弐【8月9日・午後5時――午後7時】
「どういう事でしょうか?」
霧絵の驚いた声が広間に響きわたる。
「ですから、今申しました通り、ご無理を承知の上の事。私をこの耶麻神邸で働かして頂きたいんです。もちろん私の勝手な願いですゆえ、そちら様方々の好きに扱ってくださっても構いません」
霧絵を目の前にし、私は頭を伏せ、申し出を講う。
「どうして、そのような?」
春那が怪訝な表情で尋ねる。
「訳は申せません。ですが、ある方から耶麻神グループの事を調べるようにと頼まれ、その事を霧絵さんと社長に申しているのです」
調べて欲しいという点では間違っていないため、素直にそう伝えると、霧絵と春那が不思議そうな表情を浮かべた。
「その……ある方とは?」
「名は申せません。ですが、貴女方を一番に心配している方からの頼みで、私はこの屋敷に来ました」
これは嘘ではない。耶麻神大聖は霧絵と四姉妹を心配していた。
「どうする? 母さん――」
春那が小さくそう霧絵に尋ねる。
彼女が私を不信がっているのは致し方ない。
「他に、その方から何か言われたのですか?」
霧絵は私に頼んだのが誰なのか、薄々と感付いたのか、先程見せた険しい表情が一瞬だけ綻んでいた。
「外からと中からという事を申しておりました」
これは二回もの惨劇を傍観していた私の意見だった。
大聖と霧絵の病を診ている大和医院は、外の人間が殺した事は間違いないだろう。
そして、中からと言うのは、この屋敷にいる誰かがしている。
「母さん! こんなの嘘に決まってる! 耶麻神グループの不祥事をどうしてこの子が知っているの? それこそ、でまかせじゃない」
春那が大声で捲くし立てる。
「第一! 名前も云えないなんて、本当は警察が」
「警察は関係ありません。あの方に頼まれ……」
「だからっ! それを頼んだ人間が警察かもしれない」
春那が私に怒鳴ろうとした時だった。
「春那ぁッ!」
普段大声をあげないはずの霧絵が叫ぶと、私と春那は驚いた形相を浮かべていた。
「巴さんでしたね? もし、貴女の言っている事が本当だったとしたら……」
霧絵は目を瞑り、少しばかり何かを考えるような仕草をする。
「春那、澪さんを呼んで、空いている部屋……そうね、明日いらっしゃる、瀬川さんの隣部屋が空いていたから、この方をその部屋に連れていくようにと伝えて」
「――どうして?」
春那は釈然としない表情で訊き返した。
「この方は本当に警察に頼まれて、この屋敷に来たかどうかは今は触れないでおきましょう。それに、私達を一番に心配してくれているのは誰だったかしら?」
そう霧絵に告げられると、春那は物言わずにスッと立ち上がり、広間を出た。
「巴さん、あの方とは……」
「申し訳ございません霧絵さん。私の口からは……」
「いいえ、あの人の事ですもの。いつも私達を心配してくれていた事は知っていました。そうですか。あの方が貴女をここへ……」
霧絵はまるで、私が大聖に頼まれてここに来た事に気付いているかのように言った。
「他に何か言ってましたか?」
「あ、そう言えば、美濃の刀鍛冶に懐剣を頼んでいました」
「懐剣を――ですか?」
霧絵は何か思い当たる節があるのだろう。私がそれを訊ねてみると、「多分――毎年十月に門の前にある祠に備えていた刀が錆びたから、それを直してもらいに行っていたんでしょうね? あの人、ああ見えて、結構まめな人でしたから」
霧絵は小さく笑みを浮かべた。
「備えるって?」
「祠に眠る神様が十月に出雲大社へ参る時、道中無事を祈って備えているそうです。ふふふっ。神様だったらそんなもの必要ないかもしれないのに……」
霧絵が軽く手を口に添える。
「あの人、神様が秋音くらいの少女で、淋しそうにしているからって……」
――大聖がそんな事を?
