肆【8月11日・午前4時~午前4時40分】
「それじゃあ、瀬川さんは【精留の滝】に行って、水を汲んで来てもらいましょうかね?」
玄関先で一通り分担を説明され、僕は澪さんからバケツを渡された。
「滝はすぐそこですから、汲み終えたら、厨房の窓下に置いてください」
「あ、はい」
「渡部さんは鶏小屋に行って、卵をお願いします。繭はタロウ達の餌遣りをお願いね」
「いつもは澪さんが遣ってるのに、今日はどうして?」
自分の役割に納得がいかないのか、繭さんは不思議そうに聞き返す。
「別に深い意味はないんだけどね。偶には小屋にいかないとタロウ達が淋しがるでしょ」
「でもなぁ、いくら大人しいとはいっても、ドーベルマンだからなぁ」
繭さんは怪訝の表情を浮かべた。
それを見ていた澪さんが溜め息を吐く。
「文句を言わない! ほらっ、鍵を渡しておくから、終わったら、キチンと鍵を閉めてよ」
澪さんはふたつの鍵を繭さんに渡した。
「で、澪さんは?」
「私は農園の方に行ってるわ。朝食はどうするか、その時に考えるから」
「それじゃ、行きますかな?」
渡部さんがそう言うと、僕達は頷いた。
滝へは本当にすぐに着いた。
近くに近付けば近付くほど、滝の音が響いて聞こえてくる。
こういった山奥の人しれず存在する滝ほど、人の手が入っていないのは確かだろう。
ちょっと、池に手を入れると、冷たい感触が全身を駆け巡った。
中には小魚も数匹ほど泳いでいる。
一番驚いたのはすぐにいるという認識が出来た事だった。
淡水魚や川魚などが殆どなのだが、それでも普通だったら見えない。
それがすぐにわかると言う事は、それだけ水が透き通っているからだろう。
僕は澪さんから云われた通り、バケツに池の水を汲んだ。
不意にバケツの中に数匹ほど小魚が入り込んでいる。
その時だった。滝の近くで水が跳ねる音がし、その音がした場所を一瞥する。
そこには一糸纏わない女性…… 容姿からみて十四歳くらいの少女が冷たい水に浸かっていた。
僕は一瞬戸惑ったが、突然風が吹き、目を瞑ってしまった。
目を開いた時には少女はいなかった。
僕は気のせいだと考え、二つ目のバケツにも水を汲み終えた。
最初は全然持っている気さえしなかったバケツも、水の重さが増して両手に重みを感じる。
しかもバランスを取るのも大変で、厨房の窓下までバケツを持って行った頃にはゼェゼェと肩で息をしていた。
「だらしないですねぇ、それでも男ですか?」
繭さんが厨房の窓から見下ろす様に僕に言った。
「あれ? もう餌遣り終わったんですか」
僕がそう聞き返すと、繭さんは不敵な笑みを浮かべた。
「それはそうと、どうでした? 滝は」
「え? 綺麗な滝だなって思いましたけど?」
突然何を聞くんだと僕は少し首を傾げた。
「あの滝は御霊が留まる場所と言われているんですよ。昔はここまで肝試しをしていた人だっていたんですから」
確かに言葉だけを聞くと、もってこいの場所だ。
「でも、ここには人を驚かす事すらしない…… 下手をすれば、人を食らい殺す魑魅がいるそうですよ」
「……ちみ?」
「魑魅魍魎って言えばわかりますかね? 魑魅は山の妖怪、魍魎は海の妖怪を現してるんです」
「詳しいんですね?」
「別に詳しいと言う訳じゃないんですけど……」
僕と繭さんが他愛もない会話をしていると、玄関の方向から足音が聞こえた。
「二人とも、こんなところで油を売っているとはいい度胸ですね?」
澪さんが般若面を被っているかのような形相で僕達を見ている。
「い、1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚……」
「だぁれぇがぁ! ガマの油売りって言った?」
「べ、別に油を売っていた訳じゃないですって」
「まぁ、別にとやかく言わないけどね。それより、渡部さん見なかった?」
僕は窓の方を見た。繭さんの姿が見えない。が、そう思った数秒後、澪さんの後から繭さんの姿が見えた。
「どうかしたんですか?」
背後から声がしたものだから、澪さんは体をビクつかせる。
「いや…… さっき、鶏小屋に行ったんだけど、開かないのよ」
澪さんからそう告げられ、繭さんは首を傾げた。
「鶏小屋は鍵がないはずじゃ?」
「だから扉が閉まっているなんてことはないはずでしょ」
澪さんも自分で言って、腑に落ちない様子だった。
「渡部さんが中から閉めてるんじゃ?」
僕がそう聞くと、二人はきょとんとしていた。
「……何の為に?」
「いや、何の為にと言われても……」
確かに二人の云う通り、どうして閉める必要があるんだろうか?
