拾伍
少しばかり時間を戻そう。
場所は長野県警刑事課捜査一課の一室。
「早瀬警部は?」
凛とした雰囲気の女性が誰彼構わずに問い掛ける。
「あっ! これは植木警視殿!」
扉近くに座っていた巡査長が会釈をする。
「嘉川さん。あの、早瀬先輩は?」
舞がそう訊ねると、嘉川巡査長は手元に置いた発信記録を見ながら、「早瀬警部殿は大和医院に行ったきり、そのまま耶麻神邸へ行ったと思われますが」
「……余り単独行動をしない方が良いと言ってるのに…… ただでさえ、疎んじられているんだから」
舞が下唇を噛み締める。不満を感じる時、彼女がしてしまう癖だ。
「それで、何かご用でしょうか? 無線で呼び出せますか?」
「出来る限り、無線は使いたくないですし、私も立場上、早瀬警部の単独行動に手を貸す事が出来ませんから…… ああっ! もうっ! 先輩の携帯には通じないし!」
舞が地団駄を踏んでいる時だった。
「はいっ! こちら長野県警…… はい? 植木警視?」
部屋の隅に置かれてた机に座っている男が電話の対応をしている。
「えっと? 三重野? あの、どういった」
舞は電話を無理矢理取り上げた。
「み、三重野警察医殿?」
“おやぁ? 其の声は舞ちゃんかい? 早瀬警部は在中かな?”
電話先の老人。三重野光彦元警察医がクスクスと笑いながら訊ねる。
「それが、いないんです! 多分耶麻神邸に行ってるかと……連絡を取ろうにも、あそこは電波が悪くて、携帯が使えないんですよ?」
舞の言葉に三重野警察医は沈黙した。
「どうかしたんですか?」
“否、早瀬君が四十年前の政治家一家殺害の捜査資料を捜していたんだがな? その時鑑識として出ていたのは、未だ鑑査員だった私なんだよ?”
「三重野警察医が?」
“険悪な表情でその家族の死因を聞いておったのでな? 詳しく聞くと、大和医院もそれと似た状況だったそうだ”
「確か、気狂いな人間による、無差別猟奇殺人……でしたよね? でも、事件の犯人は見つからず、時効を迎えてしまった……」
“だがな? 事件の犯人と思われる人物を、早瀬君の父親が容疑者の家に行ったんじゃよ? でも、その犯人に犯行は不可能だった。アリバイがあるどころか、其処から一歩も出れない状態だったからじゃ?”
「どういう意味ですか?」
“当時犯人と見られていたのは、榊山に住む金鹿之神子…… その力を持っていたのが鹿波怜と云ってな、集落を納めている老婆だった”
「金鹿って? 確かこの町で伝えられている伝記でしたよね? 金鹿の力を持った巫女は皆殺しの力を与えられるって…… でも、そんなのただの御伽噺だと……」
“だがな? 政治家殺害の一週間後、麓の人間による鹿狩が始まった……”
「鹿狩?」
舞がそう聞き返すと、“若い君は余り知らないだろうが、鹿は昔、神の使いとして崇められていたんじゃよ。その鹿を狩ると言う事は、神を冒涜していると言う事になる。集落の人間は女子供以外は全員殺されたそうじゃ……だが、同時に麓の人間も殺されていた。今回の大和医院の中で起きた猟奇殺人と同様にな?”
「つまり、三重野警察医は、大和医院で起きた事をその巫女がしたと?」
“否、それはありえんのじゃよ? 四十年前と今を合わせようとしても、既に巫女は老婆に為っている可能性が有る。それにその力を使うにも幾つかの制限が有るみたいなんじゃよ?”