「鹿波巴さん。部屋の用意が出来ました」
広間の襖が小さく開き、春那がそう告げた。
「巴さん。私が部屋へと案内いたします」
そう言って、霧絵は立ち上がるが、眩んだのか、前へと倒れた。
「お、奥様?」「母さん?」
私と春那、そして澪が霧絵の元に駆け寄る。
「ふふふ、久し振りに楽しかったからかしらね」
そう言うと春那の肩を借り、霧絵は自分の部屋へと消えていった。
「それじゃ、私が部屋へと案内します」
澪にそう言われ、私は頷いた。
「部屋はこちらです」
連れて来られた場所は、瀧が見える方の使用人室の隣。
――ふと、何か意図的なものを感じた。
「急な用件でしたので、部屋は少し汚れていますが」
澪が申し訳なさそうに言うと、「大丈夫です。住めば都と言いますし」
「そうですか? それでは、これはこの部屋の鍵です」
そう言うと、ポケットから鍵を取り出し、私に渡した。
「では私はこれで。何かわからない事があったら……」
去ろうとする澪に、「この屋敷に住んでいると言われている“金鹿”とは何なんですか?」
それを訊くや否や、「さぁ? 何の事でしょうか?」
そう言うと澪は逃げるように去っていった。
“金鹿”という言葉を聞いて、多少なりとも反応はあるとは思ってはいた。
でも、あそこまで表情を変えるとなると、やっぱり本来の姿を知っていると言う事だろうか?
金鹿之神子が皆殺しの神の巫という事を大聖は知っていた。
誰かに聞いたのか、それでも私の目の事を知っているからこそ、私をこの屋敷に招いたのだろう。
もし、大聖が私と同じ力を持っている人間がこの惨劇を作り出していると考えているのなら、如何せん男性がという事は考え難かった。
あの力は、本来女性にしか受けつかれない。
だからこそ、私の家系は女尊男卑に近かった。
女子は十三歳を迎えると、巫として家系から除外されていた。
それもそうだろう。神に自分の子を渡すのだから……
そして、戦国時代には大名の妾として売られていた。
――今思うと本当に嫌な力だ。
だからこそ、十三歳を迎えるまでに金鹿によって選別される。
選別された娘は怪奇な死を遂げる。
私と祖母はその選別から逃れ、母は呪いに掛かっていたかのように、私を産んだ後に死んだらしい。
その事に関しては何一つ知らないし、知ろうとは思っていない。
「冬歌、夏休みの宿題出来てる? わからないところあったら教えるわよ?」
深夏が卓袱台の上で学校の宿題をしていた冬歌にそう訊ねる。
「大丈夫だよ? 宿題全部終わらせてるから、後は日記書くだけぇ」
と、冬歌は断るように言い返した。
「深夏姉さん? そういう自分の宿題は終わったの?」
秋音が耳当て(正確にはヘッドホンというらしいけど)をし、楽譜を読みながらそう言う。
「う……云っておくけど、生徒会とかで忙しかったとかそういう理由じゃないからね?」
深夏がたじろうように言う。その言動から終わってないなと思った。
「ちょ、ちょっとトイレ……」
慌てるように深夏が立ち上がると、広間から出て行った。
「鹿波さん、ちょっと来てください!」
厨から澪の声が聞こえた。
「はい。ちょっと待ってください」
そう云うと、横目で秋音と冬歌を見遣った。
「秋音お姉ちゃん、昨日って雨降ったっけ?」
「夕方に雨が少し降ってたでしょ? マークだと左半分○で右半分が●になるよ」
秋音がそう教えると、冬歌は言われた通り、○の部分にそうなぞった。
「鹿波さん?」
「鹿波さん、澪さんが呼んでますよ」
秋音にそう云われ、さすがにこれ以上無視は出来ないと思い、厨へと行く。
厨に入ると、テーブルには夕食が置かれていた。
特別高級食材がある訳ではないし、使っている食材そのものはこの屋敷にある農園で作ってるから、形なんて出鱈目だったりする。
それなのに美味しそうに見えるのはやはり、澪の実力だろう。
澪は目の前の汁物を作っている間にも色々と作っている。
野菜の炒め物やら、南瓜の煮物やら……
「さてと……今日こそ食べてほしいなぁ」
澪は千切りになった人参を見つめていた。確か深夏と冬歌が駄目だったんだっけ?
