エピローグ――金鹿の住みし箱庭
「秋音おねえちゃん! そろそろ行かないと遅刻するよぉ!」
「ちょっと待って、冬歌ぁっ! ああぁもうっ! 髪伸ばさなきゃ良かった」
冬歌ちゃんの元気な声が屋敷内に響き渡り、洗面所で髪を結んでいる秋音ちゃんが愚痴を零す。
ボブカットだった髪型が、今では後ろ髪が胸あたりまでのびている。今まで髪が短かったせいか、髪を結ぶのも一苦労らしい。
相も変わらず、屋敷内は騒がしかった。
あれから半年が経っており、今や季節は冬の終わり、榊山は綺麗な雪化粧を着飾っている。
腕時計を見ると、午前七時になるかならないかといった時間だった。
何も慌てる事はないと思うが、そこは山に住んでいるのと、気がつけば吹雪になる事だってままあるため、出る時間も早い。
「今日髪切りに行こうかな」
そう云いながら、秋音ちゃんは洗面所から出てきた。
そして僕と目が合うや、小さく会釈した。それに釣られて僕も会釈する。
「冬歌? 今日は寄り道しないで帰りなさいよ」
広間から春那さんの声が聞こえ、冬歌ちゃんは其方へと見遣る。
「どうして?」
「今日は大切な用があるから。あ、秋音も部活が終わって、用がなかったら早く帰ってきなさい」
そう云われ、秋音ちゃんと冬歌ちゃんは互いの顔を見合わせた。
「ほら、早くしないと遅刻するでしょ?」
ちゃんちゃんこを肩に被せ、湯気がたっているコーヒーを飲みながら、深夏さんが促す。
「深夏姉さんは大丈夫なの? 学校……」
「今日は大学試験だからね。うちの高校は試験休みってのがあるから」
そんなもんなのだろうか?と僕はそう考えながら洗濯物を干していた。
「それじゃ行ってきます」
秋音ちゃんと冬歌ちゃんがそう云うと「足元気をつけなさいよ!」
「わかってる!」
という会話が聞こえた。
「さてと、ハナとクリスに餌やらないと……」
僕がそう呟くと、聞いていたのか、ハナとクリスが僕の近くに来ていた。
「あはは、地獄耳ってこういうことを云うのかもね?」
深夏さんが笑いながら云う。その隣にいた春那さんも小さく吹き出している。
「まぁ、タロウたちみたいに朝早くじゃないから楽ですけど」
タロウとクルルは今、澪さんと一緒に警察犬の試験に参加している。
どうやら二匹とも合格間違いなしという、優秀な犬として一目を置かれているようだ。
警察犬に選ばれれば、タロウとクルルはこの屋敷にはいなくなってしまう。
それはとても寂しい事ではあるが、一番駄々を捏ねると思っていた冬歌ちゃんが、喜んでいたのが何よりもビックリだった。
ただ、それを聞いた晩、一晩中部屋で泣いていたことは誰もが知っており、それが冬歌ちゃんの小さな成長だったのかもしれない。
自分勝手な理由でタロウとクルルをこの屋敷に留める事は彼らの未来を束縛していることなのだと、知らず知らずに気付いていたのだろう。
秋音ちゃんはつい先日、所属している吹奏楽の大会で銀賞を得った。
全国大会の代表には選ばれなかったが、彼女の実力は折り紙つきで、どこそのレコード会社や、プロのオーケストラ楽団やらにスカウトされていたらしいが、それをやんわりと断ったらしい。
深夏さんは信州大学経済学部への受験で昼夜限りなく勉強をしている。
この前センター試験の過去問をやったらしく、合格ラインを余裕でクリアしていたようだ。
ただ、経済となると、法律やら何やらが変わりやすいらしく、過去問は大して役に立たないらしい。
春那さんは相変わらず耶麻神旅館の社長をしている。
大聖さんや霧絵さんの後押しとも云うべき、信頼があったらしく、彼女を攻める人はあまりいなかったようだ。
これは四年前に起きた転落事故でも、そして今回の事件でも、内容を包み隠さずに発表したからだと僕は思う。
さすがに巴さんや由佳里さんの事に関しては誰にも話すことは出来ないでいる。