「……制限?」
“先ず、巫女自身が対象に対して憎悪を持っていなければいけない。それもどう足掻いても、その憎悪から己すら逃げられないくらい陥った時じゃ。そして相手の目を見ない以上……”
突然プツリと電話の声が途切れた。
「これは植野警視殿? こんなところにいらっしゃったんですね?」
「大牟田警視殿?」
大牟田警視と呼ばれた男は電話のプラグを抜き、それを振り回していた。
「怖い顔を見せないで下さい? 綺麗な顔が台無しですよ?」
「長野県本部長の御子族が、一体何の用ですか?」
「いやぁ、今日仕事が終わったらですね? 素敵なレストランへ御一緒してもらおうかと思いましてね? それにしても、此処はお茶すら出してくれないのかい? おいっ! 湯沢係長殿! 君は一体どんな指導を……」
大牟田警視が言葉を続ける暇すらなかった。
舞が大牟田警視の顔を拳で殴ったからだ。
突然の事で、周りの人間も理解出来なかったが、一番理解出来ていないのは吹き飛ばされた大牟田警視本人だった。
「場を弁えなさい! ここは刑事捜査の一角を補う場所! 私達警察官にとって尤も大切な場所なのよっ! それを貴方は貶すような事を!」
舞は大牟田警視を睨みつけながら言った。
「ぼっ、僕を殴ったなぁ? お前! 綺麗だからっていい気になってんじゃねぇよっ!」
「あらぁっ? 警視になった以上、是くらいでギャアギャア騒いでるんじゃないわよ? この青二才っ!! 親の脛噛りまくって! あんたみたいなお子様に警察が勤まるなんて到底思えないわねぇっ? 聞いてるわよ? 貴方高校生の時、相当な悪だったみたいね? 強盗、置き引きは当たり前、下手をすれば仲間と同級生の女の子を誘っては! 強烈なお酒を無理矢理飲ませ、酔いつぶれていたところを襲っていた! 知ってる? そういうのは強姦になるのよ?」
「お、お前? 何でそんな事……」
「それを父親である本部長が被害者に口止め料として数百万を横領した。その事を知っている人間がいるんでしょ?」
「好い加減にしろっ! そんなのはったりだ!」
「それじゃっ! 今自分がした事わかってるの?」
「それはっ! もう五時になるから……」
「いい事教えてあげようか? 私達警察に休みなんて無いに等しいのよ! 警視になった以上、それ以上に休みなんてないの! 日々、多くなっていく刑事事件を捜査しなければいけない。幾つもの事件を掛け持ちにしている人だっている! そんなの巡査長から始めたあんただって知ってるわよね? でも、一度も仕事をした事がないあんたが、私にした事がどういう意味を持っているかわかってるの? もしかしたら、今抱えている大きな事件の情報かもしれない。現実はね? 推理小説やドラマみたいに誰もが協力的じゃないの。傍観者! わかる? 誰も好き好んで事件に首を突っ込もうなんてしないわよ!!」
「………… なんだよ? 何なんだよ?」
「ねぇ、大牟田警視? 貴方の父親、うちの本部長は一体何を要求されたの? 四十年前の政治家殺害事件の資料が亡くなっていた」
「し、知らないっ!」
「惚けないでっ! 資料庫を管理しているのは貴方でしょ?」
「本当に知らないんだよ? 四十年前に何があったのかって言う事すらッ! 確かに資料室の管理は僕がしてるよッ!? でも、触るなって…… そう父さんに厳しく言われてるんだよ? 俺のしてきた事全部ばらされたくなかったらって!!」
「脅しを掛けてるの? 実の息子に? 何のメリットがあって」
「わからねぇよっ? 父さんもあんな事言わなかった。ただ資料室の鍵を管理しろって言われただけで!」
大牟田警視がふと何かを思い出したのか、ジッと舞を見た。
「警視はどうやって資料室に入ったんだ? あそこの鍵は僕がずっと持ってるっ!」
そう言うや、大牟田警視はスーツのポケットから鍵を取り出した。
「これが資料室の鍵だ。僕はずっとこの鍵を持っていたんだぞ?」
大牟田警視は逃げるように廊下へ出た。舞はそれを追った。
「あ、開いてる?」
「自分が閉め忘れたんじゃないの?」
「そんな事無い! 先刻だってちゃんと鍵を閉めたんだ!」
資料室はうっすらと電灯がついていた。
「四十年前、昭和四十三年くらいの事件……」
大牟田警視が本棚の資料を漁っている。
「昭和四三年、五月二五日……榊山で大量殺戮発生」
大量殺戮? その言葉に舞は驚いていた。
「榊山で……あれ? 何だこれ? 虫食いか?」
「見せて。大切な部分が虫食いにあってるわね? まったく、こんなにしちゃってあんたがキチンと……」
「こ、こんなの知らない! 此処を管理している以上、資料を一通りは見ているんだ! でも、こんな気味の悪い資料は読んだ事なんかないっ!」
大牟田警視が嘘を吐いているとは思えなかった。
ふと、舞は一枚のページに眼がいった。
其処にはまるで呪文の様な言い回しが書かれていた。
