弐【8月10日・午後6時20分】
「おいしい……」
用意された夕食を一口食べた時、僕は素直にそう言った。
「んふふっ! これでも調理師免許もってますからね。美味しいのは当たり前ですよ」
割烹着姿の澪さんがお玉を片手に仁王立ちで立っている。
「み、澪さん―― 性格変わってる」
厨房から次々と料理を運んでいる繭さんが小声で言う。
「はい、冬歌お嬢様! 秋音お嬢様! オムライス出来上がりましたよ」
運んでいたお皿を冬歌ちゃんと秋音ちゃんの前に出す。
「いっただきまーす!」
「いただきます」
冬歌ちゃんの元気な声とは対照的に、秋音ちゃんは静かに手を合わせた。
「深夏お嬢様、ケーキはもう少しお待ち下さい」
澪さんがそう言うと、深夏さんは慌てた表情で、
「いや、あの時冗談で言ったんだけど?」
「でも、いいんじゃないの? 食後に食べるって事で」
霧絵さんがそう言うと、深夏さんは「あ、そうか」と自己解決していた。
「ケーキッ! ケーキッ!」
冬歌ちゃんはそんなことお構いなしに楽しみにしているようだ。
「あ、冬歌お嬢様? 大変申し訳ないですが、今作っているのは、お嬢様の嫌いなニンジンケーキなのですけど?」
澪さんにそう言われて、冬歌ちゃんは恨めしそうに見つめた。
「大丈夫ですよ。澪さんの作る料理ですから、美味しいのは確実です」
「そうなんだけどなぁ…… うぅぅ…… ニンジンきらいぃ」
冬歌ちゃんは愚図るように、顎をテーブルに乗せる。
「冬歌ぁ? 好き嫌いしてると大きくなれないわよ?」
深夏さんがからかうように云う。
「でも、大きくなっても嫌いな食べ物とかってありますよね?」
僕がそう言うと、深夏さんは僕の方を見るや、
「そ、それを云われると言い返せないから」
深夏さんが焦った顔で僕に言う。何か嫌いな物でもあるのだろか?
「それにしても、いつ食べても澪さんの料理は絶品ね」
「奥様にそう言われると光栄です」
澪さんは先程の自信満面な笑みをかき消すように、畏まった表情で頭を下げた。
――突然、うしろに置いてあるテレビから音が聞こえ出した。
振り返ると、広間の奥角にテレビが置かれている。35型の大きなテレビだ。
その前に渡部さんが中腰で座っていた。
「洋一さん、どうしました?」
「いいえ、先程電話で連絡がありまして…… すぐにテレビをつけて欲しいと」
そういえば、僕がテーブルに座る前、屋敷に設置されている黒電話が鳴っていたんだっけ?
僕達はテレビのニュースに釘付けになる形になった。
右上に6時20分と字幕が出ている。
『今日の午後四時、**県**市で殺人事件が起きました。被害者は五十代男性。身分証明となる物は処置しておらず、警察は身元を確認を急いで……』
テレビのアナウンサーが、ADが持って来た紙を手に取って、その原稿を読み上げた。
『――今入りました情報によりますと、殺された男性は耶麻神グループに所属していたもよう。それ以外に身元が判明出来る物は見つからないようです。発見された男性は……』
画面が変わり、中心に被害者の写真が紹介された。写真の下には名前ではなく『50代男性』という言葉だけだった。
「……大山田さん?」
霧絵さんが驚いた表情で呟いた。
「わ、渡部さん! 急いで広島支店に確認を!」
春那さんにそう促され、渡部さんは走る様に廊下へと消えた。
「澪さん! 私は後でいいわ!」
春那さんはそう言うと自分の部屋へと引っ込んだ。
「瀬川さん、すみません」
霧絵さんが僕にそう言うと、そのまま春那さんの部屋へと消えた。
「た、大変な事になってるわね」
大変な状況なのは目に見えているのだが、どういうわけか、深夏さんはあっけらかんとした表情を浮かべている。
