肆拾伍【8月12日】
今更過去の事を振り返る事は、彼女にとって、至極滑稽な話だった。
誰も、好き好んで自分の過去を穿り返そうとは思わない。
記憶は記憶のまま、脳髄の奥底に叩き潰しておけばいい。
それが、“罪なき殺人”であったとしても……
今から三十年前……榊山にはある施設があった。
今は太田大聖が持ち主から与えられ、幸せそうに使っているあの“屋敷”は、恐々《きょうきょう》と狂い、そして、非情なまでに冷たい空気が流れていた事を、霧絵や姉妹たち。渚や修平。澪、繭と云った使用人たちは知る訳がなかった。
誰も真実を知らないから……
誰も真実の奥底を知ろうとしないから……
真実を知っているのは……
当時其処にいた子供たちだけなのだから……
薄暗い部屋で少女の悲痛な叫びがこだまする。
仄かに明かりが点けられた六畳一間の部屋に、十代半ばどころか、それに達しているのかすら疑わしい少女が服を引き裂かれ、傷だらけの表情で男たちに弄ばれていた。
SMで使うような麻縄で、縛りの試しをさせられたのか、華奢で膨らみのない身体に縄の痕が残っていた。
目茶苦茶に壊されたその身体は、外から見える傷痕よりも、精神を抉るほどの傷痕だった。
その証拠に、少女たちは諦めたかのように、虚ろな眼をしながらも、職員の命令を聞いていた。
少女の数は四人。それに比べて、職員の数は二人。数としては合わないが、如何せん子供と大人である。
しかも、少女は先程も云った通り、全員が十代であり、しかも下の子は十代であるのかわからない。
彼女達は自分の年齢を知らない。それ故に、誕生日など知らないから、祝ってもらった事すらない。
だから、自分が今幾つなのかわからない。
数字を数える事すら知らないから……何も教えてもらっていないから……
「そういえば、こいつ……今日漏らしたんだってよ?」
「ほんとうかよ? きったねぇなぁ? そんな悪い子にはお仕置きしなきゃいけねぇなぁ?」
職員達はケラケラと気持ち悪い哂い声をあげながら、女の子のお尻をひっぱ叩く。
手加減を知らないその痛みは、少女にとっては気絶に近いが、気絶してしまったら、水を掛けられて、悪夢へと連れて行かれる。
これが現実だと、少女たちは信じたくない。
――が、これが現実である。夢の中では、痛みなどないのだから……
そして、水を掛けられれば、畳が汚れる。自分の身体から流れる涙と涎、犯され続け、白濁とした液体が零れ落ちていると云うのに、その事でまた叱られる。
なんにせよ、少女たちの存在など、この悪夢に住み着いた極卒どもにしてみたら、玩具に過ぎない。
「そういえばよぉ? こいつ、この前漸く初潮になったんだってよ?」
そう職員の一人が口走ると、その男に弄ばれていた少女が恐怖に戦く表情を浮かべる。
「マジかよ? こん中でもう処女なんていねぇけどよ? 迎えたって事は? 孕むって事だろ?」
「お前、変態かぁ? こんな華奢な身体に孕ませるつもりかよ?」
「それがいいんだろ? まぁ、育てねぇけどなぁ? 妊娠した少女を犯すってのもありじゃねぇかぁ?」
「それもいいなぁ? くくくっ! っくきゃぁく! けぇゃぅくぁぅぅくくくっかっかかかかっ!!」
最早、表現することさえ儘ならない、狂った哂い声が響き渡る。
「そういえば、院長はまたあの娘で弄んでんのか?」
少女らを犯しながら、自分達は院長の話を進めていく。
「そうみたいだな。どうやら相性がいいらしい……」
そう云うや、二人は痙攣した……
その悪夢が執行されていた同じ頃、院長室では少女が院長に蔑ろにされていた。
この孤児院の中では、一番の年長で、子供達のお姉さん的存在である。
そんな彼女が裸体を露にしてはいるが、拷問部屋で躾を受けている少女たちに比べたら、何もされていない。
逆らえば殺されると感じているからこそ、何も抵抗をしようとしなかった。
最早人形とすらいえる少女たちの表情は明るさなど見る事すら出来ない。
そんな悪夢は、少女たちだけで終わる訳がない。
男の子達も例え小さな失敗だったとしても、暴力を食らわされ、肋骨を折ったり、煙草の火を身体に押し付けられたりと、生きた心地がしなかった。
一応は三食もらえていたが、その食事が食べられるものではなかった。
そんな子供たちに対して、職員達は優雅に、今日捕まえた猪の肉を堪能していた。
普通だったら、あれだけの事をすれば、子供たちを褒めるのが当たり前である。
だけど、この悪夢には、子供たちを褒めるという者などいなかった。
――ただ一人を除いては……
夜中、隠れてホットケーキを作り、子供たちに与えていた女職員。
彼等にとって、彼女だけが唯一信じられる大人だった。
