伍拾【8月12日・午前10時52分】
僕は四年前の事を思い出そうとしていた。
思い出そうとすればするほど、頭が痛くなっていく。
園塚さんが云うには、僕は四年前、あの転落事故で両親を亡くし、病んでいたそうだ。
そして春那さんと深夏さんが僕を工事現場に呼び出し、僕を殺そうとした……
その時、僕は転落事故について、何かを知っていたというのだろうか……
「大丈夫か?」
園塚さんが自分よりも僕を心配している。
「君は四年前の事を知ってるんだね?」
僕の問い掛けに、彼は首を傾げるが、本当に覚えていないことに気付いたのだろう。
「ひとつ教えられるのは、お前はあの時風邪かなんかの理由で、旅行に行かなかった」
僕は冬に風邪を拗らせやすい。
多分風邪でばあちゃんの家に預けられていたのだろう。
「ちょっと待って下さい! あの転落事故にいた乗客員はうちの社員なんですよ? その中に“瀬川”なんて名前……」
春那さんがそう云うと、自分でも可笑しいと思ったのだろう。
そうだ。僕の元の性は大河内……瀬川はあくまで伯母さん夫婦の性だ。
恐らくその事を春那さんは知らないだろう。
僕は園塚さんを一瞥する。
僕はあくまで“瀬川”という性でここにいる事。その理由を訊かない事にしてくれた。
「なぁ、瀬川……お前大学受験の後、何の連絡もくれなかったよな?」
「え? ……っと、それは忙しくて……」
自分のことなのだから、はっきりと言えるはずだった。
それなのに、何か曖昧な返答しか出来ない。
「それに目はどうしたんだよ? 鉄骨で……」
彼の話は途中で途切れた。
何だ? また前と同じ……自分の目に関して、何か知ってはいけない事でもあるのか?
僕が失明したのは小学生の時だ。それに四年前は既に見えていた。
「あれ? ハナ……」
ふと春那さんがそう云うと、僕の横にハナが来ていて、手の甲を舐める。
それはまるで“怪我をした子供”を落ち着かせるように、優しく撫でるような感触だった。
その時、僕の脳裏には見た事のない景色が流れた。
そこには、小さな男の子と女の子二人が一緒に遊んでいて、傍らには赤ん坊を抱いた女性が中庭のペンチで座っていた。
その男の子と女の子たちは、本当に楽しそうに遊んでいる。
“鬼さんこちら! 手のなる方へ!”
子供たちは目隠し鬼をやっている。男の子が鬼となり、手拭いで目を隠している。
手を鳴らしながら、女の子達は四方八方に逃げ回り続ける。
“ちょっと! どこにいるの? ***おねえちゃん! **ちゃんっ!”
男の子は半ば半泣きで、手探りで女の子二人を探していた。
“あっ! **ちゃんっ! そっちに行ったら”
女の子の一人がそう大声を出した時だった。
――ガリッと云う、何か引っ掻いたような音が聞こえた。
男の子は悲鳴を挙げる。まるで犬のようにワンワンと泣き喚く。
“もう、それくらいで泣かないの! 男の子でしょ?”
女の子が男の子を宥めるが、男の子は泣き止まない。
声をかけた女の子と大差ないはずなのに、なんなのだろうか?
と、云った感じの表情を女の子は浮かべる。
ふと女の子は、男の子の怪我をした手を取り、引っ掻いた部分を触れないように擦った。
“いたいの、いたいの、てんまでとんじゃえ!”
まるで呪文のような言葉を言う。突然の事で男の子はポカンとしている。
“どう? いたくなくなったでしょ?”
そう云いながら、女の子はニッコリと笑う。
“う、うん”
男の子はドギマギとした感じに俯いてしまった。
“**っ! ばんそうこうもってきて”
そう女の子が言うと、もう一人が家の中に入ると、重たそうな救急箱を持って戻ってきた。
女の子は慣れた手付きで、男の子が怪我したところに絆創膏を貼った。
“はい。男の子がそんな事で泣いちゃダメなんだよ……まーちゃん”
その声は……はっきりと僕を呼んだ。
そして、僕はそれが誰なのか……
そう、僕と一緒に遊んでいた女の子達は……
「はるな……おねえちゃん?」
僕は頭の中で云ったつもりだった。
だけど、それを口にしたらしく、春那さんに聞こえていた。
「えっ? えっと……確かに私は瀬川さんとは姉弟に当たるかもしれませんけど、でも……」
春那さんはそう云うが、釈然としていなかった。
「あれ? でも……どこかで聞いた事が……」
春那さんがそう云うと、頭を抱える。
そして、僕を見据えるや、「まっ? まーちゃん?」
そうその呼び名は……春那さんが僕の名前を覚えられなくて、そう呼んでいたんだ。
「何で……何でこんな記憶が?」
春那さんは混乱するようにそう呟く。
「私と深夏は……瀬川さんに……ううん何で? 何で忘れてるの? 何でまーちゃんの事、忘れてたの?」
混乱するように春那さんは僕に縋り寄る。そんなの僕が聞きたい。
「ちょっと、どうしたのよ? 姉さん」
深夏さんがそう云うと、「深夏! ほら、大河内さんがよく屋敷に、私と同じか、少し下くらいの男の子と来てたじゃない?」
そう云われ、深夏さんは首を傾げる。
「うぅん。云われてみれば、確かに来てたような……」
深夏さんは何かもどかしそうな表情を浮かべた。
「思い出してみてよ! ほら! 私が“ハリュ”で、深夏が“みぃ”。それで瀬川さんが“まーちゃん”」
それを聞いて、深夏さんは何かを思い出したのだろうか。
「大河内さんが男の子と一緒に来て、父さんと母さんに仕事の打ち合わせがあるって云われて、それで私と春那姉さんは仕方なく男の子と遊んでいた」
深夏さんの云う通り、僕はよく父さんと一緒に……
「ちょ、ちょっと待ってください! 大河内って……若しかして、大河内智紀」
僕がそう云うと、二人は頷いた。
「それじゃ……本当に」
春那さんは驚きを隠せないでいた。
「でも、どうして? 大河内さんの事は凄く覚えてるのに……まーちゃんの事は何も覚えていなかった」
そう云いながら、春那さんは広間の片隅に座り込む。
それは僕も同じだ。僕だって、二人とよく遊んでいた。
だからこそ、忘れる訳がないんだ。
それが何年も前で、それこそ途切れ途切れだったら、忘れていただろう。
けど、父さんは毎週のように、僕をこの屋敷に連れてきている。
だから、忘れるとは思えない。
それは多分、秋音ちゃんや冬歌ちゃんが赤ちゃんの時にも僕は見てる。
その全ての記憶がなくなっていたんだ……でも、何で忘れていたんだ……
いや、若しかしたら、僕は最初からそう呼ばれていたんじゃないのか?
