壱【8月9日・午後3時】
木漏れ日が眩しい。
この山の山道は、車が通れるほど綺麗に整備されているとはいえ、あの頃とほとんど変っていない事が何よりも嬉しかった。
だけど私がここに来た理由を考えると、生きていた時の思い出に耽って場合じゃない。
鹿威しが聞こえた。私がいた頃にはなかった音。
恐らく耶麻神邸が出来た時に作ったのだろう。
そして、有りもしない言葉に、今まで陵辱される事を物語った音でもある。
瀬川正樹がどうして曖昧な記憶を持ったまま、時を遡り、輪廻のように繰り返されるあの殺人劇に参加させられていたのか?
それに……どうして【奴】は耶麻神家の女性が私と同じ力を持っているのかという結論の上、眼球を奪っているのか?
私の記憶が正常であってくれるのなら、耶麻神霧絵の母親は、四十年前のあの惨劇で逃れた人間と考えるというのが妥当だろうが、それは違っている。
あの力を持っていたのは私とおばあちゃんだけだった。
それを考えると、両方とも奪う事は出来なかったはず。
おばあちゃんが私に内緒で、同じの力を持っている娘がいたとしても、私があの晩の麓の人間達を殺しているのだから、耶麻神家には関係のない話になる。
それじゃ、一体犯人はどうして私と同じ力を持っているのか?
第一、あの中に……いや、今は私が出来る事をしよう。
結論を出すのはそれがしっかりとわかった時に……
今までは傍観者として、ただ目を背けていた。
だけど、この荒んだ輪廻からみんなを助けるには、私がこの殺人劇に参加するしかないと言う事。
【奴】にとっても、私が参加する事なんて考えてないでしょうね?
耶麻神邸の大きな門が見えてきた。
その横には祠があり、私はそれを見遣る。
この土地の神である金鹿の話を小さい頃からおばあちゃんから聞いている。
金鹿……皆殺しの神。
私達一族の女性のみが持っている恐るべき破滅の力。
その巫として、私は神子として崇められていた。
でも、どうして崇められていたのか?
この力が畏怖する力だからというならそこまでだろう。
でも、それ以外に何かがあった。
私はあの時、本当にあの時だけだった。
あの時、目の前におばあちゃんを殺されて、気が動転していて……集落の男に気絶させられたところまでは覚えている。
気狂いに麓の人間を殺戮し有ろう事か……
でも、あの人は私に手を差し伸べてくれた。
もしこれが、私の犯した事によるものだとしたら……
「あ、あの……」
門の横から女性の声が聞こえた。
「もしかして、登山の方ですか?」
「え? え、えーと……」
私はあたふたして、自分でも何を喋っているのかわからなかった。
「休憩でしたら、遠慮せずに……」
そう言うと、女性は……霧絵はインターホンを押し、「澪さん、お茶の用意を……ふふふっ、山登りの人が来てます」
そう言うと、大きな門がゆっくりと開いた。
「さぁ、お疲れでしょ? 冷たい麦茶でもどうでしょうか? あ、御中元に貰った羊羹があったわね?」
まるで久し振りの来客が来たかのように、霧絵は喜んでいるようだった。
私が呆気に取られた表情で見ていると、それに気付いたのか、「あ、あらやだ! 端≪はした≫ないところを見せてしまいましたね?」
「あ、い、いいえ」
彼女はまっすぐに私を見ていた。それが妙にくすぐったく、そして私がしてほしかった事でもあった。
「あ、祠……」
霧絵は祠の前で中腰になると、手を合わせ、拝んだ。
「金鹿之神子様……今日もみんなが幸せに暮らせる事を御願いします」
それを聞いて私は驚いていた。
「……それは何の神様なんですか?」
「私も詳しくは知らないんですけどね? 何でも家内安全の神だって、渡部さんから……」
そう言うと、霧絵は立ち上がり、膝に着いた泥を払い落とした。
私は横目で祠を見ていると「さぁ、こちらへ……」
と、霧絵が私に呼び掛けられた。
玄関で澪に出迎えられ、軽く会釈した後、屋敷の広間に案内されたると、「あれ、母さんは?」
「あ、深夏お嬢様? お帰りなさいませ」
玄関先で深夏の声が聞こえた。どうやら高校から帰って来たようだ。
「繭? 帰って来たところ悪いんだけど、急なお客さんが来て、その人の応対をしなきゃいけないから……」
「そうなんですか? わかりました。着替えたら、タロウ達の散歩、今日は私がしておきます」
そう言うと、繭は靴を脱ぎ、自分の部屋へと消えていった。
「うーん、山道が涼しいとはいえ、やっぱり暑いわね? ――あれ、お客さん?」
広間に入ってきた深夏が私を見るや、澪の方に振り返る。
「奥様が山登りで疲れていらっしゃるでしょうからと」
「――まぁ、母さんが上げたんなら仕様がないか」
深夏は私のうしろを通り、厨に入った時、「すみませんね? ほら、深夏?」
