参【8月10日・午後9時20分 ~午後10時20分】
「ふぅふぁぁぁっ!」
冬歌ちゃんが大きな欠伸をする。
目は虚ろ虚ろで、今にもコロンと眠りこけそうに体をゆらゆらとさせていた。
「冬歌、もう寝なさい」
深夏さんに言われて、冬歌ちゃんは重い足取りで自分の部屋へと戻っていく。
「そろそろ、私達も寝ますかね。あ、春那お嬢様と奥様はどうしましょうか」
渡部さんが春那さんの部屋を一瞥する。
あのニュースが報道されてから部屋に篭りっきりで、いまだに出て来ていない。
「あっ! 私、未だ遣る事がありますから」
繭さんがそう言うと、渡部さんは少し考えると、
「そうですか、それではお願いします」
そう言うと渡辺さんは全員に会釈し部屋の方へと出て行った。
「繭さん? 今、お風呂誰も入ってないの?」
片腕に着替えらしき衣類を持った秋音ちゃんが、広間を覗く形で、繭さんに訊ねている。
「あ、はい。ですが、少し沸かさないと、湯船は温くなっていると思いますよ」
小一時間前、繭さんが冬歌ちゃんと一緒にお風呂から戻って来た時、秋音ちゃんは自分の部屋でヘッドホンをしていたらしく、上がっていたのを知らなかったらしい。
それを聞くと、秋音ちゃんは僕の視線に気付いたのか、そのままスッと風呂場の方へと歩いていった。
「……あの子、顔赤かったわね?」
深夏さんがクスクスと笑いながら呟く。
「まぁ、年頃ですからね」
澪さんが相槌を叩く様に言う。
「まったく、高々お風呂に入りに行くのを異性に聞かれただけで赤面してんじゃないっての」
「そ、それが秋音お嬢様ですし、私は可愛いと思いますよ」
「にしても初心過ぎるでしょ? 中二にもなって、いまだに見られるのが恥ずかしいからって、体操服を制服の下に着て行ったりしてるのよ」
深夏さんが力説するように話す。
男の僕が言うのもなんだがその行動は普通だと思う。
場所場所で違うかもしれないが、男女別になるなんて、高校くらいの時だった気がする。
「瀬川さん、そろそろお休みになった方が…… 明日は早いですし……」
澪さんがそう言うが、どうも釈然としていなかった。時間は午後九時二十分くらい。
どう考えても最近の子供ですら起きている時間だ。
冬歌ちゃんは昨日から興奮していたらしく、そのツケが回って、疲れがドッと出たらしいけど。
「早いって、どのくらいですか?」
一応、起きる時間だけでも聞いておこう。
『四時ですけど?』
澪さんと繭さんの声が重なるようにサラリと言った。
「まぁ、正確に言うと、最低でも起きるのは三時半でしょうね?」
「さ、三時半?」
ちょっと待て? その時間って、まだ鶏すら起きていないんじゃ?
「あ、繭? 私、明日早いから、六時くらいに起こしてくれない?」
腕を伸ばし、スッと立ち上がった深夏さんが繭さんに告げる。
「また随分と早い時間ですね」
「まだ生徒会の仕事が残ってるから、その後片付けもしなきゃいけないしね」
「もう生徒会長じゃないんですから、そんなに気を遣わなくても」
「そうは言ってられないでしょ? とにかく、よろしくね」
「わかりました。六時でいいんですね?」
繭さんが確認するように聞くと、深夏さんはコクリと頷いた。
「た、大変ですね。生徒会長って」
僕は深夏さんが部屋に戻ったのを確認すると、繭さんに尋ねた。
「本当だったらもうやらなくてもいいんですけどね。ああ見えて結構責任感の強い人だから、心配なんでしょ」
繭さんが横目で深夏さんの部屋を一瞥する。
「それじゃ、繭…… 今日の夜分は大丈夫なの?」
「――夜分?」
「ああ、夜の見回り。この屋敷に泥棒する人はかなりの物好きだろうし、滅多にない事だけど、一応しないよりかはマシですから」
「そういう事。それじゃ、私は休むから、時間が来たら起こして」
澪さんはそのまま自分の部屋へと帰っていった。
「……どうかしたんですか?」
ずっと立ちっぱなしの僕を繭さんが不思議そうに首を傾げる。
「えっ? あ、いや、春那さんはあれからずっと部屋から出てないんですよね」
「あ、そう言えばそうですね」
繭さんが春那さんの部屋を一瞥する。
「なんか、可笑しくないですか?」
「別に可笑しくはないでしょ? あんな事があったんですから、チャットで役員の方々と連絡を取り合っているか、緊急の会議をしていて、長引いているかでしょう?」
云われれば、確かにあんな事件が起きた後だ。会話が長引いていると云われると納得する。
「た、大変ですね。若くして社長っていうのも……」
「でも、社長といってもそれは表向き。本当だったら、会社に平社員として入社するはずだったんですよ。ただ、奥様が会社内で信用出来る役員がいなかったから、春那お嬢様が選ばれた。今は渡部さんに経営学を教えてもらいながら、何とか運営出来ているけど……」
春那さんは二四歳と言う若さで、しらない人はいないと言われるほどの大手旅館を運営している。
「でも、それならどうして渡部さんが社長じゃないんですか?」
