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廿壱【8月12日・午前6時42分?午前7時23分】


 早瀬警部が正樹の部屋で寝ている最中、廊下から冬歌の声が聞こえていた。

 本人は眠気眼で彷徨っているようなものなのだが、見ているこっちは気が気ではなかった。


 一つ、深夏が欠伸をする。結局全員寝ずの晩になってしまったからで、霧絵に至っては今にも倒れそうなほどに表情が曇っていた。


「瀬川さん、鹿波さん。少しよろしいでしょうか?」


 そう言って、正樹の部屋の襖をスッと春那が開き、「朝食の用意をしたいのですが、農園まで行けますでしょうか?」

「外に犯人がいると言うのに?」

「危険は承知の上で申しているのです。今は広間に入れない状況ですので、厨房にも……外から入れば良いですけど、その鍵がどこにも見当たらなくて」

「それじゃ? 奴等はそこから屋敷に入ったって可能性も?」

 正樹がそう言うと、春那は少し考えてから、そうかもしれないと頷く。


「でも可笑しくない? いきなりそんなところから入って来て、あの二人が声をあげないなんて。それにあの時間、早瀬警部以外は全員屋敷の中に居た」


 私がそう言うと正樹は、「アと吐く暇もなかった?」

「……刹那って事?」

 私がそう付け加えると、コクリと頷いた。


「でも、冬歌以外全員が母さんの部屋に居たのに、物音一つしなかった。私達が気付いたのは物音がした後! それに気付いて、すぐ瀬川さんが広間へと駆け出した! 母さんの部屋から広間まで、ホンの五歩もない! 秒数から言って五秒すら掛からない距離。そんな短い時間に逃げれるはずが無い! 澪さんと繭がたてたとしても、あの二人の遺体からは想像出来ない! つまりその犯行以降に誰が物音をたてたのか?って事じゃない?」

「瀬川さん? 精留の瀧で早瀬警部とハナを見付けた時…… 外には誰かいましたか?」

「いいえ? でも、早瀬警部が昨日の夕方、屋敷を後にしようとした時、怪しい人物を見たって言ってましたけど?」

「どんな?」

「植木職人みたいな……」

「えっ? この屋敷に植木なんて無いわよ? 有るとすれば、池の辺に咲いている花くらいで、後は最初から植えられてた木ばかり、父さんからよく神木だって言われてたから……」

