参【8月10日・午後2時】
「来ないかな? 来ないかな?」
さっきから広間で冬歌がそわそわしている。
「さっき連絡があって、瀬川さんが着くのは二時半くらいだって……」
秋音が横で冬歌の宿題を見ながら言う。
――あれ? 確か昨日の晩、宿題終わったって云ってなかったっけ?と思ったが、実際はまだ感想文とか自由研究が残っていたようだ。
「まぁ、山道の景色を楽しんでいて、のんびり来たりして?」
「姉さん……いくら何でもそれはないと思うよ? 瀬川さんは面接で来るんだから、時間厳守がもっともじゃないの?」
秋音にそう言われ、深夏は苦笑いを浮かべた。
「でもさ? 巴さんも結構それ似合ってるよね?」
私の横に立っている繭がそう言うと、「ここ最近辞めていった人がいましたから、多いに越した事はないですよ?」
「あ、ありがとうございます」
私は慌ててそう言うと、うしろで私達を見ていた澪が手を二、三度叩く音が聞こえた。
「それじゃ、昨夜中断してた瀬川さんの部屋の掃除を再開しようかしらね? あ、巴さんはちょっと【精留の滝】に行って、水を汲んできてくれませんか? ……道は知ってるかしらね?」
澪が心配そうに私を見つめる。
「大丈夫です。確か屋敷を出て、右にあるのがそうでしたよね?」
「そっ! それじゃ、頼めるかしら? バケツは厨房の窓下に置いているから」
そう言うと、澪は正樹の部屋の方へと消えていった。
取り敢えず、今の所は被害はないと思いたかった。
何故なら、渡部洋一が今朝早く、会社から呼び出され、霧絵は正樹が来るまで自室で休んでいる。
もし、大聖の考えがそうなら、渡部洋一はここにきて何故私から逃げるような素振りを見せているのだろうか?
今のところ、私の正体に気付いているのは霧絵だけ。
もちろん、私が金鹿之神子としてではなく、大聖に頼まれて、耶麻神グループの事件を捜査しに来た何者か、と言った感じだろう。
澪に言われた通り、精留の滝……
いや、私からしたら、精霊の滝になる。
滝が見え、その水を汲み始める。
改めてあたりを眺めると、本当に綺麗だと思ってしまう。
ここも何一つ変わっていない。
水面には何一つ、晴天に浮かぶ雲しか浮かばない。
鏡花水月という言葉があるように、鏡に私の姿が映らないのは……
私がこの世界の人間じゃない事を物語っている。
屋敷の廊下に大きな鏡がない事が何より幸いだった。
帰り道、近くから足音が聞こえた。
「あ、すみません。耶麻神邸はこちらでよろしいんでしょうか?」
若い男性が私に声を掛ける。
「あ、はい。あのどちら様でしょうか?」
「今日、面接に来た。瀬川正樹と言います」
「瀬川さんですね? お待ちしておりました」
私は頭を下ろし、ゆっくりと正樹の姿を見た。
正樹が私の事を知らないとしても、あの惨劇を覚えているかもしれない。
つまりこれはひとつの賭けでもあった。
惨劇に対抗するには、正樹の記憶が如何せん必要だったからだ。
「あの付かぬ事をお訊きしますが、どうして耶麻神邸で働こうと?」
「あ、いや、どうしてかな? 前にも来た覚えがあるんですけど……」
正樹は首を傾げながら言った。自分でもどうして来たのだろうと思ったからだろう。
――覚えがある。
つまり、記憶消去の影響を受けていない可能性がある。
断片的なものかもしれないけど、それでもここに来たと言う事は、正樹自身があの惨劇に納得がいっていないからだろう。
「それじゃ、そちらでお待ちください。すぐに奥様をお呼び致します」
正樹を鹿威しのところで待たせ、私はバケツを玄関横に置くと、「奥様! 瀬川様がいらっしゃいました」
私の声が屋敷内に響く。
その刹那、タロウ達の唸り声が犬小屋から聞こえて来た。
そして、茂みの中から一斉に飛び出して来て、正樹に襲い掛かってきた。
「うわぁああああああああっ!」
正樹は跪き、平伏した刹那、「お止めっ!!」
と春那の声が聞こえた。
