伍拾漆【8月12日・午後4時12分】
「あれっ?」
書斎で孤児院の事を正樹や姉である春那。そして舞と一緒に調べていた深夏が、お茶を飲みに広間へと戻ってきたのだが、違和感を感じ、広間を見渡すと、本来いるかもしれないはずの人物がいなくなっている事に悪寒を感じていた。
「早瀬警部? 繭……知りません?」
そう云われ、早瀬警部も広間を見渡す。
何時の間にか、繭の姿が何処にも無かった。
「可笑しいですね? 襖から出た訳ではないでしょうし……」
そう云いながら、厨房の方を見遣るが、厨房近くには霧絵が座っている。
――いや、いるいないというよりも、いくら畳十二畳という広さだとしても、箪笥は奥の方にあるくらいで、押入れがない。
つまり人が隠れる場所はない。それどころか、人を隠せる余裕は無かったはずだ。
「冬歌? 繭、知らない?」
深夏は奥の方で子犬と遊んでいた冬歌に訊ねるが、冬歌は無言で首を横に振る。
「また神隠しですか?」
早瀬警部がポツリとそう云うと、「神隠し? 人が突然消えるとかそういうやつか?」
園塚がそう聞くと、早瀬警部は頷いた。
「そんな訳ないだろ? さっきまでおっさんが自分の携帯に出て、そこのハナっていう犬が、あんたが出て行こうとしたのを止めていた。その遣り取りの間に抜け出していたとしても、先ず襖には犬がいたし、全員の目が其方に向いていたから、出る事は出来ない。そして、厨房に行こうとしても、結局誰かの視界に入るからそれも無理じゃねぇのか?」
確かに園塚の云う通りだった。
「でも、現に繭はいなくなってるのよ?」
話を聞きながらも、厨房へと入っていた深夏が暖簾を押し上げながら云う。
「それじゃ、本当に神隠しにあったっていうのか?」
そう云われ、深夏は少し考えると、「この屋敷じゃ、それが日常茶飯事なのよ。さすがに人はなかったけど、物がなくなるのなんてしょっちゅうだったし」
「でもそれは誰かがした事だろ?」
「ううん、あのね? この前冬歌が読んでた本が、キチンと本棚になおされてたの」
と、説明するように冬歌が言う。
「冬歌の部屋ん中汚いからねぇ」
深夏が笑いながら言う。それを聞いて、冬歌は頬を膨らましながら、「そんなん深夏お姉ちゃんだって一緒じゃない!」
「あんたの部屋みたいに汚くはないわよ?」
話が脱線してきたのを見兼ねた霧絵がスッと立ち上がり、「深夏? さっき厨房に入ってたけど、勝手口は閉まってたの?」
そう云われ、深夏は頷いた。
当たり前の事だが、中から出たのなら、外から鍵を掛けなければいけない。
だけど、勝手口の鍵は春那か澪が持っているので、繭自身が閉められたとは思えない。
鍵はマスターキーと予備の二つしかない。
そして、予備は澪が管理しており、マスターは春那が管理しているため、犯人が繭を持てる事はない。
――これではいよいよ本当に神隠しにあったと云える。
「この屋敷に隠し扉なんてのはないのか?」
「あったら、凄いわよ。まぁ変な空間みたいなのはあるけど…… 確か、鹿波さんがその事で不思議がってたわね」
そう云いながら、深夏は早瀬警部を見遣る。
「父さんの書籍を調べてわかった事なんですけど、此処は昔孤児院だったそうですね? その時から、屋敷の造りは変わってないんですか?」
そう聞かれ、早瀬警部は少しばかり考える素振りを見せた。
「うーん。どうでしょうかね? 事件が起きたのが三十年前。そして二十六年前に霧絵さんたちがこの屋敷に来た。つまり、その間に四年間と云う空白が出来ている」
「母さんの話だと、その間に誰かが管理していた。そして、管理していた人は無条件でこの屋敷を母さん達に明け渡している」
「となると、その人物は此処が孤児院だった事を知っている……霧絵さん? 相手の連絡先はわからないんですか?」
そう訊かれ、霧絵は少しばかり視線を外すと、「わからないというよりも、教えてもらってないんです。――と云うより、この屋敷が売買された時、前の家主は、肩の荷が下りたような表情を浮かべてましたね」
それを聞いて、深夏と早瀬警部は怪訝な表情を浮かべた。
「“肩の荷が下りる”って、どういう事?」
「前の家主は、屋敷を早々に手放したかったんでしょうな……」
早瀬警部がそう云うと、霧絵は頷いた。
「あの事件を知っている以前に、耶麻神からなかば強引に管理を義務つけられていたのでしょう。私が耶麻神の人間だとわかった途端、早々に立ち退いてましたからね」
「つまり――前の家主は、さっさとこの屋敷を手放したかった。一応、此処が山に登ってくる人への休憩所だったのは変わりないんですか?」
そう訊ねるが、霧絵は黙り込んでしまう。早瀬警部は拙い事を訊いたかなと、首を傾げた。
「そもそも、耶麻神は祖父である耶麻神乱世で終わってるんです。だけどその権力は凄まじく、既に故人であったにも拘らず、名を出せば国さえも動かせると云われていたそうです」
「ここら一帯を牛耳っていたのが本当だったとしても、四十年前に起きた集落消滅。三十年前に起きた院長を含んだ職員殺人は全く別の犯人なんですよ。四十年前に関しては、犯人すら特定出来ない」
霧絵と早瀬警部の話を聞いていた深夏は、ふと足元にいる冬歌を見た。
冬歌の近くにはハナと子犬がおり、ハナはジッと瀧の方を見ていた。
「何かあるの?」
そう訊ねるが、ハナはジッと其方を見るだけだ。
屋敷の中は窓がある訳でもなく、あったとしても端の部屋のみに備えられているだけだ。
その事に関しては前々から思っていたし、姉妹達は何時もリフォームの話を持ち出していた。それこそ、あの空白部分も含めて……
「ウゥ……」
微かに犬の呻き声が聞こえた。
それがハナだった事は直ぐにわかったのだが、「おや? 私を止めようとしていた時と違う鳴き声ですね?」
早瀬警部がその違和感に気付く。
すると、ハナは厨房の方へと消えていく。
「ちょ、ちょっとハナ?」
後を追うと、ハナは勝手口の前でジッと座り込んでいた。
「どうしたの? ほら、広間にもど……」
深夏がハナの首輪を掴もうとした時だった。
「おぉぉおおおっ! うぉおおおっ!」
その小さな遠吠えは、今まで聞いた事のない悲しい音色だった。
それを広間と厨房を隔てたところから覗き込んでいた早瀬警部の携帯が鳴り響いた。
「はい。こちら早瀬ですが?」
“――――早瀬くんか?”
