陸拾肆【8月12日・午後7時42分】
意識を朦朧とさせながら、私は起き上がると、頭に痛みを感じた。
「んっ……」
頭を強く打ったのか、それとも催眠ガスか何かで眠らされていたのか、いずれにしろ気を失っていた事には変わりなかった。
――頭がズキズキする……
「春那姉さん?」
私を呼び掛ける声がし、そちらに振り返ると、
「――秋音?」
そこにいたのは鹿波さんと一緒にいなくなっていた秋音だった。
「い、今までどこに…… っ!」
問い質そうとした時、頭に激痛が走った。
余りに痛く、私はその場に跪いた。
「ね、姉さんっ!」
秋音がビックリした声を挙げる。
私は頭を押さえると、その違和感にギョッとした。
ヌルリと生暖かい感触がし、その瞬間、片方の目に遺物が入り込む。
(まさか…… 血?)
いや、そう考えるしかない。
そうじゃなかったら何? さっきから頭に激痛が走っているのも、催眠ガスではなく、頭を強打されて気を失っていたとしたら、そう考えるのが手っ取り早い。
「姉さん、大丈夫?」
「んっ? 大丈夫……」
本当は大丈夫ではないのだけれど、心配させたくない。
――いや、もう心配させている時点で無理なんだろうけど。
まわりを見渡すと、薄らと月明かりが見える。
どうやら窓のある外側の部屋らしい。
ただ、母さんやまーちゃんの部屋に窓があっても、基本的には他の部屋と代わり映えしない。
唯一目印になっていた机や箪笥が無くなっている。
秋音に訊くと、押し入れの中も全部無くなっているらしく、襖はすぐにわかったが、開ける事すら出来ないでいた。
私はジッと窓を睨みつける。――お父さんだったら、どうしてたかな?
そしてその考えがまとまるや、スッと立ち上がり、ふらふらとした足取りで窓の前に立った。
「ね、姉さん?」
秋音もどうしたのかと不思議そうな顔だった。
そんな秋音を一瞥すると、私は窓の鍵が雁字搦めに結び付けられている事に気付くが、それはすでに想定内のことで、私たちを殺そうとしている人間が、そんな簡単に逃がそうとは考えてないだろうし、私だって考えていない。
だったら、お父さんだったらこんな状況をどうするかな? やっぱりお父さんだったら、こうするよね?
私は意を決して、窓ガラスの縁が重なり合った真ん中を思いっきり殴った。
その瞬間、部屋中にはガラスが響き渡る音が聞こえるが、案の定、窓ガラスはピクリともしない。
だけど、ここが孤児院だったことも、あの地獄のような場所にいた子供たちが誰一人ここから出られなかった理由のひとつに、“かんごく”という言葉がお父さんの書記の中にあった。
つまりはそのままの意味で“監獄”。
誰も窓から逃げ出す事は出来なかった。窓が少ししか開かないようになっていたのは、隙間から子供が逃げ出すことなんて不可能だったから。そして、音を立てれば大人が起きてくる。
そう考え、わざと歪ませて造られたのだろう。
だけど、それはもう三十年前の話。
何度も! 何度も! 私は窓を殴った。
秋音は襖を確認するが、閉められているし、押しても外れる事はない。
あれ? 何度も窓を殴りながら、その違和感に駆られ、私は行動を止めた。
前にも同じ事があった気が……確かその時も襖が開かなくて、窓はなかったし、唯一あったのは箪笥だけ。
その時、一緒に誰かがいて……
殴ることに夢中になっていた所為か、余り気にならなった頭の傷が異常なほど痛み出す。
そして、殴っていた手からも血が垂れ落ちていく。
唐突に痛みが走ったことで、頭の中が意外にもスッキリしてくる。
逃げることも出来ない? 逃げることが出来ない?
出来ないんじゃない……しようとしなかった……
だから…… 悪夢が続くんじゃないの?
お父さんはその過去を断ち切って、新しい人生。私たちとの幸せを選んだ。
もしかしたら、渡辺さんも殺された少女の遺体がどこにあるのかもわかってる。
もし、今までの悪夢がその呪縛から逃れられない人間が仕向けた事だったとしたら……
――誰がそれを望んでるの?
本当にその少女を見つけ出したいだけ?
見つけ出して、キチンと埋葬するって云うの?
そしてこの屋敷を取り戻したその後はどうするっていうの?
