漆【8月11日・午前3時20分~午前4時10分】
結局、私は正樹の部屋を出て、自分の部屋へと戻ってから、終始天井を見上げていた。
そうこうしてる間に気付けば、午前三時を優に超えていたことに気付いたのは、襖が叩かれた音がしてからだ。
「――鹿波さん、鹿波さん?」
襖越しから澪の声がする。
「はい。何でしょうか?」
「あ、起きてた? 先程、瀬川さんの部屋に行って、作業服を部屋の前に置いたんですけど……」
「――大丈夫だと思いますよ? そんなに複雑な屋敷じゃないですし?」
以前、正樹は少しばかり遅刻していた。
それはただ正樹が方向音痴とういうだけなのだが。
「それと、今日の事だけど……本当にあなた達二人で大丈夫なの?」
澪が心配そうにそう訊くと「昨夜も言いましたけど、澪さんと繭さんが同席すると、耶麻神グループが関係していると思われます。秋音お嬢様はあくまで被害者としての立場ですから……」
「後は、その先生がどう出るかよね?」
澪が部屋に入らずに襖越しに話をしているのには訳がある。
一番、疑っている渡部の通帳が見つからなかったらしい。
当の本人が行方が解らないと言っているそうだ。
「それじゃ、集合場所は玄関だから……何か質問はある?」
「それなら、私と渡部さんを鶏小屋にして下さい」
「別に構わないけど、どうして?」
澪が襖越しに訊く。
「いえ、深い意味はありませんけど……」
「そう? それじゃそうするわ」
疑問をもちながらも、澪はそのまま去っていく。
予定だと渡部洋一は今日の明朝に鶏小屋で殺される。
否、犯人がそう思わせているだけ……
だからこそ、私が一緒に鶏小屋に行けば、それが食い止められるかもしれない。
もっとも、全員が屋敷を出て行ってくれれば、それだけでも有り難いのだが、それはどうも出来そうにない。
後は早瀬警部に逢えればいいのだが……
本来なら先に彼に逢った方がよかったのかもしれない。
彼は四十年前の惨劇を知っている。
だからこそ、この殺人劇が四十年前と関っているかもしれないと、そう考えていた。
鶯色の仕事着に着替え、廊下に出た時だった。
開けっ放しだったのか、窓から夏の明朝特有の冷たい風が屋敷に入り込んでいた。
窓を閉めようと近付くと、窓下にタオルが敷かれている。恐らく雨が入り込んでしまったのだろう。それを澪が気付いて……
否、澪じゃない?
だって、澪はその窓すぐの部屋。正樹の部屋の前に仕事着を置いたのだから、ここが濡れている事に気付くはずだし、誰が窓を開けっ放しにしていたのか聞いて来るはずだ。
それじゃ、一体誰が? そう考えていると、スーッと正樹の部屋の襖が開いた。
「あ、鹿波さん? おはようございます」
正樹が私に挨拶をする。私はそれに対して小さく会釈をした。
「どうかしたんですか?」
私が窓をジッと見ていたからだろう。正樹は小さく首を傾げながら訊いてきた。
「否、瀬川さんじゃないですよね?」
私はタオルが敷かれている床を指さしながら尋ねる。
「いいえ、僕じゃないですけど?」
そう言うや、正樹は首を横に振った。
「あ、二人とも! 何してるんですか?」
うしろから繭の声がした。
「あ、これ? 繭さんがしたんですか?」
正樹がそう聞くと繭は首を小さく横に振った。
「ううん、だって、私さっき起きて来たばっかりだし……澪さんじゃないの?」
「それが、澪さんじゃないんですよ? さっき、瀬川さんの部屋の前に仕事着を置いて、そのついでに私の部屋に襖越しで話していたんですから――私と」
私は正樹を見ながらそう告げた。
正樹は澪が部屋の前で仕事着を置いていった事を語るように頷いた。
「それじゃ、一体誰が?」
繭が手を顎に添えながら考えていると「渡部さんじゃないんですか?」
と、正樹が言う。
「あ、そうかもね? 部屋もすぐ近くだし、年のせいか一番起きるのも早そうだしね? それにもう玄関で待っているから、後で聞いてみたら?」
そう言うと、繭は玄関の方へと去って行き、私と正樹は怪訝な表情を浮かべていた。
「それじゃ、瀬川さんは繭と農園に行って野菜を取りに行ってください。渡部さんは済みませんが鹿波さんと鶏小屋に行って卵を取りに行ってくれませんか?」
玄関先に使用人たち全員が集合する。
それを確認すると、澪が手にもった紙を見ながら、指示をしていく。
「構いませんが? またどうして?」
当然と云えば当然なのだが、渡辺は不思議そうに私と澪を交互に見遣った。
「あ、他の場所も知っておこうかなって?」
私は慌てて正樹を見た。
「それに、二人一緒なら仕事が捗るでしょうし?」
渡部は不思議そうに私を見る。
