玖【8月11日・午後1時30分~午後2時40分】
これほどまでに居たたまれない空気はなかった。
昼食を終え、いまだ床に臥している霧絵さんの看病を深夏さんと澪さんがしている。
僕と繭さんは昼食の後片付けをし、冬歌ちゃんと秋音ちゃんは広間で、他愛も無い昼ドラを見ていた。
そんな中、僕は背後から冷たい視線を感じていた。
「瀬川さんがした事を秋音ちゃんは理解してくれていると思います」
僕の表情で察したのだろう、繭さんが小さく呟いた。
「ただ、秋音ちゃんが一番楽しみにしていたのは本当なんです」
繭さんの言う通り、ハナのお腹の中に子供がいるという話をしていた秋音ちゃんの表情は、今みたいに暗くなく、歳相応の笑みを浮かべていた。
「でも、あんな…… あそこまでする事……」
僕は憤りを隠しきれず、小さく云った。
「彼らは優秀な警察犬なんです。それなのに――」
僕は犬小屋での惨劇を思い出していた。
「一体、この屋敷で何が起きているんですか? 生き物が次々に殺されている。人間とか動物関係なしに」
僕の手からお皿が滑ってしまい、床に落ち、パリンッ!という、劈く音が鳴り響いた。
「大丈夫?」
澪さんが広間から厨房の方に顔を向けて呼び掛けた。
「す、すみません」
慌てふためく僕に対して、繭さんは隅っこにあった帚と塵取りを持って、割れたお皿を集めていた。
「あまり動かないでください。細かい破片とか落ちているかもしれませんから」
僕の足元を見て言ってくれたのだろう。お互い、スリッパを履いているとはいえ、危険だということだ。
「何かあったの? 秋音お嬢様がさっきからずっとこっちを見てるけど?」
そう言いながら、澪さんはうしろを一瞥する。
「あ、そうだっ! 澪さん、冬歌お嬢様に犬小屋の鍵を渡したって本当?」
繭さんにそう訊かれ、澪さんは首を傾げた。
「深夏お嬢様と交替で奥様の看病していた以外、部屋から出てないわよ?」
「それじゃっ! 昼前に冬歌お嬢様にあってないって事ですか?」
「え、ええっ。それがどうしたの?」
話が見えないのか、澪さんは僕と繭さんを交互に見ていた。
「ま、繭さん! 秋音ちゃんの言っていた通り、繭さんが開けっ放しだったんじゃ?」
「そ、そんな事無いわよ、断じて! それに散歩以外は余り犬小屋から出る事ないだろうし」
「繭っ? もしかして、また犬小屋の鍵を閉め忘れたの?」
「ち、違います! 冬歌お嬢様が澪さんから鍵を貸してもらったって!」
そう言われ、澪さんは広間を一瞥した。
「あら? そう言えば、冬歌お嬢様は?」
そう聞かれ、僕達も広間を覗いた。
一瞬秋音ちゃんと目があったが、すぐに秋音ちゃんの方から目をそむけた。
広間には秋音ちゃん以外誰もいない。人の声はしたが、TVだとすぐにわかった。
「秋音お嬢様、冬歌お嬢様は?」
澪さんにそう言われ、秋音ちゃんは広間を見渡した。
恐らく、彼女もいついなくなったのか、わからないのだろう。僕達に対して首を横に振った。
「トイレって事ないですかね?」
僕がそう言うと、そうであって欲しいと言った感じに澪さんと繭さんは頷いていた。
「で、犬小屋で何があったの……」
澪さんが見過ごしているかのように、僕達に疑いの目を向けている。
「こ、殺されていました。三匹とも…… いいえ! ハナのお腹の中にいた胎児も見るに見れない姿で……」
僕の躰が震え、説明してる繭さんの口が異常だった為、それがどれほど凄絶だったのか澪さんは察したのだろう。
「そ、それを知ってるのは?」
「僕と繭さん、それと…… 冬歌ちゃんが」
「――どうして?」
「先に犬小屋に入ったのは冬歌お嬢様なんです。宿題が終わったからタロウ達と遊ぶって云って、澪さんに鍵を貸してもらって…… でも、鍵は私の手元にありましたし、同じ鍵が二つ以上存在するなんて有り得ないんです」
「冬歌お嬢様が嘘を吐いたって事? でも、繭が閉め忘れていたって事はないの?」
そう言われ、繭さんは首を横に振った。
「つまり、誰かが犬小屋の鍵を開けたって事よね? それこそネズミ小僧みたいな感じで」
