廿【8月12日・午前3時12分?午前4時26分】
冷たい空気が恐怖を駆り立てている。
澪さん達を殺した犯人が息を潜めていると思うと、余計に背筋がゾクッとしてくる。
やはり、鹿波さんの言う通り、僕は今恰好の餌食だろう。
それでも、僕は何故か大丈夫だと思えた。
屋敷の大門を潜り、精留の瀧の方への茂みに入っていく。
泥濘が出来ていて、否応無しに足音が鳴る。
真っ暗な獣道を懐中電灯なしで歩いているのに、僕は足を取られずに歩いていた。
それが不思議な感じで、秋音ちゃんの言っていた通り、誰かに案内されているような感じだった。
歩いているうち、滝壷の方へと出たその刹那、「うわぁあああああああああああああああああああああっ!!」
突然、大きな影が僕に襲いかかってきた。
「せ、瀬川さん? 瀬川さんですか?」
その声は息も絶え絶えだったが、僕だと気付くとゆっくりと離れていく。
「そ、その声? は、早瀬警部?」
僕はゼェゼェと息を激しく吐きながら、そう言うと、「ど、どうして? どうして此処に? 否、それよりも! どうやってここに?」
早瀬警部が信じられないような顔で僕に言う。
詳しい事を言うと、早瀬警部は「ここは精霊の瀧ともいわれてましたから…… 瀬川さんだけを連れて来たんでしょうな?」
「は、早瀬警部は? 僕の部屋から出てからどこへ?」
「ちょっとしくじりましてね。敷地内に可笑しな三人組を見たんで職務質問をしたんですよ。植木屋にしては道具を持ってませんでしたし、第一、霧絵さんから今日その様な人が来るとは聞いてませんでしたからね。そしたら案の定、その三人組は……」
「渡部さんを誘拐した奴等?」
「とは限らないんですよね? その三人組、私を……」
そう言うや、早瀬警部はジャケットを脱ぐと、腹部からはボタボタと血が落ちていた。恐らく、その三人組に襲われたのだろう。
「迂闊にも気を失ってしまいましてね? 奴等に森の中に放置されたんですよ。当てもなく歩いていたら、この精留の瀧に着きましてね…… そこでまた気を失ったんです」
僕は信じられない状況に戸惑っていた。
早瀬警部の腹部からは今でも血が流れている。
そんな状態で再び気を失えば死んでしまうのが普通だろう。
「流石に死んだかなと思いましたけど、まぁ設けですな?」
そう言うや、早瀬警部はガハハと高々に笑った。
「そう言えば、今何時ですかね? 奴等に携帯やら、時計やら、時間がわかるものを盗まれてしまって」
「それなら、多分今、夜中の三時くらいだと思います。僕が屋敷から出たのが二時半くらいでしたから」
「何か屋敷であったんですか?」
「み、澪さんと繭さんが……」
僕がそれ以上言わなくても表情でわかったのだろう。
早瀬警部が僕の肩に手をかけた。
「恐らく、彼女が君をここに連れて来たんじゃないでしょうかね?」
早瀬警部がそう言うと奥の茂みからカサカサと音がした。
僕が見構えると早瀬警部が何故か微笑んだ。
茂みから出て来たのは……「は、ハナ?」
僕は唖然としながら、その影を見た。
ゆっくりとその足取りで僕の元へと来た。
鹿波さんがハナだけいないと言っていたが……
「でも、どうしてハナが?」
「恐らくタロウ達が行かせたんでしょうな? ここなら安全だとわかっていたからでしょう。この池には不思議な力がありますからな」
早瀬警部が瀧の天辺を見上げた。
「秋音ちゃんが道は曲がりくねっていて迷いやすいと言っていました。でも、僕は一度も道に迷わずに来れた。それって、その不思議な力の御陰なんでしょうか?」
「……ところで? 今屋敷には……」
「冬歌ちゃんの部屋に、霧絵さんと春那さん、深夏さんが…… 僕の部屋に、鹿波さんと秋音ちゃんが……」
「いるのは女性だけですか?」
そう言われ、僕は頷いた。
「こうしてはいられませんね? 瀬川さん? 携帯持ってますか?」
「でも、携帯が使えないんじゃ?」
「それは霧絵さんの身を按じて、大聖君が言った事なんですよ。現に春那さんと携帯で連絡を取りましたしね」
それを聞かされ、僕は携帯を早瀬警部に渡した。
早瀬警部は慣れた手付きで携帯を扱っている。
「あ、もしもし? 舞ちゃん?」
「ちょ? ちょっと! 何女性に掛けているんですか?」
「大丈夫ですよ。彼女は歴とした警察官です。あ、連絡が遅れてしまいましたけど…… 頼んでおいた件、どうでしたか?」
早瀬警部がそう聞くと、電話越しに女性の声が聞こえて来た。
