伍拾陸【8月12日・午後3時34分】
防空壕の中、口輪を嵌められたタロウとクルルが横たわっていた。
連れ去られているさい、眠らされていたため、外傷はほとんどなかったが、壁に打ち付けられた杭に繋げられた鎖は余りにも短く、身動きが取れないでいた。
「くぅそぉっ! 卯藩からの連絡が途切れちょる」
「麓からの連絡はぁっ? あぁんのぉぅ糞餓鬼どもぉっ! 銃を目茶苦茶に扱いよんじゃないじゃろうなぁっ!?」
麓にいるは《、》ずの仲間に連絡を取ろうとするが、全くの音信不通だった。
それもそのはずで……連絡を受けているはずの卯藩はその頃、山の入り口付近で三重野がひきずれているSPにやられている最中であった。
そんな状態で連絡が出来るとは到底思えない。しかも全員がその対応をしていたのだから……
再び連絡を取ろうとするが、音信は無かった。
「ちぃっ! ほんに今の餓鬼は役にたたねぇなぁっ! 一体どんな躾をされってんだぁっ?」
そう云いながら、子藩の男がタロウのお腹を蹴り上げる。
“キャンッ!”
と、口篭った音が聞こえ、タロウはその場に蹲った。
「へぇっ! へへへっ! 番犬も何も出来ないんじゃ、可愛い犬だよなぁ? あぁっ! おぉっ! 俺たちが作業している時に限って吠えよってかんにぃっ!」
今度はクルルの背中に踏みつける。
二匹ともこの男を噛み殺したいとすら思っているが、口輪をされているのでは、噛み付こうにも噛み付けない。
それがわかっているからこそ、男は躊躇無く二匹に乱暴が出来た。
鎖が短いのもその為だった。口が無ければ足を使えばいい。足が使えなければ体全体で……だが、それが出来ないでいた。
「きゃはははっ! おいっ! 見ろよぉっ! 何にも出来ねぇでやんのぉ! こんなんが番犬だなんて聞いて呆れッちまうよなぁ?」
男がそう云うや、その場にいる全員が哂った。
痛みで横たわっている二匹は、ただただこの下郎達を見据える事しか出来なかった。
二匹の相貌から涙のようなものが零れ落ちるが、それが人間と同様に悔しさや痛みから出てきたのかは、恐らく本人すらわからない。
「さぁてぇとぉ……今屋敷にいるのは何人だ?」
「秋音と澪……それと巴って云うのが、こっちに拉致られてるからな。そいつを外すと…… えっと……」
「五人だが、警察二人と裏切り者を含めると、今八人いる事になる」
「そうだったっ! そうだったっ! くくっ! まぁ、どうせ死ぬ人間の事なんか頭数に入ってねぇだろ?」
そう云うや、男はもう一度タロウの腹部を踏みつける。
「くぅやしぃだろう? あぁ? 目の前に殺人犯がいるにも拘らず、何にも出来ねぇえんだからよぉっ!」
踏み付ける力を徐々に強くしていき、見下すような形で、男はタロウを嘲笑した。
それを傍観していた男のインカムから連絡が入り、ニヤリと口元を歪めた。
「――了解。此方も準備が出来次第、行動に移る」
「どうかしたか?」
「……先程麓付近で三重野が雇っているSPと戦闘を開始、モノの五分で卯藩はやられたそうだ」
「ちっ! やっぱりか…… やっぱ餓鬼に鉄砲は重すぎたな」
「馬鹿と鋏は使いようとは云うが、馬鹿は馬鹿でしかないって事だな」
「それで? それだけじゃないんだろう?」
そう云われ、少し間を置くと……
「――渡辺洋一の死亡を確認」
これまた何とも……と云った感じに、通信を受けていた男は何とも云い難い表情を浮かべた。
渡辺を殺した事に関しては、遅ればせながらも、シナリオ通りであり、正直どうでもいい事なのだが、その渡辺がSPに渡したものが気に掛かっていた。
「三重野とSPの二人は?」
「眼鏡をかけたのが、狙撃者を目撃。だいぶ離れていたため、此方の支障は起きていない」
確かにそうでなければ、何のための予防線だ。
