拾伍【8月12日・午前9時40分】
「ええ、至急御願いしますね。耶麻神霧絵がこの屋敷の土地を買う前に私有していた人、或いは集落の代表者……」
パトカーの後部座席に僕は座っていた。助手席では早瀬警部が県警と無線で連絡を取り合っている。
『長女の耶麻神春那が生まれる前…… つまり、二六年前に耶麻神霧絵名義でその土地を買ったみたいですね。耶麻神霧絵は元々大手企業の社長令嬢だったみたいですし、民宿の話を親にしたところ、反対されるどころか、とんとん拍子で進んでいたようです』
「霧絵さんと大聖君の縁談は?」
『それも問題なかったみたいです。むしろ大聖さんの生き方に霧絵さんの御両親が興味を持たれたと言った方がいいですね』
確かに大手企業の社長なら、旦那様の放浪癖は些か興味がわくだろう。
「旦那様の放浪癖が全国展開させたって事でしょうか?」
「否、大聖君は報告してると思いますが、最終的に決めるのは霧絵さんでしたからね。今は春那さんが社長をしていますが、それでも最終決断するのは霧絵さんの役目でしたから」
例え病で臥していても、貫禄はあると言う事だ。
『あ、はい…… 先輩!! 耶麻神家がその土地を買う前に、私有者というか……』
女性の声が戸惑っていた。
「どうしました?」
『土地を持っていたのは集落みたいです。ただ、四十年前に絶滅していると』
……絶滅?
「く、詳しく聞かせてください!!」
『はいっ! 四十年前、集落に麓の人間約数十人が「鹿狩」と言って、山に入ったそうです。そして、警察が捜査しに入った時の事は先輩がよく御存じじゃ?』
「まぁ、あの死体は思い出したくないですね」
『それと、見つかっていない死体があるそうなんです』
僕はそれを聞いて唖然としていた。
『行方不明なのは、集落の長『鹿波怜』の孫娘……』
突然、電波妨害をされたかのように、声が雑音に掻き消され聞き取れなかった。
「ま、舞ちゃん、聞こえますか? よく聞こえなかったのでもう一度御願いします」
『はい、行方不明になったのは孫娘の……』
その瞬間になると強烈な電波妨害が生じている。
何度も早瀬警部が確認を取るが、その度々に妨害されてしまう。
「すみません、舞ちゃん。引き続き、そちらの調査も御願いします」
そう言って、早瀬警部は無線を切った。
少し車の窓を開け、早瀬警部は煙草に火を点けた。
「犯人はその孫娘の事を知られたくないんでしょうか?」
「或いは、知られてはいけないと言う事でしょうな?」
僕はその孫娘の姿を見ている。
それが有り得ない事である事は百も承知なのだが…… 今起きていること自体有り得ない事じゃないか?
突然車のドアを叩く音がした。
「ああ、瀬川さんも其方にいましたか?」
話し掛けて来たのは如月巡査だった。
「どうかしたんですか?」
「いえ、秋音さん達が瀬川さんを捜していまして……」
「僕を?」
そう僕が言うと、グウゥゥッとお腹の鳴る音が車内に響いた。
「あ、そう言えば、瀬川さんはまだご飯を食べてませんでしたね?」
早瀬警部がクスクスと笑っている。
「澪さん怒ってますよ?」
「すみません、すぐ戻ります」
僕はそう告げると、パトカーから降りた。
「……警部? 瀬川さんと何を?」
「ただの世間話ですよ?」
クククッと早瀬警部は含み笑いをする。
それを如月巡査は不信そうに早瀬警部を見つめたが、見つめただけで何も言わなかった。
早瀬警部は結構な狸親父だ。高々新人警官に長年培ってきた警察スキルと、元々持ち合わせていた巧みな口先が見破られるとは努にも思ってはいなかった。
まぁ、何も言わないと言うのもつまらないものだと、内心呆れていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「遅いですよ!」
部屋に戻ると、繭さんが不機嫌な顔を浮かべながら座っていた。
「す、すみません」
僕が謝ると、
「ほらっ! 早く食べてください! 残っているのは瀬川さんの分だけなんですから」
繭さんが視線を持って来たお盆に向けた。白いご飯と味噌汁、それと漬け物と卵が置かれている。
僕がそれに手を掛けるのを見ると、繭さんはスッと立ち上がり、
「それじゃあ、食べ終わったら、自分で持って行って、自分で洗って片付けて下さいね」
そう言い切ると、ピシャリッと聞こえて来そうな程に強く襖を閉めた。
彼女達が心配しているのはわかっているし、悪い事をしたとは思っている。
双眼が得ながら、味噌汁を口に入れた時だった。
「熱っ!?」
既に温いと思っていたが、暖め直したのだろう。ご飯も炊きたてと言っていいほど、艶が出ていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
