拾玖【8月12日・午後5時30分】
「姉さん! 春那姉さん!!」
廊下で秋音ちゃんが春那さんを大声で叫んでいる。
さっきまで一緒だったはずの春那さんが急にいなくなってしまい、最初はトイレに行っているのかと思ったが余りにも遅く、自分の部屋で休んでいるのかと思えば、鍵は閉まっておらず、蛻の殻だったそうだ。
「ねぇ? 瀬川さん、繭、知らない?」
今度は澪さんが玄関の方から戻って来る。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。お二人ともそれぞれ一緒に居たんでしょ?」
如月巡査にそう言われ、二人とも頷いた。
「鍵は? 春那さんの部屋にしか鍵束は置かれていないんですよね?」
「あ、はい! 姉さんが書斎以外の全部の鍵を持っていますから…… でも、その鍵束は置かれたままでした」
「それだったら、やっぱりどうやって書斎に白骨死体を入れられたかよね? あれは旦那様しか持っていないはずなのに……」
「あ、警部!! どうでしたか?」
「見つからなかったよ。鶏小屋、犬小屋、農園にあれから人が入った形跡もなかった」
「つまり、屋敷にいるって事ですか?」
僕がそう言うと早瀬警部は頷いた。
「とにかく探しましょう! 他に入っていないのは客室だけなんですよね?」
「それと深夏姉さんの部屋の横の空室も……」
秋音ちゃんはそう言い止めると考え込んでしまった。
「あそこだけいつも不思議に思ってた。鍵は厳重に閉められていて、あそこの鍵だけ無くて……」
「まさか! 彼処にお二人がいるという可能性も!」
「でも、どう遣って?」
「とにかく行きましょ!」
それは本当に閉ざされていた。
板が無数に貼られていて、それこそ鎖の如く隙間すらなかった。
釘は錆付いて変色している。
板も何か色が着いていたのか、ところどころに斑点があった。
「まさに開かずの扉ですな? いや、封じられた部屋と言った方があってますかな?」
「こ、こんな時に冗談はなしですよ?」
「と、とにかく、板を外しましょう。幸い板は痛んでいますから、梃子の原理を使えば外せるかと」
「でも、釘抜きはないんですよ?」
「いや、釘ではなく、板を外すんです。確か、傘がありましたね? 板の間に傘を差し込んで、その傘の下に支点代わりになる物を挟み込むんです」
そう言われて秋音ちゃんが走って玄関の方へ行き、傘を持ってきた。
「支点変わり…… 研石があったはず!」
そう言って澪さんは厨房の方へと消える。数秒して戻って来た。手には研石を持っている。恐らく包丁を砥ぐ為の物だろう。
「それじゃ、傘の尖っている方を一番上の貼られている板とその前に貼られている板の間に入れて下さい。そしてその間に砥石を入れて下さい」
そう言われながら僕はゆっくり板の間に傘を差した。砥石を傘の手前まで入れ込み、梃子の原理で板を外していくと、メキメキと板と板が剥がれていく。
一枚、また一枚と剥がしていき、次第に人間の手だけでも何とか剥がせる所までこれた。
それまで本当に大人の指が入る隙間など毛頭なかった間が、いつしか早瀬警部の大きな指が入るまでになっていった。
「しかし、ここはどうして入れないようになっていたんですか?」
如月巡査が秋音ちゃんに聞く。
「それは…… 元々、耶麻神グループのではなく、前に人が住んでいたのを少し旅館に改築しただけだと……」
秋音ちゃんは視線を逸らし、黙ってしまった。恐らく知っているのは行方不明になった父親である耶麻神大聖だけなのだろう。
「最後の一枚ですね。ぬぅぅぐぅぅ!」
メギメギと板が剥がれていく。最後の一枚が抜け、閉じていた閂が抜けたかのように、扉はゆっくりと開いた。
その瞬間だった。
『うぅげぇぇぇぇぇぇっ!!』
全員が吐き気を催し、跪いた。
まるで醗酵し続けた缶詰の中身をそのまま吸い込んだほどだった。
いや、今の今までそんなにおいはしなかった。
これほどまでに強烈なにおいがしていたのなら、どう考えても漏れていたはずだ。
「な、何なんですか? このにおいは? まるで何年もほったらかしにしたような」
「私もこんなにおいは嗅いだ事ないですよ?」
ベテランの早瀬警部でもこの状況は理解出来ない。
それもそうだろう。彼等警察は連絡があって初めて死体を見る。
それが死後何時間であろうと、骨で出てきたとしてもだ。
言い方はあれだが【孤独死】と言うのは見つかるまで決して誰にも気付かれないものだ。
だから殆どが腐蝕してしまい、骨になってしまっているらしい。だから、死臭は死んでから数時間しかしないらしい。
あくまでにおいは体内から発せられる。骨と化した躯からはにおいはしない。
「まさか、二人とも?」
「でも二人がいなくなって三十分しか経っていないんですよ?」
確かに秋音ちゃんが言う通り、人間が殺されて間もないのに、此処まで腐った死臭を漂わせられるだろうか?