「でも、可笑しくないですか? あれだけ澪さんが派手に壊した鶏小屋の扉が、数分後には綺麗さっぱり元通りに閉じられていて、私が閉めていたはずの犬小屋が知らないうちに勝手に開いていたり……」
まるで第三者がこの屋敷に存在しているような話し方だった。
ふと、耳元に小さな音が聞こえた。
少し開いた窓を覗くと、ポツポツと雨音が聞こえ出していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
TVのワイドショーでは、富士の樹海に関しての特集が放送されていた。
一度入れば二度と出る事の出来ないと言われている樹海に入り込み、自殺願望者を説得しようとキャスターが奮闘するというものだった。
「自衛隊の人から聞いた話ですけど、実際、方位磁石は使えるそうですよ。現に訓練で樹海を使っていると言ってたし……」
澪さんが誰彼構わずに話している。別に独り言として聞かれてもいいからだろう。
「そうじゃなかったら、態々こんなご苦労な事しないでしょ? 自分達も下手したら迷いこんで御陀仏なんて事になりえるんだから」
第三者からすればそういう意見も有り得るが、深夏さんと秋音ちゃんが不服な表情を浮かべていた。
「でも、自殺願望者って減らないんですね?」
画面が切り替わり、国が弾き出した自殺者の累計数が思ったほど、右肩上がりになっている事に繭さんが少しばかり驚いていた。
「減るって事が可笑しいんじゃない? 今じゃ端から見ればつまらない事で落ち込んだり、下手をすれば、ちょっとした事でリストカットする人もいるし……」
ふと、澪さんを見てみると、彼女の右手が左手首に添えられていた。
「それが依存症になってしまう方が怖いけどね」
繭さんと澪さんの会話を聞きながら、僕のうしろにいた秋音ちゃんが「深夏姉さん、母さんの様子は?」と深夏さんに訪ねていた。
「んっ? 今はぐっすり寝てる。お粥も食べてたから多分大丈夫だと思うけど……」
霧絵さんは今も部屋で臥している。
連続して人が死に、剰え冬歌ちゃんが行方不明になっているが、これが余りにも奇妙すぎる。
玄関と裏口には、冬歌ちゃんの靴とサンダルが置いてあったからだ。
つまり、冬歌ちゃんは一歩も屋敷から出ていないと言う事になる。
彼是一時間以上は屋敷内を僕達は捜し回っている。
入れる部屋全部の鍵を開け、押入の中を探したりもした。
隠れられるような場所は全部洗い浚いに捜したはずだ。
それでも冬歌ちゃんは見つからなかった。
「まさかっ!? 犯人に誘拐されたんじゃ」
「あ、有り得ないわよ! だって一瞬よ? 直ぐ側には秋音お嬢様がいたのに!」
「第一、秋音お嬢様はずっと……」
澪さんが僕を見ると言葉を止めた。
あの時、秋音ちゃんは終始、僕を見ていたからだ。
それでも一瞬の内に冬歌ちゃんが連れ去られたのか、若しくは自分から出て行ったのか……
ふと、耳を立てると、外の雨音が激しくなっていた。
「そう言えば、予報じゃ強風だって言ってたわね」
澪さんがテレビを消し、仄かに明るかった広間の片隅が一瞬で真っ暗になる。
「雨か…… 出来れば…… 今起きている事全部洗い流してほしいわよね」
深夏さんが伏した目で春那さんの部屋を見ていた。
春那さんの死体はベッドに動かして以来、誰も触っていないし、誰も部屋に入ってはいなかった。
唯一入ったのは先程で、冬歌ちゃんを探している以外に、深夏さんは朝食の時に言っていた絵も探していた。
突然、ブザーが鳴る。誰か来たみたいだ。
その刹那、深夏さんが僕達を見た。自分の聞き間違いではないかと思ったのだろう。
「私が出るね」
繭さんがインターホンの受話器に手を掛け、耳に近付けた。
「はい、耶麻神ですが……」
『すみません、長野県警の者ですが……』
繭さんが驚いた表情で僕達を見遣る。
「はいっ! すぐに開けます! ちょっとお待ち下さい!!」
そう言うなり、受話器を戻し、横に添えられたスイッチを押した。
「み、深夏さん? 警察の人が……」
「――け、警察?」
僕は一瞬、携帯を見た。メールが届いたのだろうか?