「ね、姉さん。なに呑気な事言ってるの?」
そんな深夏さんに秋音ちゃんが問い掛ける。
「秋音、私達は会社の事に関して、一言も口を割ってはいけないのがルールじゃなかった?」
深夏さんにそう忠告された秋音ちゃんは、納得いかない顔を浮かべたが、それ以上何も言わなかった。
「ねぇ、何か焦げ臭くない?」
冬歌ちゃんが不思議そうにみんなに言う。
言われてみれば、そんなにおいが……
「…………! あ、ああ、あああっ!! シチュー、掛けっ放しだったぁああっ!!」
澪さんが慌てて厨房の方へと消えた。
「だぁっちっ! あつ! あっつっ!! ちょ、ちょっと! 繭ッ! ちょっと! ちょっときてぇええええええっ!!」
厨房から澪さんの叫ぶ声が聞こえて来る。
繭さんは小走りで厨房に入っていく。
数秒後、澪さんが申し訳なさそうに僕達の前に現れた。
彼女は焦げたシチューが入った鍋を持っていた。
「あららっ!」
その鍋の中を僕達は唖然とした表情で見ていた。
「うぅぅぅっ! すみません、お嬢様方……」
澪さんが肩を落とし、深夏さん達に謝罪する。
「べ、別に良いわよ? それに全部が食えない訳じゃないでしょ? あ、そうだ! それを使って、グラタンにしたら?」
「あ、なるほど! それじゃその様にしてみます」
澪さんは厨房へと消えた。
「す、すごい……」
僕は深夏さんの言動に驚いていた。
「シチューとグラタンは同じ料理でしょ? 違うのは焼いているか、煮込んでいるか…… 使っている材料だって、変わりないんだし……」
深夏さんが自身たっぷりに言う。
「グラタン! グラタン!」
冬歌ちゃんは別にどちらでも良いようだ。
「ランチョンマット、用意しないとね?」
「わかりました」
繭さんはそう秋音ちゃんに言われ、厨房の方へ消えた。
数分後、全員の前にはグラタンが用意されていた。
食後、ケーキとコーヒー(冬歌ちゃんにはリンゴジュース)が用意された。
冬歌ちゃんはさっき繭さんが言っていた事を気にしていて、ケーキを見てはいるのだが、手をつけようとはしない。
「冬歌、美味しいわよ。あんた、ケーキ好きじゃなかった?」
深夏さんにそう言われ、今にも泣きそうな顔を浮かべながらも、冬歌ちゃんはケーキを一口食べた。
「――美味しい。美味しい! 澪さん! これ! 凄く美味しい!」
そう言うや電光石火の如く、冬歌ちゃんはパクパクと気持ちの良いほどにケーキを頬張った。
「あれ? ねぇ? 澪さん? 本当にニンジン使ってるの?」
秋音ちゃんが一口ケーキを食べてから言った。
「本当だ。全然ニンジンの味がしない」
僕も一口食べた。
ニンジン独特の味とにおいが口の中に広がらなかった。
「実はニンジンはただの色付けに使っただけですから、そんなに味はしないと思いますよ」
確かにスポンジはサーモンピンクの様な色だ。
「でも、本当だったらこんなズルをしないで、食べて欲しいんですけどね」
澪さんが冬歌ちゃんを見ながらと思ったが、どちらかと言うと、深夏さんを見ていた。
もしかして、深夏さんの嫌いな食べ物って……
「どうかした?」
僕の視線に気付いたのか、深夏さんが不思議そうに僕を見た。
「あ、ははっ! いや……」
僕は笑ってその場をごまかした。
ふと何かが聞こえ、そちらに振り向いた。
「どうかしたんですか?」
澪さんにそう云われ、僕は鹿威しが鳴ったと告げるや、周りの人たちは怪訝な表情を浮かべた。
「空耳じゃないんですか?」
どうやら僕以外、誰も聞こえていなかったらしい。
でも、はっきりと聞こえたんだ。
庭の池に飾ってある鹿威しが鳴る音が――――