「それじゃ、まー……瀬川さん、午後の予定ですが、使用人として新しく来られる方の迎えに行ってきてくれませんか?」
春那さんがそう僕に云う。澪さんや繭さんがいなくなり、使用人は僕一人。さすがに辛いだろうと思っての配慮だろう。
「春那姉さん。別に改まらなくてもいいでしょ?」
春那さんが一度僕をあだ名で呼ぼうとした時、言い直した事を深夏さんが指摘する。
「これから新しい使用人が来るのよ? 今までの呼び方だと、かえって怪しまれるでしょ? 色々と……」
「別に気にしなくてもいいんじゃない?」
深夏さんがクスクスと笑う。
「それじゃ、先ずは部屋の掃除……」
春那さんは僕に色々とお願いを云い、それに僕は従った。
雪景色の中、晴天が広がっている。
そんな中、笛のような音が周りに響きわたっていた。
「うわぁあああああああああああああっ!!」
右腕には麻の防護道具をつけた男が、柵で囲まれた訓練場を逃げ惑っていた。
その男を追いかけるのは一匹のドーベルマン。
「タロウ! 相手は強盗殺人犯! 右手に拳銃を処置しているから……」
その先を云わずもがな、タロウのスピードは徐々に上がっていく。
刹那、タロウの口は大きく裂けるように開き、男の右腕をガブリと噛み付く。
「ぎゃあああああああああああああああああっ!!」
男は余りの痛みでその場にのた打ち回った。必死にタロウを引き離そうとするが、タロウの口は手錠のように、足掻けば足掻くほど力が入っていき、余計に痛さを感じる結果になっていく。
「――そこまで! タイムは一分……」
教官らしき作業員がそう告げると、タロウはすぐに口を放し、澪の下へと歩み寄る。
「おつかれさま」
澪はそういいながら、タロウの首元を優しく撫でる。
それを見た逃げ惑っていた男は唖然とする。さっきまで自分を追いかけていた凶暴な警察犬は、主の前では顔を綻ばせていたからだ。
――次に出てきたクルルは、犯人の臭いがついたハンカチを当てるという訓練だった。
澪はその臭いがついたタオルをクルルに嗅がせると、軽く背中を叩くや、クルルはいくつもの臭いがふちゃくしたものがおかれたテーブルへと駆けていった。
そしてその二、三十秒後には正解のハンカチを口に咥え、澪のもとへと持ってきた。
「お疲れ様です。澪さん」
帽子を深々と被った女性が澪に声をかける。
「お久し振りです。植木警視……視察ですか?」
澪はタロウとクルルに餌を与えながら云う。
「ええ。そろそろ合格発表もあるんじゃないかなと思いましてね。云ってしまえば青田買いです」
青田買いとは、まだ実がなっていない田んぼを買う事から転じて、優秀な人材を早期に得ることを云う。
さすがにタロウとクルルは他の警察管内でも有名になりすぎているので、青田買いとは云い難いが、早々に雇いたいという考えであった。
「まだまだですよ……」
「あれだけ優秀なのにですか?」
「巴さんが一度タロウと遣り合った時、私の育て方は全然甘かったんだなって痛感したんです。確かに訓練ではこの子達を傷つけたくはなかった。でも、それじゃ駄目なんです。警察犬である以上、タロウは犯人を追うことを前提にトレーニングさせています。すべてのシチュエーションにおいて、徹底的に……それがたとえこの子を殺すことであろうとも、犯人は必死に逃げようとする。そんな簡単に捕まったとしても、銃やナイフといった凶器を持っていたとしたら、生半可な訓練じゃいとも簡単に殺される。クルルに至っては優しすぎるんです。この子は絶対に自分からは吠えない。もちろん今まで温暖な場所で育ったからという理由もあるかもしれませんけど――だから出来れば薬物の方に集中して訓練をさせています」
同じ犬種とはいえ、性格も違えば、特技も違う。
それは同じ血を通わせている澪と舞でも同じことだった。
「それでは私はこの辺で……合格期待してます」
そう云いながら舞は小さく会釈し、踵を返した。