「とにかく、鶏小屋に行きましょ?」
繭さんにそう言われ、澪さんと僕は繭さんの後を付いていった。
鶏小屋の前は妙にシンとしていた。
「ホントだ。うんともすんともいわない」
繭さんは扉の取っ手を手に取り、開けようとするが、ギシギシと軋む音がするだけで、てんで開く気配がしなかった。
「ねっ。渡部さんが出た様子もないし…… 卵を取りに来ただけなのに閉めるのも可笑しいでしょ」
今度は僕が力一杯押してみた。
「あ、鶏小屋は引き戸ですから外側にしか開かないんですよ」
だから繭さんは引いていたのかと納得した。
「でも、それを考えると、中から閉めたって事にはならないんですか?」
「それなら、鈍い音がするはずでしょ? しているのは取り付けている門が小屋を通じての軋む音しかしないんだから」
その時だった。シンとした空気が響いたのは……
「……ねぇ、何か可笑しくない?」
その静寂を切ったのは繭さんだった。
「……何が?」
「否、絶対可笑しいわよっ! これだけ私達が外で騒いでいるのにっ! 中の鶏が一匹も鳴かないなんてっ!!」
「それはまだ明け方……」
「良いっ? 鶏は近くで音を鳴らせばそれに合わせて歌うの! それこそ、これだけ近くで大きな音を鳴らしているのにも関らず、一匹も鳴かないって事は有り得ないのよ」
言われてみれば、確かに一匹も鳴いている気配がしない。
僕は扉に耳を近付けた。中はシンとしているのか、何も聞こえない。
「無理してでも開けられないかしらね?」
そう言いながら、繭さんは澪さんを一瞥する。
「緊急事態だからね。後で春那お嬢様から叱咤を食らっても知らないわよ?」
澪さんは怪訝の表情を浮かべる。
「理由を話せばわかりますって。お願いします。澪さん!」
繭さんが懇願するかの様に、手を合わせ、澪さんにお願いする。
「…………わかったわよ。それじゃ、二人とも、扉から離れて」
そう言われ、僕と繭さんは一二歩程扉から離れた。
扉の前には澪さんが立っている。深く呼吸をし、空手の構えを取った。
「はぁあああああああああああああああああああああああ……」
表情は険しくなり、まるで獲物を狩るような目だった。
そして……
「でぇりゃぁあああああああああああああっ!!」
叫び声と同時に澪さんの右足が鋭く、扉に当たった。
その衝撃で、扉はメギメギと激しく鳴り響く。
そして蝶番が外れ扉が開いた。
ちょうど真ん中を蹴っていたため、扉には余り傷は付いてはいないが、片方の扉は蝶番が捻じれてしまい、使い物にならなくなってしまった。
「す、すごい……」
僕は唖然としていた。
「み、澪さんと付き合う人がいたら…… か、かなり覚悟がいりますね?」
繭さんもまさかこれほどまで凄いとは思っていなかったのだろう。
「ふぅっ……」
事を終えた格闘家のように澪さんは再び深く深呼吸をした。
僕達の方を振り替えり、苦笑いを浮かべた。
「ほら二人とも、中調べるんでしょ?」
澪さんがそう言うと、僕と繭さんは頷き、鳥小屋の中に入った。
「渡部さぁぁんっ! いらっしゃいますか?」
鶏小屋の中は真っ暗で、上の方からギシギシとと何かが軋む音が聞こえる。
「渡部さん! いらっしゃいますかっ?」
澪さんと繭さんが声を挙げる。その度に小屋の中で声が響く。
鶏小屋特有のにおいが篭っていて、うまく息が出来ない。
「ねぇ、本当に渡部さんいるんですかね?」
「確かにこれだけ……」
澪さんが言葉を止め、直様険しい表情を浮かべる。
「どうかしたんですか?」
「…………ねぇ? やっぱり可笑しくない? 中に入ってから、全然鶏の声すらしないんだけど」
「それって、外にいた時にも言ってましたね」
澪さんは周りを見渡す。小屋は真っ暗で何も見えない。
「そろそろ、太陽が昇るくらいだと思うんだけど」
繭さんがそう言った時だった。
ゆっくりと扉の方から光が射し込んできた。
「ひっっ!?」
突然、繭さんが悲鳴を挙げた。
「ど、どうしたのよ?」
「な、何か…… 肩に落ちてきた」
そう言って、繭さんは自分の肩に触れた。
手で拭い取った物を見た瞬間、繭さんの顔が青褪めていく。
「どうしたのよ? 恐い顔して……」
澪さんは怪訝な顔を浮かべる。
「あ、あの…… 昨日って…… 雨漏りするほど、雨降りましたっけ?」
「はぁっ? 昨日は気持ちが良いくらい晴天だったでしょ」
そう言うと、澪さんは僕を見た。
「ええ。確かに昨日は山登りが楽しくなるってくらい太陽が昇ってましたよ」
僕がそう言うと、繭さんは困惑した表情を浮かべる。
「そ、そうだよね? そ、それじゃ…… これって…… なに?」
繭さんはそう言って、じっと見つめていた掌を僕達に向けた。
その掌は真っ赤に染まっていた。
「な、何よッ!? それっ!?」
「だからっ! さっきから訊いてるじゃないですか? これが天井から……」
繭さんが天井を仰いだ瞬間、言葉を止めた。
僕達も操られたかのように天井を仰いでいた。
ギシギシと音が聞こえる。
ソレがゆっくりと揺れて、音を鳴らしていた。
ソレ? ソレって何だ?