「やはり、先輩の言っていた通り、政治家一家の猟奇殺人に関する資料が一切亡くなっていました。その代わり、同年、榊山で起きた大量猟奇殺人に関しての資料が出て来ました」
「あれは嫌な事件でしたからね?」
「でも、大牟田警視がこの資料を見た事がないと…… それに、大切な部分が虫食いになっているんです。これって……」
「恐らく、その事件に関った人間が警察の中にいるって事でしょうな?」
早瀬警部がまるで確信を持ったような言い方をする。
「前にもあったんですよ。父が調べていた政治家一家殺人事件の真相を突き止めようとした途端、捜査は打ち切りにされた。父は何人かの部下と一緒に榊山の集落へと行った。容疑の高かった金鹿之神子の元へね。でも、父はその金鹿之神子が起こしたものだとは到底信じられないでいた」
僕は警察の中に奴等の仲間がいるという言葉に気が付くと、咄嗟に早瀬警部から携帯を取り上げ、「す、すみません! 突然! あ、あの! 春那さんからそちらに連絡が来ていたんじゃないんですか?」
「えっ? えっと? それって何時の事ですか?」
「先刻、夜中の〇時を廻ったくらいの時です」
「耶麻神家から何か連絡は来てた? ………… そう? あの、連絡は来ていないって……」
「そ、そんな? だって! だって確かに!」
「舞ちゃん! 履歴は残っていないんですか?」
「え? り、履歴は残ってる? 電話履歴!」
電話からカサカサという音が聞こえて来た。
「えっと…… 先刻、つまり今日の夜中の十二時って事ですよね? 長野県警に来た電話連絡は……午後十一時の時点で途切れてます」
「そ、そんな? だって春那さんは電話の応対をしていたんですよ?」
「ま、まさか? あの? 先輩は近くにいるんですよね? これって? まさか?」
「警察の連絡は二四時間無休です。つまり十一時以降連絡が入って来ないって言うのは可笑しいんですよ? 恐らく、電話線を変えたんでしょうな?」
「そ、そんな事出来るんですか?」
「電話は一回線じゃないですからね。 二回線以上なら、内線を通じて……」
「それじゃ? 春那さんからの連絡を……」
「奴等の仲間が受けていたとしたら…… 適当に応対して、安心させればそれで終わりでしょうな?」
僕はそう言われ、ガクンと膝を付いた。
「舞ちゃん? 急いで耶麻神邸に向かって下さい。事は一刻を争います! 出来るだけ貴女が信じられる人と来て下さい!」
「あ、はいっ!」
早瀬警部は用件が済んだのか、僕に携帯を渡すとその場に倒れた。
早瀬警部の頬をハナが小さく舐めていた。
僕は早瀬警部に肩を貸し、屋敷へと戻った。
ハナが後ろから付いて来ている。
警戒しているのは、振り向かなくてもわかった。
僕の部屋から明かりが漏れている。
窓をカタカタと鳴らすと、「だ、誰?」
秋音ちゃんが怯えた声で言う。
「秋音ちゃん、僕です。瀬川です」
「瀬川さん?」
僕だとわかると秋音ちゃんは窓を開けた。
刹那、口を塞ぐ。
「はははっ! こんばんわ。あ、もうおはようですかな?」
早瀬警部が笑いながらそう言うが、表情が引き攣っていた。
「は、早瀬警部? それじゃ、本当に?」
「うん。精留の瀧にハナと一緒に……」
僕の言葉で気付いたのだろう、秋音ちゃんが窓から身を乗り出し、
「ハナ? よかった……」
ハナを見ると、安堵の表情を浮かべた。
「鹿波さんは? それに霧絵さん達は」
「みんな大丈夫。鹿波さんが云ってた通り、誰かが一緒にいると行動出来ないみたい」
「あんな惨い殺し方をしてるのに?」
「鹿波さんが出来るだけ瀬川さんの部屋で待ってるようにって……」
「その鹿波さんは?」
「冬歌の部屋。みんなで話しているみたい。私は…… 瀬川さんが心配だったから……」
それを聞いて、早瀬警部が「それにしても、一人で待っているとは……」
「鹿波さんが大丈夫だって言ったんです。奴等は瀬川さんが屋敷から出ていないと思っていれば、この部屋にいれば大丈夫だって」
「飽くまで僕の目が目的って事?」
「話が見えませんな。どういう意味ですかな?」
「早瀬警部は金鹿の話を御存じですよね? その眼を恐らく瀬川さんが持っている可能性が有るんです」
「しかし、伝記では力が使えるのは女性だけ……」
早瀬警部が窓から部屋に入ろうとしているが、力が入らないのだろう。
「一寸待って下さい。窓硝子を外しますから」
そう言うと、秋音ちゃんは窓硝子を窓縁から外した。
僕はハナと一緒に玄関から戻った。
引き戸を出来るだけ小さな音で開けたが、不意にハナがうしろを振り替える。
