑しいんです。でも一向に報道されなかったし、元々岐阜県警の事件でしたからね、管轄外の私にはどうする事も出来ませんでした」
「それでちょっとした交換条件を持ちかけたんです」
「交換条件?」
「一つは私の知っている耶麻神家の事を調べてもらう事。もう一つは」
「もう一つは?」
「情報料百万円を振り込む事」
霧絵さんが俯きながら言う。
「そんな事したら――」
「瀬川さん。彼女にとって社員は家族同然なんですよ」
「――えっ?」
「彼女が金持ちの出だという事は知ってますよね? 彼女一人娘で、駆け落ち同然に大聖君とこの榊山に来たんですから」
「か、駆け落ち?」
僕は一瞬霧絵さんを見遣った。
どう考えてもそんな大胆な事をするような人だとは思えなかったからだ。
「そんな彼女にとって、社員は家族同然なんですよ。家族が事故にあって、その現場検証もさせてもらえない。否、岐阜県警は捜査本部を立ち上げるどころか、運転手が運悪く、凍った水溜りに足を取られてしまい転落したという、余りにも簡単な理由で処理してしまったんです」
「もちろん私も大聖さんも春那も、岐阜県警に再捜査を懇願しましたが、立ち入ってもらえず」
「それでそんな交換条件を?」
僕がそう言うと、霧絵さんは小さく頷いた。
「ですが、やはり邪魔されましたが」
「と言いますと?」
「その報告書が届いた時、封筒は異様に濡れていて、書類は水浸しで重要な部分が読めなかった。否、それよりも、それを届けてくれた巡査が不慮の事故にあって死んだそうなんです」
早瀬警部がそう吐き捨てた。
「まさか、それって?」
「恐らく、一連の事件との関係性はあるでしょうな? 奴らにとって、都合の悪い事が書かれていたんでしょう」
疲れたのか、早瀬警部はゆっくりと目を瞑った。
一瞬死を覚悟したが、数分もしないうちに寝息を立て始め、僕と霧絵さんはホッとしていた。
「間違ってるでしょうか?」
霧絵さんが僕にそう問い掛ける。
確かに売買してしまったのは間違いだったのかもしれない。
けど、大切な人の死因を教えてもらえなかった霧絵さんの事を考えると……
否、霧絵さん以上に知らせなければいけない人がいるんじゃないのか?
「あの、その乗客員の御家族には連絡してないんですか?」
「家族の方も報告されてませんでした。それで訴える形で岐阜県警に懇願していたんですけど、日が経つに連れ、一人、また一人減っていったんです」
「どういう事ですか?」
「わかりません。ただ一人の方が妙な事を」
「妙な事?」
「もう諦めたと……」
霧絵さんが申し訳なさそうに小さく呟いた。
「そ、そんな事を? どうして! どうしてだよ!? 大切な家族が理由もなしに事故に遭ったっていうのに?」
僕が声を荒らしたところで変わらないのだろうが、挙げずにはいられなかった。
刹那、頭の中で思考が混乱していた。
――四年前? 何故かその時何をしていたのか覚えていない。高校一、二年の冬。何故かその時の記憶がなかった。
「やっぱり、合いませんでしたか?」
広間で人目も憚らずに、私が横っ腹を扱っていたものだから、秋音が心配そうに聞いてくる。
「なに、なんかあった?」
深夏が訊いてくると、秋音が私にお下がりのやつを貸してあげていると深夏に伝える。
深夏は納得した様子で「秋音ってBだっけ?」
「えっ、そうだけど? ……ってか何で知ってるの?」
その問い掛けに、深夏は驚いていた。
「否、何となくね?」
「深夏、何か釈然としない顔ね?」
「いや、本当に何となくなのよ? でも何でかな? 一回秋音のおっぱい触った記憶が」
そう言われ、秋音は胸元を隠しながら後退りをしていた。
「いや、別に触らないわよ! そんな趣味ないし!」
「でもさ? それだったら、春那姉さんも不思議な事言ってたよね?」
「ああ、昨日の電話でしょ? あれ本当なんだったのかしら?」
春那が考え込んでいると、冬歌が小さな指先で自分の誕生石を扱っていた。
「そういえばさ、冬歌。あんたどうして【四神】なんて難しいやつ知ってたの? 私も結構父さんの持っている書物読んでるけど、貸してくれた中に青龍とか、玄武とかそんな類の物語はなかったわよ?」
深夏がそう言うと、冬歌はキョトンとした顔で「えっとね? 覚えてない」
と言った。
『――えっ?』
物の見事に私と秋音、深夏、春那の言葉が合わさった。
「覚えてないってどういう事? お話くらいは聞いてるんでしょ?」
