表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/165

肆【8月10日・午後5時】


 犬小屋から戻るや、澪に云われ、私は屋敷の玄関前を帚で掃いていた。

 ふと、山道の方から車の音が屋敷の方へと近付いてくるのがわかると、車は開けられた門から庭へと入ってきたと思えば、私のすぐ近くで停まった。


「いやいや、鹿波さん。勢が出てますな?」


 車の運転席から渡部が出て来て、私に言う。

 私は答えるように会釈した。


「そういえば、今日から新しい使用人が来てましたね? どんな青年でしたかな?」

「いい人だと、私は思いますが?」

「そうですか? では挨拶くらいはしておきませんとな」


 そう言うと、渡部は再び車に乗り込むと、そのまま厨と広間側にある駐車場へと車を停めにいった。

 ――私は首を傾げながらも、仕事を続けた。



「あ、渡部さん! こちらの方が今日から屋敷で働いてくださる瀬川正樹さんです」


 澪さんが僕と初老の男性を交互に見渡しながら言った。


「今日からお世話になります。瀬川正樹です」


 そう言いながら、僕は初老の男性に頭を下げた。


「いやいや、立派な青年じゃないですか?」


 初老の男性、確か渡部って人だっけ?

 その人が笑いながら僕を見ていた。


「まぁ、大変でしょうが頑張ってください」

「あ、は、はいっ!!」


 僕が浮ついた声でそう返事をすると、横にいた澪さんが含み笑いを浮かべる。


「――霧絵さんは?」


 渡辺さんが澪さんに霧絵さんの事を尋ねる。


「今、自室にいるかと」

「そうですか」


 そう言うと、渡部さんはそのまま広間の方へと去っていった。


「後、紹介してない人がいるんだけどね? 瀬川さんが来る前日に突然、使用人として来た()なんだけど」

「へぇ、どんな人なんですか?」

「あら? 興味はあるんだ」


 澪さんが僕の顔を覗き込むように言う。


「べ、別にそういう意味じゃないですよ?」

「ふふふっ。今はちょうど玄関のところで掃除しているわよ。鹿波さん? 鹿波さんっ!!」


 澪さんが玄関に向かって、そう叫んだ。

 玄関の戸が開き、彼女達と同様、鴬色の作業着を着た女の子が僕の方へと近寄ってくる。


「あ、さっきの?」


 僕は驚いて、大声をあげてしまった。


「先程はきちんとした挨拶も出来ず、申し訳ございません。自己紹介がまだでしたね? 私の名前は鹿波巴と言います」

「あ、いえ、僕の方こそ……」


 僕達の会話に澪さんが首を傾げる。


「あれ? 二人ともどっかで会ってたの?」


 澪さんが不思議そうに首を傾げながら訊く。


「あ、僕が屋敷に来た時に……」

「ちょうど私が精留の滝で水を汲みに行った帰りに……」


 鹿波さんがその先を言おうとした時だった。


「あれ?」


 深夏さんが疑問でもあるのか、そんな風に取れる声で屋敷をうろうろしていた。


「ど、どうしたんですか?」

「あ、澪さんに、鹿波さん……それと、瀬川さんだっけ?」


 そう言われ、僕は頷いた。


「一体、どうしたんですか?」


 澪さんがそう訊ねると、「いやね? 秋音どこに行ったかなって」

「秋音お嬢様だったら、先程から部屋にいらっしゃるのでは?」

「……っと思って行ってみたんだけど、鍵が閉まってるのよ」


 深夏さんが腑に落ちない様子で首を傾げる。


「学校ってわけでもないですよね?」