その声を聞くや否や、タロウ達はピタリと止まり、その場に伏した。
「どうしたの?」
春那の声が聞こえたのだろう。深夏が寝間着のまま玄関先まで出ていた。
「は、はははっ! やめっ!」
さっきまで悲鳴を挙げていた正樹の頬をクルルが舐めている。
ハナはゆっくりとその場に寝転がり、タロウは静かに私のところに来た。
「珍しいわね? タロウ達が初めて会った人に、ここまで懐くなんて」
深夏が首を傾げる。
「こらっ! クルルっ! 瀬川さんが迷惑してるでしょ」
「あ、良いんですよ。あっ! こらっ! くすぐったいってっ!」
正樹は優しく、クルルの頭を撫でながら、離そうとするが、クルルは離れようとしない。
「あ、クルル? これ、なぁんだ?」
深夏が骨の形をしたぬいぐるみを取り出すと、「ほぅらぁぁぁぁぁっ!! いったぁああああああああああああっ!!」
思いっきり、茂みの方へと投げると、クルルはそれを追い駆けるように走っていった。
「もうすぐお父さんになるのにね」
深夏がクスクスと笑う。それを見ながら春那も笑っていた。
「それじゃ、瀬川さん。中へどうぞ。あ、巴さん? タロウ達を頼めますか?」
春那が申し訳なさそうに私を見る。
「あ、わかりました」
私が会釈すると、「水は……深夏が持っていくって事で……」
そう言われて、深夏は怪訝の表情を浮かべるが、渋々バケツを持ち、屋敷に入っていった。
正樹は立ち上がり、ズボンに付いた砂埃を払うと、屋敷の中へと入っていく。
「もしかして、あの時正樹を襲おうとしていたのは…… 襲おうとしていたんじゃなくて、本当に戯れあいたかっただけだったの?」
私がそう言うと、タロウは踵を返すように茂みの方へと去っていった。
それを見て、ハナは重たい躰を起こし、タロウの後を付いていく。
私はそれを見ながら、正樹の反応を思い出していた。
悲鳴を挙げたのはあの一瞬だけで、本当だったら怖いはずなのに……
クルルが眼前に来ていても怖そうな仕草はしていなかった。
タロウ達が怖い存在じゃないと言うのが記憶の片隅にあったからだろうか。
そして、何よりもタロウ達の反応だ。
優秀な警察犬の血筋を持っているタロウ達はこの屋敷の番犬でもある。
その番犬達が見た事がないはずの正樹に尻尾を振っていた。
犬が尻尾を振ると言う事は、忠義を現しているか、それに対して敵対心を抱いていないと言う事。
つまり、犬達にも記憶があったと言う事だろう。
あったからこそ、正樹を敵視していなかった。
それは正樹も同じだった。
そう考えていると、タロウ達の行方がわからなくなってしまっている事に気付く。
「あ、ちょ、ちょっと! タロウっ! ハナッ! クルルッ!?」
私は慌てるように、彼等が消えていった茂みの中へと入っていった。
茂みの先は屋敷の中庭だった。
タロウ達は犬小屋の裏側で鎮座するようにジッとしていた。
「よかった…… こらっ! 勝手に……」
私が言いかけようとした刹那、殺気のようなものを感じた。
ちょうどクルルの足元に妙なふくらみがあり、それが掘られた跡だというのはすぐにわかったが、それだけならどうという訳ではない。
「あ、あなた達、ここに何が埋められているの?」
私がそう訊くと、答えるようにタロウは土を掘り起こした。
次第に、それが何かがわかっていく。
「…………」
私は咄嗟に口に手を遣った。
それを見ないように背けたかった。
土の中には大量の骨があった。
タロウ達が好んで噛むような動物の骨じゃない。
その中には明らかにソレが何かを物語っていた。
腐り爛れた眼球が人間のものであると言うのがすぐにわかった。
第一、人間の頭蓋骨があったからこそ、ソレが人間の骸だと言う事を証明していた。
私は咄嗟にうしろを振り向いた。
誰かが私達を見ている気がしたからだ。
「あなた達…… どうしてこれを私に見せたの?」
答えるようにタロウ達は犬小屋を見遣った。
途端淋しそうな表情を浮かべたのは、私の思い違いだろうか?