「手付かずって事ですか?」


 正樹にそう言われ、春那は頷いた。

 春那は何を思っているのか、頻りに正樹を見ていた。


「あの瀬川さんの携帯ってワンセグとか見れますか?」


 春那にそう言われ、正樹は頷き、携帯をズボンのポケットから取り出した。

 携帯から映し出されたのは若干砂嵐が入り込んではいるが、音声は聞き取れる。


「今の時間って、ほとんどがニュースですよね? この山で土砂崩れが起きているっていうニュースも入ってるんじゃないかって?」


 それを聞いて、私と正樹は目を疑った。


「ど、どうして?」

「それが、正樹さんが戻って来て、冬歌の部屋に来た時、植木警視に連絡をしたっと言うのを思い出して……」

「確かに……遅過ぎる」


 そう言うと、正樹は慌てて立ち上がり、襖を開けた。


「瀬川さん?」

「二人はそこにいて下さい!」


 そう言い放つと、正樹は部屋を出た。

 すぐ後に玄関の戸が開く音が聞こえた。


「瀬川さんは?」


 さっきまで眠っていた早瀬警部が重苦しい躰を起こしながら、部屋中を見渡す。


「早瀬警部? それが……」


 春那が事の詳細を早瀬警部に説明すると、「こうしてはいられません」

 そう言って、早瀬警部は起き上がろうとするが、力がうまく入らず、その場に倒れ込んでしまった。


「年ですかな? これくらい直に回復していたんですが……」


 早瀬警部が申し訳なさそうに私達を見ていた。


「ちょっと見て来ます!」


 そう二人に言うと、私は部屋を出た。


 二人が茫然と巴を見ていた時気付かなかっただろうが、携帯から流れるニュースキャスターの小さな声がこう告げていた。


『四十年前、榊山で起きた、大量猟奇殺戮の真相。犯人は当時十四歳の少女、気狂いによる犯行』と……


 すぐ後を追いかけているはずなのに、嫌な予感はしなかった。


「……正樹!!」


 正樹に追い付くと、彼は土砂崩れが起きた場所に立っていた。

 やはり今回も土砂崩れが起きてしまい、警察が屋敷へと入れないようになっていた。


「正樹!」


 私の声に気付かないのか、正樹は頻りに地面を踏んでいた。

 少しばかり大声を出し、ようやく正樹は私に気付いた。


「鹿波さん?」

「どうしたの? さっきから地団駄踏んで」

「それが……可笑しいんですよ? 昨日雨が降っていた筈なのに、水たまりが一つもなかった。それに、地面は全然湿っていない」


 そう言うと、正樹はスッと岸壁を見た。


「鹿波さんが言っていた通り、犯人が爆弾を使って、土砂崩れを起こしていたのなら」


 そう言われ、私はハッとした。

 岸壁には焦げ目が一つもなく、その崩れ方も可笑しかった。

 奴等が爆弾で土砂崩れを起こしているのなら、防空壕から爆弾を仕掛けたとしても、その上に植えられている木が崩れ落ちて来ているはずだ。

 それなのに、その場に有ると言う事は……


 土砂崩れが起きるのは、その地面のバランスが崩れた時に起きる。

 岸壁の上に有る木はそれこそ、ギリギリの場所に植えられていた。

 その木をまるでうまく落さないように、岸壁は半月の如く、えぐり取られていた。


「奴等はどこから土砂崩れを起こしてるの?」


 私がそう言うと、正樹が人差し指をたて、口元に当てた。少し静かにしろと言う事だろうか? 私が少し怪訝な表情を浮かべると……


「****! ****!」


 女性の声が聞こえた。その声が土砂崩れの先から聞こえる。

 それに、パトカーのサイレンの音も聞こえていた。


 途端に私は正樹を見た。


「あの! 大丈夫ですか?」


 正樹が岩影から大声で呼び掛けた。


「****! ****!」


 聞こえないのか、正樹はふと頭上を見上げた。


 土砂は大凡、二、三メートルはあり、登ろうと思えばそんなに難しくはない高さだった。

 でも、登れなかったのには理由が有る。

 余りにも不安定で、一番上の大きな岩がグラグラと揺れていたからだ。


「正樹! こっち! こっちからむこうに行け……」


 私が茂みに入ろうとした途端、正樹が私の手を引っ張った。


「鹿波さん……そっちは……」


 そう言われ、私はゆっくりと足下を見た。

 踏み出していた右足が宙ぶらりんになっていて、まるで底の見えない谷のような状態になっていた。

 正樹が私を引っ張っていなければ、私はその侭落ちていただろう。

 正樹に引っ張られ、その場に尻餅を付いた。