「そういう事ですから、すみません渡部さん」
澪がそう言うと、渡部は静かに頷いた。
「それで、澪さんは?」
渡辺がそう訊くと「私は精留の滝に行って、水を汲みに行きます」
澪の手にはポリバケツが持たれていて、それを少し持ち上げていた。
澪が屋敷の門を潜り、瀧の方へと歩いていく。それを見ると、正樹がジッと渡部を見ているのに気付いた。
僕は繭さんに案内されるようにビニールハウスの中に入った。
野菜を育てる適度な温度で保たれているのだろう。
外の冷たい空気とは全然違って、結構暑い。
「えーと、胡瓜と茄子と……」
「あれ? 澪さん取って来てもらいたいものとか言ってましたっけ?」
僕が余りにも普通に野菜を選んでいるのを、繭さんが不思議そうに見ていた。
「え、えっと? 多分浅漬けとかにするんじゃないですかね?」
「それだったら、大根も必要じゃない?」
そう言うや、繭さんはそそくさと大根が植えられている方へと走っていく。
やはり麓から離れているだけあって、育てられている野菜が多い。
少し歩くと、西瓜やメロンまで育てられている。
――メロン?
「ま、繭さん? メロンって野菜なんですか?」
僕がメロンを指差して云うと「ええ、そうみたいですね。基本的に土の上や中で出来る物が野菜。木に生る物が果物って分類されるみたいですよ。だから、苺も実際は野菜に分類されるみたいですし、パイナップルやバナナ、柿とかは木に生るから果物に分類されるみたいです」
繭さんが篭に大根を一本乗せ、僕の方に来た。
「メロンはもう少しですかね? それとも出来が少し悪いかな?」
メロンを優しく手で持ち上げると、繁々と見ている。
「わかるんですか?」
「少しだけ、この網模様が細かければそれだけ糖分が多く入ってるんですって。ほら、高級メロンって結構網目が細かいじゃないですか?」
――そう云われても、実際見たことがないのでわからない。
「それじゃ、これくらいでいいですかね?」
「後は澪さんに聞いてみて、足りなかったらまた入ればいいですしね?」
そう言うと、僕と繭さんは篭いっぱいに野菜を乗せ、農園を出た。
渡部が鶏の卵を巣から取りあげ、それを私に渡していく。
篭には籾屑が入れられている。
「――ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ……」
私がそうやって卵を数えていると、「へぇ? 結構古い言い回しですね?」
渡部が背中を向けたままそう言った。
恐らく『いち、に、さん』
と、数えると思ったのだろう。
もちろん、そう数える事もあるにはあるのだが、やはり隔離された集落で生活していたせいか、こっちの方が性に合っているし、なにより数えやすかった。
「なな、や、ここの、とお……」
「十個ですか? それくらいで足りますかね?」
渡部が心配そうに聞く。まん丸とした卵は結構な大きさだ。
「十分じゃないですかね? 何に使うかわかりませんけど? でも、これだけ鶏がいると、結構余っちゃうんじゃないんですか?」
一目で小屋には鶏が二十匹以上はいるのがわかる。
集落で家別々に買っていた鶏と比べても大差がないくらいだ。
「ああ、そういう時は麓の旅館に持っていくんですよ。そうすれば無駄が出ませんからね」
渡部はそう言うと、私が持っているのとは明らかに違う深さは浅く、それでも口が大きな篭を持って来た。それにも籾屑が敷かれている。
どうやら、私が持っているのは屋敷で使う卵なのだろう。
十分くらい経った時には、その篭に五十個といわんばかりの大量の産みたての卵が入れられていた。
「それじゃ、鹿波さんは屋敷の冷蔵庫にそれを入れていって下さい」
「えっ? 渡部さんは?」
「私は戸締まりをしますよ。最近烏が鶏小屋に入って来て悪さをするんですよ」
それを聞いて私は悪寒を感じた。
「と、戸締まりは後でもいいんじゃないんですか? それに、鶏小屋に鍵は付けられていないはずじゃ?」
「ああ、それは昨日までの話ですよ。帰って来て、直に鶏小屋を修理しましてね?」
渡部は促すように私を鶏小屋の外に出した。
途端、鶏小屋の門が閉められていく。
「あれ? 鹿波さん、どうしたんですか?」
先に出ていたのだろう、正樹が私に声をかけた。
「えっと? それが渡部さんが……」
そう言うや、正樹は手に持った野菜篭を地面に放り投げ、「渡部さん! いらっしゃいますか?」
叫びながら力強く鶏小屋の門を叩いた。
「え、えっと? どうかしたんですか?」
繭が驚いた顔で私に聞く。私はそれに耳を貸せそうになかった。
食い止めるつもりで一緒になったんじゃなかったの?
