伍拾捌【8月12日・午後5時23分】
三重野は山登りの最中、周りを警戒しながら進んでいたため、普段よりも屋敷に到着するのが遅かった。
長野県警を定年退職した後、暇さえあれば、榊山に登っていた。
だからこそ、どれくらいで屋敷に到着するのか、自然とわかっていた。
書斎で調べていた正樹達が玄関先で三重野に気付くと、春那が広間へと案内し、SPの二人は大町署の署長と連絡を取り合っていた。
広間に入った三重野が最初に目に遣ったのは、園塚の姿だった。
一応応急処置はしている事を聞いてはいたが、これほど酷い状況だったとは思ってもなかったらしく、怪我を見るや、顔を歪めた。
既に血は止まっているが、止血に使用したタオルの片面は真っ赤に染まっていた。
三重野は園塚の容態を見ながら、黒い手術用鞄から道具を取り出し、きちんとした処置をしていった。
……一通り処置を終えると、三重野は霧絵たちを見遣り、そして、深々と頭を下げた。
渡辺を死なせてしまった事や、先ほどの無礼を弁えての事なのだが、「三重野さんが悪いわけではないです。こうなる事は多かれ少なかれ覚悟はしていましたから」
霧絵はそう云うと、戻ってきていた春那たちを一瞥し、再び三重野を見た。
「電話での質問に対する返答ですが、確かに最初は渡辺さんと付き合っていた事は確かです。大聖さんとも付き合ってましたから、結局のところ、私が二股をかけていただけの事なんです」
「母さんって、結構もててたの?」
深夏がそう訊くが、霧絵は首を横に振った。
「学生時代、耶麻神と云う名前を知らない人はいなかったから、多分玉の輿にのりたかったのか、それとも面白半分で付き合っていたのか、金だけが欲しくて私に近付いていたのか……結局のところ、わからないのよ」
「一昨日聞いた話だと、小洒落たカフェとかに誘われてたけれど、お父さんは山登りがほとんどだったって……」
春那がそう云うと、「体が弱かったからって云う理由もあるけど……でも、それが大聖さんなりの遣り方だったんだと思うわ」
それを聞いて、三重野は訝しげな表情を浮かべる。
「でも、それが結婚する理由にはならんと思うがな?」
「確かに…… 徹底的な理由がない」
早瀬警部にもそう云われ、霧絵は少しばかりお茶を飲むや、「好き嫌いに理由なんてないと思いますよ。それに結婚した事を渡辺さんが怨んでいたのなら、それは恐らく自己満足に過ぎないと思います」
意外な返答に三重野は困惑した表情を浮かべた。
「確かに二十六年前、大聖さんと結婚した事は確かです。でもその前に、渡辺さんと……」
言葉を止めると、霧絵は冬歌を見遣った。
「瀬川さん。冬歌と一緒に書斎の方に行ってくれませんか?」
正樹はそう云われ、冬歌を連れて広間を出た。
「植木警視。すみませんが、二人を宜しくお願いします」
舞は少しばかり頷くと、正樹と冬歌の後を追った。
「冬歌には話せない事なの?」
春那がそう尋ねると、霧絵は天井を仰ぐ。
「話せない事ではないけど、多分理解出来ないでしょうし、大人になって、あの子が自分でわかる時が来るでしょうから……」
その言葉に春那と深夏は互いを見遣った。
そして、霧絵は咳払いをすると、「大聖さんと結婚する前、一度だけ渡辺さんとやってるの。でも、結婚する二年も前だったから、二十四年前に死んだ胎児じゃないのは確かよ。――ううん。むしろ子供は出来なかった」
「そりゃ排卵がなかったら子供は出来ないでしょ?」
「ええ。生き物が出来るには精子と卵子が必要になる」
それを聞いて、早瀬警部と三重野が、結局渡辺の自己満足に過ぎないという事を理解したが、春那と深夏は未だにわかっていなかった。
「霧絵さんが排卵日前後に行為をしたと云う事は、少なくとも妊娠はしていた。だけど、していなかったと云う事は、渡辺の方に問題があった」
三重野はそう云いながら、春那と深夏を見遣る。
「ど、どうかしたんですか?」
そう訊かれ、三重野は少しだけ考えると、「渡辺の生殖機能に問題があった可能性があるということですよ」
そう聞かされ、春那と深夏かはようやく理解出来た。
霧絵の身体が生まれつき弱かったとはいえ、きちんと生殖機能は働いていた。
だからこそ、大聖との間に子供が出来た。
だが、渡辺の生殖機能に問題があったとすれば話は別である。
「それじゃ、母さんと渡辺さんの間に子供が出来なかったのを、父さんは……」
「その事に関しては、私と渡辺さんしか知らないわ。むしろ人に話したのはこれがはじめてなんだから」
そう云うや、霧絵は少しばかり溜息をついた。
「それに、私は軽い女じゃないから……行為を行ったのは渡辺さんと大聖さんを入れても二、三回くらいだった」
それを聞いて、何とも云い難い表情を三重野は浮かべた。