「一度、屋敷に戻りましょう! 早瀬警部にこの事を伝えないと……」


 正樹が冷静な顔でそう言うと、私は少し納得のいかない表情で頷いた。



「あっ」


 僕と鹿波さんが山道から戻ってくるや否や、玄関先に立っていた深夏さんがそれに気が付き声をかけた。

 何か聞きたかったのだろうが、僕たちの表情を見るや、そのまま視線をそらした。


「姉さん見なかった?」

「春那さんだったら、僕の部屋に居ると思いますけど?」

「瀬川さんに野菜を取ってきてくれって、伝えに行ったきり、帰ってこないから心配で」


 深夏さんは不安な表情で辺りを見渡している。


「ねぇ、鹿波さん? もし、私の勘違いだったらあれなんだけど? 昨日姉さんが警察に電話した時、可笑しい感じだったのよ?」

「どんな風に?」

「まるで電話が壊れているような口調で…… でも、電話はちゃんと使えたし、早瀬警部にも伝えたのよね?」

「あの時はやつらの仲間に繋がっていた可能性があるみたいです。警部曰く、舞さんに連絡はしたんですけど……」


 僕が言う前に深夏さんが人差し指を僕の唇に添えた。

 それ以上言わなくてもわかったと言った感じだった。


「でも、土砂崩れが起きるほど、昨日は雨は降ってないのよ?」

「奴等が昨日の遠雷に紛れて爆弾を使った可能性もあったと思ったけど…… 土砂には焦げ跡が一つもなかった。仮に防空壕から外に出るように壊したとしたら、バランスが崩れて奴等自身御陀仏だったはず」

「で、でも…… その上にあった木が助かっていて、その下から抉り取るみたいに土砂が崩れてたんです」


 僕がそう伝えると、深夏さんは思い出したように「それって、【さかき】っていう木よ?」

「榊?」

「読んで字の如く【神ノ木】って伝えられている木。植えられた土地は栄えると言われているみたい」

「それって、大聖さんの?」

「うん、受け売り。でも、あの木が無事だったって事はちょっとホッとしてる」


 その言葉に僕と鹿波さんはキョトンとした。


「あれから気になってたんだけど、本当に全員が殺されるの?」


 突然、そう聞かれ、僕はドキッとした。


「否、気にしないで。でも、わからないけど、この日に私がいるのが妙な感じがして…… 春那姉さんも同じ事いってたから」


 深夏さんが訝しげな表情で云う。


『もしかして、皆にも記憶が?』

 僕は深夏さんに聞こえないように、鹿波さんに耳打ちをした。

『わからないけど、でも昨日警察に電話した時の春那の様子から察して、最初の時に電話が壊された事を覚えていたという事になるわね?』

 僕は出来る限り、自分の記憶の奥底まで探り出していた。


 確かにそんな事があったかもしれない。

 でも、確かあの時、誰かが電話したとしか考えられない事が起きた。

 早瀬警部と如月巡査が屋敷に来たんだ。それは誰かが連絡したとしか考えられない。

 それを犯人がしたとしたら、それは自ら自分の首を絞めているとしか考えられない。これも奴等の狙いなのだろうか?


「舞さんに連絡は出来ないんですか?」


 僕がそう問うと、深夏さんは頭を横に振った。


「したくても、出来ないの。舞さんの携帯番号、私物のしか知らないから」

「と、言うと?」

「仕事に支障が起きてしまうからって…… 本当は持って置きたいんだろうけど、あんな事が起きてしまって……」


 深夏さんは話していいものか、悩んでいるような表情だった。


「秋音が小さい頃、誘拐された事は知ってる?」


 それを聞かれ、僕はどう答えていいのか、返答に戸惑った。


「ごめんっ。どうしてか知ってるような気がして…… ――その時、一緒に男の子がいたらしいんだけど、秋音が雷とか耳を劈く音が極端に嫌いになった原因が目の前でその男の子を撃たれた事なの。幸い男の子は肩に弾丸が当たっただけで済んだ。でも、それは表向きでの話。本当だったら、一番に謝罪しなければいけなかったの…… 犯人ではなく、私達耶麻神家が……」

「――どういう意味?」

「誘拐犯は身代金欲しさに秋音だけを誘拐しようとした。でも、その時一緒に帰っていた男の子も一緒に連れて行かれた」

「でも、一緒に帰る事に何の不思議もないんじゃ?」

「犯人は秋音が一人で帰る瞬間を狙っていたって早瀬警部から聞いたの。もちろん、父さんと話しているところを盗み聞きしていただけだし、まだ小学生だった私は二人が何を話しているのかさっぱりわからなかった。でも、今回の犯人が何かを探しているって事はやっぱり耶麻神家に……」