「だって本当に覚えてないんだもの! ただ鹿波さんが言っていた青龍が出てきたから何となく」
その何となくがヒントになってるんだけど……
当の本人が自覚してないのか――
「でもね? 一回だけお父さんに内緒で書斎に入った事あるの」
その言葉に私は唖然としていた。
「入ったって、どうやって? だってあそこはお父さんしか入れないのよ? 鍵だってお父さんの持っているやつ以外ないんだから」
春那がそう言うと、深夏と秋音も驚いた表情で頷いていた。
「だって! 入った事あるもん! お父さんいない時に!」
「だから、どうやって? あそこには窓もないし、あったとしても、棚に隠れてしまっている!」
確かにあそこには障子窓なんてなかった。
「えっとね? 誰かに連れて行ってもらったの」
「誰かに?」
何時の間にいたのだろうか、正樹が霧絵と一緒に深夏のうしろにいた。
「誰に? 誰に連れて行かれたんだ!」
正樹が興奮の余り、冬歌を掴み挙げる。
「落ち着きなさい! 正樹!」
私が素早く後ろに廻り、正樹を羽交い絞めにする。
「げほっ! げほっ!」
「ちょっと、どうしたんですか? 瀬川さん」
冬歌と正樹を交互に見ながら、深夏が困惑した表情を浮かべる。
「ちょっと、正樹を連れて行きます!」
私はそう言うや否や、正樹を廊下へ――書斎のところまで引っ張り出していた。
静寂した廊下に乾いた音が響いた。
その音がした刹那、正樹はやっと我に返ったように、その痛みがする所を触っていた。
「落ち着きなさいよ! あの日、冬歌をこの書斎に連れて行き、殺した相手が誰だったのか。その時の冬歌にしかわからないのよ? 今の冬歌に聞いても意味がないでしょ? それに、もしかしたらその時どうやってこの書斎に白骨死体を入れられたのか、それすらわかってないでしょ?」
「たしかにそうですけど」
正樹は視線を私に向けようとしない。
「どうしたの?」
「いや、どうして僕はここに来たのかなって?」
その問い掛けに私は首を傾げた。
「だって、僕はあの子達の、皆の死んでいく所を見ているんだ。僕の知らない僕が、その知らない僕の知らない僕が…… もう嫌なんだよ! もう誰かが殺されていく姿を見るのが」
その悲痛にも似た、正樹の表情を見ながら私は「厭なら出て行けば? あなたは二度もこの世界から逃げた。だったら今回も逃げれば! 逃げてもう二度とこの屋敷に来なければいいじゃないの!」
私は自分で言っていて愚かだと感じた。
――ああ、まただ…… まただ……って……
「私はね? 本当だったら何も出来ないのよ? 私が死んでいる事は知ってるでしょ? 四十年前の大量殺戮事件の際に、あの精留の――いいえ、青龍の瀧で私は死んだ! それに本当ならここに人が来る事なんてなかった。だけど、ある人がこの屋敷を造った。そして、大聖と霧絵がこの屋敷に住み着いた。私はね? あの子達がこの家に来た時から見ているの! ずっと! 陰ながら見ていたのよ! 話す事も出来ず、触れる事も出来なかった。あの子達が抱えている悩みだって、聞いてあげられなかった」
私は跪き、悲鳴を挙げていた。
「でも! 正樹、貴方がここに来てから、あの子達変わったのよ? 皆変わったのよ? 凄くいい笑顔をしてくれてるの! 確かにあの子達は血が繋がってない。何処か他人行儀みたいな感じだったの! でも、貴方が来てくれてから、あの子達本当にいい笑顔を見せてくれるの。屈託も何もない、本当に素直な笑顔」
私はそう言いながら、正樹の目をジッと見ていた。
「私も、初めて精霊の瀧で貴方を見た時、不思議な感じがしたの。だって! 余りにも、余りにも」
途端、私は自分の声が聞こえなくなった。
何を言おうとしていたの?
名前は知ってるはずでしょ? 知らない訳ないでしょ? だって……
私の大切な、一番大好きな、一番逢って謝りたい人なのに――
「――鹿波さん?」
正樹が心配そうに私を見ている。
「ごめんなさい。でもね、正樹が本当に厭になったら…… 正樹だけでも逃げていいのよ?」
私はスッと立ち上がり、ズボンについた埃を払っていると、
「四年前の記憶がないんです」
「――えっ?」
「さっき、早瀬警部からある話を聴いたんです。四年前、耶麻神グループを大きくした人が転落事故で死んだって言う話を。その時、頭の中で四年前に何をしていたのか、思い出していたんです。でも出てこなかった。普通だったら思い出しているはずなのに」
正樹が困惑した表情でジッと下を見ていた。