伍拾玖【8月12日・午後5時32分】
僕は広間で霧絵さんに云われた通り、冬歌ちゃんを書斎へと連れていく。
書斎の鍵を開け、中に入ると、冬歌ちゃんはいの一番に本棚から絵本を取り出し、机の椅子に座って読み始めた。
うしろを見ると、植木警視が本棚を見渡している。
「それにしても、大聖さんが三十年前の犯人だったなんて……」
植木警視は何か釈然としない表情を浮かべるが、「あんな事をされて、大人しくしていろと云うのが無理だったのかもしれませんね」
たしか霧絵さんと大聖さんが始めてあったのが、二人が大学生の時だから、少なくとも大聖さんは十八にはなっていたはずだ。
いや、四十年前に起きた“鹿狩”によって、集落が滅んだというのなら、そのすぐ後に孤児院は建てられた事になる。
もしかすると、この屋敷は孤児院として作られる前からあったのかもしれない。
“縁”さんが使える、記憶を書き換える力があれば、僕みたいに四年前の事故が、恰も小学生の時に起きた事故としての記憶に出来るのかもしれない。
――そう考えると、少なくとも、僕は“縁”さんに一度会っているという事になる。
「そう云えば、金鹿之神子に関する資料が余りありませんでしたね」
それは少し前、ここで調べている時の事だった。
この部屋で三十年前のことを調べようとした時、ふと、深夏さんが思い出したように読んだ本を含んで、精々五、六冊くらいしかなかった。
「金鹿之神子は伝奇的なものなのか……」
「玄関に飾られている言葉もそんな感じでしたよね。でも、もし本当に金色に輝く鹿がこの山にいるとしたら、一度見てみたいですね」
僕が少しばかり冗談で云うと、「神様の使いと云うのは、別に“鹿”だけじゃないですからね。住吉神社には“兎”、日吉神社には“猿”。熊野三山には“鳥”と云ったように、それぞれに祭っている神様にもあるそうですよ」
植木警視は本棚から書物を取り出し、それを読みながら言う。
「鹿はどこが有名なんですか?」
「やっぱり奈良とかじゃないですかね? 春日大社とか……後、広島の厳島もそうみたいですよ」
そう話していると、ふと冬歌ちゃんがジッと僕達を見ていた。
「どうかしたの?」
「神様は神様としか喋れない。それ以外には喋れないし、誰とも触れる事が出来ない。だからこそ“神使”が必要だった……」
そう云われ、僕は冬歌ちゃんが今読んでいる本を音読しているのかと思った。
だけど、冬歌ちゃんが今読んでいる本は“鶴の恩返し”で、そんな言葉が入ってるとは思えない。
「冬歌ちゃん? “神使”について、何か知ってるの?」
「お父さんがお稲荷さんも“神使”だって云ってた。神様だってみんな云うけど、本当は神様の代理だって……」
それは恐らく門の前にある祠に祭られた稲荷神の事だろう。
「でも、冬歌ちゃん? 昔からお稲荷さんは、狐だって云われてるのよ?」
植木警視がそう云うと、「お稲荷様は“宇迦之御魂神”が本当の名前。その神様は違う名前で“御饌津神”と云うのがあって、その神様の“神使”である“狐”には、古い名前で“けつ”って言われていたんだって……。それが“三狐神”と言われるようになったのが切っ掛けで、狐が神様みたいになったんだって……」
そう言い終えると、冬歌ちゃんはキョトンとする。
自分が喋った事が難しかったのか……どうしてこんな事を喋ったんだろうといった感じだった。
「狐の古い名前が“けつ”……“御饌津神”がそうだとしたら、金鹿之神子もそうだという事?」
「どういう意味です?」
「神様に仕えているのは、神社で働いている“巫女”だって云われますよね?」
そう植木警視に訊かれ、僕は頷いた。
「でも“金鹿之神子”は、同じ意味の“神子”が使われてるんですよ? 別に“巫女”でもいいのにですよ?」
「それは最初にいった人が決めたんじゃ?」
いや、若しかしたら……だからこそ説明出来るかもしれない。
鹿波さんが云ってたじゃないか…… 最初の“神子”は目が見えなかった。
そう考えると、結びつくのは青森の恐山にいるイタコ?
だけど、それ以外は目が見えていたらしいから、沖縄のユタ?