その証拠に……僕は確認するかのように冬歌ちゃんを一瞥した。
「どうかしたの? 正樹おにいちゃん」
視線に気付いたのか、冬歌ちゃんは首を傾げながら、僕に云った。
僕は今までの舞台で、冬歌ちゃんの、この何気ない言葉に何の違和感も感じなかったんだ。
それもそうだ。ずっとそう云われていたのだから……
「君は四年前に春那さんと深夏さんが僕を呼び出して、殺そうとしたと云ったね? でも、本当はこうだったんじゃないかな?」
僕はそう園塚さんに伝えると、みんなにも説明した。
あの日、僕の家では葬式が行なわれていた。
父さんと母さんが亡くなって、家の周りには鯨幕が張られている。
“事故なんですって……”
“乗客全員死んだそうよ?”
“あの辺って、昔大事故があった場所じゃない?”
“悪霊にでも連れて行かれたんかねぇ”
面白半分で見てきていた大人たちが口々にそう云う。
本当にそうなんだろうか? 僕は本当の事が知りたくて、小さい時からよく遊んでいた春那さんと深夏さんに連絡したんだ。
待ち合わせ場所はあの工事現場の裏側だった。
“あ、まーちゃん!”
春那さんが手を振って僕に駆け寄る。
“はははっ、凄い大きくなったね? 見間違えたよ”
そう云いながら、春那さんは僕を見上げた。昔は僕の方が、春那さんよりも小さかったんだ。
それがすっかり僕の方が大きくなっている。
“深夏? まーちゃんの事、覚えてる? ほら、よく大河内さんが連れてきた男の子”
春那さんが連れてきた深夏さんにそう云う。
“うん。よく遊んでたから、覚えてるよ。でも、本当に大きくなったよね?”
二人は久しぶりに会う僕を見て、驚きを隠せないでいた。
それもそうだ。最後に会ったのが、冬歌ちゃんが僕の事を“お兄ちゃん”って云っているかいないかの時だった。
“それで、私たちに聞きたい事って?”
そう云われ、僕は事故の事や父さんがリストラした事について、二人が知っていることを聞かせてもらった。
“ごめんなさい……私たちも本当の事は知らないの”
二人が嘘を吐いているとは思えない。
“でも、大河内さんをリストラにしたのは私じゃない。それだけは信じて”
春那さんがそう頭を下げる。
“春那おねえちゃん……”
その時、僕の周りが真っ暗になった。
それと同時にガラガラという何かが崩れるような音が聞こえるや、
“まーちゃん! 伏せて!”
二人のうち、どちらが云ったのかわからない。
だけど、その声は余りにも遅すぎた。
僕の視界には真っ赤な世界しかなく、そのすぐ後には、視界が真っ暗になっていった。
“まーちゃんっ! まーちゃんっ!”
二人が僕を呼ぶ声が聞こえる。
それから僕は気を失い、目が覚めたという感覚があった時には真っ暗な世界にいた。
「ごめんなさい」
春那さんは頭を下げて、僕に謝る。
「春那さんは悪くないですよ……」
僕がそう云うと、「おい。若しかしたらお前を殺そうと」
話を聞いていた園塚さんがそう云うが……
「鉄骨を落とした人間はいませんよ。云ってしまえば、荒んだ管理が招いた惨事でしょうな。束ねていた縄が古くなって、千切れたんでしょうな」 早瀬警部がそう云うと、「それじゃ……瀬川が誰かに殺されそうになったんじゃなくて……」
「ええ。事故ですよ。でもその後が大変でしたでしょうけど……」
そう云いながら、早瀬警部は春那さんと深夏さんを見遣る。
二人はその視線から逃げるように、厨房へと入っていった。
僕は首に掛けたペンダントを見る。
孔雀石の宝石言葉は“再会”。
人との再会と同時に、記憶との再会を意味していたのだろうか……
そう思いながらも、物言わぬ緑色の宝石は、静かに輝いていた。