部屋は何もなかった。それ以外には本当に何もなかった。
ただあるのは塊が其処にあり、その塊に無数の蝿や小蝿が匂いに誘われる様に集っていた。
部屋に入らなくても、既にその死体は腐り爛れている事が一目でわかった。腐ってしまい、誰が誰の皮膚なのかわからない。
唯一わかるのは二人の顔だけだった。
繭さんは今にも眼球が落ちそうだったが、春那さんだけ両目が亡くなっていた。
「いぃやぁあああああああっ!!」
秋音ちゃんが顔を覆い隠す様に跪いた。
「け、警部?」
如月巡査が早瀬警部を呼ぶのだが、一向に気付かない。
それほどまでに彼女達の骸は強烈過ぎたのだ。
「ひっ…… 人がこんな…… 短時間でこんな風になるなんて事!」
如月巡査が言いたい事はわかる。
彼女達がいなくなって、一時間も経ってない。死後、完全に身体が硬直するまで、数時間は掛かるが、それは硬直であり、溶けるなんて事は先ずない。
彼女達は顔こそ溶け爛れており、衣服は赤く滲んでいた。
勿論それは己の血で染まったものであろうが、それ以前に汚れがなかった。
やっぱり綺麗すぎる。
もし、躯を腐られる方法を考えるとすると、地中に埋めるかして微生物に任せるだろう。もしくは劇薬か何かを掛ける。例えば硫酸なんかを……
しかし、それなら衣服も溶けてしまうはずだ。彼女達の顔は溶け爛れ、骨を晒している。
つまり、そうするほどの量の硫酸を掛けたとしたら、如何せん衣服に掛かるはずだからだ。
しかし、二人の躯にその様な痕跡はなかった。
「……どういう事? 此処って先刻まで入れなかったわよね?」
「それよりもやはり二人とも死に方が異常すぎる」
澪さんと如月巡査が二つの骸から視線を外せないでいる。
「ねぇ? なんで姉さんも、深夏姉さんみたいに目を亡くしているの?」
「確かに! 繭さんは今にも落ちそうですが、目はある! それなのに……」
早瀬警部は口を押さえながらも、二つの骸の前にしゃがみ込み、春那さんの窪んだ部分を翼々と覗いた。
「いや、まさか? そんな事が……」
「どうかしたんですか?」
早瀬警部は秋音ちゃんにそう聞かれ、少し考え込み、スッと立ち上がった。
「秋音さん! 貴女達姉妹が持っている【花鳥風月】の絵は何処に置いているんですか?」
「部屋にあると思いますけど?」
そう秋音ちゃんが言うや否や、早瀬警部は如月巡査を見ながら
「如月君! 至急秋音さん以外の部屋に行って、一枚でも良いですから少女が描かれた絵を捜して来て下さい!!」
そう聞かされ、秋音ちゃんは唖然としている。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 今は絵より! 姉さん達がどうやって、この部屋に入れられたのか! そして、どうしてこんな風に殺されたのかを調べるのが先じゃないんですか?」
「私の想像が外れていてくれれば…… 目は亡くなっていないんですよ? いくら周りを捜しても見つからない訳だ!!」
「どういう事ですか?」
「とにかく、説明は一枚でも絵を探し当ててからです!!」
キッと早瀬警部は如月巡査を一瞥する。その視線に気付き、部屋を出ようとした時だった。
「待って下さい! 私の部屋にある絵では駄目なんですか?」
「いいえ! 秋音さんの持っている絵も持って来てもらいます。……が、他の絵もなければ説明が出来ないんです!!」
「……わかりました」
納得はしていないが、秋音ちゃんは静かに部屋を出た。
「警部! それでは私も探してみます」
そう言って如月巡査も部屋を出た。
「ああ! 如月君! 我々は広間の方に居ますから」
聞こえたのかどうかはわからないが、如月巡査は振り向かなかった。
「さて、我々も部屋を出ますか?」
「死体をこのままにしておくんですか?」
僕がそう言うと、早瀬警部は申し訳ないように僕の横を通り去った。
僕も部屋を出ようとした時、スッと誰かが呼び止める声がし、そちらを振り向いたが、視線の先にあるのは無残に残された二つの死体だけだった。
――鹿威しが鳴った。