「吹奏楽の練習だったら、大体が午前中よ? それに今日は瀬川さんが来るのを楽しみにしてたし……」

「瀬川さんは、秋音お嬢様にお会いしませんでした?」


 鹿波さんがそう言うが、僕は首を横に振った。

 それどころかまだ会ったこともないから、どんな子なのかもわからない。

 ふと、誰かの視線を感じた。


「あ、秋音お嬢様?」


 澪さんがそう言うと、全員がそちらを見た。


「え、えっと……た、ただいま」


 玄関にはちょうど片方の靴を脱ぎ終え、もう片方の靴を脱ぎ掛けようとした体勢で制止している女の子の姿があった。

 多分、彼女が話に出てきた秋音ちゃんだろう。


「あ、秋音? あんた何処に行ってたの?」

「どこにって? 犬小屋にだけど?」


 そう告げられると、深夏さんは崩れるように跪いた。


「あ、ああああああああっ!! ははははっ!! そっかっ? そっか! ごめん忘れてたわ!! っで? どうだったハナの様子は?」

「うん、元気だったよ。前に大和先生が言ってた通りなら、産まれるのは明日の昼くらいじゃないかな?」


 二人の会話を聞きながら、僕は首を傾げた。


「さっき瀬川さんが襲われそうになりましたよね? あの時の犬の事ですよ」


 鹿波さんが僕を見上げながら言う。


「あ、瀬川正樹さん……ですよね? 私、秋音と言います」


 そう言うと、秋音ちゃんが僕に手を差し伸べる。


「こちらこそ。よろしく」


 握手をしていた最中、霧絵さんの部屋で物音がした。


「どうしたのかしら?」

「今部屋にいるのって? 母さんだけ?」

「あ、そう言えば、渡部さんが……」


 深夏さんと澪さんが会話していると、「会社で何かあったんじゃ?」

「秋音? 私達は……」

「わかってる、関っちゃいけないでしょ?」

 秋音ちゃんがまるで諦めたような言い方でそっぽを向いた。



 私と正樹は女風呂の裏にあるボイラー室に来ていた。

 このボイラーで沸かされたお湯が男女それぞれの風呂場の風呂桶に汲まれる。

 そのボイラー機がゴウン、ゴウンと轟音を響かせていた。


「あつっ!」

「近付くと火傷しますよ? それ結構古いやつみたいですから」


 女風呂の窓から、繭が私たちの方を覗き込んでいた。


「あの、こっちにある釜は?」

「ああ、それは非常用にね? ボイラーが壊れた場合、そっちで湯を湧かすの」


 正樹の質問に繭が答える。それを横目に私はふと周りを見渡した。


「ここは森と近いですけど、野犬とか入らないんですか?」

「大丈夫! 屋敷に入れるのはあの門からだけだから。森から入ろうたって、周りは塀で囲まれてるからね」


 繭の言う通り、屋敷の周りは塀で囲まれていた。


「温度は、四十二度になってますけど?」

「あ、んじゃ、温度設定はそのままにしておいて……」

「繭さん? 仮にそれ以上になるって事はないんですか?」

「仮にねぇ? そりゃ、火傷するほど熱いお湯が出るでしょ? まぁ、大丈夫よ。安全装置が付いているから。多分、五十度までしか上がらないと思うわよ?」


 そう言うと、繭は窓を閉めた。

 私は帚で周りの砂をかき集めながら、ふと、正樹を見ると、ジッと風呂釜を見ていた。


「……どうしたんですか?」

「い、いや……」


 明らかに正樹の表情が強張っている。

 正樹はここで霧絵が殺されたという経験があった。

 見るに堪えられないその骸は、まるで中途半端に止められた火葬のようだった。

 その光景をうっすらとではあるが正樹は覚えていたのだろうか?


