伍拾肆【8月12日・午後2時47分】
一人の男が溜息を吐いた。
三十年前に起きた孤児院での出来事を、あることないこと記された新聞記事がスクラップされた古惚けたノートを眺めながら、男……渡辺洋一はもう一度溜息を吐いた。
書斎で発見された書記に書かれていた通り、渡辺は三十年前、院長に殺された少女の亡骸を探し出すため、大聖に話を切り出した。
防空壕の中に少女の遺体が遺棄された事を知っているのは、院長を除けば、その人間を殺した子供たち……つまり大聖たちだけだった。
彼等を匿い、自ら罪を背負った女職員は知らない。
事件後、子供たちはそれぞれ新しい家に貰われていったが、ある約束事はしていた。
それは“必ず、少女の遺体を自分たちの手で埋葬する”と云う事だ。
しかし、子供の頃の記憶は、孤児院の時とは違った暖かさと、時間が相俟って、彼等の記憶から消えていっていた。
あれだけの事をして、記憶から消えるということは恐らくない。
“縁”のもっている記憶消去、及び、記憶の書き換えによるものかといえばそうでもない。
金鹿之神子が持つ力は、対象者とその瞳術をかけられる人間が対峙していないと効果はない。
巴の力は憎悪によって力が発揮されるが、“縁”のもっている力に憎悪は必要ない。
だが、渡辺、大聖だけは覚えていた。
大聖は既に防空壕の中を隈なく探し、それでも少女の白骨死体が見つからなかったことと、これ以上、過去を引き摺るというのは性に合わない性格であるため、渡辺の話にてんで乗る気はなかった。
渡辺自身も、出来れば、終わった事にしたかったが、“縁”の執念に負け、その手伝いをしていた。
突然、渡辺の携帯が鳴った。
「もしもし?」
“首尾よくいってますかね?”
声を聞くや、渡辺の表情が曇る。
「ええ。うまくいってます。“縁”さんの話だと、大内澪を誘拐したとの事です」
巴と秋音がいなくなったのと、“鹿狩”を行われるということは、まだ渡辺の耳に入ってない。
“そうですか? そろそろ決断をしてもらわないとね? こちらも動けないんですよ”
「わかってます。ですが、最終決断は彼女です」
“あの山には大昔、地下牢があった事は知ってましたし、それを再利用して、四十年前に滅んだ集落は防空壕を造った”
無駄に広い防空壕は、罪人が逃げ出せないようにしたものだった。
“私たち『警察』も暇じゃないんですよ? 貴方達には多額の金をもらっていますから、やってきたことを隠蔽出来るんですよ? それにね? 三十年前に起きた事は『なかったこと』にしたいんですけどね……”
結局、人間の心を弄ぶのは金なのだろうと、渡辺は悲痛な表情を浮かべた。
修平や渚といった使用人たちを辞職させたのは渡辺だったが、殺したのは“縁”だった。
いや、“殺した”というよりは“壊した”と云ったほうがいいだろう。
使用人たちは拉致され、臓器を取り出され、それを売り捌く。
腰まで伸びた髪は剃られ、それを鬘として売り飛ばす。
実際、中国では鬘を作るためだけに髪を伸ばす女性がいるともいわれている。
それらで得た資金は一体どれ位貯まっただろうか?
そして渡辺は、出来ることならこの舞台から降りたかったが、既に肩まで使った赤い海からは上がる事は出来ない。
“どうしましたかな?”
「いえ……何かあったら、また連絡します」
そう云うと、渡辺は一方的に電話を切った。
そして、ふと、彼は山を見上げた。
かつて“逆鬼”と呼ばれたその山は、まるで自分たちが帰ってくることを待っていたような感じがしていたからだ。
彼は物陰に隠れながら、麓に停まっている長野県警のトラックを見ていた。
そして、彼は携帯を取り出し、ダイヤルを押した。
“もしもし……”
「ああ、もしもし? 洋一ですけど……あれからどうですか?」
“随分と連絡が遅れたけど、何かあったの?”