結局のところ、無残にもやられたあの四人は味方からも見放されていた。まぁ、元から捨て駒だったとも云える。
通信を受けている男は少しばかり考え、「あの女が戻ってくる前に片付けておけよ……一応渡辺の死体はうちの機動隊が乗っ取ってるんだからよ……」
そう云うや、男はスッとズボンからオートマティックの拳銃を取り出す。
「んっ! んんっ!!」
目の前で手足を縛られ、猿轡をされた機動隊員の一人が、足掻き苦しんでいた。
「すまねぇなぁ? なぁにいってんのかわかんねぇわ……」
くすりと哂いながら、機動隊員の耳元に銃口を向けた。
「あたぁ……“無耳芳一”っていうの知ってるか?」
突然そう云われ、隊員は首を振った。
一応は知っているのだが、どうしてか頷く事が出来なかった。
「そうか、そうか……んじゃ、教えてやるよ」
そう云うや、男は銃を下ろす代わりに折り畳みのサバイバルナイフを取り出す。
「“無耳芳一”ってのなぁ、先ず……目がないんだっけかぁっ?」
それを聞いて、隊員はゾクッとした……。
いや、今からされる事よりも、それを執行しようとする男の表情に戦いていた。
目の前にいる男の表情は、人間なのか?と問い質してしまいたいほどに歪んでいたのだから……
その恐怖に駆られ、さらにジタバタと体を暴れさせた……
「動くなぁよぉ? 下手したら面白くなくなるんだからよぉっ?」
そう云うと、ゆっくりと刃先は眼球へと近付き……
眼球から激しい血飛沫が飛び出していた。
「んんんっ! んっ! んんっ……」
あまりの痛みにショック死するほどだったが、「おっと、それくらいで死ぬなよ? まだもう片方が残ってんだからよ?」
そう云うや、間髪いれずにもうひとつの眼もナイフで潰した。
相貌からは夥しいほどの血が流れ落ち、隊員は目の前が何も見えなくなる。
「おい? 芳一は平氏の亡霊に琵琶を聞かせてくれって頼まれて、廃寺に誘われたんだよな?」
そう云うと、男はもう一度拳銃を持ち直し、隊員の猿轡を解いた。
「お、おまえたち! こんなことして何とも思わないのか?」
「何とも? 何とも思わないさ? どうせ死ぬ人間のことなんかなぁ?」
そう叫ぶと、狭苦しい防空壕の中に銃声が響き渡った。
「ああああああああっ!?」
隊員は足を打たれ、悲鳴を発する。
「いいねぇ? ほら! もう一発!」
再び男は銃を隊員の足元を狙う。今度は間髪いれずに三発。
その銃声に合わせるように、隊員の上半身は痙攣する。
そして、今度は肩の関節を狙うように撃たれるや、まるで上から吊り上げられた操り人形のように奇妙な踊りを見せていた。
何回撃ち込まれただろうか、足は最早原型を留めていないほどにボロボロで、両腕に至っては最早繋がってすらなかった。
「あ、ああ、ああぁ……」
それでも猶生きているのは奇妙だが、心臓や、血が大量に出る場所は狙っていなかった。
男はまるで何かを演奏するように、狙って撃っていたのだから……
「そうそう…… 芳一は住んでいるお寺の坊さんから体中にお経を書いてもらうんだけどなぁ? ある部分だけ書き忘れられるんだよ」
虫の息ではあるが、生きている隊員は自分の耳を疑った。
これだけ痛めつけているにも拘らず、この男は……
自分の考えが、外れて欲しいと、どれほど思っただろうが――
「っつぅっ!」
片方の耳から気絶するほどの痛みが走る。耳を掴まれ、根元をじわりじわりと鋸のように切り落としていく。
そして、ボトリと耳が落ちた。
「…………っ!」
最早叫ぶ事すらままならないその悲鳴は、まだ方耳しか取れていない事に恐怖を与えていた。
“無耳芳一”の話では、両方の耳に経文が書かれていなかったため、平氏の亡霊が芳一の耳だけを持ち去ったと云われている。
もし男がそれに充実に再現するとすれば……