 途端、深夏さんが言葉を止めた。


「深夏? 一回でもいいから自分の運命から逆らってみなさいよ!」


 鹿波さんがまるで夜叉のような目付きで深夏さんを睨みつけていた。


「な、何で? 何でそんな目で?」

「一度でもいい! 秋音がしたように自分の運命から逆らってみなさいって言ってるのよ!」

「だから、私は別に今の生活に困ってないし、耶麻神家が厭だとは思ってない!」

「私が言いたいのはそれじゃなくて! その時、秋音ではなく貴女だったらどうなってたかって聞いてるのよ? 当時八歳だった秋音ではなく、一人で帰る可能性が高かった貴女だったらどうなっていたか! 早瀬警部と大聖は知ってたのよ! 秋音がよくその男の子と一緒に帰ってるって事」


 鹿波さんがそう言うと、深夏さんはその場に跪き「そ、それじゃなに? 本当だったら、秋音じゃなくて…… わ、私が誘拐されていたって事?」

 突然そう話され、深夏さんはどうしていいのかわからない感じだった。


「今、屋敷にいるのは?」


 僕は話題を変えようと視線を屋敷に向けた。


「澪さんと繭以外は出来る限り、一緒の部屋にいると思うけど」

「あ、あれから広間には誰も入ってないんですよね?」

「入ってないと思うわよ? 第一、あんな気持ち悪い部屋に入る人なんて……」


 途端、僕は二つの記憶が重なっていた。

 ――同じだ! 渡辺さんが殺された時と状況が同じだ!

 鹿波さんも同じ事を考えていたのだろう。

 考えてみたら、彼女は前の僕の記憶にはいなかった。

 でも、傍観者として殺人劇を見ていたと言っていた。


「同じって、どういう意味?」

「説明は後です!」


 僕は深夏さんが言う間も与えず、屋敷の中へと駆け出していた。

 広間の前は封鎖していた時と変わっていなかったが、ゾッとするような静寂さが漂っていた。


「せ、瀬川さん?」


 うしろから声が聞こえ、振り返ると秋音ちゃんがちょうど曲がり角に立っていた。

 場所からして、トイレに行っていたのだろうか?


「あ、あれから広間には誰も近付いてないんだよね?」


 僕は興奮を抑えながら、秋音ちゃんに問い掛けた。


「あ、はい……。母さんと春那姉さんは冬歌の部屋にいるでしょうし、早瀬警部は瀬川さんの部屋で休んでいると思います」

「それじゃ、誰も広間には近付いてないんだね?」


 僕は再度確認するように問い掛ける。秋音ちゃんは小さく頷いた。

 誰も近付いていない? つまり、広間の中は変わっていないはずだ。

 それなのに何なんだ? 何で、さっきから寒気がしてるんだ?


 気が付くと、僕は広間の襖に手を掛けていた。

 秋音ちゃんが何か言おうとしていたが、僕には聞こえなかった。

 出来るなら、何か引っ掛かっていてくれたら、どれだけ嬉しかっただろうか?