なんのために、澪にお願いしたのよ?
「渡辺さんっ!! 渡辺さぁんっ!!」
正樹の声が大きくなる。
「何遣ってるんですか? 鶏小屋に鍵は付けられていないんですから」
「それが、昨日渡部さんが鶏小屋に烏が入って来るとかで、鍵を着けたそうなんです」
「ちょっ、ちょっとそれ本当ですか? でも、外に鍵なんてついてませんよ?」
繭がそう言うと正樹は冷静になったのか、ゆっくりと鶏小屋から遠ざかった。
「か、鹿波さん? 渡部さんは中から扉を閉めたんですか?」
正樹にそう訊かれ、私は頷いた。
「でも、中に入ったままじゃどこから?」
「僕、うしろを見てみます」
そう言うと、正樹は鶏小屋の裏に廻ったが、すぐに一周してきた。
「人間が出入り出来る扉なんてありませんでしたよ?」
「当たり前ですよ! だって鶏小屋に入れるのはその扉だけなんですから」
繭が締め切られた門を指さして言う。
「でも、窓が開いて、そこから出る事だって」
「あの窓はただの空気を入れる為につけられているだけなの。人が出入り出来るものじゃないし、第一あそこからどうやって外に出るの?」
繭の言う事はもっともだ。ここから見ても二メートルは優に超えている。
しかも窓は小さく、躰を窄めないと出る事も入る事も出来ない。
更にそんな窓から出ようものなら、堕ちてしまい……死ぬだろう。
「それじゃ? やっぱり渡部さんはまだ中に?」
正樹がそう言った時だった。
「三人ともどうしたの?」
「あ、澪さん?」
繭の唯事ではない声に澪は首を傾げるが、ひとり足りないことに気付く。
「えっと、渡部さんは?」
「それが鶏小屋の中に……」
正樹がそう云うや、澪は驚いた表情を浮かべ、「どうして扉が閉まっているの?」
と、訊ねる。
「渡部さんが自分で閉めたんです」
そう私が言った時だった。
「三人とも……少し離れていて……」
そう言われ、私達は澪から離れた。
澪は静かに構え、深呼吸をする。
「せぇいっ!!」
澪の綺麗な中段蹴りが扉を蹴り破った。
「す、凄い……」「さ、さすが……」
二人が驚いているのを澪が気付くと少しばかりはにかんでいた。
やっぱり澪は強い。前の二回とも、澪が近くにいたからこそ、直に鶏小屋の扉が開かれていた。
そして、あの惨劇の始まりでもあった。
ふと、少しばかり違和感があった。
どうして澪はすぐに扉を蹴り壊したんだろ?