いや、それ以前にこれは何なんだ?
今の今までここに入ってからこんなものの気配を感じたか?
それに他の二人も気付いてはいなかった。
突然現れたとしか言い様がない。
ボタボタと雫が落ちている。それが僕達の顔に掛かっていた。
すると、突然…… パッと鶏小屋の電気が点いた。
天井にはそれこそ爛れ落ちた顔を着けただけで、四肢を無理矢理引っ張られたような、訳のわからないものが吊るされていた。
その四肢からは今も血が落ちている。
僕達に掛かっていたのはその血だった。
只ならぬ絶叫と悲鳴を共々に僕達は逃げる様に鶏小屋から出た。
「な、ななななななななななっ……」
繭さんは恐怖の余り、呂律が回っていない。
「い、一体? 一体何よ? あれっ?」
「ぼ、ぼぼぼぼっ! 僕に聞かないでくださいよ?」
「あ、あな、あなななんあんあ、あんなの私達が入った時にあった?」
澪さんが誰彼関係無しに聞いた。
僕と繭さんは激しく首を横に振る。
「と、突然…… 突然現れたって、そんな感じでしたよね」
「つまり、犯人はまだ中にいるって事? っていうより、あれってもしかして……」
澪さんが言い出そうとした言葉を止めた。
この中で行方がわからない人物はたった一人しかいなかったからだ。
「渡部さん?」
「でも、渡部さんがいなくなって、二十分も経っていないはずよ?私が農園にいる時はまだ鶏小屋が開いてたから」
「そ、それじゃ? 澪さんが農園に出た時には閉まっていたって事ですか?」
繭さんがそう聞くと、澪さんは頷いた。
「澪さんが農園にいた時はまだ渡部さんは生きていたって事になるんですかね?」
「そ、それこそ、不可能でしょ? だって、私が農園から出たのは四時半くらいよ?
今、五時前でしょ? どう考えても、たった三十分であんな事が……」
澪さんは死体の状態を思い出したのか、口を塞いだ。
「それより、あの天井は簡単に物を吊るす事なんて出来ないはずですよ」
繭さんも思い出したのだろう。今にも吐きそうな顔をしていた。
「ちょ、ちょっと見て来ます」
「ま、待ちなさいよ? こういう場合は入らない方が」
「でも、見間違いだって事もあるじゃないですか? 突然あんなのが目の前に現れて、僕達が勝手に動転していたっていう事だって有り得るんですから」
確かにそれもあるかもしれないと思ったのだろう、二人は僕が小屋に入ろうとしたのを止める事をやめた。
僕が鶏小屋の中に入った瞬間だった。
悍ましい程に悪臭が漂っている。
「うぅげぇええええええええっ!!」
僕は堪らなくなり、その場に跪いた。
その時、不意に手を地面につけてしまい、ソレに触れてしまった。
「うぅああああああああああっ!!」
僕の手が真っ赤に染まっていく。
「ちょ、ちょっと、なんなのよっ!?」
澪さんが僕のうしろで声を挙げた。
僕の手の下には鶏の死体が捨てられていた。
首を捻られ、胴体とは逆の方向に嘴が向いている。
それが小屋の中一面に捨てられていた。
入り口からでもわかる。
全羽、それこそ百匹はいるだろう、鶏全部の首が捻られていて、今にも千切れそうなほどだった。
その殆どは舌を出し、目を剥き出しにしている。
鹿威しが鳴った。