陸拾伍【8月12日・午後7時52分】
滝の音が狂ったように私の耳元で騒がしく響く。
その音で目を覚ました私は、ゆっくりと起き上がった。
ふと空を見上げると、生い茂った木々の間から十三夜の月が覗き込むように昇っている。
その月明かりに照らされ、今自分がいる場所が精霊の滝だということがわかった。
起き上がろうとすると、足元に違和感を感じ、見てみると、「な、何で?」
それを見て私は絶句した。
爪が剥がされており、さらには足が切り刻まれていた。
恐らく気を失っている時にやったのだろう。
私が痛みで歩けないようにするために……
私はうつ伏せに寝転がると、踵をお尻に付け、池の方へとゆっくり進んだ。
池に辿り着くと、ゆっくりと足を水につけるや、――声にすらならない悲鳴が全身を駆け巡った。
気を失っていない状態でやられてたら、ショック死してただろうな……
「ハナッ! ちょっと待って!」
茂みの方から聞こえ、そちらを見ると、「冬歌? それにハナも……」
「あれ? 深夏お姉ちゃん……こんなところでなにしてんの?」
いや、それは私の方も聞きたい。
冬歌は生まれた子犬を抱えており、ハナは何か警戒しているような様子だった。
話を聞くと、冬歌とハナ、子犬はここから少し下った場所で目を覚ましたらしく、私のにおいを追っていたハナについていきたという。
「あんた、ハナに感謝しときなさいよ」
そう云うと、冬歌はキョトンとしたような顔で首を傾げた。
まぁ本人は気にしてないし、再会できたからいいけど……
問題はこれからどうするか――――
足を池の水から上げると、来ていたTシャツを脱ぎ、「冬歌、そこらへんに木の枝か何かない?」
そうお願いすると、冬歌は抱えていた子犬を地面に置くと、茂みの方を探し始めた。
ハナは出来る限り冬歌のそばを離れようとはせず、子犬もジッとその場を動かない。
「こんなのでいいの?」
冬歌が持ってきたのは直径二ミリの木の枝だった。
「うん、ありがと。ちょっとシャツに腕を入れてて……」
云われた通り、冬歌はシャツの中に両腕を入れる。
「で、それを軽く広げる」
そう云いながら、私は木の枝を思いっ切り折り曲げた。
曲げられた枝の先に尖りが出来、それを引っ張られたシャツに突き刺した。
「よし、ありがとう。これで“包帯の代わり”にはなるでしょ?」
冬歌の両腕からシャツを外すと、突き刺さったところからシャツを裂いていく。後は力任せに引っ張れば、細長い包帯代わりにはなる。
……ブラジャーが見えてる事にはこの際無視しようと、両足に包帯を巻きながら思った。今はそれどころじゃないから。
「冬歌? あんたどうして屋敷の中から連れて行かれたのに、靴履いてんのよ?」
そう訊ねると、当の本人もどうして履いてるのかといった感じだった。
犯人が態と履かせたのだろうか? それにしてもご親切なことで……
「さてと、行こうか? 屋敷に戻れれば靴はあるだろうし……」
私がそう云うと、突然ハナが唸り声をあげた。
「どうしたの? ハナ……」
そう云いながら冬歌がハナに近付いた時だった。
突然ハナが冬歌に襲い掛かり、その刹那、銃声が響いた。
「――えっ?」
銃声が聞こえた方向を見るや、作業着を着た人たちが数人茂みの中にいる事がわかった。
あれ? 誰かが何か云ってたような……
「目標射殺失敗。これより作戦Sに移る」
「了か…… っ! うわぁっ!」
やつらが云うよりも先にハナが飛び出しており、襲い掛かっていた。
突然甲高い音が耳元で聞こえた。――この音って……
『犬笛?』
そう感じたが、それだけじゃハナが云う事を聞くとは考えられない。
何度もその音を聞いていなければ、云うことなんて――――
「くっ! ざけんなぁ!」
そう云うや、男は銃口をハナに向け、二、三発射撃する。
しかし、ハナは間一髪に避け、怯むような様子は感じなかった。
