拾捌【8月12日・午前0時20分】
騒ぎがあったというのに冬歌ちゃんが部屋から出てこない。
それに気付き、咄嗟に鹿波さんと春那さんが冬歌ちゃんの部屋へ様子を見に行くと、どうやら寝息を立てて寝ているらしい。
起こそうとしたようだが、余りにも深く眠っており、起こしたら起こしたで機嫌が悪くなるから起こさないようにしたそうだ。
「ちょっと羨ましいわね?」
冬歌ちゃんの安否を聞くや、深夏さんが愚痴を零した。
「でも、明日になったら……」
秋音ちゃんが言葉を止め、広間の壁に掛けられた掛け時計を見た。
時間は疾うに午前様だ。
「あれ?」
と、秋音ちゃんが声を荒げた。
「どうしたの?」
「ううん、何で澪さんと繭さんなのかなって?」
秋音ちゃんは自分で言ったものの、どうも釈然としない表情で自問する。
「冬歌は一人で寝てたんだよね? 澪さん達やタロウ達を殺した犯人が屋敷にいるとしたら…… もしかしたら、単独じゃなくて複数でこんな事をしているかもしれないし…… 言うのも何だけど、一番弱い冬歌を一番に襲うんじゃないかな? 春那姉さんが冬歌の部屋から【花鳥風月】の一枚を取りに行った時も、冬歌は寝てたんだよね?」
そう言われ、春那さんは頷き、「確かに、全員を殺すって云う点なら、危険を考慮してみれば、冬歌を先に殺すでしょうね? 澪さんが強いって事を知らない人なんていないだろうから」
と言いながら、僕と鹿波さんを見やった。
僕と鹿波さんは首を縦に振る。彼女の強さは目の当たりにしているからだ。
一瞬、鹿波さんが今迄以上にどんよりとした表情を浮かべる。
「どうかしたんですか?」
「正樹? 早瀬警部は帰ったの?」
多分、夕方僕の部屋で早瀬警部と会っているから訊ねたのだろう。鹿波さんが小声で僕だけに聞こえるように話しているのは、恐らく彼女達に気付かれないようにしているせいだ。
「あの後、逃げるように帰りましたよ?」
僕がそう小声で答えると……
「可笑しいのよ? 早瀬警部が逃げるように屋敷を後にするっていうのは…… 大聖との約束をそれこそ破っているようなものじゃない? 私もこの屋敷の人達を守らなければいけなかった。でもそれが出来なかった。それこそ! 早瀬警部は自らこの殺人劇から外れたんじゃない?」
小声ではあるが、彼女が興奮しているのがわかる。
「でも、早瀬警部が逃げたとは限らないじゃないですか?」
「むしろ最初から可笑しかったのよ? 渡部が殺された、否、殺されたと錯覚する原因だった鶏小屋での惨殺現場をあなたは目撃している。その後に姉妹のうちの誰かが殺され、双眸を奪われ、タロウ達は奴等に惨殺を与えられる。それが、二度に渡る奴等の猟奇殺人劇だったのよ。だから私は、澪にお願いして今日の早朝の仕事を渡部と一緒にしてもらった。それはいつ、渡部が殺されるのかを知るため。でも渡部は失踪した。殺されたじゃない。失踪。つまり…… 自ら、この殺人劇から抜け出した!」
鹿波さんが屋敷を見渡しながら、僕にそう告げた。
最初から知っていた? 渡部さんが殺される事を? その後に春那さんたち姉妹のうち、誰かが殺される事も? タロウ達が何者かに殺される事も?
「でも、タロウ達は一つだけ希望を持たせてくれている」
鹿波さんがまっすぐ外の方を見ると、「夜に犬小屋を見ていて気付いたの。ハナの死体だけが無いって。それはつまり、タロウ達がハナを自分達が殺すより前に感付いて! ハナを小屋の外に、奴等に見つからないようにしたんだと思う」
「そ、そんな事が?」
「考えてもみて、貴方は屋敷に来た昨日、タロウ達から襲われた時、怖いと思った? タロウ達は覚えてたのよ。貴方がここに来る事を! ここに来てくれる事を!」
「た、タロウ達が? タロウ達が僕が来る事を?」
「じゃなかったら、タロウ達は貴方を噛み殺していたかもしれない。優秀な警察犬の血を持っているタロウとクルルよ? 貴方がここに来て、悪さをするような人間だったら、それこそ門前払いだったでしょ? でもあの子達に育てられ、善悪の判断が出来る。強いては、あの子達が貴方に対しての記憶があったからこそ、貴方は怖くなかった」
彼女にそう告げられ、僕は昨日の事を思い出した。
タロウ達は僕の方へと向かって来た。
普通だったら、怖いと思う。ドーベルマンは怖いと言うイメージがあったから。
でも、全然怖くなかった。
どんなに顔を近付けられても、どうしても怖いと思えなかった。
タロウ達が怖いという感情が頭のどこにもなかったからだ。
だから僕は落ち着いていたんだろう。
「貴方がタロウ達が怖いと思わなかったのは記憶があったから。昨日の夕食の時だって、深夏と冬歌がニンジンを食べられないってわかっているから話したんでしょ?」
僕は彼女が言っている言葉言葉に対して、何故か頭痛がしてきていた。
思い出しているんだ。彼女が僕を知っている。
僕に何をするべきかを知っている。
でも、わからない。僕には何が出来る? 否、今はどうこの夜中を乗り切るかだ。一瞬、僕の頭には日付が浮かんだ。
八月十三日……
それがどんな意味かわからない。
何故、明日の日付が出て来たのだろうか?
