拾肆【8月12日・午前8時20分】
「えっ? あ、はい! 確かに旦那様は山形の方に行くと……」
廊下で深夏さんと繭さんの話声が聞こえる。
「本当に父さんは岐阜ではなく、山形の方に行くって言ったのね?」
確認するように深夏さんが訊くと、繭さんは頷いた。
「どういう事? 私達姉妹と貴女達使用人とは真逆の場所を言うなんて」
「旦那様が目的地を変えられるのはしょっちゅうじゃないですか? 途中で目的地を変えられたのかも」
繭さんがそう言うとスッと僕の寝ている部屋のドアが開いた。開けたのは深夏さんだ。
「秋音? 絵を持って来て」
「ね、姉さん? でもあれは」
「本来、門外不出のものだけど、刑事さんの言う通りにしないとここにいる全員が疑われている」
「ど、どういう事ですか?」
「父さんが殺されたと刑事さんが……」
「だ、旦那様が? い、一体何処で?」
「表向きは行方不明となってるけど、実際は耶麻神グループの誰かが殺したのかもしれないと」
「まさか、でも、この屋敷で起きている事を誰が出来るんですか?」
繭さんがそう言うと、深夏さんはジッと窓の外を見た。
「瀬川さん? この屋敷には金鹿という妖が住んでいる事を聞いた事ないですか?」
「ね、姉さん? それは」
「秋音、これ以上隠しても何にもならないわ! 洗い浚い全部話した方が……」
深夏さんは振り向いてはいないが、その声でどれだけ話すのが嫌なのか、僕でも解った。
「金鹿という妖は…… その昔、平安よりこの信濃之國を守りし神の使いでした。鹿は元より神様の使いとして崇められていたんです。その神の使いである金鹿に唯一触る事の出来たのが【金鹿之神子】なんです。古来より、神子は神と人間の間に生れし子と言われ、その為数々の珍妙なる業を持っていました。その力は金鹿の名を持ったが為に与えられた力。『その瞳を見たものを殺す』という恐ろしい力です」
ゆっくりと深夏さんが僕の方を振り向く。
「その瞳を見たものは否応無しに殺されてしまう。まこと恐ろしい能力でした。でも彼女がその力を使うには、それに対して憎しみを持たなければ意味がなかった。だけど、彼女を蔑む人はもういないはずなんです! だから! 金鹿が目覚める事はないはずなんです!!」
深夏さんの目から大粒の涙が零れていた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 話が飛んでませんか? これは人間がした事なんじゃないんですか? 確かに、人間に出来ない事の方が多いかもしれない! でも、人間を殺すのはあくまで人間だって考えられないんですか? そ、そんな突然……」
「タロウ達や母さんの死体を見て! まだ人間が行ったって言えますか? だったら方法を、具体的な方法を教えて下さい! 出来ないんですよ! タロウ達を殺す事も! 母さんを殺す事も! この屋敷に残っている全員に一人になる時間なんてなかった! 唯一、秋音は部屋で一人になっていたけど! 聞きましたよね? フルートの音。秋音の部屋に窓はありませんから、抜け出す事も不可能! それに雨が降っていましたから、足跡が残るはずなのに残っていなかった! それは瀬川さんも気付いているはずです! もっと具体的に言いましょうか? 渡部さん殺しは瀬川さん達使用人の行った犯行じゃないかと…… でも! 唯一近付ける場所にいる澪さんと繭が渡部さんを殺す事なんて出来ない。先刻鶏小屋を見ましたけど、扉は内側から閉められていた! つまり誰かが中から閉めたとしか考えられない! そして鶏小屋に人が通れるほどの穴なんてない! まるで中にいる人が通り抜けたとしか言い様がないんですよ!!」
深夏さんは捲くし立てるように話し、言い切ると、ゼェゼェと息を整えていた。
「そ、それを金鹿がしたって言うんですか?」
「――解りません」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 深夏さん、貴女はどっちなんですか?」
「――えっ?」
「貴女は人間だと言うのに否定している! でもさっき言いましたよね? 金鹿之神子は憎しみを持っていなければ人を殺す事はないって! つまり! それは彼女の名を騙っている人間がいるって事じゃないんですか?」
突然眩暈がし始め、僕は落ちるように倒れた。鈍い音が部屋中にこだまする。
「くぅっ! くぅっぁっ!」
今まで以上に強く締め付ける痛みが僕の脳天に走る。
「せ、瀬川さん?」
「ぅぅっ! ぅあっ! がぁっ!!」
「ま、繭さん! 急いで氷を持って来て!」
「は、はっ! はいっ! ただいま!」
「瀬川さん! しっかりして! 瀬川さん!!」
耳元で深夏さんと秋音ちゃんの声が聞こえる。
僕は痛みに耐えきれず、そのまま意識を失った。
僕の知らないもう一人の僕。その僕が見た同じ様な世界。同じようにみんなが殺される世界……
でも、何かが違っていた。
それは誰かが僕を見ている事だ!