数秒して少し濡れた警官二人が玄関に入って来た。
「いやぁあっ、すみませんねぇ」
澪さんが風呂場から持って来たバスタオルを二人の警官に渡した。
それを照れ臭そうに警官二人が受け取り、各々の躰を拭いている。
「いやね、電話による通報が入ってて、慌てて飛んで来たんですよ」
「――電話?」
僕の視線に気付いたのだろう、澪さんと繭さんが黒電話を一瞥した。
秋音ちゃんが電話機の受話器を取り、耳を傾けるや「どうやって…… 電話しました?」と僕に訊ねる。
その表情が恰も怯えているような表情だったのか、深夏さんが咄嗟に秋音ちゃんの手から受話器を取り上げ、自分の耳に当てた。
「ね、ねぇ、瀬川さん。確かあの時連絡したのは…… メ、メールでしたよね?」
繭さんの言う通り、確かに春那さんの部屋で僕が携帯でメールを送った。その送信データを初老の警察官に見せた。
「確かに、うちの署のアドレスですね」
「でも、連絡は届いていないって事ですか?」
「もしくは見ていなかったと言う事になるんじゃないんですかね? メールで通報するなんて事、矢鱈滅多に来ませんしね」
「それじゃ、どうして? 電話は今も通じていないのに」
全員が黒電話を見ている。
「それじゃ、誰も電話で連絡していないって事ですか? 第一、今も携帯を扱っているじゃないですか! それから連絡したって事も!」
「如月君、此処は山奥ですよ。電柱があるとはいえ、携帯の電波が届かない場合もあるんですから」
初老の警官が自分の懐に忍ばせていた携帯を開き、如月と呼ばれた若い警官に見せた。
「け、圏外ですか。それじゃ本当に誰も連絡をした覚えが無いと?」
そう言われ、僕達は頷いた。
「ちょっと待って。私や深夏さん、それと澪さんと瀬川さんが中庭にいた時、電話通じてませんでした?」
繭さんに云われ、ハッとする。確かにあの時屋敷の中で携帯が鳴り、それを秋音ちゃんが中庭にもってきていた。
「通じていたってことですか?」
「でも非通知だったし、音はしてなかった」
一体どういうことなんだろうか……?
「あれ? そう言えば、春那さんと霧絵さんは?」
初老の刑事が辺りを見渡しながら言う。
「母は今、部屋で休んでいます。姉は……」
その様子で唯事ではないと察したのだろう。
「すみません、春那さんを見せてくれませんか?」
そう言うなり、初老の警官は屋敷に上がり込んで来る。どうやら、深夏さん達とは知り合いらしい。
「ああっ! 大和のじいさんにも連絡してください! 元は鑑識の人でしたからね」
僕は『大和医院』と書かれていたページを思い出していた。
深夏さんが初老の警官と若い警官を春那さんの部屋まで案内した。
雨がさっきよりもさらに激しくなっている。
「台風なんてことないですよね?」
「そんな滅多にこっちに台風は来ないわよ! まぁ、大雪は矢鱈と降るけどね」
澪さんが開けっ放しになった玄関をチラッと見た時だった。
轟音が屋敷内を駆け巡るように、雷が近くに落ちた。
閃光が薄暗い屋敷に目映い光を照らした。
「び、吃驚したぁっ」
鳩に豆鉄砲を食らわしたかのように、繭さんは目を円くし、肩を窄めていた。
「今、凄い近くで落ちましたよね? ――秋音ちゃん?」
僕は横にいた秋音ちゃんを一瞥した。
肩はガクガクと震え、恐怖で顔が引き攣っていた。
間髪を入れる暇もなく、また雷鳴が鳴り響く。先程と同じか、それ以上の轟音が屋敷に鳴り響いた。――その刹那……
「いぃやぁあああああああああっ!!!」
秋音ちゃんは跪き、耳を塞いだ。続け様に雷が鳴り響く。
「いぃやぁっ! やぁっ! やぁだぁっ! っいやぁっ!!」
雷鳴が鳴る度に悲鳴を挙げる。まるで音自体を怖がっているようだった。
「秋音ッ! 大丈夫よッ! みんないるから」
秋音ちゃんの悲鳴で飛んで来たのだろう、深夏さんがそっと秋音ちゃんを抱き締めている。
「っ! ぁぁっ! やぁっ! あぁがぁっ!」
激しく肩を震わす秋音ちゃんを必死に深夏さんが宥めている。
「そうだっ! 秋音、部屋でフルート吹いたら? 気晴らしになるかもしれないわよ」
深夏さんが笑みを浮かべてそう言った。
秋音ちゃんは落ち着いたのか、徐々に肩の震えが少なくなっていた。
秋音ちゃんはゆっくりと立ち上がり、僕達を見た。
そして何も言わず、自分の部屋へと戻って行った。
「やっぱり、まだ治ってないみたいね」
深夏さんが秋音ちゃんのうしろ姿を見ていた。
「何か…… トラウマがあるんですか?」
僕がそう言うと、深夏さんは視線を背けてはいるが質問には答えてくれた。
「あの子がまだ小学一年生くらいの時かな。学校から帰る途中…………」
――雷鳴が屋敷に響いた。
肝心な所は掻き消されてしまい、聞こえなかった。
いや、その直後に聞こえた音だけははっきりとしていた。
聞こえないはずのその音は、すぐ近くにあるかのように僕の耳元で鳴り響いた。
庭の鹿威しの音が……