隊員は耳を掴まされるや、それから逃げようとする。
しかし、最早“動く事”すら許されていない自分の体では、どうする事も出来ないでいた。
そして――もう片方の耳も、何の躊躇なく切り落とされた……
「くぅっ! っくくくっ! すんげぇなぁ? 本当に芳一だよ? あんたの髪の毛を坊主にしたらさぁ? うん。間違いなく、間違いなく芳一そのものじゃねぇかぁ? くくきゃぁっきゃきゃきゃっ! くぇけぇきゃけけきゃっかきゃひゃっ!」
男はケラケラと哂う。
「それじゃ……最後の仕上げだ……」
そう云うや、男は隊員の首元に銃口を突きつけながら――
口元を大きく歪ませた。
「おや? へぇ? あらら……」
一時的に外に出ていた“縁”が戻ってきて、その惨状を見るや、恐怖に戦くわけでもなく、その死体を見ていた。
真っ赤に染まったその骸には首がなく、自分の足元にそれが転がっているのだから――――
「話だと、渡辺が死んだみたいね?」
縁は足元の首に眼もくれず、現状説明を促していた。
「はい。三重野は渡辺の遺体を機動隊に明け渡した後、そのまま従者のSP二人と耶麻神邸へと歩いて登っております」
「車で行くことを諦めたってところかしら……まぁ一々テープを剥がすなんてまどろっこしいことをしないですむからいいでしょうけど……それで、渡辺がそのSPに渡したものに何か心当たりはないの? ――貴方達、見張ってたんでしょ?」
縁がそう云うや、銃を撃っていた男以外の二人は首を降った。
「先に殺しておいてよかったわよね? 若しあんたたちが入れ替わっていたとしても、血液はその人間のものだから、何の疑いもされない」
つまりは車のトランクの中に警官の死体を隠しておき、三重野が白馬温泉に来ることを知った上で、死体をあのようにしていた。
覆面とはいえ、一応は警察所有のものになるので、無線機が備えられている。そこから彼らは盗聴していただけの事だった……
「それにしても、さっきからうるさいわね……」
縁は自分を警戒するように喉を鳴らしているタロウとクルルを見遣る。
「そんなに怖がらなくてもいいのよ? 私はあなた達を殺したりしない」
そう云いながら、ゆっくりと近付いていくが、二匹は“そんなの信じられるか!”
と、云っている程、激しく喉を鳴らしている。
「だから……殺しはしないっていってるでしょ?」
そう云うや、縁はタロウの顔を捕まえ、ジッと自分の目をあわせる。
数秒ほど見詰め合うや、タロウの目はトロンとしだし、瞼を落とす。
縁は同じような事をクルルにもし、同じ事が起きた。
そして、二匹はゆっくりと立ち上がり、重たい瞼を開いた。
その瞳は仄暗くて見えなかったが、虹彩も何もないどんよりとした瞳をしていた。
縁は二匹に点けられていた口輪を外す。その行動に他の三人が狼狽えるが、意外にも二匹はジッとしていた。
一体何が起きたのだろうかと、三人は互いの目を見遣る。
「さぁ、タロウ……クルル……あれから何も食べてないでしょ? そこに美味しそうなお肉があるから……たんとお食べ」
縁は朽ち果てた隊員の死体を指差しそう云うや――
タロウとクルルは気が狂ったかのように、死体に飛び掛り、その骸を貪り尽くし始めた。
ピチャピチャ……と、まだ残っていた血が飛び散り、二匹の口元は赤黒く光り始めていた。
「くくくっ! くきゃきゃっ! なぁにがこいつらは温厚で優しいよ? 野性の本能を思い出させただけでこの有様ぁっ! 犬畜生は犬畜生でしかないんだから! 人間と犬は古来より信頼しあってきた? 違うわ? 全然違うのよ? 本当の意味では! 犬は古来より、尤も身近にいた“狩りの道具”でしかないんだから! 道具に信頼関係なんて生まれないっ!!」
縁はケラケラとせせら笑いながら、骸を無我夢中で貪っている二匹を見ていた。