広間に戻って来た早瀬警部を澪と秋音が見遣る。
ジッと見つめるだけで何も言わない二人を尻目に早瀬警部は座った。
「警部さん、瀬川さんは?」
「ああ、先程戻られたみたいですよ」
「車の中で何か話していたようですけど?」
こういうところは母親か、それとも父親譲りと言っていいだろう。深夏の目つきが一段と険しくなる。
「うんにゃっ、ただの世間話ですよ」
早瀬警部は含み笑いを浮かべ、狸の皮を被る。
「そうですか。瀬川さんは軽いとはいえ、体調を悪くしてらっしゃるのですから」
「ああ、百も承知ですよ」
忠告を最後まで聞かずに早瀬警部はスッと立ち上がり、広間を出ようとする。
「警部、どちらへ?」
廊下で如月巡査に出食わし、
「ああ、ちょっと舞ちゃんにね」
「また無線ですか? 警部、出来る限り単独行動は謹んでくださいよ」
「それなら、如月君、君は彼女達を見守るのが使命だと、私が言ったはずですが?」
「それが、先程から繭さんが見当たらないのですが」
そう言うや如月巡査は周りを見渡していた。
「繭さんなら、瀬川さんの朝食を持って」
秋音が襖を越して話し掛けて来る。
僕はお盆を持って広間へと歩いていた。
それに気付いたのはちょうど目があった秋音ちゃんだった。
「あ、瀬川さん? 繭さん見ませんでした?」
僕が首を傾げ、
「二、三十分前に部屋に入った時には部屋にいましたけど? それから僕が来たのを解ると部屋を出ましたけど?」
「珍しいわね? 繭が自分から仕事するのって」
「まぁそういう事もありますわな?」
首を傾げる澪さんに対して、早瀬警部は小さく笑った。
「…………そういう事」
納得したように澪さんが言うと、早瀬警部は無言で頷いた。
「あ、瀬川さん? 目……」
「だいぶ落ち着いたみたいですね」
僕自身が見れる訳ではないから、この場では確認すら出来ないが、今朝見た時よりかは眼球の色が白く落ち着いて来たのだろう。
「部屋に行ってみましょ。出来る限り一緒に行動した方がいいわ」
深夏さんがそう言うと、全員が繭さんの部屋へと駆け出した。
「繭さん!! 繭さんいますか!!」
ドンドンと早瀬警部が襖を叩く。
「部屋にいないんでしょうか?」
如月巡査がそう言うと、早瀬警部は有無を聞かずに襖を開けた。
襖はスッと開き、キョトンとした目で僕を見た。
少し息を整え、早瀬警部は襖を全開にした。
「繭さん!! 繭さんいらっしゃいますか?」
僕が部屋に入り、そう言うと、
「如月君、彼女達を広間に!」
そう言われ、如月巡査は首を傾げ、「何故です?」と当たり前の事を言う。
「もしもの事があります……」
それ以上は言わなかったが、感付いたのは深夏さん達だった。
「わかりました。でも、何があったのか……」
そう言うと深夏さん達は自分から広間に戻って行った。
「――如月君?」
そう言われ、不満そうな顔を見せた。
「何か言いたそうですね?」
「そりゃそうですよ? 彼は一般人ですよ? それなのに、警察官である僕を尻目にしている」
「別に尻目にはしていませんよ? 君には……」
「いいえ、僕だって事件の推理を……」
そう言い切る刹那、乾いた音が響いた。
ドサッと如月巡査は尻餅をついた。
「事件の推理? 馬鹿も休み休みに言いなさいっ!! 今! 私達が置かれているのは殺人事件なんて軽い事じゃない!! これは猟奇殺人なんですよ!! 犯人は全員を殺そうとしている!! それを止める為にも貴方には彼女達を見ている義務がある!! それを怠った為に!! 繭さんは行方不明になっているんですよ!!」
早瀬警部が険しい表情を浮かべ、怒号を挙げ、如月巡査を睨みつけた。
「それじゃ、彼はどうなんですか?」
そう、僕を指差しながら言った。
「彼が犯人かもしれないじゃないですか?」
「青二才…… これはね、貴方が夢見た刑事ドラマじゃないんですよ? そんなすぐに犯人がわかってしまえば、私達警察なんて不要なんですよ!! とにかく、君は彼女達を見る義務が有る! 解ったらいきなさい!!」
そう言うや、早瀬警部は廊下に如月巡査を置いたまま襖を閉めた。
「すみませんね、瀬川さん。繭さんは?」
「いないみたいですね?」
僕は視線を押し入れに向けた。
「中にいるかもしれないと?」
「いない方がいいんですけど」
僕は視線を押し入れに向けた瞬間、一気に悪寒を感じた。
だから、出来る事ならこの部屋に、繭さんは“いなかった”と思いたかった。
「開けない訳にはいきませんよね?」
重苦しい声で早瀬警部が確認を取る。
「でも、たった……」
否、そのたったの間にあんな凄惨な事を犯人はしているんじゃないか?