「あの? どちらさまですか?」
いや、声の主はわかっていた。わかっていたが、余りに声のトーンが低く、それが誰なのかを理解出来なかった。
“三重野じゃがなぁ? ちょっと問題がおきたんよ”
「問題?」
“霧絵さん、おるじゃろ? ちょっと変わってくれんかの?”
そう云われ、早瀬警部は怪訝な表情を浮かべながら、霧絵に携帯を渡した。
「はい。お電話代わりました……」
“霧絵さんかい? 今日は偉い大変な目にあっとるなぁ?”
「ええ。お蔭様で……」
“それでなぁ、あんたにちょっと聞かせて欲しい事があったんじゃよ?”
「はい? なんでしょうか」
霧絵がそう聞き返すと……“あんた…… 二十四年前に子供を孕んちょったが、妊娠したのはそれが最初で最後だったんか?”
突然そう訊かれ、霧絵は困惑する。
「あ、はい。確かに二十四年前に妊娠したのが、最初で最後です」
そう云うが、三重野が訊きたいのはそういう事ではなかった。
妊娠したのなら、その発作がある。つまりは生理の停止だ。
二十四年前、胎児は既に五ヶ月目を迎えていた。
その前にも生理不順はあったものの、キチンと排卵日は迎えていた。
“あんたがそう云うんなら間違いないんじゃろうな……”
「何が訊きたいんですか?」
霧絵は三重野が違った言葉を待っていたような口調に苛立ちを見せた。
“あんた、本当は大聖とじゃなく、渡辺と結婚するはずだったんじゃろ?”
「なっ? 何でそれを?」
“渡辺くんから聞いたよ。二十四年前の事もなぁ……学生の恋愛事情にあーだ、こーだ云わんがなぁ、少しばかり遣り過ぎたのかも知れんな”
「何が云いたいんですか?」
“あんた……本当は大聖の子供が欲しくなかったんじゃろ? いや、誰の子供も欲しくなかった……”
「ふ、ふさげた事を云わないで下さい! 私が大聖さんとの間に出来た子供を欲しがっていないっ? 妻として、夫との間に出来る子供を欲しがらないわけないじゃないですかっ!?」
霧絵はそう怒声を上げると、激しい咳払いをする。
早瀬警部はそれを見るや、霧絵の手から携帯を取り上げた。
「三重野元警察医っ! 一体……一体何を霧絵さんに訊きたいんですか?」
“大学時代に、大聖と霧絵さん。そして渡辺が出会った事は知ってるじゃろ?”
「ええ。まぁ……よく当時の事を話してましたからね? でも、それが一体……」
“元々、霧絵さんは渡辺と付き合っていたそうなんじゃよ。それを大聖が横恋慕する形で結婚した…… いや、略奪したといってもいいじゃろうな?”
それを聞いて、早瀬警部は顔を歪める。
「例えそうだったとしても、今起きている事件と何の関係もないでしょ?」
“確かに早瀬くんの云う通り、関係のない話じゃよ?”
「だったら、この話はもう……」
“でもなぁ、その話を知ってる人間は……もう霧絵さんしかおらんのじゃよ……”
その言葉が聞こえていたのか、それとも会話の内容がわかったのか、広間に冷たい空気が流れる。
「霧絵さんしかいないって……それって……」
早瀬警部はふと、ハナを見た。
先程からずっと小さな雄叫びをあげている。
いや、若しかしたら――――
“さっきなぁ、犯人グループと戦闘があってな、そっちは何ともなかったんじゃが、茂みからな……”
それ以上聞かなくてもわかる。
いや、それ以上聞きたくなかったのかもしれない。
――渡辺洋一が殺された……
冬歌以外の全員がそう頭に過ぎった。
結局、三重野に確認を取ったが、その考えは外れてはくれず、たったその一言が、余りに重たく、そして、余りにも冷たかった。
「あ、ああ……」
霧絵は落胆するように崩れ落ちる。
「母さん? 大丈夫?」
「深夏…… 大丈夫よ……」
そうは云っても、どう見たって、大丈夫な訳がない。
早瀬警部は三重野との連絡を終え、、携帯をポケットに仕舞った。