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廿参【8月12日・午前9時14分】


 書斎を出た後、廊下で冬歌と出くわした。

 本人はどうして家にハナがいるのか不思議に思いながらも、臨機応変がきくためか然程気にはしていなかった。

 ただ、霧絵から言いつけられているのか、屋敷から出られない事が不服らしい。


 寝転がっているハナのお腹を撫でていた冬歌は、次第に耳をお腹に添えた。

 そんな事をされても一向に気が()れないのは、ドーベルマンがもつ『主への服従心の強さ』もあると思うが、強いて云えば、過去の記憶があるからだろう。

 現に当のハナは眠っていた。

 幼い冬歌を怖がらせないためにも、安心させる事が彼女なりの答えであろう。


 今思えば、早瀬警部と精霊の瀧にいたというのも納得が出切る。

 タロウとクルルがハナを逃がしたのは、恐らく彼らが何かで狂わされる以前に誰かが犬小屋の鍵を開けた。

 それがやつらの仲間かどうかはわからないが、少なくとも彼らはハナだけでも逃がしたかったという事だ。

 まぁ、ハナが寝ているのはやつらに逃げた際、体力を使いきったせいもある。


 そんな私の視線に気付いたのか、冬歌がゆっくりと起き上がった。

 私が小さく笑みを浮かべると、冬歌はうしろに倒れると、下敷きになったハナが小さく悲鳴を挙げた。――可細い声だ。

 冬歌は寝返りを打つと、ハナは何事もなかったように彼女の額を舐める。

 冬歌はキャッキャッと笑い声を零していた。


『い、犬が出切てる――』


 心の中でそう呟くしかなかった。

 子を産んだ後の母親は人間にしろ、犬にしろ気が立っている。

 それなのに一向に吼える気配が見えないのは、彼女自身、自分の子を守れなかった事もあるのだろう。

 彼女の優しい目の奥に、何か畏怖する輝きがあったからだ。


「冬歌ッ! そんな事したらハナが苦しいでしょ?」


 うしろから声がしたので何事かと思ったら、深夏が手を腰に添えて仁王立ちで冬歌を見ていた。

 冬歌はゆっくり起き上がると「ごめんね」

 と言って、起き上がったハナの額を撫でた。

 不思議な光景である事に変わりはないのだが、小さい頃からタロウたちを見ていた冬歌だからこそ、恐くはないのだろう。


 別にハナが優秀という訳ではない。

 ドーベルマン自体、主への服従心が他の犬に比べて強いだけである。

 もちろん違いは多々あるが、それでも彼女達の優しさで育てられた彼女は恩返しと言う感じだろう。

 ドーベルマンが番犬として、もっとも相応しいのはその服従心があるからだ。


 それを考えていると、一つ不可解な事が脳裏に浮かんだ。

 そんな彼らが如何してみすみす殺されてしまったのだろうか?

 まだ答えの出ようがない分、確かな事はわかからないが、屋敷にいる人間だったからだろう。

 それも、私はおろか、正樹も知っている人物――

 渡辺以外の何者か……


「ところで、どうして深夏がそこから現れたの? あそこって、裏口よね?」

「顔洗いに行ってただけよ」


 私が怪訝な表情を浮かべるのを見ると、申し訳なさそうに頭を振った。


「ねぇ、冬歌? 繭に何か聞いた事ある?」


 深夏がハナと遊んでいる冬歌にそう訊くが、冬歌は知らないと言った感じに首を横に振った。


「どうかしたの?」

「否、一昨日の夜、秋音の吹奏楽部の顧問の先生が不正を働いていて、それが耶麻神グループの口座に入れられているって話があったでしょ? その時に澪さんと繭が春那姉さんに通帳を渡したのよ。姉さんが会社に行った後、銀行で照合してみたらしいんだけど……」


