弐【8月10日・午後6時20分】
HPとの違い。①文章が多少なりとも違います。②HP上に載せていたTipsはコチラには載せません。③漢字間違いなどを修正しています。
開けっ放しにされている窓から涼しい風が部屋に流れ込んでいる。
東京にいた時は元々アスファルトの熱気で歩く事さえ難で、エアコンすら備わっていないボロアパートでは扇風機を全力稼動させても、外の暑さを紛らわす事なんで出来なかった。
だけど此処では機械なんていらないと言わんばかりに、程よく冷たい風が入って来ていた。
「瀬川さん、起きてますか? お食事の用意が出来てますけど」
廊下から春那さんの声が聞こえ、僕は腰を上げた。
「あ、はい! すみません、来て早々ご迷惑を掛けて」
僕は襖越しに返事をする。
「いえ、元はといえば深夏が悪いんですから…… あの子、屋敷では殆どあの格好で過ごしてて」
表情はわからなかったが、多分クスクスと笑っているのだろう。話し方がなんだか柔らかい。
「それでは、広間の方へ」
春那さんがそう言うと、足音が遠退いていった。
僕は今まで寝ていた布団を三つ折りに畳んで隅っこに置き、少し身嗜みを整えてから部屋を出た。
広間には既に奥様と春菜さんたち四姉妹がテーブルを挟んで座っていた。
上座には奥様が座っており、それから左側に春那さんと冬歌ちゃん。右側に深夏さんと秋音ちゃんが座っていた。
厨房から音がする事から、数人の使用人が居るのだろう。
テーブルの大きさも五人では余りあり、大凡十人くらい座れる感じだった。
「瀬川さんは冬歌の横ね」
深夏さんがそう言うと冬歌ちゃんが立ち上がり、僕の腕を引っ張ると自分の座っていた場所の横に座らせる。
座った途端、干し立ての座布団が敷かれていたのか、その座布団のふかふかした感触にビックリした。
「ねぇ、お名前なんていうの?」
冬歌ちゃんが満面の笑みで僕を見ながら尋ねる。
「そういえば知っているのって、春那ねえと母さんだけなんだよね?」
深夏さんが奥様と春那さんを見渡す。
「私も知りたい……」
秋音ちゃんが小さく呟く。
五人の視線が僕に集まる。何時しか広間に入って来た使用人の二人からも視線を送っていた。
「えーと、んっ! 瀬川正樹と言います。東京から来ました」
そう言うと失敗したのか? 広間に沈黙が流れた。
僕はどうもこういう空気は苦手だし、対人恐怖症だったりする。
そのせいか、アルバイトで接客業は遣った事ないし、清掃や裏方業務等をしていた。
その方が余り人に会う事もないだろうと思っていたからだ。
「この屋敷に来た最初の印象は?」
春那さんが突然質問してきた。
「率直な感想は大きな屋敷だなと思いました」
そう言うと奥さんが少し考え込む。
「――採用。と言いますか、遠くから来てもらって、そのまま蜻蛉返りなんて癪でしょうし」
奥様の一言で全員から拍手をした。
「ねぇねぇ、正樹お兄ちゃん。ご飯食べたら一緒に遊ぼう! 遊ぼう!」
冬歌ちゃんが飛び上がるようにはしゃいでいる。
気に入られたのか、僕の事を兄呼ばわりしている。
僕は少しばかり苦笑いを浮かべたが、特に嫌とは感じなかった。
――いや、何故かそれが当たり前のようにも感じていた。
「こら、冬歌っ! 瀬川さんは山登りで疲れていらしゃるのよ」
春那さんが冬歌ちゃんの肩を押さえて座らせようとする。
「いいんですよ、春那さん。先刻まで僕は寝てたんですから……」
僕がそう言うと、冬歌ちゃんはチラリと春那さんを見て小さく舌を出した。
それを見て、春那さんは諦めたかの様に溜息を吐いた。
「東京のどこらへんに住んでるの?」
深夏さんが興味津々に訊いてきた。
「東京の世田谷の方です」
「新宿とか、原宿とか、上野とか行くの?」
「否、最近引っ越して来たばかりで余り行ってないんですよ。殆ど毎日大学とバイト先とアパートを行ったり来たりしてましたから」
「バイトしてらしたんですか?」
