陸拾弐【8月12日・午後7時24分】
冷たい空気が頬を掠める。あたりを見渡すと、暗闇に満ちていて、何も見えない。
体を動かすと、縄で縛られているわけでもなく、だからといって、押入れや物置といった狭苦しい場所に閉じ込められている訳でもなかった。
腕をすこしだけ伸ばし、床と思われる場所を摩ってみると、チクリとした痛みが全身にはしった。
何かガラスのようなものに触れた感じだ。
壁を触ると木の様な感触がする。
という事はここは屋敷の中だろうか……壁伝いに歩いていくと、足元に痛みが走る。どうやらガラスがそこらに散らばっているようだ。
歩き始めてから三、四歩で壁にぶつかる。もう一度壁伝いに歩くと、今度は三、四歩で壁に当たった。
もう一度戻って逆に行くと、四、五歩で壁にぶつかった。
広くもなければ狭くもない場所……何処かの部屋なのか? そう考えながら、何とか襖がある場所を探しあてた。
歩くたびに散らばったガラスの破片が足を傷つけていく。
多分、見なくても僕の足の裏は血で真っ赤に染まっているだろうな。
何とか襖の引手を探し出したが、うんともすんとも襖は動かない。
閉じ込められたのかといいたかったが、今度は襖を蹴り飛ばそうとしたが――
「いっつ……」
何か壁を蹴ったような感じだった。襖の先は廊下で、壁なんてのは対向にあるから、廊下の上で倒れるのが道理だ。
だけど、僕の体は畳の上で、さらに云えば散らばったガラスの上に叩きつけられている。
そのせいで、背中や腕が破片で傷ついていく。
ゆっくりと体を起こすが、不意にてのひらがガラスの破片を押さえた。
全身に痛みが走る。さっき、あれだけ壁伝いに歩いていたのに……
狭くもなければ広くもない。四畳一間とはそういう間取りだ。
僕の部屋や春那さんたちが使っている部屋には押し入れがあったが、ここにはない。
もしあったとしたら、少なくとも襖が三つあるはずだ。
昔、父さんに叱咤を食らって、押し入れの中に閉じ込められた事がある。
まだ幼かったこともあり、音のない暗闇の中、恐怖だけが心を締め付けていた。
それが原因なのかどうかはわからないけど、関所恐怖症になりかけた事もあった。
壁が迫り来るような錯覚に陥る。
一応歩幅で部屋の面積が把握出来てはいるけど、それでも自分が今何処に立っているのかわからない。
さっき蹴り上げた際に転んでしまった所為だろう。もう一度壁伝いに部屋を探る。
また足に痛みが走るが、慣れてきたのか、もう痛みで麻痺してしまったのか…… 何とも思わなくなってきていた。
目も暗闇に慣れてきていて、気配で壁の位置がわかるようになってきている。
それでも、やはり出口の場所がわかるわけではなかった。
襖の引手はさっきの場所にあったひとつだけだった。
という事は屋敷なら、廊下を挟んだ部屋のひとつという事になる。
ふと違和感を感じた。もし、僕をここに閉じ込めた人間が、犯人の一人だとしたら、どうして“殺そうとしなかった”のだろうか?
「んっ?」
何か異常な空気が漂いはじめた。
身を構えるが、何か襲ってくるような感じがしない。
それどころか何か話しかけてきそうな……誰もいないはずだ。
誰もいないはずなのに、誰かいる気配がする。
「だ、誰かいるのか?」
僕は暗闇の中で叫ぶ。――――何も反応しない。
だけど誰かがそこにいるという気配はする。
こんな事をしている場合ではないのだけれど、出口はあのひとつだけっぽいし、何かで塞がれているせいで、出る事もままならない。八方塞とはこのことを云うのだろう。
もう一度大声で呼びかけてみる。結果は一緒だった。むしろ…… 何か怯えているような感じもしてきた。
今度はやさしく呼びかける。気配は何かを探すような感じがしてきた。そこには誰もいないはずなのに、誰かがいる……
すると明かりがついたように、仄かな光が部屋の中を照らし始めた。
「っ?」
明るくなった部屋を見渡し、絶句する。
壁にはいくつもの手垢がついていて、その全てがドス黒く変色している。
それだけだったら何ともないのだけれど、それが壁一面にビッシリとつけられていた。
子供のころ、手形を取るのが面白くって、悪戯で壁につけたことはあったけど、そのほとんどが水性絵の具で、すぐに落ちるものしか使っていなかった。
けど、この壁につけられた手形は、どう見ても、血で染まった手でつけられたとしか考えられなかった。それが変色したのだろうか……
そう考えに徹したかったが、床の畳を見て、その考えが変わった。
畳の藁はまるで爪で引っ掻いたような痕がいくつもあり、さらには畳にもドス黒い手垢がついている。
異常なまでの空気がさらに悪化していき、僕は耐え切れずその場で吐いた。
何なんだ、この臭いは? 何かが混ざり合っているのか、色々な臭いがしている。
そのどれもが異常で、二度と嗅ぎたくないと思いたくなるほどの異臭だった。
壁の手形をジッと見つめていると、そのどれもが子供のような、カエデのように小さな手々だった。
それが何回も上乗せされていて、一種の油絵みたいになっている。
この部屋で何があったのだろうか……?