「色彩を考えると人参は必要だし。でも嫌がられるのは癪だしなぁ」
厨を任されている澪にとって、屋敷の者たちの健康管理はしっかりしている。
でも嫌いなものを無理矢理食べさせられて、気分がいい人はいない。
「しょうがない。今日は諦めよう」
そう云うと、その人参を冷蔵庫に直した。
「ちょっといいかしら?」
広間と厨を挟んだ区切りは戸がないため、暖簾がかけられており、それを腕で上げながら、春那がこちらを見遣る。
「どうしました? 春那お嬢様」
繭がそう云いながら、春那を見た。
「この前新しい使用人を採用したって云ったわよね?」
「ええ。確か男性とお聞きしましたが?」
「“瀬川正樹”って名前みたいだけど、明日午後二時くらいに来て、そのまま住み込みになるから。手の空いてる人は滝側の部屋を掃除しておいてくれる?」
春那は用件を伝えるとそのまま広間の方へと消えた。
「鹿波さん、掃除頼めますか?」
「あ、はい。わかりました。滝側って事は私の隣ですよね?」
「ええ。部屋のつくりは変わりませんから。繭、手伝ってあげて」
そう云われ、繭は少し頬を膨らまし、私を睨んだが、「鹿波さん、早く終わらせましょ」
そう云って、厨を出た。
正樹が入る予定の部屋は、過去二度の出来事と変わらず、滝側の部屋だった。
というより、最初から決っていたようにも感じる。
繭が窓を開けると、涼しい滝の音が耳に入る。
電気を点けると、以前使っていた使用人が去った後、手を付けていなかったのか、雑風景な感じがした。
四畳一間と私の部屋と変わらない。
違うといえば、窓があるくらいだ。
元々この屋敷が旅館だったとしても、山の景色を楽しむために作られており、決して大きくなくてもいい。
ただ、“多くの人が来るように”という大聖の願いも込められているからだろう。
「それじゃ、ちゃちゃっと終わらせますか?」
一度部屋を出た繭が手に箒と塵取を持って、そう云う。
「一度畳を箒で掃いて、雑巾で水吹きして」
私がそう云うが、繭は肩で返事をするように、「そういう面倒なことはしなくていいの。ちゃちゃっと箒で掃くだけでいいんだから」
いや、そういうのは駄目なんじゃ? 仮にも人が来る訳なんだし……
「繭さん、いくら身内でも仕事と考えてやりなさい」
霧絵の声が聞こえたと思うと、引き戸は静かに開き、霧絵が覗き込むように入ってきた。
「すみません、奥様」
繭は霧絵に向かって、頭を下げる。
「先程、鹿波さんが云っていた通り、ただ箒で掃いてしまえば、畳が傷んでしまいます。この部屋を以前の方が使わなくなって、もう三ヶ月になるんですから」
霧絵は中腰になり、畳に触れた。
「少し黴臭いですね。瀬川さんに伝えて……」
そう云った刹那だった。霧絵は倒れ、肩で息をし始めた。
「お、奥様?」
繭がそう呼びかける。
私も呼びかけたが、間違っても“霧絵”とは云えないため、口に出す事が出来なかった。
「二人とも、ちゃんとやって……お、お母さん?」
部屋に入ってきた春那が目の前で倒れている霧絵を見て絶句する。
慌てて部屋に入り、霧絵の元へと駆け寄ると、懐から喘息の薬を取り出すと、蓋を開け、口元に持っていった。
「ぜぇ……ぜぇ……はぁはぁ……」
春那は繭と二人で霧絵を壁際に連れて行き、壁に凭れるよう促した。
薬を吸い込んで落ち着いたのか、少しずつ顔色がよくなっていく。
「ごめんなさいね、二人とも。ご飯の用意が終わったから、一度切り上げて」
霧絵は春那の肩を借りながら、部屋に出て行った。
ふと開いたままの窓から風に運ばれた滝の音とは別の……庭の池にある金色の鹿威しが鳴った。