もう一度犬笛が聞こえた。その合図に指示されるように、ハナは銃を持った男だけに襲い掛かっていた。
「くそっ! おい! 犬笛はどこから聞こえてる?」
「それが! どこにも不振な影は見当たりません」
犬笛が聞こえる範囲は少なくても二キロ以上と言われているから、此処からはわかる訳がない。
恐らく何処かから見てるという事になる。
「やつら、めんたま飛び出てるでしょうね」
一人の男が狂気をあげる。
「おいおい。まだ油断できないだろ?」
そんな二人の会話を聞きながら、彼女はジッと望遠鏡を覗き込んでいた。そのクチビルに使い古された犬笛を咥えながら……
「それにしても暗視用望遠鏡があるとはね」
彼らの会話を聞くや、彼女はふと感じた事がある。
それは彼らが少女の遺体を捜すことだけに呼ばれただけで、屋敷の人間を殺しに呼ばれた訳ではないことだった。
つまり後者の場合であれば、暗視用望遠鏡のことを知っていた筈だからだ。
「それで……澪さん、これからどうしますか?」
「そんなの助けるに決まってるだろ?」
「馬鹿か? 少なくても此処から五百メートル離れたところにいるんだぞ? それに其処まで行くのにどれだけかかると思ってるんだ? ここらじゃ有名な迷い森なんだからなぁ」
そう“精霊の瀧”はまるで来るものを拒んだように入り組んでいている。
だからこそ、澪は考えたくなかった。
どうして深夏と冬歌を襲おうとしている人間を、精霊の瀧が招き入れたのか……
「いくらハナが優秀だといっても、出産してからそんなに経ってないんですよね? そんな状態で……」
男がそう告げる。それは澪にとっても同じ考えだった。
出産後の生き物というものは気が立っている。
その状態のままここにいるのだから、余程のことだろう。
『それでも……それでもハナは……』
自分よりも冬歌や自分の子供を守る方を選ぶだろうと澪は感じていた。
それは奇しくもハナの母犬“セツ”が自らの死を以てハナを出産した時と同じように……
「っく?」
突然倒れるような音が聞こえる。
「へぇ? こんなところから指示をしてるなんてね?」
女の声が聞こえると、澪はそちらに振り向いた。
「確かにあんたの笛だったら云う事を聞くだろうけど?」
そう云うや、女はインカムを取り出すと、「精霊の瀧にいる子藩に告ぐ! これより作戦Sを実行。どうせ“道具”なんだから……失敗したら殺しても構わないわよ!」
そう云うや、何処からともなく遠吠えが聞こえた。
「ほら? 其処にある望遠鏡で覗いて御覧なさいなぁ?」
そう云うや女は澪に無理矢理望遠鏡を覗かせた。
其処に映っていたのは、タロウとクルルの影だった。
「ど、どうして? どうして……」
澪は狼狽するように叫んだ。
「くくくっ? ちょっとねぇ? あの二匹の頭の中を弄っただけ」
「そ、そんな事が! そんな事が出来るわけないでしょ?」
「出来るわよ? ためしにあんたと同じ使用人の巴っていう馬鹿娘を殺したんだからねぇ」
「う、うそ……」
「ほんとよ、ほんと……躊躇なしに殺したからね?」
「ほ、本当に殺したのかを……」
確認しなかったのか?と訊こうとしたが、澪は口には出さなかった。
確かにタロウとクルルが相手なら自分でも太刀打ち出来ないし、先日巴が訓練した時だって、タロウは本気を出していない。
だが、それでも信じられなかった。
「さぁ! ショーの始まりよ! あんたが手間隙かけて育てた犬畜生が大切な家族を食い殺す! なんて素敵なショーでしょ? なんて皮肉な物語でしょ?」
女は狂ったように両手を広げ、まるでオペラのように叫んだ。
「み、澪さん……」
「あ、そうそう……ご苦労様……もういいわよ?」
そう云うや女は銃を倒れていた男に向け、打ち込んだ。
「そ、そこまでしなくても!」