春那さんが首を傾げる。
「あ、はい。一ヶ月前まで」
「いらない質問でしょうけど、それは何故」
奥様が聞き出す。確かにいらないことかもしれないが、前のことを知っておくのも雇用者としてのことだろう。
元々僕の対人恐怖症が起こした事だった。
ホテルの清掃員のバイトをしていた時、ホテルに泊まっていたお偉いさんの一張羅を汚水で汚してしまったのだ。
しかも、そのお偉いは結構有名な政治家だった。
その時、直に謝ればよかったのだが、あたふたしてしまい、タオルで汚れを広げてしまい、余計に汚してしまったのだ。
ホテルのオーナーは激怒。クリーニング代を払わされ、馘になってしまった。
「すみません、出過ぎた質問をしてしまって」
奥様が深々と頭を下げてしまった。
「あ、いえ。奥様のせいじゃないです。返答出来なかった僕が悪いんですから」
居た堪れない空気が流れてしまった。
僕はこういう空気が一番苦手だった。
「お食事の用意が出来ました」
同じ鴬色の和服を着た二人の女性が、厨房から食事を運んで来た。
髪の毛が胸まである二十代後半くらいの女性と、ショートカットが似合う十八歳くらいの少女が厨房と広間を行ったり来たりしている。
数分して九人分の料理が並べられた。
その三十秒くらいした後、使用人達もそれぞれの場所に座った。
奥様の視線が全員座ったのを確認すると、手をあわせ、それに合わせて全員が手を合わせた。慌てて僕も真似た。
「それではいただきましょう」
そう言うと全員が『いただきます』と言い、箸に手を差し伸べ、食べ始めた。
「あ、ねぇねぇ? ここまで来るのに……何か感じなかった?」
深夏さんが食べ物を口に含みながら僕に聞く。
「こら、深夏! 端無いわよ!」
春那さんが深夏さんに言う。
「いいじゃん。ねぇ、どうだった?」
僕はあの不思議な光景を思い出していた。
――綺麗。その一言では伝えられないほどだったが、言葉のボキャブラリーが乏しい僕としては、やはり綺麗という言葉しか出て来ない。
「綺麗でしたね」
僕がそう言うと、深夏さんがうんうんと腕を組んで誇らしげに頷いた。
「綺麗でしょ。この屋敷に来る人達皆がそう言うのよ! 此処は山奥で森の中だから、夏の日差しは全然関係ないんだけどね。それに、近くに滝があって、丁度貴方の寝ていた部屋から見える筈よ」
そう言われ、後で見ようと考えた。
「それにあの山道は全然暑くないのよね。冬は寒いけど、雪が降るし……」
「それは季節なんだからしようがないでしょ? ここは長野なんだから、雪が降るのは毎年の事だと思うけど?」
「ん、ぬぬんぅ……」
秋音ちゃんにそう言われ、深夏さんは口を窄め、頬を膨らませた。姉妹の会話を聞きながら、僕は夕食を終えた。
全員の夕食が終え、僕は自分から後片付けを手伝っていた。
先程、食事を運んでいたのは『澪』さんと『繭』さんといって、僕に色々と話して来る。
「あ、繭! その食器は二段目の方…… 瀬川さん、水の無駄使いは駄目ですからね」
澪さんの手元の食器を見ずに僕と繭さんに指示を与える。
バイトで百人分の食器を洗った事はあったが、使っている食器が一枚一枚数千円という高級品らしい。それを聞いた途端、僕は割らないように慎重に洗っていた。
「ねぇ、終わった?」
厨房を覗き込むように冬歌ちゃんが尋ねに来た。
「冬歌お嬢様、どうしました?」
繭さんが抱えていた数枚の食器をテーブルの上に置き、エプロンで手を拭くと、冬歌ちゃんのところに駆け寄った。
「お兄ちゃん、まだお仕事?」
そういえば、さっき遊ぶ約束をしていたんだった。
そんな事を思い出した時に丁度僕が言いたそうな顔をしていたのだろう。
「お約束があるのならば、お先にお上がり下さい。後は私達がしますから」
見透かした様に澪さんが僕に告げた。
「いいんですか?」
僕がそう聞くと、「慣れておりますから」と、澪さんは小さく頷き、僕は冬歌ちゃんに手を引っ張られる様に厨房を出た。