あの声がそうだったじゃないか? あの声は一体誰なんだ?
『頼む…… 彼女を騙るやつを探し出してくれ!』
それはつまり、深夏さんの言っている金鹿之神子の名を騙っているやつがいると言う事。そいつがこの凄惨な猟奇殺人を繰り返しているんだ!
僕は一度この屋敷に来ている! でも何も出来ず、ただ殺されるだけだった。
でも、また僕はこの屋敷にいる。誰かが僕に助けを求めているのか?
あの声は男性の声だった。まるで金鹿之神子を案じるような声だった。
不思議な事にあの声に恐怖を感じなかった。
本当に彼は彼女がしていないと考えているんだ。
だから、精留の滝で見た少女がこの事件の犯人ではないと僕も思った。
もし、彼女が金鹿之神子だとすれば…… あの滝には何かがあるんだ?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
秋音ちゃんと深夏さんは、早瀬警部に言われた通り、自分の部屋にある【花鳥風月】の絵を広間に持って行っている。
僕は体調不良と彼女達に嘘を吐き、早瀬警部の報告に参加していなかった。
雨がしとしとと降る音が屋敷内に響いている。
広間から見えないように僕は庭に出た。
玄関の戸を開ける際、少しばかり音がしたが、全員話に集中しているのか、誰も声をかけなかった。
いや、僕は泳がされているという考えが少し脳裏の隅っこにあった。
あの滝に何かがあるのと、金色の鹿威しがどうも気になっていた。
今も鹿威しは鳴っている。一定時間毎に鳴っている訳なのだが、どうも可笑しい。
水が溜まるのが、せいぜい二十秒から三十秒程度。凄惨な事件が起きる度に、何故か大きく響いている。つまり、金鹿を鎮める為にこの鹿威しはあるんじゃないのか?
鹿威しは本来【獣を庭に入れさせないようにする為のもの】だから、金鹿を鎮めると言う事では合っているのかもしれない。
鹿威しの周りには白い雪の様な花が咲いている。
スノードロップかと思ったが、時期的に違う。少し触ってみると、花弁が固い。
造花のようだけど、どうして造花なんかが?
それに彼岸花の様な形の白い花もある。これも触ってみるが、こちらはどうやら本物のようだ。それにしても、白い彼岸花なんて……
物珍しい花に耽っていると鹿威しの音が聞こえた。
さっき聞いてから間もない。と言う事は、やはり誰かが意図的に鳴らしているとしか考えられない。
しかし、一定の長さで落ちて来る水の量を変える事は容易い事かもしれないけど、この雨の中では狂いが出るんじゃ?
それに竹の中に水がたまって機能しないはずだ。
でも、昨日激しく雨が降っていたにも関らず、鹿威しの音が聞こえていた。
僕はゆっくりと精留の滝に向かった。山道は昨日の大雨で殆どが泥濘になっている。
少し入っただけで、靴底は泥だらけになった。
漸く滝のあたりまで来ると、昨日の暴雨で飛び散ったのだろう、無数の葉っぱが水面に浮かんでいた。
昨日見た綺麗な池とは到底思えない光景だった。
ふと、僕の足元に何かが流れて来た。そう言えば、此処には人がよく水遊びに来ると聞いた事がある。
その人の忘れ物か?とそれを拾い上げた。ずしりと何かが入っていているように重たい。恐らく水が染みて重たくなったんだろう。
でも…… これは…… 子供の服?