「いえ、特に何も……一応、私は逃げてる身なんですけどね」
渡辺は小さく笑いながら云う。
「それでですね? “縁”さんは何か策でもあるんですか? 皆さんを一時的に屋敷にいられなくする方法を……」
渡部は自分の問いに歯痒さを感じた。
“殺す”という方法しかない。だからこそ、金で警察庁の人間を買ったのだから……
“そうね。まだ何をするかは決めてないけど……でも、皆さん全員、屋敷から出ていってもらうから”
そう云うと“縁”は電話を切った。
声は冷静だったが、その心情を知っている渡辺は想像したくない惨状を思い出していた。
「おいっ! 何をしているっ?」
突然背後から怒声が聞こえ、渡辺は振り向いた。
「お、お前は……? 最重要参考人の……渡辺洋一っ?」
「こちらA班! 応答願うっ! 榊山麓付近で渡辺洋一を発見!」
捜索隊が無線機で連絡を取り合う。
「……くっ!」
渡辺は懐から銃を取り出したが、「動くんじゃないよ? 貴方には訊きたい事が山ほどあるんですからね……」
渡辺の後頭部に冷たい感触が突きつけられる。
視線をうしろに回そうとすると、「おっと、そのままにしていてくださいね? まずは……耶麻神旅館に関する裏金ですけど、それに関与していた全員を殺した事に間違いはないんですかね?」
殺したのは本部長だけだ。
それを何故関与していた全員になるのだろうか? 政治家達は既に金にならなかった。
というよりも、裏金を得ていた政治家に警察を動かせるほどの“権力”がなくなっていたというのが正解である。
渡辺は黙秘を続け、銃を向けた警官の行動を見ていた。
「……黙秘ですか? まぁ、いいですけどね……。それじゃ、もうひとつ、屋敷で働いていた使用人達を殺したのは貴方ですか?」
その質問にも渡辺は黙秘した。
そう彼がすることをわかっていたのか、銃を向けた男の口元は歪となる。
「耶麻神大聖を殺したのは、貴方ですね?」
岐阜の刀鍛冶がいる小屋の前で、大聖と創玄爺を直接ではないが、殺したのは渡辺だ。しかし、それも渡辺は黙秘した。
「最後に……三十年前、院長を含めた職員を殺したのは……」
そう云うや、銃はゆっくりと渡辺の後頭部から離れていった。
「はいはい? “仲間割れ”はここまで……」
そう云うや、渡辺はようやく解放されたように、うしろを振り向いた。
そこには帽子を深々と被った老人が立っていた。
その両側には私服の男たち。そして、さっきまで銃を向けていた警官が、逆に銃を背中に向けられていた。
「三十年前、彼はまだ未成年でしたし、既に時効ですからね……もう蒸し返すのは駄目でしょ? それとも、何か都合の悪い事でも?」
老人はそう云いながら男を素通りし、渡辺に手を差し出した。
「立てますかな?」
渡辺は少しばかり混乱するが、「大丈夫ですよ。私は三十年前に起きた事はもう責めません。貴方を含めた子供たちは正当防衛として、充分言い訳が出来るんですから……。それに、責めるとしたら、今貴方達がやろうとしていることと、これまでやってきた事に対してです」
老人はゆっくりとそう云う。
「ちょっと、待って下さいよ?」
「動くな……」
「ふぅ、気が狂いましたか? 私は彼が怪しい動きをしないように塞き止めていただけですよ?」
男はそう云いながら、渡辺の額に銃を向けた。
「全員、動かないで下さいよ? 尤も重要な人物が死ぬんですから……」
男は口元を歪ませ、老人を見た。
「渡辺さん? 此処で無残に殺されるのと、法の下、罪を償い、絞首で死ぬ……どちらがいいですかね?」
渡辺はどちらにしろ死ぬ運命にある。
いや、院長を殺した時点で、そうなる運命だったのだろう。
「……会わしてください」
渡辺は肩を震わせ、老人に言う。
「……誰にですかな?」
「屋敷にいる皆さんに…… 捕まる前にひとことでも……」
「それは今じゃないといけないんですかな?」
そう聞かれ、渡辺は頷いた。
「よし! 渡辺洋一を確保!」
刹那、老人がそう云うと、ゆっくりと渡辺に肩を貸した。
その瞬間、渡辺の背中から血飛沫が飛び散った。
一瞬の事で、全員がその場に動けないでいた。
「渡辺さん? 渡辺さん!」
老人は渡辺に声をかける。
「ぅうっぅぐぅ……」
渡辺は呻き声を上げながらも立ち上がろうとしていた。
「救護班! 急いで!」
「おいおい? 殺人犯を助けるのかよ?」
銃を撃った男は哂いながら、そう云う。
「少しは黙って下さいよ? 似非警官が!」
老人がそう云うと、男はガクッと、膝を突いた。
「あ? あがぁ? ああ?」
男は何が起きたのかわからない表情を浮かべる。
「動かないで下さいよ? こっちはプロなんですからね……」
「お…… い…… な、なんだよ? それ? あんたらは人を殺すのかよ?」
男の横腹と左腕は銃に撃たれ、真っ赤に染まっていた。
「云ったはずですよ? 余り動かない方がいいって…… それにね? 私たちのは、あくまで威嚇なんですよ?」
そう云うや、老人は、「救護班急いでください。先ずは渡辺洋一を先に! 彼にはまだ伝えないといけない事があるそうですからね……」
老人はそう云うと、渡辺を担架に乗せた。
「っぐぅうぅっ!」
「余り喋らないで下さいね。傷が広がりますから…… それに、私たちも貴方に訊きたい事が山ほどあるんですよ……」
老人は渡辺の服を切り裂き、傷を見遣る。
「くっ! 出血多量! 意識レベル30! 弾丸は肩甲骨を貫通。辛うじて心臓にはいってないようですね」
「三重野元警察医殿! ご支持を!」
「渡辺さんはまだやるべきことがあります。彼がこれから地獄に入る前に、伝えたい事は伝えさせましょう!」
三重野の指示に救命士は頷くが、「この男はどうしますか?」
そう云われ、三重野はもうひとつの担架で運ばれていく男を見遣る。
「一応助けますよ。まったく、趣味は自分の家でやりなさい……浮き過ぎなんですよ。警官は堂々としてればいいんです」
そう云いながらも、三重野は現役の救命士たちに指示を与えながら、渡辺の処置に奮闘していた。