玖【8月11日・午前10時~午前11時30分】
元々勉強は好きではない。と言うのは建前であって、実際は学校なんてものを見る事自体初めてだった。
元々世の中と隔離した集落で産まれ育っていた為、読み書きは知り合いのお姉さんから教えてもらっていた。
門を潜ると、正樹はこの学校に来たことがあったらしく、来客用の扉へと歩いていく。
校内に入るとすぐ横には事務室があり、小さな窓から中を覗けた。
「あの、すみません。私、昨日電話した瀬川という者ですが、校長先生はいらっしゃいますでしょうか?」
「あ、はい! 少しお待ち下さい」
受付の女性が電話の受話器を取り、校長という人間に連絡を入れている。
「瀬川さんと鹿波さん……ですね? 校長先生がお入りくださいと…… あ、靴はそちらにある下駄箱にお入れください」
受付の女性からそう言われ、私と正樹は靴を脱ぎ、下駄箱に入れ、スリッパに履き替えた
「校長室はあちらにあります」
女性は小さな窓から身を乗り出すと、手で場所を教えてくれた。
「失礼します」
正樹が扉を叩き、扉を開いた。
「あの、校長先生は……」
部屋に入るなり、正樹は辺りを見渡していた。
私も違う意味で部屋を見渡していた。
「あ、瀬川さんと鹿波さんですね?」
途端うしろから声がしたせいでビクッとする。
「あ、はい。今日は耶麻神秋音さんの事に付いてお話が……」
私がそう言うと、「解っています。ささっ。こちらにお座りください」
椅子に座っていた五、六十歳くらいの女性が、私達をソファに座らせようとした時だった。
途端、女性はジッと私を見つめる。
と言うよりも、ありえないものを見ているような形相だった。
「…………どうかしましたか?」
私がそう訊ねるも、女性は一向に私から目を離さない。
「――う、嘘……でも、似てるだけ?」
女性が驚いた顔で私を見ている。
まるで信じられない物を見たような目だ。
「し、失礼ですが……貴女、お名前は?」
女性にそう訊かれ、「鹿波……鹿波巴ですが……」
と、私がそう告げるや――
「う、う、う、あ、うあ、ううあぁ!」
女性は突然その場に跪き、泣き出した。
「ど、どうかしたんですか?」
私が女性に声を掛けた。
「ほ、本当に? 本当に巴ちゃんなの?」
そう訊かれ、逆に私が驚いていた。
私の名前を知っている人間なんて、今いる耶麻神邸の人間以外だと、集落の人間くらいだからだ。
「えっ? えっと?」
「覚えてない? 私よ? 千智よっ! 大山千智っ!! ほらっ! よく一緒に集落で遊んだじゃない!!」
女性は急き立てるように私に言う。
「えっ? 千智? 千智おねえちゃん?」
私はその名前に覚えがあった。
いや忘れたくない…… だって――
「そうよ! ははは、生きてたんだ。よかった」
千智と名乗る女性は私の前ですすり泣く。
「――千智おねえちゃん?」
私はただただ唖然としているだけだった。
「でも、どうして? どうして貴女はあの頃のままなの?」
恐らく私が四十年前と同じ容姿だからだろう。
「千里おねえちゃん? その事もあるけど…… まず、私から質問をさせて! どうして? どうして4四十年前、麓の人間から皆殺しにされた集落にいた人間の一人が生き残っているの?」
私は千智おねえちゃんにその事を訊いた。
私はみんなが麓の人間によって皆殺しにされたと思っっている。
だからこそ、こうやって千智おねえちゃんに逢えた事が何よりも驚いていた。
「あの晩、巴ちゃんが私の兄から殴られて気絶した後、私は他の小さな子達を護るようにって兄から言われたの。もちろん! 巴ちゃんも一緒にって…… そう言ったのに……」
「その後は話さなくてもいいよ。多分言わなくてもわかるから」
恐らく、私はみんなに捨てられたのだろう。
「巴ちゃん? 今度は貴女が説明する番よ! どうして、貴女はあの時と何も変っていないの?」
「私は……私は精霊の瀧で死んだ」
そう言うや。二人は驚いた目で私を見る。
『死んだ?』
二人がジッと私を見る。
「死んだって? えっと? 嘘ですよね? だって、現に鹿波さんはここにいるじゃないですか? 今だって僕の前に!!」
正樹が自分に言い聞かせるように言う。
「金鹿之神子は誰にも殺されない以上、延々と行き続けるって聞いた事が……」
「それは嘘! 多分ずっと昔の話に拍車をかけようとした出鱈目だと思う」
「そ、それじゃ? あの力は?」
私は千智おねえちゃんの目から背けた。