訓練所の駐車場に停まっている車の助手席に舞は乗り込みながら、運転席に座っている初老の男性を見やった。
「会わなくてくていいの?」
そう告げると、男性はゆっくりと頷いた。
「会ってどうする? 私が君の父《、》親《、》だとでも云うのか? 彼女がそれを覚えているわけがないだろう? 彼女の母親と離婚したのは、澪がまだ赤ん坊の時だ……」
「赤ん坊ったって、お父さんとお母さんが離婚したのは、あの子が三歳くらいの時でしょ? 覚えてるわよ! 絶対……」
「人の記憶なんぞ当てにならんよ……」
「記憶なんかなくても、通じ合えるものがあった! 私はそう思っていたい」
舞は男性に食って掛かるが、男性はゆっくりと車のエンジンをかけた。
「舞……澪には一応は云ってきたんだろうな?」
「自分で云えばいいのに、一応警視長なんだから……植木直哉警視長」
そう云われ、男性、植木直哉は含み笑いを浮かべた。
「来期が楽しみだ……」
そう植木直哉は呟いた。
その後、タロウとクルルは見事試験を合格し、はれて警察犬として活躍する事となる。
その所属先は偶然にも、舞と植木警視長が所属している警視庁だった。
「よいしょっと……」
重たい荷物を地面に置き、私は一つ息を整えるために深呼吸をした。
「えっと……これからバスに乗って……榊山麓のバス停で降りればいいのかな?」
そう考えながら、私はキョロキョロと道行く人を見渡していた。
理由はバス停が何処にあるのかを訊ねる為だった。
「どうかしたの?」
中学生くらいの女の子に声をかけられ、私はその子を見やる。
髪は長くて腰まであり、肌色はまるで陶器のように白かった。
「えっと、榊山麓に行くバスに乗りたいんだけど、バス停知らないかな?」
そう訊ねると、女の子は指でバス停を示す。
「あ、あれね? ありがとう」
そうお礼を言うと、少女はクスクスと笑う。何か可笑しかったのだろうか?
「ねぇ、あなた……神様って信じる?」
突然そう云われ、私は首を傾げた。何かの宗教の勧誘だろうか?
「榊山は人と神と鬼の境目に聳える山。別名“逆鬼”山と云われているの……」
「なんか怖いものでも出るの?」
私は正直、そういった類のものは苦手だ。
そんな私の様子を見ながら、もう一度、女の子は笑った。
「大丈夫よ。あそこにいるのは気のいい人たちばかりだから……」
「そ、そうなの?」
「本当にいい子ばかりだからね……人もカミサマも……」
女の子がそう云った刹那、突然突風が吹き、目の前が舞い上がる雪で覆われる。
「だ、だいじょ……」
そう叫んだが、目の前にはいたはずの女の子が姿を消していた。
狐にでも騙されたのだろうか……と考えていると、何時の間にかバスは停車しており、ドアが閉まろうとしていた。
「わぁああああああっ!! 乗りますっ! そのバス! 乗りますぅううううううううっ!」
大きな門が目の前にある。
耶麻神旅館の社長が住んでいると聞かされていたとはいえ、想像していた以上に大きな屋敷だった。
生唾をゴクリと飲み、私はインターホンを押した。
途端、屋敷の方から犬の鳴き声が聞こえ、その後にインターホンから声が聞こえた。
「はい。どちらさま……あー、もう! クリスうるさい! 冬歌っ! 部屋に連れてって」
女性の声が聞こえ、一応応対しているが、うしろから犬の声や小さな女の子の声が聞こえてくる。
「えっと、すみません。どちらさまでしょうか?」
もう一度訊ねられ、私は一拍おくと、「あの、今日からこちらで働かせていただくことになった。“神依知恵”ともうします」
「ともえ……そっか……由佳里さんが、どうせまたすぐに逢えるってそう云う事……」
深夏は電話越しに小さく笑う。知恵は少しばかりキョトンとする。
「寒かったでしょ? 早くお入りください。秋音! 門開いて」
インターホンは切れ、代わりに目の前の大きな門がゆっくりと開いていく。