「いいですか?」
早瀬警部はもう一度僕に確認を取る。僕は意を決して頷いた。
スーッと押し入れの襖が開く。畳まれた布団が押し入れに入っていた。
「何もないですね?」
もう片方の襖を開け、丁度二つの襖が真ん中ら辺で重なっていた。
「いないって事ですか?」
「それなら、いいんですけどね? 念の為、押し入れの中も確認しましょう」
そう言って、早瀬警部が布団を担ぎ込んだが、ゆっくりと手を戻した。
「どうかしたんですか?」
「瀬川さん? 少し手伝ってくれませんか?」
そう言うと早瀬警部は青褪めた形相で僕を見た。
僕は片方を持ち、押し入れから布団を出そうとした時、誰かが寝ているとしか思えない程にズシリとした重みがあった。
否、寝ている? どうしてそんな事を思ったんだ? 布団は綺麗に三つ折りにされている。
だからこそ、人が寝ている事は有り得ない。若し寝ていたら、人の形をして盛り上がっているはずだ。
早瀬警部も今、自分が目の前にしている事態に付いていけていなかった。
「あ、有り得ませんよね?」
「こんな事って…… もしそうだとしたら、一体何時?」
早瀬警部が音が聞こえるほど大きく喉を慣らし、布団を広げた。
『ぅうげぇぇえええええええええええええええええええええええええええぇっ!?』
それを直接見てしまい、僕と早瀬警部はその場に跪き、嘔吐を催した。
「がはっ! げほっ! げはっ!」
「げほっ! げほっ! だ、大丈夫ですか? 瀬川さん?」
ふらふらとした足取りで、早瀬警部は窓を開けた。
雨で冷たくても、この悪臭を消してくれるには十分な涼しい風が部屋の中に入って来る。
布団の上には等身大の人形が無理矢理巻き添えを食らったかのように横たわっていた。
関節は有り得ない方向に曲げられ、その華奢な躰はそれ以上に捻られていた。
胸は圧迫に押し潰され、顔に至っては頬骨が砕かれ、血塗れの口からはドクドクと綺麗な朱色の血が止め処無く溢れている。
鼻骨が砕かれたかのように鼻がペチャリと潰れ、眼球は爛れ落ちていた。
それよりも、彼女の姿が逆にわからなかった。
彼女が何も抵抗出来ずに殺されたのか? 更に何も着ておらず、素っ裸のままで殺されている。
着替えの最中に殺されたのかと早瀬警部が部屋の周りを見るが、服はおろか、箪笥の中に入れられているブラジャーやショーツ、靴下もなく、挙げ句の果てには学校の制服すら見つからない。
「着替え中に殺された訳じゃないみたいですね」
早瀬警部は口を押さえながらも、繭さんの死体を翼々と見ていた。やはり殺人を担当しているだけあって肝が座っている。
僕は絶え切れず、顔を外に出した。ちょうど、芝生に目をやると、
「……やっぱりない」
「犯人の足跡がですか?」
驚くどころか、やはりという感じで早瀬警部はそう言った。
足跡が残る訳がないのは、霧絵さんを捜索していた時にわかったのだろう。
故に犯人が屋敷の中にいるかもしれないと思っている。
だからこそ、如月巡査に彼女達を見るように命じたのだろう。
「瀬川さん、冬歌さんの死体にはやはり眼球がなかったんですよね?」
「はい」
「繭さんには眼球が残っています。つまり、殺すと言うよりも、耶麻神家…… 特に…… 女性が持っている眼球を…… 犯人は…… 狙っていると…… 言う…… 事で…… すか…… ね……?」
早瀬警部が何かを話している。
途端にスーッと目蓋が無理矢理閉じられていく。僕は手も出せないまま、その場に倒れた。
「瀬川さんっ! 瀬川さんッ!!!」
早瀬警部が僕の躰を揺さぶっているのが解った。が、意識が有る筈なのに、僕は自らの力で目蓋を開ける事が出来なかった。