私と正樹が鶏小屋に入り、澪と繭は鶏小屋周辺を調べていた。
「渡部さん? 渡部さん!!」
正樹が小屋の中で渡部を呼んでいるが、私はずっと天井を見上げていた。
「鹿波さん、渡部さんが天井にいるわけないですよ? いたらそれこそ蝙蝠じゃないですか?」
正樹が笑いながら言った。
手分けして捜してみたが、鶏は一匹も死んでいない。
無論、血のにおいもしなかった。
前の出来事の際、鶏も殺されていた。
つまり、今回はそれをする暇もなかったと言う事だろう。
今考えれば、たった五分がやつらにとっては充分の時間だったという事だ。
「本当に渡部さんは自分で扉を閉めたんですか?」
「そうですよ? でも…… 鶏小屋の中にいないなんて」
「もしかして、隠し扉なんてのがあったりして……」
正樹が笑いながら言う。
実際今までだってそう考えられる事もあった。
でも、見渡す限り、鶏小屋にその様な形跡はない。
「もしかしたら、地下に通じる穴があったりとか?」
自分で言って、不思議とそれがあっているような気がした。
私は四十年前の人間だ。更に言えば、集落が世の中と隔離したのはそれよりもっと昔。……六十年以上前だ。
その時、世界では大規模な戦争が起きている時代。
だからこそ、あるじゃないの? それに逃げ込む最低限の場所が。
確か、何処かの家の庭から地下通路を使って、防空壕に逃げ込める場所があった。
もちろん、それは空襲から逃げ込む為に使われていた。
でも、どうして? どうしてあの時、麓の人間に殺される事をわかっていたのなら、その防空壕をつかわずに、あんな小屋に逃げ込んだんだろうか?
「鹿波さん?」
正樹が心配そうに私を見ている。
「どうしました? 顔色が悪いですよ?」
「え、ごめんなさい。渡部さんいました?」
聞くや、正樹は首を横に振る。
「二人とも? 渡部さんいました?」
澪が外からそう言うと、「いいえっ。そっちはどうですか?」
「いませんね。足跡は……一つだけみたいですから、瀬川さんのだけでしたよ?」
繭がそう言うと、「正しくはみっつ。私と繭と瀬川さんの足跡だけでした」
澪がそう訂正する。
「となると、やっぱり渡部さんは消えたって事ですか?」
「はははっ! そんな訳ないじゃないですか」
「でも、現にこうして……」
三人が私をジッと見ている。咄嗟に私はうしろを振り向いた。
「き、気のせいですかね? 先刻誰かが立っていたような気が……」
正樹がそう言うが、全員がそちらを見ていた。
明らかに誰かが居た形式がある。
大きな篭に入れられていた卵は、ぐちゃぐちゃに潰されていた。
「くっくっくっ……」
誰かが暗闇で笑っている。
否、嗤っていると言った方がいいだろう。
「まったく、とんだドジを踏みましたね?」
男の懐に忍ばせていた無線機がそう言うと、「子藩弐組か? ふふふっ! 少し計画がずれた。まさか、わしと一緒に鶏小屋に入る人間がいるとは努にも思わなんだ」
含み笑いを浮かべ、男――渡辺はその場に立ち上がろうとすると、「気を付けなされ。ここは地下ですから、高さはそれ程ありませぬ」
暗闇に伏した男が手を差し伸べる。
「しかし、ここに来て二十年余り、ようやく復讐の好機が来たと言うに、秋音は学校。春那は会社に出かけるみたいじゃないか?」
闇に伏した男が含み笑いを浮かべながら言う。
「まぁ、他の娘等を殺す事もありではないのか?」
「いいや、最初は渡部洋一が殺され、全員が混乱した瞬間、姉妹の内誰かを殺せば精神が平常ではなくなる。だが、その姉妹が二人いなくなるとすれば、計画が狂ってしまうではないか?」
暗闇の中であっても、男が焦っているのがわかる。
「まぁ、今回は少し様子を見ましょうや? あの大川も下手をする訳にはいくまいて? 下手をすれば、自分の首、否、人生そのものを駄目にしかねませんからな?」
男が嗤った。途端、懐に忍ばせていた無線機が鳴る。
「こちら、子藩、どうした? 戌藩」
「此方、戌藩。 当主に言われたとおり、****支店の役員『吉田栄子』を自殺に見せかけるように、殺害を完了」
「――だそうです」
「そうか? 耶麻神グループで起きている不祥事を苦に自殺をする役員。これであの家族はどんどん世間から見放されていくだろうな?」
「それに漬け込み、あの途方もない財産を手に入れると?」
男がそう聞くと、暗闇に伏した男は笑った。
「くっくっくっ…… 世の中、金がすべてじゃないんですよ。二十億なんてただの子供騙し。本当はあるんですよ。それ以上の価値がある…… 隠し金山的なものがこの屋敷にね?」
暗闇に消える渡辺の影が静かに復襲の機を待っていた。