壱【8月10日・午前10時20分~午後2時30分】
耶麻神邸の廊下で冬歌が楽しそうにはしゃいでいる。
今日、新しい使用人が来る事を聞かされていて、それを今か今かと待ち侘びていた。
子供というのは新しいものが自分のところに来ると、如何せんワクワクするものである。
――そんな感じで、昨夜母親である霧絵から聞かされてからずっとこの調子であった。
「ちょっと、冬歌? 瀬川さんはお昼頃に来るって、お母さんが云ってたでしょ? 少しは落ち着きなさいって」
一つ上の姉である秋音に注意されるが、冬歌は一向に言う事を聞かない。
秋音はそんな冬歌を見て溜め息をついたが、内心自分もその人物が来る事を楽しみにしていた。
「ふふっ、二人とも楽しそうですね?」
さきほどまで食器の後片付けをしていた澪は、タオルで手を吹きながら厨房から出てきた。
「――あ、澪さん」
「他の人達が次々に辞めてしまいましたからね。ありがとうございます。春那お嬢様」
初老の男、渡部洋一が春那に会釈する。
「いいのよ。渡部さんだけに力仕事をさせるのは気が進まないから」
「お嬢様の心遣い、実に恐縮です」
彼等も彼等で楽しみに待っていた。
「それにしても奥様って人が悪いですよね? 元々から採用だと決まっているのに、一度面接をするというのは」
繭がクスクスと笑みを浮かべながらうしろを振り向いた。
「いいえ、この耶麻神家に仕える者として相応しい方かどうかを判断する為です」
霧絵は静かに春那達のうしろに立っていた。
霧絵はその静かな佇まいからは想像出来ない存在感は、若くして耶麻神グループを引退し、長女である春那に後任を任せた人物とは到底思えない。
持病である心臓病が悪化さえしなければ、後二十年は仕事出来ただろう。
「奥様、お部屋でお休みにならなくてよろしいのですか?」
「いいえ、繭さん…… 今は大丈夫です」
霧絵は静かに頷くと、チラリと廊下を見渡した。
「……それで、やはり深夏はまだ?」
霧絵にそう言われ、繭は呆れた顔で深夏の部屋を一瞥した。
夏休み前日まで生徒会で忙しく、全部が終わったのはつい一昨日の事だった。
更に次の生徒会長も決めなければいけなかったため、その事でも一悶着あった。
二学期の準備やら何やらで、受験を迎えようとしてる深夏にとっては一番忙しいかった事を同じ高校に通っている繭は知っていた。
「夏休みが終われば、ソレこそ遊ぶ暇もないでしょうから、今はそっとしておいてあげましょう」
霧絵がそう言うと、繭はまるで自分の事のように安堵の表情を浮かべた。
澪が一、二度手を叩くと、全員が彼女の方に振り返る。
「ほらっ、今日は忙しいですからね。繭、貴女は瀬川さんが入る部屋の掃除をお願いね」
繭はそう云われ、頷いた。
「ねぇ! 私も手伝いたい」
澪と繭の間を冬歌が割って入ったが、
「冬歌! お仕事の邪魔したら駄目でしょ」
それを秋音が堰き止めるように言い聞かせる。
「あ、良いんですよ、冬歌お嬢様」
そう言うと繭は冬歌の手を取って部屋の方へと消えた。
それを秋音は呆れた表情を浮かべ、後を追った。
「それでは、澪さんは庭の掃除をお願いします」
霧絵にそう言われた澪は頭を下げ、玄関へと消えていった。
ここ長野県北部に位置する榊山山中に全国に支店を置いた旅館経営を営む、耶麻神グループの主が住んでいる。
土地の面積は大凡九百平方メートルもあり。屋敷の周りは森で囲まれており、麓へ降りる道以外に山を降りる場所はない。
この屋敷が別名“箱庭”と呼ばれているのは、こういう土地柄によるものだった。
『この屋敷に努々近付く事勿れ 金色に煌く鹿がその屋敷に住まいて死屍を喰らい咆哮を挙げん その声を聞きし者、煉獄の夢魔が汝を縊らん』