『この神聖なる神の山に、努々近付く事勿れ。金色に煌く鹿が、その山に住まいて、死屍を喰らい、咆哮を挙げん。その声を聞きし者、煉獄の夢魔が汝を縊らん』
三重野警察医が言っていた、鹿は神の使いという言葉。
金鹿という言葉と、皆殺しの力を持っている。
「……皆殺し?」
舞は精一杯頭の中で整理していた。
(縊らん、つまり絞殺するって事? 耶麻神グループの度重なる不祥事を起こしている役員が全員首吊り自殺をしている。だけど、私も先輩もそれに納得していなかった。)
「大牟田警視ッ!! 確かホテルで見つかった絞殺遺体を運んだのは警視だったわよね? その解剖検査をしたのは誰なの?」
「ぼ、僕は桑野警視に言われてやったんだ。みんな自殺だって言ってたけど……」
「自殺なわけないでしょ? 鑑識の結果、死因は薬による物だったじゃない!」
「そ、そんな? だって如何見たってあれは首吊り自殺じゃないのか?」
「んなのっ! 見せかけに決まってるでしょ!? ホテルで見つかった被害者は、私と同じくらいなのよ? 小柄なのに、足場も無しにどうやって首を吊るって言うのよ? 答えは簡単! 既に殺した後、誰かが天井に吊った! 現場を見ている警視ならわかるわよね?」
大牟田警視は何かを思い出したように、「確か、輪っかみたいなのが天井につけられていた…… それに縄を……」
突然、資料室の扉が開き、廊下の光が部屋に入って来る。
「け、県警署長殿?」
「と、父さん? そ、それと桐生警部補?」
其処には小柄な男と大柄な男が、二人の目の前に立っていた。
「篤っ! わしの言う事を聞けぬかぁっ? まったくッ! お前は兄達と違って、出来損ないじゃな?」
小柄な男、県警長が大牟田警視を罵り上げる。
「や、やめろよっ……」
「お前が警察官になりたいとわしにいった時はそれはそれは嬉しかったぞ? でもなぁ? 篤? わしは一度もお前に期待なんてして……」
「やめろぉっ! 親父のそういう処が嫌いなんだよ!? 何でもかんでも兄貴と比べやがって! どうして! 死んだ兄貴の事ばかり見てんだよッ!!」
「きぃさぁまぁっ! 父親に向かって、なんだその言い方はぁッ?」
「――県警長殿? お時間です」
怒り狂った県警長が大牟田警視を殴ろうとした時、桐生警部補が止めに入った。
「……そうか? ふんっ。まぁ周りに迷惑を掛けん様になぁ? 植野警視もこんな馬鹿息子に相手していては、名を穢す事になるぞ?」
県警署長と桐生警部補は静かに資料室の扉を閉めた。
部屋には舞と大牟田警視の二人だけが残された。
「な、なによっ? なんなのよっ! あの言い方!」
舞は行き場の無い怒りをテーブルに向けた。
「わかっただろ? 親父はいつもああなんだ! 俺がどんなに頑張ったって、権力で昇格させやがる! 俺だってっ! 他のみんなと一緒に苦労してぇよッ! 一緒に事件を捜査して! 一緒に犯人をつかまえてっ! 警視昇格試験の時だって、親父がズルしたんだ。俺が何も出来ないってわかってたんだろうな? でも、俺は早瀬警部が寝ていないってわかっていたんだ。だから、本当は警部が警視になる資格があった。否、元々俺は警察なんかに為れる資格なんかなかっただろうな?」
「馬鹿言わないでよ? 先輩がどうして昇格試験を態と落ちている事を知らないでしょ? 先輩、酒の席で愚痴を零してたのよ。『上に行けば行くほど、それだけで市民を守れなくなる』って! 早瀬警部が警視になる好機なんて昇格試験さえあればいくらでもあった。でも、先輩は全部断ってる。耶麻神大聖との約束を守る為にねっ! それを聞いて、改めて私は先輩を尊敬しているの! だったら、私が代りに上に行って先輩の手伝いをしようって! 警部での立場では調べられない事を、警視の私なら調べられるかもしれないって! そう思ったから私は必死に勉強をしたっ! そして今警視としての立場にいる! だってぇっ! 先輩は私の命の恩人なのよぉっ! いくら恩返しをしても! 返せないくらいなんだからっ!」
舞は崩れるようにテーブルに凭れた。
「け、警視?」
大牟田警視が言葉を掛けるが、舞は反応しなかった。
「け、警視? 植野警視?」
肩を叩こうと近付いた時だった。微かに寝息が聞こえたからだ。
よく見ると、肩が微かに動いている。
大牟田警視はようやく舞の顔を見て気が付いた。
目の下には薄っすらと暈が出来ている。
それを見て、彼女がどれだけ心身を削り、余りにも休んでおらず、衰弱しているのか、彼には想像出来なかった。
彼女が他の事件を担当している傍ら、出来る限り、早瀬警部の手伝いをしようとしているのか、それほどまでに彼女が早瀬警部に尽くそうとしている事。
彼女の寝顔を見て、どれだけ自分が愚かな事をしていたのか、彼女に失礼な事をしたのか、その時、彼は初めて屈辱以上の何かを知った。