 だが、襖は僕の意思とは関係無しにスッと呆気なく開いた。


 広間の中を見た僕と秋音ちゃんは、何がどうなっているのかわからなかった。


 ――綺麗になっていたからだ。

 何もかも――まるで惨劇なんてなかったかのように……


「――し、死体は?」


 秋音ちゃんが僕にそう聞くが、僕はわからないと首を横に振った。

 第一、畳すら綺麗になっている。

 あれだけ血が染み付いているはずの畳が綺麗になっている。

 しかし、どこを見てもそんな痕跡はなかった。


「瀬川さん、これ?」


 秋音ちゃんが何かを見つけたのだろう。

 近付いてみると、テーブルの上に小さな鍵が置かれていた。


「これ、そこの鍵……」


 秋音ちゃんが指を厨房の方に向けた。


「春那さんが言っていた、なくしていた鍵?」

「ちょっと、姉さんに聞いてきます」


 そう言うと、秋音ちゃんは広間を出て行く。

 数秒もしないうちに春那さんと一緒に戻ってきた。

 ――広間を見るや否や、春那さんが戸惑いの表情を浮かべる。


「これって、どういう事ですか?」


 春那さんがそう聞くが、僕と秋音ちゃんはお互いどう言っていいのかわからなかった。

 春那さんが厨房の方へと歩いていく。

 秋音ちゃんが見つけた


「このドアは精留の瀧から汲み取ってきた水や、買ってきたお米なんかを受け取るためのドアなんです。人が通れない……という訳ではないんですけど……」

「それじゃ、畳はどうやって説明出来るんですか?」

「思ったけど、あの時誰も広間には入らなかったよね? 私達、廊下にはいたけど、中には入っていなかった」


 秋音ちゃんにそう言われ、僕と春那さんは頷いた。

 確かにあの時広間に入らなくても、澪さんと繭さんの死体は悲惨なものであるのは一目でわかる。

 だから誰一人広間には入らなかった。


 一瞬、僕の脳裏にこれと同じ映像が流れた。

 ――映像は、鶏小屋だった。鶏小屋では渡辺さんのが引き毟られた死体が宙に浮かんでおり、足元には血の池が出来ている。

 場面が変わり、また同じ鶏小屋だったが、死体はおろか、血の池すらなかった。

 まるで、これと同じように……


「――瀬川さん?」


 春那さんに呼ばれ、現実へと戻された。


「大丈夫ですか?」


 秋音ちゃんも心配そうに僕を見ている。


「あ、大丈夫ですよ」


 途端、僕は一つの事を思い出した。

 しかし、僕が思い出すよりも先に、誰かのお腹が鳴った。

 その音がした方を見ると、秋音ちゃんが恥ずかしそうに僕たちを見ていた。


「そう言えば瀬川さん、野菜は?」


 春那さんがそう僕に問い掛けた。

 僕はすっかりその事を忘れていたのだ。


「――姉さん? 野菜これくらいでいいかしらね?」


 広間に入ってきた深夏さんは大きな籠に一杯野菜を入れて持ってきていた。


「そ、それだけあれば大丈夫だとは思うけど……」


 春那さんが若干呆れてそういうのも無理はない。

 まるであるしこ持ってきたとしか言い様がなかったからだ。


「瀬川さん、ちょっと手伝ってくれません?」


 そう言われ、僕は籠を渡された。

 ズシッと重みが僕に掛かってくる。


「澪さんと繭の死体は?」

「それが、私と瀬川さんが広間に入った時には……」


 秋音ちゃんがその後を言わなかったのは、自分自身説明がついていなかったからだろう。

 春那さんがまるで何かを思い出しているような仕草をしていた。


「――姉さん? どうかした?」


 深夏さんが厨房に設けられているテーブルの上に野菜を置きながら、春那さんに問い掛けた。


「何か……何かわからないけど、同じ事があったような」


 それを聞いて、深夏さんと秋音ちゃんは首を傾げていた。


「あれ? そう言えば、鹿波さんは?」


 僕がそう深夏さんに聞くと「鹿波さん? そう言えば見当たらないわね」

 その返答に少し首を傾げる。


「えっと……確か僕が春那さんに言われてたんですよね? その後に鹿波さんにも言っていたんですか?」


 そう言うと春那さんは首を横に振った。