庭に入ると、先に目に入ったのは小さな池と、鹿威しだった。
「あ、先に来てたんですね」
うしろから男性の声が聞こえ、私はそちらへと振り返った。
「君が新しい使用人だね。初めまして、ここで使用人として働かせてもらっている瀬川正樹と云います」
そう云いながら、男性……瀬川さんは手を差し出す。
「あ、ふ、不束者ですがよろしくお願いします」
私は少しばかり口篭もりながら、そう云う。
「駄目ですよ。使用人がそれじゃ、これから何人もの、人に会っていくんですから」
瀬川さんのうしろから女性が顔を覗かせる。
「あ、す、すみません」
私は女性を見ながら、謝る。
それを見ながら女性は小さく笑った。
「駄目ですよ。春那さん……いや社長」
瀬川さんの口から信じられないような言葉を耳にする。
どう見ても、二十年以上経営している旅館の社長とは思えない。
「ようこそ……耶麻神邸へ」
そう春那さんが告げると、私は知らず知らずのうち、自然に会釈していた。
「そうだ、神依さん。この山にくる途中、女の子に会いませんでした?」
そう訊かれ、少しばかり思い出す。
「あっ! 長野駅でバス停がわからなくって、それを中学生くらいの女の子に訊ねたんです。そしたら――」
「神様は信じるか……」
と、春那さんが口にする。
「そうっ! それ! って、どうして知ってるんですか?」
私がキョトンとした顔でそう訊ねると、「だって……ねぇ?」
春那さんは瀬川さんを見ながら、クスクスと笑う。
「まぁ、彼女からしてみたら、神様なんていようがいまいが関係ないだろうね」
瀬川さんがそう云うと、私の持っていたバックを持ち、屋敷の方へと入っていった。
「神依さんの部屋は瀬川さんの隣になってます。困ったことがあれば、気軽に彼に尋ねてください」
そう云うと春那さんも屋敷の方へと入っていく。
「あ、あの……社長」
「春那“さん”でいいですよ。堅苦しいのは父譲りに嫌いですから」
“さん”のところが妙に強調されていた気がするが――
「あの、春那さんと瀬川さんって、一体どういう関係なんですか?」
「どういう意味?」
私の質問に、春那さんは首を傾げる。
「な、なんでかわかりませんけど、なんか……主と使用人という関係じゃない気がして」
「――そう見える?」
そう聞き返され、私は頷いた。
「瀬川さんとは本当の意味で腐れ縁だからね……」
そう云うと、春那さんはそそくさと屋敷へと入っていった。
夜になり、大きな広間には余りある人数しかいない。
私の目の前に座っている女の子は“冬歌”というらしく、髪はウェーブがかかっている。
私が訪ねてきた時に怒られていたらしいが、そんなものは微塵も感じない。今も堂々と子犬と遊んでいる。
その隣りには髪がおかっぱのようになっている中学生くらいの女の子。
そう云えば、彼女は以前テレビに出てたっけ? あまりテレビを見ないから記憶が曖昧だ。
私の隣には瀬川さん。その隣に大学生くらいの女性が座っている。
その前には老婆が座っており、私を見ながら笑顔を絶やさない。
そして上座には春那さん。
「えっと、は、初めまして…… 神依知恵と云います」
そう云うと、みんなが一斉に拍手をする。
一瞬、視界の端に黒い何かが横切るや、「ひゃっ?」
私は小さな悲鳴をあげ、そちらへと振り向くと、ドーベルマンが私をジッと見つめていた。
「ハナっ! 神依さんおどろいてるでしょ?」
冬歌ちゃんがそう云うと、犬は素直に私から離れていく。
それにしても顔に似合わず、何とも可愛らしい名前がつけられている。
「神依さん。どうしてこの屋敷で働こうと思ったんですか?」
春那さんにそう訊ねられ、私はこう答えた。
「お母さんが耶麻神旅館の人たちは優しいって、人見知りするお前にはいいんじゃないかと勧められたんです」
「そうですか……うちもまだまだ捨てたものじゃないわね。春那ちゃん」
老婆がそう告げる。よく見てみると母親や父親らしき姿がない。