「いいえ? あなたも殺してやりたいけどね? でもショーって言うのは観客がいないと始まらない……あなたは大切な観客だから、殺さないであげる」
それはショーが終われば否応なしに殺されるという事だった。
「えっと? 何で?」
目の前にいるのは……紛れもなくタロウとクルルだった。
近くにいた冬歌は躊躇なく二匹に近付くが、それをハナが遮っている。
「タロウ! クルル! なにやってんの!」
そう叫ぶが、まるで聞く耳持たずといった感じだった。
二匹は一歩、また一歩と冬歌に近付いていく。
そして、一歩先に出ていたタロウが、遮っていたハナに目掛けて襲い掛かった。
大きな悲鳴が聞こえると、ハナは仰け反り、冬歌から離れた。
その隙を見て、クルルは冬歌の足を咥えた。
「いぃたぁいっ!」
冬歌が大声を挙げ泣き喚いたが、クルルは口を放そうとはしなかった。
「クルル! なにやってんのよ! 早く口を放しなさい!」
そういうが、クルルはいう事を聞かない。
さっきまで聞こえていた犬笛も聞こえなくなっているし、ハナはタロウと対峙している。
どうにかして二人を助けたくても……
「動くなよ? 嬢ちゃん……」
頭に銃を向けられては身動きが取れない。
「それにしても馬鹿犬だなぁ? あの二匹は俺たちと一緒にいたって言うのに吼えもしやしなかった」
この男の云う通り、ハナはタロウとクルルに対して吼えはしなかった。
それは今に至ってもそうだった。
澪さんの指示を待ってるんだろうか……
「おい! そろそろとどめを刺せ!」
そう男が言うや、タロウはハナに目掛けて飛び掛かった。
――――その時だった。
「キャン!」
タロウの口から出たとは到底思えない悲鳴が聞こえ、全員がそちらを見た。
「冬歌っ! 目を瞑ってなさい!」
その声が聞こえるや否や、今度はクルルが冬歌の足から口を外した。いや、外したんじゃない強制的に外された……
「なっ、なんだと?」
それは月明かりに二つの影が見えていた。
「へぇ? ヘタレかと思ったけど、やる時はやるわよね?」
「力の加減がわかったあなたほどじゃないですよ……」
「まーちゃん? それに巴さん?」
「そ、そんなはずがない! 其処にいる女はあの二匹が殺したはずだ!」
狼狽するように一人の男性が叫んだ。
「殺したって? それ本当に……」
私は何が何なのかわからないでいた。
「正樹! あんたは冬歌と深夏の安全を確保!」
そういわれるや、まーちゃんは冬歌を抱えると、クルルから遠ざけように私の方へと走ってくる。
「まって! まーちゃん!」
「調子に乗るなぁよぉ! 若造がぁああああああああああああっ!」
私が呼び止めようとした寸前、銃を向けていた男が銃口をまーちゃんに向ける。
そして銃声が響きわたったが、「な、何だ……? これは」
あたり一面に霧のようなものがおき、まーちゃんの影が見えなくなった。
「うおおおおおおおおおおおおっ!」
ドンッという大きくぶつかった音が聞こえると、水に何かが落ちた音が聞こえた。
「がぁはぁ、げぇほぉっ! ごほぉっ!」
霧は直ぐに晴れ、池には男が溺れかけていた。
「たぁ、助けてくれぇ……」
「無駄だよ……あなたが落ちたのは池の真ん中だ。とても助けられやしない」
確かに此処から腕を伸ばそうにも届かない距離だった。
「ちょっと! あなたたちは助けようとすらしないわけ?」
そう私が云うと、茂みの方にいた何人かが此方へと駆け寄っていく。
「おい! だれか縄持ってないか?」
「は、早くぅっ! はやくたすけぇごぼぉ」
「おい、しっかりしろ!」
近くで騒ぎ立てるように男たちは池に落ちた男を助け出した。
それをジッとまーちゃんは黙ったまま見ていた。
私は痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がると、有無を云わせず、まーちゃんの頬を叩いていた。