 歯切れの悪い言葉に私は首を傾げる。


「その時に何故か繭さんの口座だけが照合が合わなかったの」


 広間の方からエプロン姿の春那が手を拭いながら歩み寄ってきた。

 よく見ると、エプロンは所々粉塗れになっている。

 それに厨房の方から香ばしい匂いが漂ってきた。


「春那お姉ちゃん、何作ったの?」


 こんな状況でも食欲が優先された冬歌は、眼を輝かせながら春那に尋ねる。


「冬歌と深夏が好きなもの……」


 そう言われ、当の二人は首を傾げた。

 ただ、論より証拠と言わんばかりに冬歌は広間に入っていく。

 冬歌のうしろについていたハナは広間の前で邪魔にならないように臥した。


 数秒して冬歌が戻って来た。その表情は何処か不安そうだ。

 と言うよりも、何か言いたそうに春那を睨んでいた。

 甘いもの好きなはずの冬歌の様子を見て、深夏は少し顔が引き攣っていた。


「――春那? 何作ったの?」


 私が何気なくそう訊くと「以前、澪さんに教えてもらった【キャロットケーキ】を秋音と作ってたんですよ」

 その鶴の一声で深夏と冬歌の表情は青褪めていく。


「ね、姉さん?」

「うぅ――」


 人参の苦手な二人が訴えるように春那を見ている。


「一昨日の夜食べられるようになったでしょう?」

「そ、そうだけど――」

「それにあの澪さんから教えてもらったのよ? 味は保証するから」


 何の根拠か春那が自身たっぷりにそう言い切ると「否、味音痴の姉さんだから不安なのよ! まぁ、秋音が一緒に作ったんなら食えるんだろうけど」

 その言葉に冬歌は激しく頷いた。

 その反応に春那は不服そうに頬を膨らました。


「まぁ、極力人参の味は抑えてるはずだから、好きな時に食べなさい」


 そう言うと春那はエプロンを外しながら自分の部屋へと戻っていく。


「は、春那? ちょっと話は?」


 私が慌てて呼び止めると、彼女もそうだと言った感じに振り返った。


「そうだった。ねぇ? どうして繭の口座だけ照合出来なかったの?」

「繭さんの銀行口座自体があわなかったんじゃなくて、銀行自体の口座が合わなかったのよ」


 その返答に深夏が首を傾げた。


「えっと、だって銀行はずっと変えてないんだよね? 私達と同じ――」

「そっ、澪さんも同じ銀行の口座だし、今までの人達だって同じ銀行に口座を作ってもらってる。だから照合が合わないのは可笑しいのよ……」

「――どんな感じに?」

「銀行は確かに同じなんだけど……その給与受け取りが可笑しいのよ。これは父さんの意向で面倒だからって事で、元から銀行にその口座に給与を入れるようにしてもらってるみたい。深夏達のお小遣いもそうしてるみたいだし――」


 ふと深夏達という言葉が引っ掛かったが、よく考えたら春那は働いている身だ。小遣いという言葉が合わないのだろう。


「それで、どうして照合しなかったの?」


 深夏がそう訊くと、春那は怪訝そうな顔で「給与は会社を通して銀行に払わされているようになってるの。もちろん、給与明細は渡すけど、通帳に記入されるのには本人が行かないといけないわけでしょ? 先月の給与以降、一切の収支がないのよ」

「別に可笑しくないでしょ? 繭が使わなかっただけって事もあるし……」

「あんたね? 繭さんは仮にもうちが預かっている身で、言うなれば一人暮らししてるようなものなのよ? あんたみたいに父さんに出してもらってる訳じゃないの! 学費とか誰が出してるって云うの?」

 その言葉に深夏は驚くと、申し訳なさそうに俯く。


 繭自身が出していると言いたいのだろう。

 その証拠に通帳には二十万ほどのお金が決まった日に振り込まれるが、それ以外は一切手がつけていないという。


 ふと、廊下の先の窓を見ると、正樹と霧絵が外にいた。

 霧絵は肩にカーディガンを着ていて、正樹に何かを話している。

 遠くにいたせいか、会話が聞き取れない。

 ただ、近付けばいいだけの話。

 それなのに、近付く気がしなかったのは、正樹自身の問題だったからだ。

 私にすべき事はこれ以上被害者を出さない事。

 そう考えながら、深く深呼吸をした。


 ――何故か心が落ち着かなかった。


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