――その両方だ……
両方とも祈祷師と云われている。違うといえば、イタコは目が見えない巫女。ユタは目は見えるが、同じように霊の力でアドバイスをしている。
僕は気になって、ユタに関する書物がないか探した。
ユタは鹿児島と沖縄の間にある奄美群島に伝わる巫女だというのをなにかで聞いた事がある。
だから僕はその周辺に関する資料だけを探した。
「――あった……」
一つ古惚けた書物あった。
慎重に開くと、メモのようなものが何枚か本に挟まっていた。
「あ、お父さんの字……」
冬歌ちゃんが落ちた一枚の紙を見ながら云う。
「それじゃ大聖さんが、何かを調べていたと云う事ですかね?」
僕は二人が見やすいように机に本を置き、ゆっくりと読んだ。
――そして…… どうして“金鹿之神子”がそう云われ始めたのかを知った。
「もし、大聖さんの憶測が本当の史実だったとしたら、それこそ大問題ですよ? だって、金鹿之神子に関する全ての資料を全否定する事になる! それはつまり、私たちが昔から聞いていた昔話は、何者かの力によって書き換えられていたという事になるじゃないですか?」
植木警視が狼狽するように云う。
いや、僕は前にも鹿波さんに云われた事がある。
“あなた達が知っている最低限の歴史なんて、当てにならない”
そう鹿波さんは云っていた。
もしかしたら、鹿波さん自身が“金鹿之神子”だからこそ、神子に関する歴史を少なからず知っていたんだ。
それに祠にはお稲荷さんが祭られているのに、その舞台では“金鹿”が祭られているといっていた。
「あの……鹿が動物神だったとして、何と云われてるんですか?」
僕は植木警視に訊ねる。
先ほどまで神使に関する書物を読んでいたからだ。
「ちょ、ちょっと待って下さいね」
そう云うと、植木警視はパラパラと書物を捲っていく。
「鹿は“天迦久神”と言われていて……天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿島神宮では鹿が使いとされている。また、藤原氏による春日大社の創建に際して、七六七年(神護景雲元年)に、白い神鹿の背に分霊を乗せ、多くの鹿を引き連れて、一年かけて奈良まで行ったとされている」
「つまり“天迦久神”は、天照大御神の伝言を伝えるために、鹿の姿になり、武甕槌大神のところに行ったということですよね?」
「そうなりますね。それと武甕槌大神は“雷神”といわれているそうです」
そう聞くや、僕はあの異常なまでに鳴っていた雷の音が、この舞台では一度もなっていない事に気付く。
「それと“刀剣の神”ともいわれているそうですよ」
「大聖さんが祠に懐剣をお供えしていたのは、神様が出雲大社に無事に着くようにと願っていたと、霧絵さんに聞いたことがあります」
「そうだとしたら、本当は稲荷ではなく、天迦久神が祭られていたのかも……」
それを知っているのは大聖さんくらいだろう。
古事記では“国譲り”の交渉に、最初に派遣した天菩比神からは、三年が過ぎても、何も連絡が来なかった。
さらに、迎えに遣った武三熊之大人からも、やはり何も報告が無い。
そこで天若日子を遣わしたものの、八年もの間、まったく連絡が無いばかりか、最終的には遺体となって戻って来た。
都合、三人(組)の使者を遣わして、十数年の歳月を掛けたものの、全く事態の進展が見られていなかった。
そうした状況のもとで、天照大御神が、『次は、どの神を遣わせば良いだろうか』
と、神々に問うと、思金神が、『天の安の河の河上にある天の石屋に、伊都之尾羽張神というのがおります。その者を遣わすべきです。若し、この神の都合が悪ければ、その子の建御雷之男神を遣わすべきです。また、その天尾羽張神は、逆に天の安の河の水を塞き止めて、道を塞いでいるので、他の神々は、そこを訪れることができません。特別に、天迦久神を遣わして尋ねさせるべきでしょう』
と、申し述べた。
そこで天迦久神を遣わして、天尾羽張神に尋ねさせると、『畏まりました。お仕えしましょう。――しかし、この任務には、僕が子の建御雷神を遣わすのがよいでしょう』
と、の答えであった。
そこで天鳥船神を、建御雷神に副えて遣わすことになった。
――という物語がある。
“あれ……?”
僕は書物を読みながらだったとはいえ、天迦久神は直接、厳島に行ってない事に気付く。いや……天迦久神は確かに建御雷神のところに行っている……
そう、刀を作る道具として――
鍛冶師が使う鞴には鹿の皮が使われているし、そもそも天迦久神は鹿の狩猟を行っていたと伝えられている。
そんな人が鹿の姿になって、お遣いにいったというのは、何とも滑稽な話だった。
いや、動物が使いとなっている話は多い。
例えばサッカー日本代表のシンボルマークである“八咫烏”は神武天皇東征のさい、天照大御神が遣わされた使神で天皇を熊野から大和に導いた事で知られているし、天照大御神が天の岩戸から出てきた時、鶏が朝日を告げるように鳴いたという。
七福神では実際の僧侶と云われている布袋(弥勒菩薩)以外の神にも使いがいた。
大黒は“鼠”、弁天は“蛇”、毘沙門は“百足”と続き、恵比寿には魚の“鯛”、福禄寿には“亀”と、“神使”として仕えていたといわれている。
そして残った寿老人の使いは“鹿”である。
これが果たして、偶然なのかどうかはわからないが……
僕と植木警視は色々な資料を読み耽ったが、しっかりとしたものがなかった。
ふと、誰かのお腹が鳴る音が響いた。そして、時計を見遣ると既に六時半を過ぎていた。
「園塚さんからの話だと、午後七時からだと云ってましたね」
「若しそれが本当だったとしたら、大量殺人をさせる羽目になる」
植木警視は親指を齧りながら言う。
「広間に戻りましょう。もう三重野という人と話は終えたでしょうし……」
僕がそう云うと、突然頭がクラッとした。
――そして、その狭い書斎の床に倒れ込んだ。
「こ、この臭い……催眠ガス?」
そう植木警視の声が聞こえたのと同時に、書斎の襖は閉ざされた。
「くっ! こんのぉ! けぇほぉ! げぇほぉっ!」
植木警視が何度か襖を開けようとするが、襖が開く気配などしなかった。
「瀬川さん! 冬歌ちゃん! 余り息をしない……で……」
そう聞こえたが、植木警視もばたりとその場に倒れた。
他のみんなはどうしたんだろう……屋敷の中で堂々と催眠ガスなんて使っているんだ。恐らくみんな……
“――助けてあげて……”
ふと、少女の声が聞こえた。
ははっ……幻聴が聞こえてきたって事は、もう駄目なのか……
“まだ誰も死んでいない。この屋敷の中では誰も死んでいない……”
少女の声はそう告げた。
まだ誰も死んでいない?
つまり、全員眠らされただけなのか、それとも何処かに避難したのか……
そう考えながらも、僕の身体は深い闇へと堕ちていった。