「若し、溺れ死んでいたらどうするの?」
「……こうでもしないと、君たちの気分は晴れないだろ?」
「晴れない? 人が目の前で死なれるほうがよっぽど気分が悪いでしょ? 確かに……この人たちが屋敷に何をしたのか! どんな酷いことをしたのか! それがたとえ殺すほどの事だったとしても! それを法の下で裁くって云う選択肢がまーちゃんの頭の中にはなかったの?」
私だって、目の前にいる人間を一人でも殺したいと思った。でも……
「覚えてる? 四年前、工事現場でまーちゃんが落ちてきた鉄骨で下敷きになった時の事……」
「うん。薄らとだけど覚えてる……」
いやだ…… もうこの話は終わってるんだ…… もう蒸し返さなくてもいい……
「あの時、縄が古くなってて解け千切れていたのが原因だったの……」
私の声は振るえていた。
「それ…… 私と姉さん、最初から知ってたの」
「え?」
「あの時、転落事故があった後、警察から電話があって、大河内さんの一人息子が会社に脅迫をしたっていう連絡が入ったの。もちろん私も姉さんも最初から信じてなかった。ううん! たとえ本当だったとしても信じる事が出来なかった」
そうだ……私たち姉妹が警察を嫌っていた本当の理由……
早瀬警部や舞さんは警察だけど、私たち家族とは付き合いが長いし、大和先生にだってお世話になっている。
だからこそ、警察そのものを信用できない理由にはならない。
でもね……嫌いになる理由なんて、ちっぽけなものなのよ……
「だって、それを教えたのが……長野県警本部長だったんだから」
そう云うや、私は気を失い、まーちゃんに抱えられた。
気を失っている間、多分実際はそんなに気を失ってはいなかったけど、ある映像が頭の中で流れた。
あの時、電話を掛けてきた男は、確かに“長野県警本部長”と名乗っていた。
だけど、私や姉さんがまーちゃんとの親交があった事を知ってるのは、早瀬警部と舞さんだけで、二人が態々自分の知り合いの友人関係を教えるとは思えない。
だから、この場合は誰かがまーちゃんに対して嘘の報告をした事になる。
今から四年前だから、まーちゃんは今の私と同じくらいになる。
しないとは云えないけど、人を騙したりすることは出来る。
でも、私たちは工事現場に行く直前までまーちゃんのことを信じていた。
そして、まーちゃんが見えた時、偶然にも電話の内容が聞こえた。
「春那ってのも馬鹿だよなぁ……まだ信じてたのかよ?」
それが殺意を招く理由には……なるよね?
『でも…… ほんとうはこういってたんじゃないかな?』
ふと小さな声が聞こえた。
『“はる”の“な”なくさってのも、すこし“ばか”えいようにいいからっていっても―― だよなぁ……まだぼくはそっちもしんじてたし、あまいのかよ――』
声は小さく笑いながらそう告げた。
“ばか”というのはこっちの言葉で“ばかり”を縮めたものだ。
姉さんの名前だって、春の七草と聞き間違えてたんだ……
その時の私たちはそんなことすら気付かないほどに気が動転していた。
もちろんその事は、あの事があってから直ぐに電話をしていた人から教えてもらい、私たちは激しく後悔した……
まーちゃんの目を奪ったのは私。
早瀬警部と舞さんが裏で隠蔽してくれていた事も知っている。
『工事現場の事故は、古い縄を使用していた工事現場管理に問題がある』
という事にして――だからこその罪滅ぼしだった。
まーちゃんは多分、お母さんのお姉さん……
つまり姉さんの本当の母親から角膜を移植してもらったと聞かされているだろうけど、本当は……
私たち二人がそれぞれの目の角膜をひとつずつ提供した。
だから今は私と姉さんは独眼だ。
だけど、こうなったことに対しての後悔はしていない。
それは勘違いでまーちゃんを殺そうとした、愚かな私たちに出来る、せめてもの罪滅ぼしだったから……