三十年前の事件では、お父さんたちを助けていた女職員という人しか罪を被っていない。
それに虐待されていた子供たちには正当防衛がつく可能性だってあった。だからこそ、もう誰も罪を被る事はない。
それに、この屋敷で悪戯している幽霊がその少女だったとしたら……
そんなことしてほしくないって云うんだろうなぁ……
「ふふふっ」
不意にそう考えると、可笑しくなったのか含み笑いを浮かべた。
「は、春那姉さん?」
秋音が不思議そうに私を見やる。
(ああ……そうだ……小さい時、まーちゃんや深夏と一緒に屋敷の中で遊んでいて……)
私は思い出しながら、部屋の押し入れを開けた。
押し入れは二段に別れていて、その上に乗る。
(私たちを心配して探しているお父さんや、大河内さんを驚かそうと思って……)
そして何かを探すように天井を押した。
「あった……」
それはもう……小さな洞穴だった。釘が外れているため、板が二、三枚取れるようになっている。
電気工事をするため、わざと板が外れるようになっている。
でも、それはまーちゃんが大河内さんと遊びに来ていた時、つまり四年前まではそれはずっと“此処に隠されていた”……
もしかすると、悪戯好きのカミサマがここに置き“なおした”のだろう。
私はそれを手に持つと、押し入れから降りた。
「姉さん? どうしてそんなところに“釘抜き”があること知ってるの?」
秋音が訊きたいのもわかるし、私だってどうして知ってるんだろうと自分に訊きたい。
でもこの釘抜きは三人の宝物を隠すために、わざと板の釘を抜いた時に使った。
あの時、お父さんや渡辺さんがこの釘抜きを探していて、結局見つからなかったから、新しいのを買ったのを覚えている。
でも本当は天井裏に隠していただけだった。
釘抜きは別に釘を抜く為だけにあるんじゃない。
私は襖目掛けて釘抜きを振り下ろした。
案の定、板だった事が幸いする。
何度も抜いては刺し、抜いては刺してを繰り返していく。
窓を割っても外で殺されるかもしれない。でも屋敷内だったら、まだ逃げれる場所があるかもしれない。
襖の障子はボロボロになり、中板が顔を覗かせる。
あと少し、あと少し…… そう考えると、クラッと眩暈がした。
――うしろから誰かが私を支える。
「……秋音?」
「変わって、今度は私がするから……」
そう云うと、秋音は私の手から釘抜きを取ると、それを振り下ろし、さっきと同じ事を繰り返す。
それを見ると、秋音もお父さんに感化されてるんだろうなぁと感じた。
もし今まで悪夢が繰り返されていたのは、どこかで諦めようとしていたから……
だけど、この世界では“誰一人諦めていない”。
諦めていないからこそ、まだ誰も“殺されていない”。お父さんや渡辺さんが“最初から死ぬ事は確定されていた”としたら、まだ誰も殺されていない事になる。それは諦めていないから……
だからこそ、まだ舞台の幕は下ろしちゃいけない! 私はゆっくりと立ち上がり、秋音の手を取った。
「あと少しだから、一緒にね?」
そう云うと、秋音は頷き、そして大きく振りかざした。
――バキッ……板が割れる音が聞こえた。
『もう一回!』
私と秋音は出来る限りの力で振り下ろした――
少しの間が起きた。出来る事なら誰にも感付かれたくない気分だった……
「はははっ……」
一気に力が抜けたように私は秋音を見ながら笑う。
「ははっ……」
秋音も一緒のようで、少しばかり額に汗を垂らしながらも、疲れた表情で笑う。
「やっぱり、私たちって血は繋がってなくても、お父さんの子供なんだね」
秋音は私が思ったことを口にした。
もしかしたら、秋音もお父さんだったらどうするんだろうと考えたんだろう。
閉じ込められたとしたら? それが決して開けることの出来ない牢獄じゃなかったら?
探せばそれを抜け出せる道具があったとしたら?
それが若し、役に立たないようなものだったら?
でも、人間は臨機応変が出来る。もしお父さんだったらこう云ってただろうなぁ
『扉を押しても駄目なら引いてみろ! 引いてもだめなら横にずらしたり、色々試せ! それでも駄目なら…… 壊してしまえ!』
手元に壊せるものがあったら、襖は決して鉄ではない。
それがわかっているからこそ、多分あの悪戯な少女はあそこに釘抜きを戻していたのかもしれない。
「さっ…… 出ましょ」
「あ、姉さん? 頭の傷……」
秋音がそう云うと、私に肩をかした。
「無理しないでよ……ただでさえ風邪ひいてるんだから」
「ありがと……」
そう云って、私と秋音は部屋を出るや、周りを見渡した。
その時、うしろに誰かがいる気配がし、私と秋音は振り向いたが、すでにその影はなかった。
でも、それが誰なのかはすぐにわかった。
『ありがとう……悪戯好きの幽霊さん』
本当にそう思い、私たちは二度と振り向く事はなかった。
ただ、うしろで少女が大きく笑っているような気がした。