その二、三回の行為で子供が出来たと云う事になる。
精子は数々の困難を乗り越え、漸く卵子へと辿りつく。
男性の体調にもよるが、精液は2~3CC。精子の数は五千万から一億五千万と云われている。
そんな想像も付かない精子の数にも拘らず、人間が宿す命は精々一つくらいである。
中には一卵性双生児や二卵性、三つ子などもあるが、それは奇妙な偶然でしかない。
そして子供が出来ない事もまた偶然の中の必然である。
「若し、渡辺さんとの間に子供が出来ていたら、春那たちとは逢っていなかったのかもしれないわね。ううん、貴女達だけじゃない。澪さんや繭さん。瀬川さんにも……それどころか今と全然違った世界だったのかもしれない」
霧絵は出来ることなら自分の子供が欲しいと願っていた。
だからこそ大聖との間に出来るはずだった子供を仏壇に祭っていた。
「――後悔してる?」
春那にそう云われ、霧絵は首を横に降った。
「私はどちらの世界でも幸せだって云えるかもしれない。確かに後悔していないと云ったら嘘になるけど、でも過ぎた事を悔やむより、今の方が大事でしょ?」
そう云うや、霧絵は少しばかり左手を見た。
彼女の薬指には灰簾石という宝石の指輪がつけられている。
この宝石は二十四年前、霧絵が懐妊した時、大聖が渡したもので、宝石言葉に“子宝”というのがある。
勿論ちゃんとした結婚指輪はあったが、結局は形でしかなく、またダイヤモンドと云った豪華なものをつけていなかった。
結婚した時、大聖に金はほとんどなかったのが一番の理由なのだが、それでも霧絵にとっては嬉しいものだった。
今つけている灰簾石にしても、小さく、気休め程度でしかなった。
この宝石のおかげかどうかはさて置き、霧絵には夫である大聖と同様の大切な存在が出来ていた。
そう、本来の“子宝”の意味である“大切な宝である子供”に恵まれているのだから……
「まぁ、二十四年前の事はこれで終わりだとして、今は渡辺が渡したというメモを読みましょうかね」
そう云うや、三重野はポケットから紙切れを取り出した。
それは渡辺が死ぬ直前、SPに渡したものだった。
そこには何とも奇妙な文字が並べられていた。
“w1 t1 s2 n5 h4 y1 n2
k1 g2 g1 k1 k4 r1 r4 t1
h1 k2 d1 s2 g1 a r1 m1 s3
s5 n5 n1 k1 n2
u r1 g1 n4 n2 k1 n s3 r3 s2ry5u g1
h1 i tt4 i m1 s3”
手書きで書かれたその文字列をみながら、全員がジッとそれを見ていた。
「もしかして、これって“ローマ字”じゃないの?」
と、深夏が云うや、「いい? ローマ字には子音と母音があるでしょ? つまり、数字はその母音を表してるんじゃないかな?」
そうなると、答えは自ずと見えてきた。
“私の部屋に鍵が掛けられた引き出しがあります。
その中に裏金に関する資料が入っています”
「でも、今知りたいのは裏金じゃないんですけどね」
早瀬警部が落胆するように呟く。
「それは恐らく渡辺自身も知っておったよ。ただそれよりも重大なことがその中にあるという事じゃろ?」
三重野はそう云いながら、春那を見遣った。
「全ての部屋の鍵は私が持っています」
そう云うが、春那は少しばかり霧絵を見た。
「大丈夫じゃよ。わしのSPに任せておけばいい」
三重野にそう云われるが、春那は違う意味で心配だった。
それは以前の世界で、澪と繭がこの広間で“消された”事だ。
その事を春那が覚えている訳がないのだが、何故か気になって仕様がなかった。
この屋敷の中で、一番強いのは云うまでもなく澪だ。
正直に言うと、男である正樹よりもはるかに頼りになる。
そんな澪が、その時霧絵の部屋にいた春那たちが気付く事なく、消されていた事に違和感があった。
だからこそ、SPがいようがいまいが、心配になっていた。
広間を出る前、春那は少しばかり霧絵を見る。
霧絵はまるで覚悟をしているような、そんな表情を浮かべ、ジッと虚空を仰いでいた。
渡辺の部屋には、当然の事ながら鍵が掛けられていた。春那がマスターキーで部屋の鍵を開け、春那、早瀬警部、三重野は部屋の中に入った。
「鍵が掛けられたとありましたけど、その鍵が必要な気がしますけどね」
確かに早瀬警部の云う通り、それを開ける鍵が必要になる。
鍵の場所は記されていなかった。
とはいえ、見当たるのは着替えが入った箪笥や、会社で使う書類が並べられた本棚。後は小さなテーブルがあるくらいだ。
あのメモに書かれていた言葉の中には引き出しとあった。
「引き出し……っと、もしかしてこれですかな?」
早瀬警部がそう云いながら、一番上の棚を調べた。