そんな言葉が書かれた小さな掛け軸が玄関の壁に掛けられている。
霧絵とその夫である大聖が屋敷を貰い受けた時、前の持ち主からもらった物なのだが、気味が悪い内容のため、何か大きな事がない以上は決して掛ける事はしない。
新しい人が来る事はこの屋敷にとっては大変大きな事である。
玄関から涼しい風が入ってきたその時だった。
突然電話が鳴り、それに最初に気付いた秋音が電話を取った。
「はい、耶麻神ですが。……は、はい。そうです。麓から……そうです、まっすぐ一本道になってますから、迷う事はないですよ」
電話先の相手は、この屋敷に来る為の道を訊ねに電話をしている。
「そのくらいの時間に辿りつけるかと――はい…… 奥様にはその様に伝えておきます。――それでは失礼します」
秋音はそう言って、相手から電話を切るのを数秒待った。
電話からは空しく繰り返す電子音が聞こえるだけになり、秋音は静かに受話器をフックに戻した。
「お母さん! 新しく入る、瀬川正樹さんだっけ? 多分二時くらいにこの屋敷に着くかもしれないって」
「そう。山を登るのには時間がかかるからね」
霧絵は開けられた窓から外を見た。
そこから少しだけだが瀧が見える。
幻想的な森の中にひっそりと溶け込んだ形で存在している滝の綺麗な水面には夏の空が映されていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「それでは瀬川さん、こちらがお部屋となっております」
スポーツバックを片手に持った僕を使用人の女性が案内してくれている。
彼女はゆっくりと襖を開けると、次第に滝の音が聞こえてきた。
僕が部屋の窓から見えるその光景にただただ呆然としている中、使用人の女性は首を傾げていた。
「凄くいい景色ですね」
僕は窓から身を乗り出して、外を見渡した。
「ここは周りが森ですから、東京から来られた方には退屈なのでは?」
使用人の女性がそう僕に訊ねる。
「いえ、此処まで来るのでさえ、夢の様な世界でしたよ」
僕はそう言いながら滝の方を見た。
「元々、こっちの生まれなんですけどね、大学を通う為に上京してたんですよ。だから、こういう景色を見ると、帰って来たんだなって、勝手に思っちゃって」
僕は周りの空気も読まず、自分の話をした。
「瀬川さん、奥様がお待ちしておりますので、広間の方へ」
廊下から男の声がし、僕はそちらに向き、会釈した。
「それでは、私はこれで…… 他に仕事がございますので」
使用人の女性は会釈し、静かに部屋を出ていった。
男性もそのまま、奥へと戻っていく。
「それにしても、凄い場所だ」
僕は手に持っていたスポーツバックを畳の上に置いた。
僕の名前は瀬川正樹。東京のある大学に通っている。
この屋敷に来た目的は、アルバイトの面接の為だ。
元々暇だった大学の夏休みをどう過ごそうかと考えていた矢先、ネットの求人サイトでこの屋敷の事を知った。
ものは試しにと電話をしたところ、むこうから来るようにとの連絡を受け、今に至るわけだ。
ゆっくりと深呼吸をし、気合を入れるた僕は部屋を出た。
広間の襖を開けた瞬間、パンッ!とクラッカーが鳴る音がし、僕は唖然とした。
「ようこそ! ほら、こっち!」
小さな女の子が僕の手を引っ張る。
「え? えっ?」
僕は何がなんだかわからなかった。
歓迎されているのはわかるのだが、今日僕は面接で来ているはずだ。
「冬歌! 瀬川さん、吃驚してるわよ」
セミロングの少女が小さな女の子の肩に手を掛け、落ち着かせようとしている。