「あの力は本当だった。みんなが麓の人間に殺されたって……殺されたって勘違いして――」
私は力強く二の腕を掴んだ。
「ごめんなさい。辛かったでしょうね?」
千智おねえちゃんがソッと私の頭を撫でた。
「本当は貴女が一番苦しかったのよね? 自分のせいでみんなが不幸になってしまうって…… でもね、私も貴女のおばあちゃんも…… そして、貴女が大好きだった人も…… あの力がどう発揮されるのか知っていたわ…… だから、私も貴女の目を見て話していたでしょ?」
千智おねえちゃんはジッと私を見ている。
私の目を見て、まっすぐ私の目を見て話してくれていた。
金鹿之神子の力は、使う本人が憎悪に蝕まれ、何もかも壊したいと思わない以上、その力は発揮されない。
集落の人達が好きだった。誰も殺したくなんかなかった。
今となってはどうする事も出来ないけど、それでも…… 私は、私は……
「うっ! うぁっ! ううぅあっ! うぅあああああああああああああああああああぁっ!!」
場所なんて関係なかった。
私は今まで溜まっていた感情が爆発したように大声で泣いた。
千智おねえちゃんがそっと私を抱き締めながら、あの時と同じように暖かく宥めてくれた。
「千智おねえちゃん? 今日私達がここに来たのは……」
落ち着きを取り戻した私はソファに座った。
その隣に正樹が座る。
大きな四角形のテーブルをはさんで正面には千智おねえちゃんが座っている。
「――聞いているわ。耶麻神秋音さんのイジメについてでしょ?」
そう言うと千智おねえちゃんは周りを警戒していた。
「それと吹奏楽部の顧問である大川先生の事も」
「知っていたの?」
「部長の宮野さんと副部長の大渕さんが私に言いに来たの。秋音さんの事で話があるって」
「それで大川って先生がしている事も?」
「最初は半信半疑だったわ。大川先生は大変優秀な先生だったから」
「……だった?」
正樹がそう訊ねると、「最近の大川先生の挙動が可笑しいのよ。どう可笑しいのかって言うと……」
千智おねえちゃんは周りをキョロキョロと見ている。
「まさか、生徒に何か?」
正樹がそう訊くと、千智おねえちゃんは答えるように頷いた。
「……秋音ちゃんはその事を聞いたのかな? それを大川って先生に聞いて……」
「でもあんなにアザがつくまでイジメられる理由には……やっぱり秋音が耶麻神家の人間だったから?」
私がそう言うや、千智おねえちゃんが怪訝な顔を浮かべ、「巴ちゃん? その事もあるだろうけど……でも、秋音さんは立派な生徒よ。多分、耶麻神家とかそんなのは関係ないと思うわ」
そう言われ、私は何も言えなかった。
千智おねえちゃんは私が神子だっていう事を知っている。
学校での秋音の待遇が、少ながらずとも私が集落で受けていたことと似ていると言っているのだろう。
突然、部屋の中にある電話機が鳴った。
「はい。――そうですか? それじゃ、大川先生を呼び出して下さい。場所は……」
千智おねえちゃんが電話越しに誰かと話している。
恐らく受付にいた女性だろう。
千智おねえちゃんは一分程電話をすると、受話器を元に戻し、私の方に振り向いた。
「今、秋音さんと部長の宮野さん。副部長の大渕さんと前の顧問だった江川先生が来たみたい。ねぇ、巴ちゃん、貴女一体何をしようとしているの?」
千智おねえちゃんが心配そうに私を見ている。
「終わらせるの! 耶麻神家に向けられている忌々しい妬みを……」
私はそう言うと、ジッと窓を見た。
僕と鹿波さんは校長先生から生活指導室へと案内された。
「――他に先生は?」
校長先生が鹿波さんにそう聞く。
「ううん、その大川って人が来た事だけで感謝してる。のうのうと来たのか? それとも自分に害はないと思っているのか?」
「――どういう事?」
「その大川って人は吹奏楽部の生徒から不正に備品の修理請求をしていたそうなんです。その事を秋音ちゃんに脅されて、已む無く……」
僕がそう言うと、校長先生は青褪めた表情で「そ、そんな事を?」
「もちろん! 秋音ちゃんがそんな事していないと昨夜僕達の前で言ってくれました。僕は彼女を信じます」
「ええ、私も彼女を信じているわ」
「それを今からわからせるの。耶麻神家に……ううん、私の大切な人を傷つけた代償は大きいって事を!」
「だ、駄目よ!」
突然校長先生が大声を挙げた。
「大丈夫。キチンとルールに伴った懲らしめ方をする。だから千智おねえちゃんは私達の証言者になって欲しいの」
鹿波さんにそういわれ、校長先生は黙って頷いた。