恐らく……僕がこの屋敷で死ぬまでのリミットだろう。
自然とそう思えた。
「春那、電話は使える?」
霧絵さんが春那さんにそう訊ねると、思い出したように春那さんは慌てて電話機の方へと駆けていった。
「だ、大丈夫。ちゃんと使え……」
ふと春那さんが言葉を止めた。
怪訝な表情を浮かべながら、春那さんは手に持った受話器を睨み付ける。
「ど、どうしたの? ハトが水鉄砲食らったような顔して?」
「深夏姉さん? それを言うなら「鳩が豆鉄砲を食らう」」
深夏さんの言葉に秋音ちゃんが訂正する。
「いいじゃない。それでどうしたのよ?」
深夏さんが焦りながら、春那さんの方へと向く。
「私なんで電話機が壊れているって思ったのかしら?」
そう言われ、深夏さんと秋音ちゃんは首を傾げる。
ためしに二人とも受話器に耳を傾けた。
「なーんだ。ちゃんと聞こえるじゃない?」
深夏さんがそう言うと、春那さんは秋音ちゃんの方を向いた。
秋音ちゃんもコクリと頷く。
「それで警察には連絡出来るの?」
「ちょっと待ってて、今するから」
そう言いながら、春那さんはゆっくりと電話のダイヤルを廻した。
黒電話は言うまでもなく、ボタン式ではなく、丸いダイヤル式だ。
一つ一つの数字を廻す度に戻る音が静寂した屋敷の中に響き渡る。
ダイヤルを廻し終え、春那さんは僕達を見遣る。
「あ、長野県警ですか? 私、耶麻神家長女の春那と申します。夜分遅く申し訳御座いませんが、早瀬警部はいらっしゃますでしょうか?」
春那さんがこの状況でも丁寧に警察に連絡しているのが妙に痛々しかった。
それを深夏さんと秋音ちゃんも見ており、二人の表情も暗かった。
「はい? えっと、屋敷には来てませんでしたが?」
そう言いながら、春那さんは僕達を見た。
僕は一瞬目を逸らす。鹿波さんと霧絵さんも同様だ。
如何やら、まだ戻って来ていないらしい。
「はい。何者かが屋敷に進入し、屋敷で働いている使用人二人を……」
恐らく現場状況を説明していたのだろう。
彼女達がどういう風な状態なのかを説明するのを、春那さんは躊躇っている。否、こんな状態を説明しろという事が悍ましい。
春那さんが平然を装いながら電話している。声では平然を保ちながらも、彼女が今にも泣きそうな表情になっていく。
「はい。現場へは入らない様、家族に言っておきます」
そう言うと春那さんは受話器を置いた。
その時の小さな音も、まるで耳元で聞いたかのように響きわたった。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
春那さんがその場に跪くと、ジッと僕達を見ていた。
スッと霧絵さんが僕と鹿波さんの間を割って入り、春那さんの元へと歩み寄って行く。
「辛かったでしょ」
その言葉を聞いた途端、「いぃやぁあああああああああああああああっ!!」
春那さんは箍が外れたかのように慟哭し、霧絵さんにしがみついて泣き喚いている。
「もう嫌ぁっ! もういやぁっ! どうして? どうして私達の周りの人達が死ぬの? どうして、こんなに連続して、会社の人や屋敷の人が死ぬの? どうして? どうして、みんな? こんな意味が分からない死にかたをするのぉっ?」
春那さんがヒステリックな声が廊下に響き渡っている。
その刹那、あの音が聞こえた。
鹿威しの鳴り響く音が……