「ふふふ、本当は秋音も楽しみにしてたんじゃないの?」
クスクスとウェーブの掛かった髪型をした高校生くらいの女の子が僕を見ながら笑っている。
「なっ!? み、深夏姉さん! ……そ、それは…… た、確かに来るのは楽しみだったけど……」
秋音と呼ばれた少女は、カァーっと赤面し、言葉がしどろもどろになっている。
そんな彼女達とは違う、静かな視線が二つ、僕に向けられていた。
「ようこそ、耶麻神邸へ。私がこの屋敷の『主』である、耶麻神霧絵と申します」
綺麗な黒色の和服を来た四十から五十前後の女性が僕に会釈する。
僕はそれにつられて会釈した。
「私はその娘である春那と申します。瀬川さんの隣にいるのは、私の妹達です。冬歌と秋音。そして深夏と申します」
そう言われた彼女達はそれぞれ違ってはいるが僕を見ながら笑みを浮かべる。
霧絵さんがスッと背筋を伸ばし、僕の方を見る。
「吃驚されておられるようなので私から説明いたします。瀬川さん以外にこの屋敷への連絡がなく、締め切った為、自動的に採用という形になります。まぁ、具体的には屋敷の使用人の仕事となりますけど…… 何か質問は?」
「……使用人の仕事というのは?」
僕がそう質問すると、隅っこで座っていた初老の男が説明を始めた。
「まぁ、軽い仕事から重たい仕事まで多種多様ありますなぁ。元々、この屋敷で男は私だけになってしまったのを春那お嬢様が気に掛けて下さった訳です」
「連続して他の使用人達が辞めてしまったのが一番の理由なんですけどね」
春那さんが溜め息を吐く。
「仕事の内容は明日から教えると言う事で……」
深夏さんと同じくらいの女の子がスッと立ち上がる。
それに続いて、横に座っていた女性も立ち上がった。
「坂口繭と言います。さきほど案内したものです」
そう言って繭さんは小さくウインクした。
「大内澪と申します。これからよろしくお願いしますね」
そう言うと澪さんは笑みを浮かべた。
「申し遅れました。私は渡部洋一と申します」
初老の男。渡部さんが僕に会釈する。
「それじゃ、今日は瀬川さんの使用人採用のお祝いといたしますか。お嬢様方、お好きなものを何でも、言って下さいませ!」
澪さんの声が広間に響いた。
「私! オムライス!」
冬歌ちゃんの元気な声が響く。
「わたしも……」
秋音ちゃんは小さく手を挙げ、主張する。
「二人とも、まだまだ子供ね。澪さん、私はケーキをお願いするわ!」
「……って! いやっ! 深夏が一番子供でしょう! つーか、無理でしょ、それ?」
春那さんがそう云うと、
「いや、冗談だから。私はどうしようかな……」
「澪さん、私はお腹がいっぱいになれば何でも良いわ」
春那さんがそう云うと、深夏さんも同じような注文をした。
姉妹それぞれ好きな事を言うと澪さんは一言一言の注文を聞き入れていた。
「お恥ずかしい所をお見せしたかしら?」
霧絵さんにそう言われ、僕は苦笑いした。
「でもね、彼女達は此処に誰かが来るのを楽しみにしてたのよ。あまり人がこの屋敷に近付こうとしませんから……」
そう言うと霧絵さんはスッと立ち上がり、僕のうしろを通り去っていく。
その時、鹿威しの音がした。
庭の池にある鹿威しが鳴ったのはすぐにわかったのだが、何故か悪寒を感じた。
この屋敷に来た時、すぐに目に行ったのがその鹿威しだった。
普通の竹で作られた物ではなく、金箔を貼られた金色に輝くその鹿威しに目を奪われたからだ。
それに、何故か僕はこの屋敷に覚えがある。
それがなんなのか、わからなかった。
――また、鹿威しの音がした。
第二話です。なにこれ、ループ?と思われた方。それこそまさにこの作品におけるヒントなのです。