僕は恐る恐る水面を見つめた。
水底から何かが浮かんで来るのがわかった。
まるで僕を待ち構えていたかのように、ゆっくりと藻屑のようにそれは浮かんで来た。
黒い物体がゆらりと池に生じる波に躍らされている。そして、それがカーテンの様に広げられ、それを露にした。
最早、声なんて出なかった。それが誰なのか、自分の持っている服で理解出来た。
「ふ、冬歌…… ちゃん?」
それは紛れもない、行方不明になっていた冬歌ちゃんの成れの果てだった。
姉である春那さん同様、眼球は抉り取られている。
その隙間から水が入ったのだろうか? 顔の皮はふにゃけている。
いや、それよりも……
「何処だよ? なぁ? 何処にあるんだよ?」
それを捜しても見つからない。
「あ、あんまりじゃないのか? なぁ! これはないだろう!?」
僕の声が震えているのは理解出来る。
恐怖と怒りと悲しみが混ざっているとしか言い様がなかった。
僕は冬歌ちゃんの死体を引っ張り出し、辺の岩の上に置いている。
彼女の躰を触っても、触っても、それが何処にもない……
躰に触れる度に体内に溜まった水が口から溢れて来る。
「何処にあるんだよ? 冬歌ちゃのぉっ! 冬歌ちゃんの骨はぁっ!? 臓器はぁっ! 舌はどこにあるんだっ? これじゃっ! 余りじゃないか! こ、こんなことが出来るのかよっ?」
皮は綺麗に残っている。あるのは頭蓋骨ただ一つだけだった。
一番わからないのはどこをどう見ても、傷一つないことだった。それなのに、骨が必ずあるはずが、まるで水風船のように膨らんでいる。
摩っても、身体全体を隈無く摩っても…… 引っ掛かりがない。引っ掛かりが見つからない。
「くぅそぉっ! 教えてくれッ! どうして……」
僕は跪き、嘆いた。
どうして、僕を再び此処に連れて来た? 何かを伝える為じゃないのか? 誰かを助けて欲しいからじゃないのか?
教えてくれ! 僕は一体何を見たんだ?
僕は一体誰に殺されたんだ? 本当は彼女が僕達を殺しているんじゃないのか?
でも、違う! 彼女が殺しているという確証はない! 確証はないはずなのに、僕も彼女がこの一連の殺人劇を演じているとは思えない!!
それなら、どうしてこんな事が出来るんだ? どうして、こんなひどい事が出来るんだ?
今頃になって自分の胃からせり上がって来る吐き気に催され、僕は池の中に吐いてしまった。
どうして今の今まで吐き気がしなかったのだろうか? それはなにかしら覚悟があったのか、それとも凄惨な死体を何度も見ているせいで感覚が麻痺してしまったのか……
僕は冬歌ちゃんの死体を池に沈めた。内心、僕一人だったのがよかったのかもしれない。
これを深夏さんや秋音ちゃんが見れば、気絶どころではない。
気が滅入り、何をするかわからなかった。
もしかすると…… あの声の主は、僕にこの場所を捜させるように仕向けたのかもしれない。殺意を感じないのは、此処で見た少女も同じだった。
彼女がこの事件の鍵を握っている。犯人かもしれない。彼女が金鹿の神子の力を持っているのかもしれないが、それでも僕はやはり彼女が犯人じゃないと信じたかった。
そうじゃなければ、今此処で僕は殺されているかもしれないからだ。
僕は居たたまれなくなり、後ろ髪を引かれるを感じながら、滝を後にした。
屋敷に入ると、未だ話しているのだろう。咄嗟に僕は自分の腕時計を見た。九時を少し過ぎている。
開けっ放しだった戸をゆっくりと閉めると、気付かれないように自分が休んでいた部屋に戻った。
あの時跪いた際に汚れてしまった服をどうしようか考えていた時だった。
誰かが此方に来る足音が聞こえて来る。
僕は咄嗟に布団の中に入った。
「あ、瀬川さん? 御休みのところ悪いですね?」
早瀬警部がノックもしないで入って来る。
「早瀬警部ほどの年配が、人の部屋に入る時の礼儀くらい弁えてください! もし着替えていたら、どうするんですか?」
「はははっ! 男同士、恥ずかしがってちゃ銭湯なんていけませんよ?」
早瀬警部はケラケラと笑う。
「それで、何か用なんですか?」
「少し忠告しておこうかと……」
「……えっ?」
早瀬警部が無気味な笑みを浮かべながら僕の顔を覗き込み、
「精留の滝で何を見たのか? 詳しく教えてくれませんかねぇ? 場合によっちゃ、貴方も共犯者になるんですよ?」
その一言に僕は自分でもわかるほどに何かが崩れる音が聞こえた。
「み、見ていたんですか?」
「トイレに行っている時に貴方の姿がなかったんでね」
嘘だ……
「でも、どうして僕が精留の滝に行っているって知っているんですか?」
「廊下に水が落ちてましたよ? これは鹿威しのある所か、滝のあるところじゃないとズボンに着きませんからね? しかもかなり染みていると言う事は、余程水のある場所…… つまり、精留の滝に貴方が行っていたと言う事になる」
嘘を吐くなよ? 水が染みる場所なんて幾らでもあるだろう?