タロウとクルルが静かに土を戻し、その骨を隠した。
そして、開けっ放しになっていた犬小屋の扉からそのまま中へと入っていった。
たしか、犬小屋は鍵が掛けられていたはず。
つまり、誰かが意図的に開けたという事。
でも、犬小屋の鍵は澪が持っているはずだし、マスターキーもないはず。
と言う事は、誰かが合鍵を持っている可能性がある。
あの時は繭が閉め忘れたのかと思っていた。
だけど繭は自分の部屋で宿題をしていたから、それはない筈だ。
私は繭の部屋を見る。カーテンが掛けられていて中は見れなかったが、少し音楽が漏れていた。
私はその窓を数回叩くと、ガラッと音がした。
「どうしたんですか?」
休んでいるところを邪魔された所為か、繭は不快な表情を浮かべている。
「あ、いや、犬小屋が開いてたものですから」
私がそう言うと、繭は首を傾げ、「それなら澪さんが持ってるんじゃないでしょうか?」
「でも、澪さんは瀬川さんの部屋の掃除をしてましたから、犬小屋には行ってないはずですよ?」
「そう言えば、そうよね? ちょっと待ってて……」
そう言うなり、繭は部屋を出たと思ったが二分くらいで戻って来た。
今度は澪も一緒だ。
「はい、犬小屋の鍵」
そう言って、澪は二つの鍵を私に渡した。
「あ、そう言えば、さっき男性の叫び声が聞こえてたけど?」
繭が首を傾げながら言った。
「瀬川さんがタロウ達に襲われそうになったんですよ」
「はははっ!! タロウ達は優秀だから、悪い人以外には見向きもしないわよ。その瀬川って人が悪い人だとは私は思わないけど」
澪がそう言うと、「あ、そっか。今日新しい使用人が来るって言ってましたからね」
繭はそう言うと、少し悔しそうな表情を浮かべた。
「それじゃ、鍵閉めお願いね。鍵は後で返してくれていいから」
そう言うと澪は部屋を出た。
「それじゃ、鹿波さん。窓閉めますけど……」
繭が確認するように訊く。
私が頷くと、静かに窓を閉め、カーテンを掛けた。
犬小屋の中扉である木製のドアの前に私は立っていた。
タロウ達は広い犬小屋の中で戯れあっている。
それを見ると、私はドアを閉めようとした時、タロウが私の元へと歩み寄って来た。
そしてタロウの視線は部屋隅で臥しているハナに向けられる。
ハッハッハッと、荒い息遣いがここまで聞こえて来そうだ。
「明日、本当だったら産まれるはずだったのよね?」
私がそう呟くと、タロウは再び私を見遣る。
今度こそ……今度こそ産ませてあげる。
あなた達が望んでいる事はそれなんでしょ?
私は静かに中の扉を閉め、鍵を掛けた。
そして、外に出て、柵の扉も閉める。
私は再び骨のあった場所へと行った。
途端、違和感を感じる。
『均されている?』
確かにあの時タロウとクルルが土を戻していた。
だとすれば土が盛り上がっているはずだ。
それなのに、まるで何もなかったかのように地面が均されている。
私は咄嗟にあったはずの場所を掘り起こした。
が、直に見つかった骨は、まるでなかったかのように消えていた。
見間違いと最初思ったが、あの悪臭は間違いなく本物だった。
それじゃぁ、誰かが持ち去ったのだろうか。