霧絵にそう言われると、深夏は背を向けたまま「ごゆっくり!」
と言って、コップに麦茶を注ぎ、それを一気に飲み干した。
「すみません。普段はあんな子じゃないんです」
「あ、いい、いいえ……知ってますから……」
自分で失言してしまったのに気付く。
考えたら、全員私の事を知らない。
「私、貴女と会った事あったっけ?」
深夏が手に麦茶の入ったコップを持ったまま、首を小さく傾げた。
「あ、いえ、あぁ、ここが生徒会長の?」
私は咄嗟に深夏が高校の生徒会長をしていた事を思い出し、口から出任せにそう言った。
「ああ、そういう事? って? あれ?」
深夏はやっぱり腑に落ちていなかった。
それもそうだろう。学校と家ではてんで違っているのだから。
「ねぇ、繭? 私さぁ、学校と家とじゃ違うわよね?」
「全然違いますよ? 雲泥の差が有るくらい……あっ!」
繭は口を滑らせてしまったと気付くや、手で口を押さえたが、「この口かぁ? このくぅちぃがいぃってるの?」
深夏が繭の唇を指で掴み、小さく回す。
「ふぁ、ふぁめぇてぇ! ふぁめぇてぇくぅだぁふぁぃぃぃっ!!」
繭がそう言うと直に深夏は指を離した。
「いったぁぁっ」
繭が赤くなった唇を手で摩る。
「――自業自得でしょ?」
澪が御盆を持ったまま、呆れた顔で繭を見ていた。
「どうぞ」
と言うと、繭はお盆に乗っていた羊羹のお皿を私の前に出した。
「あ、いいな? 澪さん、私のも!」
「太りますよ? 昨日だって、デザートで用意していたケーキ食わなかったじゃないですか?」
澪にそう告げられ、深夏は視線を羊羹に向けないようにした。
「それじゃ、私はタロウ達の散歩に……」
「あ、屋敷に戻ったら、野菜農園から胡瓜と茄子と南瓜とってきてね」
「え? それは渡部さんの仕事じゃ?」
「それが急な用が出来て、耶麻神グループの本社に行ってるのよ?」
それを聞いていた深夏が、「二人とも、私達が会社の事を口に出さないのはわかってるわよね?」
「そうですけど、最近の……」
繭がそう言うと、深夏が怪訝な表情を浮かべ、それを見るなり、「わかってます。あくまで私達は使用人ですから……」
そう言うと、繭は外へと出て行った。
それを見ると、澪はテーブルに御盆を置き、そそくさと広間から出て行った。
部屋には私と深夏しかおらず、対面するように深夏が座っている。
「ねぇ、貴女……私と何処かで会った事ある?」
深夏にそう言われ、「あ、私、先輩と同じ学校に通ってるんです」
また口から出任せなのだが、それを聞くと自己解決したかのように、深夏は「ふーん」
と言ったまま、コップの麦茶を飲み干し、そのまま広間を出て行った。
広間に私以外誰もいない事に気付くと、ドッと疲れが出てしまい、正座した下半身をそのままに上半身をうしろに倒した。
見た目変な形ではある事は十分わかっているのだが、如何せんこの方が何故か落ち着ける。
今、自分が置かれている状況は……山登りに来た客としてだろう。
そして、予期せぬ客人として、この屋敷に来ている。
でも、惨劇が始まるのは今から二日後。
確か明日だったはずだ。瀬川正樹が使用人として、アルバイトに来るのは……
それを考えると、どうして正樹が来る日ではなく、その前日に私をここに来させたのかという事だ。
何かがあるからだろう。私は彼を信じよう。
耶麻神大聖が私に望んだ事。
彼がこの家の人達を心配しながら散っていった事も知っている。
それにあの時、美濃の山中で、大聖を殺した奴等の言動が気になる。
『――あの方』
つまり、耶麻神グループで起こっている不祥事と奇妙な自殺事件、そして、どうして大聖が撃ち殺されなければいけなかったのかと言う事。
あの時に口走った人物が絡んでいるという事は間違いない。
今、自分が出来る事。
それは、この屋敷の使用人になり、正樹と一緒にこの猟奇殺人の犯人を捜し上げる。
否、正樹じゃないと駄目なのだろう。
彼は曖昧ではあるが記憶消去の影響を受けていなかった。
つまり、彼が過去二回の失敗を悔やんでいるのなら……
少々酷だけど、この殺人劇に打ち勝つにはどうしても必要だということ。
私がそう考えていると、あの音が鳴り響いた。
そうね? アナタもそれを望んでいるのなら! それで結構っ!
さぁ! 今度はこっちの番っ!
その忌々しい音色を奏で、私の名を騙るものよ!
本人が来た事を呪うが良い!
でもね? 殺戮なんて絶対させない!
この金鹿之神子である『鹿波巴』が……
嘘と誠の違いを教えてやるっ!
私の言葉に反応するかのように、鹿威しが鳴り響いた。
いよいよ後半戦です。今まで散らばっていた伏線は果たして回収されるのでしょうか?