「そう言えば、瀬川さん、この屋敷には前にも来たって」

「あ、それなんですけどね? さっきから思い出してるんですよ。この屋敷には初めてのはずなのに、なんか……ずっと前から頻繁に来てたような気がして」


 その言葉に私は少し違和感があった。

 確か正樹は耶麻神のことを知らなかったはずだし、屋敷には使用人として面接で二度やってきている。

 だからこそ、頻繁というのが引っかかっていた。


 正樹は首を傾げ、ジッと私を見ている。


「いや、鹿波さんとも逢って、みんな逢ってるんですよね?」

「それが思い出せないと?」

「僕の勘違いかもしれませんし、耶麻神グループは有名ですからね? なんかのテレビで流れていたのを覚えていたのかもしれませんし」


 正樹が断片的な記憶を持ったまま、また来たとすれば、それはCMとかで彼女達を見たというわけではない。

 何故なら春那が現社長と云うことを知っているのは家族以外では早瀬警部と大和医師、そして会社の役員だけ。

 外部に関しては、ほとんど霧絵が社長名義となってる。


「あ、二人とも、そろそろ上がって下さい。奥様が何か話があるそうなんです」


 窓から繭の声がした。


「あ、はいっ! わかりました」


 そう言うと、私と正樹は玄関に廻り、屋敷に上がった。



「今日から来られた瀬川正樹さんです。まぁ、自己紹介は済んでいるみたいですが」


 霧絵が笑いながら言う。


「何か、今日は母さん気分がいいみたいね?」

「さきほど渡部さんから報告があって、山形県の方に支店が置けるようになったとの事です」


 霧絵の代わりに春那が事の全てを話している。


「たしか山形って、さくらんぼが有名だから……」


 何かを期待しているのだろうか?

 深夏が促すように言うと、「そういうだろうと思いましてね? 土産として持って来ましたよ」

 渡部は忍ばせていた風呂敷を前に出し、それを全員の目の前で広げた。


 真っ白な発砲スチロールの箱に詰め込まれた桜桃(サクランボ)は、まるで紅玉(ルビー)のような輝きを発していた。


「うわっ!」


 一番最初に食い付いたのは他でもない、冬歌だった。


「さくらんぼっ! さくらんぼっ!!」

「冬歌、落ち着きなさいって!」


 小さくはしゃいでいる冬歌を秋音が宥める。


「あちらで働かれる方からお礼の品としてもらいました。ささっ! 夕食の後にでも皆さんで」


 渡部はそう言いながら、箱を厨に持って行った。


「さくらんぼっ! 早く食べたいなさくらんぼッ!!」


 冬歌が興奮のあまり、鼻歌を唄い出す。


「それはいいですけど、冬歌お嬢様? 今日こそあれを食べてもらいますからね」


 澪がそう言うと、冬歌がそちらを振り向いた。


「今日こそ! ニンジンを食べてもらいますからね!!」

「えっ!? えっと? だってニンジン苦いし!!」

「いいえっ!! それは躰にいい物が入っているからにがいのであって!」

「まぁ、いいじゃないの? 好き嫌いのひとつやふたつ」


 深夏が冬歌を庇うが、傍から見れば、それこそ藪から蛇だった。


「深夏お嬢様? お嬢様もニンジン嫌いでしたよね? お二人ともッ!! 今日こそ食べてもらいますからね!! それも生で! 野菜スティックにしてお出ししますから、着ける物は特性のマヨネーズ。これにもニンジンのエキスがたんまり入ってますから!!」


 澪がそう言うや、深夏と冬歌は躰を震わせていた。


「あ、そうだ。冬歌ちゃん? 好きな動物っている?」


 突然正樹が冬歌にそう訊くと、「えっ? えっと…… あっ! ウサギっ!」

「それじゃ? 大好きなウサギさんが食べる物って何?」

「んっとね? んっとね? キャベツでしょ? それから……ニンジン?」

 冬歌は不安そうにそう聞き返した。


「そっ! 冬歌ちゃんの大好きなウサギが好きなニンジンを……冬歌ちゃんが嫌いじゃあ、ウサギさんがかわいそうじゃないかな? それに、ウサギさんと一緒に食べられたら嬉しいでしょ?」