「野菜は私が自発的にね? 危険なのは百も承知なんだけど……」


 そう言いながら、深夏さんは棚からフライパンを取り出すと――「私、野菜炒めくらいしか作れないわよ?」

「あっ、だったら僕が……」

 そう名乗り出ると、三人が訝しげな表情を浮かべた。


「あの…… 前にレストランのバイトしていて……」


 過去の事を話すのは釈然としないが、今はそうは言ってられないし、これでも一人暮らしで自炊もしているから単純な料理くらいなら作れる。


「それじゃ……お願いしようかしらね?」


 春那さんがそう言うと、深夏さんと秋音ちゃんが頷いた。

 それから料理が出来るまでは出来る限り誰かといてもらう事にした。とは言え、僕の横で春那さんが僕の手元を真剣に見ている。


「何か注文はありますか?」

「母さんは出来る限り塩分控えめにしてください」


 ちょうど野菜炒めに塩胡椒を入れようとした時だった。


「それにしても私とそんなに歳が離れてないのに、私も料理覚えようかな?」


 口には出さなかったが、僕の視線で何が言いたいのかわかったのだろう。


「否、出来ないって訳じゃないんですよ。前に母さんに教えてもらった事だってありますし――さしすせそだってわかってますし……」


 春那さんの言葉言葉に焦りが見える。


「あっ! その目は疑ってますね? それじゃ云いますよ」


 別に疑ってはいないのだが、春那さんは少しばかり頬を膨らませながら「さは砂糖。しはお塩。すはお酢、せは醤油。――そはソース」

「――春那? そはお味噌って教えなかった?」


 その声に僕と春那さんは振り向くと、カーディガンを肩に羽織った霧絵さんが立っていた。


「――大丈夫なの?」


 春那さんが霧絵さんの元まで駆け寄ると「瀬川さん? 料理が終わったら書庫まで来てくれませんか? 鹿波さんと早瀬警部がどうしても聞きたい事があるそうです」

「――書庫って、父さんの書斎の事?」

「大聖さんに頼まれていたの……もしもの事があったらって」


 そう言われ、春那さんは困惑した表情で「でも、どうして私達じゃないの?」

 確かに如何して春那さんではなく僕なのだろうか?


「――わかった。今は私達に出来る事は……あ、あれ?」


 春那さんが突然頭を抱える。


「――あ、あれ? ちょっと? ちょっと待って? 書斎って…… 確か…… 冬歌の……」


「――冬歌の?」


「ごめん…… 私の勘違いかもしれない…… 冬歌は部屋で…… 遊んでるんだよね?」


 そう言われ、霧絵さんは頷いた。


「大丈夫? 少し休んだ方がいいわよ」


 そう言いながら、霧絵さんは羽織っていたカーディガンを春那さんに被せた。


「――瀬川さん? しょ…… 書斎って…… 冬歌の白骨死体が見つかった場所じゃないんですか?」


 その言葉に僕と霧絵さんはおろか、言い放った春那さん自身も唖然としていた。


「なっ、何を言ってるの? 冬歌は生きてるでしょ?」


 次第に肩を震わせていく春那さんを霧絵さんが優しく宥めている。


「わかってる…… 冬歌はちゃんと生きてるって―― だからわからないの。なんで? なんでこんなに鮮明に浮かんでくるの? 冬歌の白骨死体が書斎の椅子に綺麗に座っていて……」


 僕はその言葉に何も云えなかった。

 ――記憶。知る由のない記憶。

 冬歌ちゃんが殺された時、霧絵さんは行方不明だった。

 だから、霧絵さんは冬歌ちゃんが死んだ事を知らないんだ。

 知っているのは、秋音ちゃんと春那さん……

 春那さんじゃなくて、秋音ちゃんがいたら、今と同じ事を言っていたのだろうか?

 もしかして…… タロウ達に僕の記憶があったのと同じように…… 春那さん達にもその記憶が?


 途端、焦げ臭いにおいが鼻についた。

 僕は自分が料理をしていたのをすっかり忘れていた。

 当然、焦げた野菜は食えたものじゃなく、春那さんと霧絵さんに手伝ってもらいながら、ようやく朝食を食えたのだった。


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