部屋に入ると、空いている椅子に座った。
鹿波さんからの案で出来るだけ離れる事にしたからだ。
飽くまで僕と鹿波さんは別々の用件でここに来た事になっている。
数分ほどして扉が開いた。
「あ、校長先生」
先に入って来たのは大きなお腹をした女性だった。
多分、この人が前の顧問で今は産休になっている江川という先生だろう。
続けて、女生徒が二人。その後に秋音ちゃんが入って来る。
僕達に気付くと、よく見ていないとわからないくらい小さく会釈した。
――そして男の人が部屋に入って来る。
少しひょろっとした痩せ型の男性だった。
「あの人が大川先生です」
僕の横の椅子に座った女性……江川先生が僕にそう耳打ちをした。
「――え?」
僕はその先生を見た。
彼は堂々と校長先生の横の椅子に座った。
それよりも明白に女生徒が不信な顔でその大川先生を見ている。
当事者である秋音ちゃんはジッと机を見ていた。
「私が顧問をしていた時はもっと明るかったんです。でも、大川先生が私の代わりになってから、秋音さん、どんどん暗くなっていったんです。もちろん、私も部長の宮野さん、副部長の大渕さんや他の部員達も秋音さんの絶間ない努力もその実力も知っています」
「それじゃ! どうしてイジメなんて!!」
僕は少しばかり声を張ってしまったのだろう。全員が僕を見ている。
「――す、すみません」
僕は全員に向かって頭を下げた。
「でも、どうして? みなさん秋音ちゃんの事を」
「彼女に対しての嫉妬でしょうね? 半数の生徒が優秀な家庭教師を雇っているとか、高級なフルートを使っているとか様々な理由を使ってイジメていたと聞いています」
「でも、もし秋音ちゃんに音楽の才能がなかったら?」
「あの子には素晴らしいと思えるくらいの音楽の才能があります。でも才能がない子に、どんなに高級な楽器や優秀なコーチを与えたところで、酷ですけれど、その芽が延びる事はありません。結局は素人かそれより少し上で終わります」
江川先生がジッと秋音ちゃんを見ていた。
「彼女は恵まれていますね。部長と副部長さんがずっと彼女を励ましてくれている。聞きましたよ? 貴方、昨日入って来たばかりなんですってね?」
そう言うと江川先生が観察するように僕を見た。
「な、何ですか?」
「ううん。何でもないわ」
途端、柏手が聞こえ、全員がその音がした方を向いた。
――鳴らしたのは校長先生だった。
「皆さん。今日はお暑い中集まって下さって有り難うございます。今日集まってもらったのは他でもありません。ある生徒からの口コミで“大川先生が不正な取り引きをしている”というのを耳にしました。今日はその事を話し合いたいと思います」
校長先生がそう言うや、「ちょっと待って下さい! 校長先生。どうして教師は私と校長だけなのですか?」
大川先生が静かにそう言った。
「あら、大川先生? 江川先生も一応はうちの教師ですよ?」
校長先生が江川先生を横目で見る。
「江川先生は既にこの学校を辞めています」
「あら? 産休と辞めるは別の話ですよ。事実上彼女はまだこの学校の教師ですから……」
「しかし……」
大川先生が不服そうな顔を浮かべる。
「どうしたんですか? 何か心配事でも?」
「い、いえ。何もありません」
そう言って大川先生は座った。
「あの? 少しよろしいでしょうか?」
「はい。何でしょうか? 鹿波さん」
鹿波さんが手を挙げ、それを校長先生が名を上げる。
「ここにおられる方々はそこにいる耶麻神秋音さんの事を知っているのでしょうか? もし、知っているのなら教えてください」
鹿波さんがそう言うと、全員が秋音ちゃんを見る。
先に言葉を発したのは大川先生だった。
「知ってますよ。否、この学校の生徒全員が知っています。彼女はかの有名な耶麻神旅館の娘ですからね」
「他に? それ以外に何か?」
「――えっ?」
大川先生は鹿波さんから睨まれた事に困惑していた。
「私は耶麻神旅館の娘である秋音さんを聞いてるんじゃないんです。耶麻神秋音という個人の事を聞いているんです。大川先生が言った事は耶麻神旅館にいる秋音さんの事ではないんですか?」
「で、ですから! それも含めて耶麻神秋音さんじゃないんですか?」
「そんな風に見ているから、秋音さんは苦しめられているんです。彼女はただ耶麻神秋音という一個人として誰かに見て欲しかったんじゃないんですか? それを有ろう事か! 大川先生!! 貴方は彼女に脅されたという嘘っぱちを作り上げ、彼女を苦しめた」