そう考えていると、襖のあたりから人の気配を感じると同時に――ガリガリと爪を立てる音がしてきた。
「……てぇっ」
小さな女の子の声……その声は弱々しく、悲痛な叫び声に聞こえた……
「……しぃ……えぇ……」
何度も叫んでいたのだろう。何度も……その声は外から聞こえない。
それほどまでに悲痛な叫び声……近くに来ないとわからないほどの……
それほどまでに弱くなってきた…… 可細い悲鳴だった……
「ごめんなさい…… ごめんなさい……」
それは誰かに謝っている。必死になって赦しを得ろうとしている。
謝っているのなら、もう赦してやればいいじゃないか……
こんなに必死になって、赦しを得ろうとしてるんだから、もう赦してやればいいじゃないか……
もう少女の爪は取れ掛けているというのに…… 出さないように何かで塞いでいるのか?
もういいだろう? 赦してやってくれよ? 必死に謝ってるんだから……
僕の目から大粒の涙が出ていた。 どんなに謝っても、赦してくれない事でも、それを赦してやるのが人間じゃないのか?
僕はこの少女が何をしたのかは知らない。
でも、こんな仕打ちを受けるようなことをしたのか?
「ごぉべぇんなざぁいぃ。もぉうぅしぃまぁぜぇんっ。もうぬずぅみぃぐいなぁんでぇしまぜぇんからぁっ……ぼうぉごはぁんたぁべまぜんからぁっ! もうぉおぉかぁしたべまぜんからぁ!」
それはどうしてこんな目にあうのだろうかと訊きたくなるほどだった。
確かに盗み食いをしたのなら、罰せられなければいけない。
――けど、少女の体は痩せ細っていて、十分な栄養が行き届いてないのが目に見えていた。
もしご飯をちゃんと食べさせてもらっていたら、こんな事にはならなかったんじゃないのか?
すると、廊下の方から何かを引きずる様な音がした。そして、襖は勢いよく開かれた。
少女は爪を立てていたため、それが襖に引っ掛かり、引っ張られるように倒れた。
目の前には大きな男が立っていた。
「じゃぁがぁしぃ! ガキがぎゃあぎゃあ騒いでんじゃねぇ!」
そう叫ぶや、男は少女を蹴り上げる。
確認すらしていない。下手をしたら頭を蹴り上げていた。
「ガキに食べさせるもんなんてないんだよ? お前らは豚や鶏が食べるようなゴミ飯で十分なんだ! こっちが楽しみで食べようとしていたのをその汚い手で触りやがって、蠅が集ったりしたらどうしてくれるんだ?」
そう叫びながら、男は少女を踏み続ける。
「ごめんなさい…… ごめんなさい……」
少女は必死に謝っている。それでも男は踏み続けるのをやめない。何時しか少女の顔はボロボロになっていった。
「ごめんなさい…… ごめ…… な……」
その必死に叫んでいた声もフェードアウトしていく。
「止めろよ! もういいだろう? もう赦してやれよ!」
僕はその男に体当たりをしたはずだった。
――――え?
