拾玖【8月12日:午後7時15分】
早瀬警部が澪さんの遺体に触る。
内蔵を潰されているらしく、吐血したのもそのためではないかと考えているようだ。
鶯色の作業着を脱がし、水色の下着が露になっている。
僕はそれを見ないように視線をそらしていた。
「下着も濡れていますね。そうなると何処かで水のある場所に落ちた……ということでしょうね」
「そのあと、服を着せたってことですか?」
「多分そうでしょうね。裸のままだったとしたら、服を着る前に体を拭くだろうし――」
僕の質問に深夏さんが答える。
「でも、妙ですよね。内蔵を潰されていたとしたら、即死してるはずじゃ?」
確かにその点に違和感があった。体が濡れているのは水に沈んでいたからという説明ができる。
だけど、内蔵を潰された人間が歩けるとは思えない。
「そういえば、澪さんが何か言ってましたよね?」
「瀬川さんがの考えが一部あっていたことと、この山に関する伝記についてだっけ?」
確かに澪さんはそんなことを云っていた。でも僕は当てずっぽにいっただけで、内心深くは思っていなかった。
「えっと…… 確か真田幸村はもともと作られた名前で、それを神子に置き換えて……」
僕はハッとし、玄関へと走った。
そして、あるものを手に取るや、急いで広間へと戻った。
「深夏さん、玄関に飾ってある詩の内容を覚えてますか?」
僕に突然そう言われ、深夏さんは少し驚くが、
「え、ええ。覚えてるけど…… 確か『その屋敷に努々近付く事勿れ 金色に煌く鹿がその屋敷に住まいて死屍を喰らい咆哮を挙げん その声を聞きし者、煉獄の夢魔が汝を縊らん』だったはずよ?」
それがどうかしたの?と深夏さんは僕に訊ねた。
「話の内容をみると、忠告してるように感じますよね? でもそれだったら『その屋敷に』じゃなくて『この屋敷』になるんじゃないんですか?」
「云われてみればたしかにそうですね。この屋敷に入らないようにという忠告なら、瀬川さんの言う通り、『この屋敷』が的確ですね」
「『あれ』とか『それ』とか『これ』とかの違いってこと?」
深夏さんが首をかしげながら訪ねた。
『それ』は聞き手のテリトリーにあるもので、『これ』は話し手のテリトリーにあるものとされている。『あれ』はどれにも属さないそうだ。
「つまり、詩を書いた人は外部の人間だったってこと?」
「それはわからないけど―― でも、もう一つの言葉もそれに引っかかるんじゃないかなって」
「この山に関する伝記は、正しいものもあれば、出鱈目なものもあるってやつ?」
そう。だからこそ僕はそこが重要なんだと説明する。
「金鹿之神子が皆殺しの神様という伝記は伝えられていても、まずどうして『神様』なのかという点なんだ。神子というのは『生きるものと死んでいるものの間で、媒介者として役割を果たす人』を意味しているんだ。つまりもしかしたらだけど神子自身に力は無いんじゃないかな?」
「でもそれじゃ鹿狩を行なった麓の人間が虐殺されていた説明にはならないじゃないですか?」
「もしそれが作られたものだったとしたら?」
僕は自分でもとんでもないことをいったと思っている。
「思い出してみてください。霧絵さんが殺されたと思った時、何か違和感がありませんでしたか?」
「母さんが殺された時? もしかして血痕?」
深夏さんがそう云う。
「ええ。霧絵さんの部屋にも、そして風呂窯の周りにも…… 血痕がなかった。それに燃やされていた時、本来なら他の部位と平等に燃えていたはずなんです。でも、顔の部分だけは燃えるのが遅かった。だから僕と早瀬警部、そして深夏さんはその死体が霧絵さんのものだとわかったんだ」
思い出したのか、深夏さんは腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。
「瀬川さんの言う通り、他の部位は燃やされていて骨が露になっていました。でも、顔の部分だけは燃えるのが遅かった。つまり顔だけは霧絵さんのもので、ほかの部位は違っていたということでしょうか?」
「霧絵さんを最後に見たのって、昨日の昼くらいでしたよね?」
僕がそう深夏さんに訊ねる。最後に見たのはほかでもない、彼女だけだったからだ。
いや、澪さんも見ていたのだろうが、それを聞く手段がない。
「え、ええ。そうだけど―― もしかして私を疑ってる?」
深夏さんに睨まれ、僕は激しく首を横に振った。
「いくら霧絵さんが病人だったとしても、深夏さんが外に運んで殺すなんてことはできない」
「わからないわよ? もしかしたら私と澪さんが共犯だったかもしれないじゃない?」
――だからこそなんだ。
「足跡がなかったんだ。つまり、犯人は一度もこの屋敷から出ていない。まるでこの屋敷の構図を知っていて、ほかの部屋に抜け出せる事を知っている人物になる。それに深夏さんは霧絵さんや春那さんが殺されたと思われる時のアリバイ証言が出来ないじゃないか?」
僕がそう云うや、深夏さんは驚いた表情を浮かべる。
「確かに母さんや、春那姉さんを殺すことはできたかもしれないけど、ほかのは誰でも無理でしょ? それに、冬歌が居なくなったのを誰が説明出来るの?」
僕もその部分が引っかかっていたんだ。隣にいたはずの秋音ちゃんが気付かないくらいに音を立てずに部屋を出ていった。
「この屋敷は建てつけが悪くて、音を立てないで襖を開けることは、よっぽどコツがいるのよ? それにあの子は音を立てずに開けることはできないんだから」
僕はそれを聞くと、何か不自然な点に行き着いた。
「渡辺さんを最後に見たのは、僕や澪さん、繭さんといった使用人三人。霧絵さんを最後に見たのは深夏さんと澪さん。冬歌ちゃんを最後に見たのは、早瀬警部を除いて、僕と澪さんや繭さん、深夏さんと秋音ちゃん。秋音ちゃんを最後に見たのは――」
「わ、私だけど…… でも、私がトイレに行ってる間に……」
「如月くんを最後に見たのは…… 瀬川さんでしたね?」
早瀬警部にそう言われ、僕は頷いた。
「澪さんを最後に見たのは…… 私と早瀬警部だけど、繭を最後に見たのは瀬川さんでしょ?」
繭さんが行方不明になった時、僕はそう訊ねられたことがある。
「つまり…… 全員証明することが出来ないってこと?」
深夏さんがそう言うと、どこかの部屋でゴトンッという音が聞こえ、全員が音のした方へと振り返る。
「――母さんの部屋?」
そう言いながら、深夏さんと早瀬警部はそちらへと行き、僕はその後を追った。
部屋に入るや、僕たちはただ呆然としていた。
身長があと少しあったら、助かっていたのかもしれないというくらいの長さで、如月巡査は首吊り死体で発見された。
顔は半分グチャグチャで、内蔵ははみ出ている。
もはや麻痺してしまったのか、胃液が込み上げることはなかった。