今も多少なりとも雨が降っているんだ! それに水たまりに足が入って、それが被ったって事も考えられるだろう? それなのに、警部さんははっきりと精留の滝に行っていると断言している。
当たっている。当たっている! でもそれが適当に言ったとは到底思えない。見ていたとしか言い様がない。僕が精留の滝に行っている所を目撃しているとしか言えない。
「ど、どうして? 僕は気持ちが悪いのに?」
「そんなむきにならないでください。躰によくないですよ」
躰によくない事をさせてるのは誰だよ?
「僕は一歩も出ていない! それでいいじゃないですか?」
僕は布団を頭に被せるように不貞寝した。
「まぁ、いいですけどね? 話すのは個人の自由ですけど…… でも、私も多分、貴方と同じ事をしたでしょうな? これ以上…… 彼女達には冬歌さんが行方不明のままの方が……」
僕はその言葉に驚いた。
「貴方の悲鳴が聞こえたんでね、何かを見たと言う事にはすぐに気付きました。でも、貴方が何かを捜しているのも、冬歌ちゃんの死体を触りながら何かを捜しているのを…… 教えてください。今他の皆さんは広間に居ますし、瀬川さんと大事な話があると言って来ていますから、私しかこの事を知りません。一体、何がなかったんですか?」
僕はゆっくりと起き上がり、早瀬警部を見つめた。
いくつもの殺人事件を担当しただろう。年齢が年齢だ。僕が想像出来ないほどの死体を見て来たと思う。いろんな殺人犯も見て来ただろう。僕は彼の悲しみに満ちたその顔が堪らなく怖かった。
彼だって一人の人間だ。感情だってある。日常茶飯事に殺人事件を見ている彼がしっかりしている。
それなのに僕は…… この殺人劇を一度体験しているのに、感覚が麻痺してしまっている。そんな僕が、彼に到底適うわけがない。彼の今まで体験して来た悲しみは計り知れないからだ。
どれだけの死体を見たのだろうか? どれだけの殺人事件を捜査し、犯人を捕まえただろうか? いまだに捕まっていない犯人もいるかもしれない。
彼は警察と言う立場でこの屋敷に来ているのに、僕を責めていなかった。
本当だったら、無理矢理にでも本当の事を言わせるだろうし、今彼が僕に向けている悲しみは嘘かもしれない。でもそう思えない。
彼は言ったじゃないか『貴方と同じ事をした』って…… それは僕と同じ事をしたかもしれないからか? これ以上深夏さん達を悲しませたくないから? そう思ったから僕に言ったのかもしれない。
僕が精留の滝に行っていた事も知っている。それでも僕を見ていただけだった。
そんな彼に…… 僕は、
「なかったんです…… どこにも」
僕は興奮の余り、大きな声を挙げてしまった。
「瀬川さん、すみません、静かに話してください。此処は屋敷の中ですから、彼女達に聞かれると困る内容ですよね?」
そう言われ、僕は深呼吸をした。
「なかったんです。冬歌ちゃんの死体に……」
「一体何が?」
僕の言葉に早瀬警部は困惑していた。
「見つからなかったんですよ。春那さんと同じような殺され方をされているのに、傷一つない躰なのに、なかったんですよ! 頭蓋骨以外、何処にも躰からまるで抜き取ったように!」
それを聞いて早瀬警部は呆気に取られていた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ? それはつまり、眼球だけじゃなく? 頭蓋骨以外全部抜き取られていたんですか? 臓器すら全部?」
僕は肩を震わせながら、コクリと頷いた。
「頭の所を触ったら、軽い音しかしなかった。それはつまり脳味噌が入ってなくて、空洞が出来ているからじゃないんですか?」
「か、確認しようにも、貴方が死体を池に沈めた」
それを言われ、どうして僕は馬鹿な事をしたのかと愕然としていた。
死体をそのままにして、早瀬警部に内緒で来てもらえばよかったんじゃないのか?
「あ、あああっ!」
僕は大粒の涙を流した。自分はどれだけ愚かな事をしたのかと嘆いた。
――――鹿威しが鳴った。