確かに鍵穴があるのでそこが唯一鍵が掛かったところだろう。
「さてとそれじゃ、鍵を開けるにはっと……」
そう云いながら、試しに引き出しに触れた時だった。
「これ…… 鍵が掛かってないかもしれませんね」
そう云われ、春那と三重野は首を傾げた。
早瀬警部が指差したその引き出しには鍵が掛けられておらず、また何も入っていなかった。
「それじゃ、どうしてあんなわからないメモを」
「もしかしたら……」
そう云うと、春那は書類が入っている本棚を調べた。
――数分ほどして、三人はあのメモがカモフラージュだった事を知る。
春那は書類が束ねられた一冊の本を手に取った。
「これ……防空壕の中?」
そこには乱筆に書かれた見取り図のようなものがあった。
その図には赤いペンかなにかで“屋敷”や“鶏小屋”と書かれていた。
「これを使っていたと云う事ですかな?」
「でも、屋敷内のことしか書いてませんよ」
確かに書かれているのは二つだけで、しかもそれは屋敷の敷地内だった。これでは犯人として逃げようにも逃げられない。
地図を描いているのだから、出入り口はメモしているはずだ。
つまりこれは二十六年前に作られたものだという事になる。
早瀬警部の話では、三十年前に調べられた防空壕の入り口は今や閉鎖されており、人が入る事は出来ない。
それは三重野も知っており、また機動隊員が先に調べ、変わっていない事から、別の場所から出入していると思われていた。
地図の他には、裏金に関係している人間の詳細が記された書類が入っていた。
「遣っていたのは八年も前からだったんですね」
「それくらいだと、確か冬歌が屋敷に来た時くらいですね。これには詳細が書かれているけど……」
春那は早瀬警部を一瞥する。
証拠があろうがなかろうが、それを摘発する人間が今やいないのだ。
長野県警本部長は殺されているし、政治家も行方不明。そして、その主犯格である渡辺も、今やこの世にはいない。
「後は……誰かの連絡先みたいですけど…… 郵便番号が五桁になってる」
日本における現在の郵便番号は例外を除けば、基本的に七桁であり、書類に書かれている郵便番号は、変更となった一九九八年以前に書かれたものだという事になる。
「孤児院にいた子供達の連絡先でしょうかね?」
早瀬警部にそう云われ、春那は何ともいえない表情を浮かべていた。
記されている名前の中に“縁”という名前が書かれていない事と、またどうしてそれが気になったのか、春那自身わからないでいた。
「書類の中はこれで全部ですかな? 通帳も入ってましたが……」
通帳は使用人が使っているものではなく、個人で作ったものだった。
それには大金が入っていたが、一週間前に全て下ろされている。
そしてその大金が一体何に使われたのかは、安易に想像出来た。
「お父さんが防空壕の中を調べたのは、院長に殺された少女を供養するためだった。だけど渡辺さんは納得出来なかった……」
だけど、それは人を殺してまで得る事なのだろうか……
確かに捜索には金が必要だ。だけど云ってくれれば、少なくとも支援は出来た。
が、それに関するモノがなかった。渡辺が自分で処理したのか、それとも既に消されていたのか……
「早瀬警部? 本部長は以前何をしていたんですか?」
「以前? 確か三十年前の事件を調べて……」
「その本部長が、自首してきた女職員ではなく、お父さんや渡辺さんといった子供たちを疑っていたとしたら?」
「確かにあの事件では不審な点があるんですよね」
早瀬警部がそう云うと、少し思い出す素振りを見せた。
三十年前、警察が捜索の末、院長の死体が発見されたのは、山の茂みの中だった。
女職員の証言では、口論の末、崖から突き落としてしまったとなっている。
――が、崖と云える場所は榊が生っているところくらいで、その下は茂みにはなっていない。
と云う事は、崖から突き落とした後、遺体を隠しているという事になる。
他の職員にしても、死因はガス中毒によるものだったが、これにも不可解な点が残っている。
それは子供たちが全員屋敷にいなかったと云う事だ。
職員は何か薬を盛られ眠らされたと仮定して、それからガスを漏らしていく。
――が、今と違って、全ての部屋に鍵が掛けられていたわけではないので、容易に逃げる事が出来た。
これは大人が犯行を実行したというより、子供たちが遣ったと考えるものだった。
つまりはひとつ手が足りていないと云う事だ。そして、それら全てを証言できる人間がいなかった。
「それを脅迫していたという事ですかな? 大聖くんにしても、渡辺にしても、どんな理由にしろ、今やこの屋敷は大切な場所ですからね」
そう云われ、春那は複雑な表情を浮かべた。