――後で知った事だが、半年前に起きた事件で両親は他界したらしい。
「それじゃ……神依さん。あなたをこの屋敷の新しい使用人として、そして耶麻神旅館の新しい社員として、お迎えいたします」
そう云いながら、春那さんは私に深々と頭を下げた。
「こ、こちらこそ…… よ、よろしくお願いします」
声が裏返りながら、私はそう云った。
食事中は本当に楽しく、まるでわたしを家族のように振舞ってくれた。
その日の晩。私は部屋で眠りにつこうとしていたが、新しい環境ですぐに眠れるわけもなく、何度か寝返りを打っていた。
すると小さな子供“たち”が遊んでいるような声が廊下から聞こえてきた。腕時計を見ると夜の十時くらいだ。
こんな時間に?と考える以前に、小さい子供は冬歌ちゃんだけで、複数はいなかった。
私は確かめるように廊下を覗くと、それに気付いたのか、髪の長い女の子が私に手招きをする。
そして、廊下を挟んだ部屋の扉にスッと消えるように入っていった。
私は恐る恐る彼女のあとを追うように、その部屋へと入った。
その途端、部屋の明かりが点けられ、部屋の壁一面には、子供が描いた落書きのようなものが貼り巡らされていた。
それは本当に心安らぐもので、その人の事を思って描いた。そう思ってならない。
ふとうしろに気配を感じ、そちらに振り返ると、瀬川さんが立っていた。
「せ、瀬川さん?」
「神依さん? どうして……」
言いかけた時、瀬川さんは一人納得したのか、クスクスと笑った。
「あ、あの、この屋敷って……」
「呪われてるんじゃないかって訊きたいんでしょ?」
まるで見透かされたようにそう云われ、私は答えるように頷いた。
「この部屋の壁に貼ってある絵は、この屋敷に住んでいた子供たちが描いた大切な人の似顔絵なんだ……」
「子供たち……」
「この屋敷は昔孤児院でね。ある時悲しい事件が起きた。そして、それが原因で……」
瀬川さんは口を濁らせると、「この屋敷には、確かに不思議な事が起きる。でも、それはただの悪戯好きなカミサマが見せている幻だから気にしなくていいよ。むしろ僕たちが楽しまないと、彼女は満足してくれない」
その言葉通り、その後もいくつか、物が無くなったり、誰かが私の背中を軽く押したりと、奇妙な出来事は起きていたが、決して人が、心から傷付くようなものはなかった……
「や、やっていけますかね?」
「それは君が決める事だ。でも、誰かに喜んでもらえることは自分自身にも自信がつくし、何より遣り甲斐がある」
そう云うや、瀬川さんは部屋を出て行った。
「誰かに喜んでもらえること……」
私は部屋に飾られた落書きを見ながら思った。
部屋の落書きは誰かの似顔絵を描いたものだろう。それは本当に大好きだという気持ちが溢れてきている。
誰かに喜んでもらえること。それは客商売でもっとも重要なことだ。
「じゃあね……またあそぼ」
部屋を出ようとした刹那、小さな女の子がそう告げた。
私は振り向かず、部屋の扉を閉めた。
私は自分のネックレスにつけた誕生石の“翠玉”を手にとり、窓から覗く満月に翳した。
そう云えば、これをくれた人が私とお母さんに耶麻神旅館の事を教えてくれたんだっけ……
“この石に込められた言葉は“新しい始まり”。君にとっても、彼らにとっても”
そうなることを祈りながら、私は自分の部屋へと戻った。
今度は寝返りを打つ事無く、すぐに眠りについた。
この山には不思議な事が起きる。
それは神様が徒に見せる悪夢か……
それとも悪戯好きのカミサマが見せる楽しい夢か……
この山には決して悪鬼は入ってこない。
入ってきても、心を綻ばせるのだから――――
悪い鬼は決して入ることは出来ない。
それは庭にある鹿威しが追っ払ってくれるから……
鹿威しが鳴り響く。綺麗な音を立てながら……
~ 金鹿の住みし箱庭 ―了― ~
お疲れ様でした。