ハナも屋敷に入れておけば、大丈夫だろう。
僕はハナの足を拭き取る。意外にも僕の云う事を聞いてくれた。
屋敷の廊下はいやに静かだった。
僕は自分の部屋に戻る前に、冬歌ちゃんの部屋の前に来ていた。
ハナが見つかったという報告をしておいた方が良いと思ったからだ。
小さく襖を叩く。
「だ、誰っ?」
小さい声が聞こえた。深夏さんだ。
「瀬川です。ちょっと報告が……」
僕だとわかると、深夏さんが襖を開けた。
「せ、瀬川さ…… は、ハナ?」
深夏さんが僕の足元で様子を疑っていたハナに気付くと、ハナは直に部屋に入った。
「ど、どこにいたんですか?」
春那さんが部屋に入って来たハナと僕を交互に見遣る。
「精留の瀧に……ずっと早瀬警部を守っていたみたいです」
「は、早瀬警部も?」
霧絵さんが僕にそう聞くと、「僕の部屋で休んでいます」
「そうですか」
早瀬警部が生きているとわかると、霧絵さんは安堵の表情を浮かべた。
「それで、警察の人は?」
「電話は……この殺人をしている奴等に工作されたみたいで…… 直接、警察には電話がいっていない事に……」
「そ、それじゃ? 警察は来ないって事?」
「大丈夫です。早瀬警部が僕の携帯で信頼出来る人を呼んだみたいですから」
「舞さんね」
霧絵さんがその人を知っているのは、夕方僕の部屋で会話していたからだろう。
「それじゃ、もう安心って事ね?」
深夏さんが安心したのか、壁に凭れ崩れた。
確かに、後は警察が来るのを待てば良い。
でも、何だ? まるで…… 僕はある違和感を感じた。
「そういえば、鹿波さんは?」
「え? 鹿波さん来てないわよ?」
深夏さんにそう言われ、僕はある事を思い出していた。
それに気付くと、僕は咄嗟に廊下に出ていた。
秋音の言う事が妙に引っ掛かっていた。
それを確認しようと、私は霧絵の部屋に来ている。
テーブルの上には四枚の絵が乗せられている。【花鳥風月】の四枚絵。
確かに秋音が言う通り、これが最初の巫女、つまり全盲の巫女を描いた物だとしたら、如何せん視線が向けられているのが可笑しい。
視線が何処を向いているのかわからないはずだからだ。
四枚が同じ方向を向いている……
つまりは絵師が同じ方向で巫女を描いていると言う事だ。
翼々絵を見て見ると、薄く亀甲模様の様な物があった。
それが花の絵のみにあった。
同様に、鳥の絵には引っ掻き傷。風の絵には鳥の羽根。月の絵には鱗のような模様が同様に薄く描かれていた。
これって、四神?
そう思い、私は四枚の絵を床に起き……
花の絵を北に起き、鳥の絵を西、風の絵を南、月の絵を東にそれぞれ絵の上が向かい合うように置いた。
すると四枚の絵に描かれている巫女の視線がぐるりと一周していた。
四神は東西南北にいると言われいてる神の事で……
北の神は幻武。西の神が白虎。南の神は朱雀。東の神が青龍。
途端、襖が開いた。
「か、鹿波さん。どうしたんですか?」
入って来たのは正樹だった。
「正樹? ……早瀬警部は?」
「僕の部屋にいます。それより、自分勝手な行動をしないでください」
「それ、そのまま返すわ」
私がそっけなくそう言うと、「僕がもし駄目だと思ったら、鹿波さんだけが頼りなんですよ」
真剣な面付きでそういわれ、私は若干、申し訳ない気持ちになった。
「でも、現に正樹は帰って来たじゃない?」
「後、後一日あるんです…… 今日は十二日。僕の記憶が何回もこの日を繰り返しているなら! 後一日残っているんですよ。僕は八月十三日の朝日を見ていない。この記憶が何時のやつなのかわからないけど」
正樹が頭を押さえる。
「正樹? 貴方記憶があるの?」
「わかりません。でも! これだけは忘れじゃいけないんだ、僕は誰かに誘われて此処に来たんじゃない! 僕自身の中にいる誰かが……」
途端、正樹が顔を上げた。
それを見るや、私は声が出せなかった。
その顔が私の大切な人に似ていたからだ……
ふと、正樹の顔が光に照らされていた。
それはうっすらと窓から光が射し込んでいたからだ。
八月十二日……
正樹にとっても、私にとっても……
この日が一番の正念場だろう。
私はスッと立ち上がり、正樹に云った。
「正樹。貴方はその意志よってここに来た。でも、今度は貴方の意志もある! 打ち勝とうじゃないのっ! この殺人劇にっ!」
私がそう言うと、正樹は力強く頷いた。
刹那、私の心の中に蟠りがあった。
本当に八月十三日の朝日が見られるのだろうか?
鹿威しが鳴った。