「せ、瀬川さん? そんな子供騙し」


 澪が呆気に取られながら言う。


「冬歌ちゃん、少しでもいいんだよ。無理して食べようとするから嫌いになるんだ。ゆっくりでいいから、少しずつ、自分が動物になって食べてみるんだ」


 正樹はまるで催眠をかけるように、冬歌にそう云う。


「――動物に?」


 年相応と云えばそれまでだが、無垢な冬歌は言葉に引き寄せられたように訊き返した。


「そっ! 冬歌ちゃんはウサギさん。ニンジンの大好きなウサギさん」

「ニンジンの……ニンジンの大好きなウサギさん」


 まるで催眠術にかかったかのように、冬歌はその言葉を繰り返していた。

 そんな光景を正樹と冬歌以外の全員が首を傾げながら見ていた。

 そして、その催眠術とも見れる正樹の誘導は夕食時に発揮された。


 深夏と冬歌の前には、さっき澪が云っていた通り、グラスに入れられた野菜スティックが置かれている。


「ウサギさん。ニンジンの大好きなウサギさん」


 そう呟きながら、冬歌は恐る恐るニンジンを手に取り、それを口に入れる。

 最初は嫌そうな表情を浮かべるが、一つ、二つと食べていく。

 そして、冬歌の前に出されていた野菜スティックはグラスだけになった。

 つまり、全部食べれたと言う事だ。


「ウサギさんにね? ウサギさんの真似してみたらね? 食べれた! 食べれたのぉッ! 嫌いなニンジンが凄く美味しく感じたのっ!! ねぇっ? 何で? ねぇっ? 何で?」


 冬歌は自分でも驚いた様子で、その疑問を全員にぶつけていた。


「す、すごいっ! あ、あの冬歌がたったあれだけで?」


 春那が驚くのも無理はない。

 どう考えもあの誘導は子供騙しに過ぎない。

 だけど、現に冬歌は野菜スティックを全部平らげてしまっている。


「今度は深夏お嬢様ですね?」


 澪は深夏を一瞥しながら促すと、「わ、わかってるわよっ! まぁ、私はもう大人ですから!」

 深夏は意を決してニンジンを口に含んだ。


「私はウサギ。私はウサギ」


 と、深夏がそう呟いているように聞こえたのは私の空耳だろうか?

 冬歌よりかは若干遅かったが、それでも用意された野菜スティックの中身は全て平らげた。


「それにしても、凄いですね? たったあれだけで」


 そんな二人を見ながら、霧絵が正樹に尋ねた。


「あ、ああ。あれは僕が小さい時に、母さんに言われたのを思い出したんですよ。ちょうど、僕が冬歌ちゃんと同じくらいだったかな? 大好きなウサギが死んじゃって、食中毒だったみたいなんですよ。その原因が僕が隠れで与えていた大嫌いなニンジンだったんです。それが凄く哀しくて、どうしてニンジンが嫌いなんだろうって…… 嫌いじゃなかったら、殺さずに済んだのにって…… そしたら母さんが『貴方の大好きなウサギになって食べて見たら?』って…… 最初は半信半疑で遣ったんですけどね? そしたら、解らないけど、自分が本当にウサギみたいになって、食べたらすんなり食べられたんです」


 正樹がそう説明していると、「でも、ウサギがニンジンを食べられないって何か意外ですね?」

「たぶん他のものが入っていたりしてたんだと思います」


 そう話している正樹を、冬歌がジッと見つめていた。


「ウサギさん可愛かった?」

「うんっ! 凄く可愛かったよ。だから――すごく後悔してる」


 冬歌の問いに正樹は笑顔で答えた。

 正樹がウサギを殺してしまったのは、恐らく食べさせてはいけない物が混ざっていたからだろう。


 人間と動物は体のつくりが違う。

 人間が平気で食べられる野菜でも、動物によっては食べられない物もある。それが時に死に追いやる物もあるからだ。


 しんみりした空気を払うように春那が話題を変えた。


「冬歌も楽しみだからね? 明日産まれて来るかもしれないから」

「産まれる? あ、犬ですか?」

「でも一番楽しみなのは秋音だから…… 秋音? 明日は学校なの?」

「ううん、先輩に明日は休むって言ってあるから、明日はずっとハナを、タロウとクルルと一緒に見守ってる」


 秋音はそう云うと、麦茶を飲み干し、おかわりを要求する。

 そんな秋音を正樹が驚いた表情で見ていた。

 私は触れなかったが、二度にわたる舞台では、秋音は明日の朝早くに学校に行っていたことになっている。

 だからこそ、今の言葉に違和感があったのだろう。


「そっか、秋音と冬歌は初めてなんだよね?」

「私が見たのがちょうど、タロウが産まれた頃かな? 凄く可愛くってね。はははっ! ドーベルマンの子供だから怖いのかなって思ったんですよ? そしたら、三頭身で真っ黒! だから私隠れてクロって言ってた」


 春那が笑いながらそう言うと、つられてか周りが明るくなった気がした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