「そこなんですよね。私はあくまでこの屋敷の使用人として働いていますから、詳しくは知らないんですけど…… 普通考えたら、奥様と設立当時から働いている渡部さんが一番候補に上がるはずなのに、その渡部さん自身が辞退したそうです」
繭さんが納得しないような顔を浮かべる。
「あ、湯加減はどうでした?」
突然、繭さんがそういう言う。僕にではなくうしろにいる人に視線を送っていた
僕が振り向くと大きなTシャツを着た秋音ちゃんが廊下に立っていた。
シャツは膝まで覆い隠していて、その姿は宛ら男のシャツを着ている女の子みたいな感じである。
頬は紅潮していて、今お風呂から上がってきたばかりだというのは云うまでもなかった。
僕の視線に気が付いたのか、秋音ちゃんはそそくさと逃げるように自分の部屋へと戻っていった。
「今まで男は渡部さんと香坂さんくらいしかいませんでしたからね」
繭さんがクスクスと笑う。
「そ、それじゃ、明日四時ですね。頑張って起きます」
「――あ、瀬川さん?」
僕が広間を出ようとした時、繭さんが呼び止める。
「さっきの秋音お嬢様ね。Tシャツの下、ショーツしか着てないから」
突然そう言われて、僕は唖然とする。
「それだけ。んじゃ、おやすみなさい」
小さく笑っている繭さんに僕は首を傾げながら、自分の部屋に戻った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
開けっ放しの広間で小さな含み笑いがこだまする。
繭が他愛もないトレンティードラマを見ていた。
使用人たちは勤め先とはいえ、殆ど自分の家同様に感じてしまうのはこの屋敷のアットホームな雰囲気にあった。
気兼ねなくなんでも云える……にも拘らず、なにか他所々しい感じもしている。
それは姉妹たちの会話からも見受けられた。
「繭さん、お食事の用意出来ますか?」
「あ、はい。すぐにご用意します」
何時の間に入ってきたのか、突然霧絵にそう言われた繭は、あたふたと厨房の方へと入っていく。
――数分後、霧絵の前にはグラタンが用意されていた。
「実はちょっとした手違いがありまして」
焦りながら説明している繭を霧絵は静かに聞いていた。
こういうのは怒る事でもあるのだが、彼女は責める訳でもなかった。
「春那お嬢様は?」
「まだ部屋にいます。他の役員からは責任をどうするのかと一点張りです。あの子に任せてよかったのか、今思うと…… ああ、この身体が憎い……」
霧絵はじっと自分の手を見つめた。
霧絵の容体は生まれついてのものだった。
大学生になるまで殆どを病院で過ごしている。
大学に通っていた頃、大聖と出会い、二人は駆け落ち同然で結婚している。
その後、霧絵が両親の経営している旅館を受け持つ事となり、春那が十六になる前まではやっていたが、体調が思わしくなくなって来た時、引退を決意した。
しかし、次の社長が見付からなかったため、大聖の提案で春那を仮の社長としている。
「あの子の自由を奪ったのは私です」
霧絵は肩を震わせ、呟くように云った。
「そ、そんな事を言わないでください。誰も奥様の事を責めたりなんてしませんよ」
繭はそんな霧絵を宥める事しか出来なかった。
「それなら、誰かあの子達を助けて!」
霧絵はじっと天井を仰いだ。
「私はこの体が憎い。この心が憎い」
霧絵は今にもかき消されそうなほどの可細い声を挙げた。
「お、奥様。きょ、今日はお休みになりましょう」
「ええ、すみません。繭さん」
繭はタオルジャケットを霧絵の肩に掛け、広間を出た時だった。
広間とはさほど離れていない春那の部屋から声が漏れていた。
「ええ、ですから! その事に関しては現在調査中のはずです。それに今回殺された男性とその事に関しては何の共通点もないはずですが?」
荒々しい春那の声が廊下へと漏れ聞こえている。
ただ、聞こえて来るのは春那の声だけで、相手とどんな会話をしているのか、霧絵と繭にはてんでわからないでいた。
「はいっ! それはそちらに! いいえ! 私は言われた通りにしているだけです。決してこの件に関しての責任を逃れようと、詭弁を申してる訳では!」
繭と霧絵はジッと廊下から春那の会話を聞いていた。
「ごめんなさい…… 何も出来ない母でごめんなさい。 力添えも何も出来ない母で……」
「――奥様!」
「どうして! どうしてあの子たちが苦しまなければいけないの? 本当は私が責められなければいけないのに」
肩を震わせながら、霧絵は重たい体を引きずるように自室へと戻った。
「それでは、奥様、私は屋敷の見回りをしてから部屋に戻りますので」
そう言って繭は襖を静かに閉じた。
自分以外に廊下に出ている人間はいない。
いないはずなのだが、何故か気配を感じる。
悪寒を感じた繭は足早に屋敷を見回した。
特に異常はなく、時計を見ると十一時を回っていた。
繭は再び広間に戻り、春那が来るのを待っていたが、そのまま眠ってしまった。