鹿波さんが大川先生に単刀直入に本題を聞き出した。
確か、ルールを守ってと言ってたはずだけど……
「な、何の話ですか? 校長? 彼女は何者なんですか?」
大川先生が慌てるように校長先生に聞いている。
「彼女は大川先生からお金を騙し取られたと言っているんですよ?」
「わ、わたしが彼女に? 耶麻神さん達とたいして変らない人が?」
「彼女じゃなくても、彼女のお母さんが先生に騙されたという可能性だってあるじゃないですか?」
「くっ!」
大川先生が不満そうに鹿波さんを見ながら椅子に座った。
「あのいいでしょうか?」
次に手を挙げたのは確か部長の宮野っていう女生徒だ。
「秋音さんの事ですけど。正直、私は彼女を妬んでいました。もちろん、お金持ちだっていう事がほとんどでしたけど…… でも、彼女の才能に勝てないと思いました。彼女の吹くフルートはとても繊細で、でもここ最近違っていたのは……彼女が私達にイジメをうけていたからなんです」
「私も彼女を才能で妬んでいました」
手を挙げたのは副部長の大斑という女生徒だ。確か昨日屋敷に電話して来たのも、彼女だったはず。
「彼女は本当に才能に恵まれています。これはお金持ちだからと言って出来る物じゃありません。本当に好きか、その才能があるかだと思います」
すると二人は秋音ちゃんに向かって、ごめんなさい――と二人は深く頭を下げた。
秋音ちゃんは驚いた顔で二人を見ている。
「…………」
小さく彼女は頷いた。
「あの鹿波さんだったかしら? 私からも一ついいかしら?」
江川先生が立ち上がろうとすると「あ、江川先生はそのままで、お腹の子に障ります」
校長先生にそういわれ、江川先生は静かに座り直した。
「秋音さんはみんなが憧れる存在だと私は思うわ。それはお金持ちだからではなく、本当に音楽の才能があったから……私は今の今まで一度もお金持ちの耶麻神秋音さんを見ていません。一生徒として! 私の大切な生徒として彼女を見ています」
「え、江川先生?」
秋音ちゃんが全員を見渡している。
そして小さく手を挙げた。一息置いて、校長先生が指名する。
「私……ずっと怖かった。小学校の時、今みたいに凄く嫌な思いをしたから…… だから、出来る限り遠い中学校に行こうと思ってた。みんなからお金持ちとしかみてもらえないんじゃないかって…… 私じゃなくって、お金持ちの耶麻神秋音でしか見てもらえないんじゃないかって…… でも、それって! ただ自分の立場から、耶麻神家の三女としての自分から逃げているだけなんだって! だけど、吹奏楽部に入ったのは本当に音楽が好きだから! フルートが好きだったから……」
すると秋音ちゃんはケースを取り出した。
其処には銀色に輝くフルートが入れられていた。
「やっぱり手入れが行き届いてるわ」
「綺麗……」
秋音ちゃんを挟むように座っている宮野さんと大渕さんが声を挙げた。
「これは私がフルートを吹いてみたいと父と母にお願いしてもらった物です。確か……1万円前後だったと思います」
その値段を聞いて二人の女生徒が驚いていた。
「い、一万円? そ、そんなに安かったの?」
その破格の値段に驚いていた。確かに一万円のフルートなんて聞いたことがない。
「父の話だと、それくらいの値段で友人から譲り受けたそうです。貰った時、凄く嬉しくて、毎日毎日我流だったけど、一生懸命練習していました」
「でもどうして? そんな中古品をそこまで大事に使えるの?」
「新品でも中古でもそれはそれ。使う人の思いが込められていると父が言っていました。だから私はずっとこの楽器を使っているんです」
そう言うと、秋音ちゃんはケースを閉じ、机の下に忍ばせた。
「同じ物か…… そうね、楽器に新しいも古いもないわ。確かに高級な楽器を使った方が音が違うでしょうけど…… 値段が高ければ、それで良い訳じゃない。その人が思いを込めたメロディーに値段なんて関係ないのかもね?」
江川先生が秋音ちゃんを見ながら言う。
「――にしても、安い中古品であそこまで吹けるのは…… 才能があるからじゃないの?」
「大渕さん? 彼女は努力も惜しまないわよ。大好きな事に打ち込んでいるのは凄い事じゃない?」
二人の女生徒がそう言う。
「大丈夫よ。秋音さん…… 私達は…… いいえ、吹奏楽部員全員が、貴女個人を見ているから」
宮野さんがそう言うと「有り難うございます」
そう言って、秋音ちゃんは深々と頭を下げた。
彼女は涙を流しながら、嬉しそうに何度も頷いた。