体は透き通り、体は壁にぶつかった。
「ど、どういう……」
そして僕はこれが幻だった事を知る。
部屋には仄かな明かりは点けられていたが、あの少女も、男も消えていた。
「一体…… どういう……」
僕は愕然とその場にへたり込んだ。脱力したとしか言いようがない。
若しかして、今の光景は孤児院での出来事なのだろうか……
子供たちを人間とは見ていなかった……毎日が地獄のようなものだった……
そんな記述が大聖さんの書斎にあった本に書かれていた。
そして、この幻を誰が見せていたのか、ようやくわかった。
「君が見せていたのか?」
僕の目の前には少女が立っていた。昨夜、中庭にいた女の子だ。
「こんなことが毎日起きていたのか?」
そう尋ねると、少女は小さく頷く。
そして、もう一度景色は変貌する。
そこには三人の女の子たちが、縛り上げられ、服はボロボロに引き裂かれ、二人の成人男性に慰めものにされていた。
こんなこともされていたのか? そう考えながら、ふと少女を見るや、悲痛な表情でジッとその光景を見ていた。
「もう止めろ……わかったから……もう……」
僕は少女に云い掛ける。
始めてみる僕が即座に拒絶したんだ。彼女だって、本当は見たくない世界だろう。
いや、若しかしたらこの孤児院であった出来事全てを思い出したくない。
――僕だってそうだ。一回しか見ていないけど、こんなのが毎日あっていたら……
僕は目の前の襖に体当たりした。襖の先には廊下だ! これは幻なんかじゃない! 襖は入り口なんだ。
襖がなかったら部屋には入れない。現に襖はあって、それを何かが塞いでいるんだ。だったら、それを封じるために隙間がある。
そう考えたからこそ、必死に体当たりをした。その光景を少女はジッと見ていた。
もう肩の力が入らない。それどころか、足の痛みが余計に疲れを出させているのだろう。それでも必死に僕は襖に体当たりをしていた。
少女は僕の行動をジッと見つめているだけで、まるで何か不思議な光景を見ているようだった。
「助けを呼んでこないんだったら、自分から逃げ出せばいい!」
そういうや、僕は必死に襖に体当たりをし続ける。もしや、本当に壁じゃないのかと言いたくなるほどに手答えがなかった。
「君たち子供にも味方はいたんだろ? 君たちを守ってきてくれた味方がいたんだろ……?」
そうだ。大聖さんの日記には、女職員の人が子供たちを守ってくれていたと書いてあった。だけど、こんな目にあって、どうして助けに来なかったのだろうか……?
「センセイは……そのヒいなかったの……」
突然うしろから声が聞こえ、僕は振り返った。
「センセイ、ダイジなようがあるって、わたしたちコドモにとってダイジなヨウジあるからって……そのヒ、イチニチずっとセンセイはいなかったの……」
僕はようやく少女の声を聞いたような気がする。
「センセイがいないからって、ほかのセンセイが、わたしたちおんなのこを、パンツいちまいにしてすごさせたり、ずっとおててをうしろにシバったり、はだかにして、イヌのようにあるかせたり……」
それは想像もしたくない光景だった。
「おとこのこたちも、はたけシゴトをずっとさせられていて、やすんだりしたら、ムチでたたかれて、センセイがもどってくるジカンがわかってるから、そのジカンまでずっとはたらかされてた」
ずっとという事は、ご飯を食べる時間すら与えていなかったことだろう。
鬼の居ぬ間に洗濯とはよくいったものだけど、これじゃ閻魔様のいない間に獄卒が自分勝手にやってるようなもんじゃないか……
これでは子供たちが職員たちを殺しても仕方がない。
理由があるんだ。もしこのままだったらこの子達は死んでいたかもしれないのだから……
「せ、先生は何もしてくれなかったのかい?」
「センセイはいつもなにかにおびえてた。だからインチョウセンセイやほかのセンセイには、なにもいえなかったんだとおもう……」
何か弱みを握られていたのだろうか? そのことを訊ねようとしたが、どうやら少女はその事を知らないようだった。
「たすけてあげて……」
「え?」
「おねがい。ユカリちゃんをたすけてあげて。もうおわったんだって…… もうわたしはここにはいないんだっておしえてあげて…… あのこはヒッシになって、わたしをさがしてくれている。でも、タイセイくんもヨウイチくんも、わたしがあのバショにいないことをしってる。もうとりかえしのつかないことをしたことだってしってるし、コウカイしてる。だけどユカリちゃんはまだわたしをさがしてる。もういいんだって……もうさがさなくてもいいんだっておしえてあげて……もうわたしのこえなんかきいてくれないから……あなたが……あなたたちがいってあげて……」
そう云うと、スーッと少女は風に溶け込むように消えていった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
僕は少女がいた場所へと駆け寄った。もう気配も何もしない。
あの子は若しかして、院長先生に殺された女の子じゃ……?
あの言葉からしてそうだとしかいえなかった。
僕は目の前の襖をジッと見詰め、意を決して静かに引手に手をかけた。
襖は信じられないほど簡単に開き、廊下には封じているものなんてひとつもなかった。
多分あの少女はずっと僕に幻を見せていたのだろう。部屋から逃げ出さないように……
僕が出て行くのを確認したように部屋の電気は勝手に消えた。
HPでは、少女の台詞は、漢字変換されず、ひらがなにしていましたが、漢字で変換される場所はカタカナにしました。