小麦粉は天麩羅を作るさいに使うので大量にある。
そして、卵は自家製のため、困る事はない。
女性の料理は面白いくらいに美味しくはないが、それでも、腐った飯を食べるよりも美味しいものだった。
全然違っていたからだ。男職員の作る汚らしいゴミのような飯よりも、暖かく、心の篭った料理だったから……
「ねぇ? 先生はどうして、この施設にいるの?」
ホットケーキを頬張りながら、少女が尋ねる。
「先生はね、行く場所がないのよ。もうこんな年でしょ? 働き手なんてないし、貰いてもいない」
“貰いて”の部分で、下の子供たちは首を傾げる。
院長に蔑ろにされている少女が、「“貰いて”っていうのは、結婚する男性がって意味よ」
と、説明すると、一人の男の子が、「先生料理へタイからなぁ。もう少し上手くないと、結婚出来ないって事じゃねぇ?」
「はははっ! 違いない!」
子供たちは小さく笑いあう。
本当だったら大声で笑いたいはずだが、時間は夜中で、本当だったら寝ていなければいけない。
だけど、彼等は午前〇時をなるまで、隠れて起きていた。
男の子と女の子は別々の部屋になっている為、職員に見付からないように男の子の部屋に入ったり、女の子の部屋に入ったりして、談笑を楽しんでいた。
そして、その茶菓子を女職員が買ってきたり、作ったりしている。
美味しくないけれど、彼等にとっては美味しいホットケーキ。
それから女職員から聞く暖かい御伽話。
彼等にとって、母親は女職員だった。
母親が自分の子供に話すように、色々な話を聞かせる。
一応は下の子たちを寝付かせるための話なのだが、上の子達も自分たちの知らない外の世界を知る絶好の機会だった。
時計の針は無常にも午前〇時を指しており、女職員の話は途中で止められた。まるで紙芝居屋が、見に来た子供達に芝居の最後に“つづく”と書かれた紙が出てきておしまいと云ったような感じだった。
興奮状態の子供たちにとっては、焦らされた感じがする。
しかし、明日の夜に続きを教えてもらえるかもしれない。
そういう期待があった。
この晩は男の子達の部屋だったため、女職員は女の子達を連れて部屋を出た。
襖から顔を覗かせ、廊下に誰もいない事を確認すると、ゆっくりと女の子達の部屋へと連れて帰った。
「先生。おやすみなさい」
「はい。おやすみ」
極当たり前の挨拶。だけど、少女たち、いや、子供たちからしてみたら明日の希望が篭った挨拶だった。
襖をゆっくりと閉め、もう一度辺りに誰もいない事を確認すると、女職員は自分の部屋へと戻った。
「どうかしたんですかな? 先生」
丁度部屋の手前で、背後から院長の声が聞こえ、そちらに振り返った。
「子供たちが寝ているかどうかの確認を」
「そうですか? それで、寝てましたかな?」
「さすがに皆疲れて、眠ってますけど」
そう女職員が云うと、院長は少しばかり鼻をヒクヒクさせる。
「これはまた“美味しかったでしょう”な?」
院長がそう云うや、女職員は気が気じゃなかった。
ばれている事は重々気付いているが、それでもあんなものを食べさせられるくらいなら、女職員は自分の料理を食べさせた方がまだマシだと思っている。
――こいつらはただ単に食べさせればいいと思っている。そんなので子供が育つとは思えない。
と、女職員は院長の後姿を見ながら、睨むように崩れた表情を浮かべた。
本当に育てると云うのは、人や動植物と接して、初めて成り立つ。
確かに生かせている事も、育てることなのかもしれない。
だけど、それでは本当の意味での“育つ”にはならない。
本当に育てると云うのは、心を育てるものだ。
心が育っていれば……あんな狂った悪夢は起きなかっただろう。
いや、最早あれは決められた悪夢の結末だった。
誰もが心を崩していたのだから。
女職員が暖かくも厳しく接していても、それはもう頭が潰れた螺子のように、回らないし、治せないものになっていたから……
“あれは……私達がした事。自分で殺すことを決めて、あの日院長を自分の手で殺した。だから、先生は悪くない。先生が責任を取らなくてもいい”
顔半分を手拭いで隠した女は、昔の出来事を思い出しながら、頬に伝う何かにハッとする。
ああ、また自分はあの悪夢の中にある幸せな時を思い出していたんだなと気付く。
もう戻ってこない。決して戻ってこない幸せだった時。
苦痛でも、光があったからこそ、頑張れたあの光はもうない。
三十年前、事件があった後、子供たちはそれぞれ、養子として貰われていった。誰が何処の家に行ったのか何て知らない。
そして女は防空壕の中であるものを探していた。
それは院長に殺された、自分の姉貴分である少女の遺体を見つけ出し、日の当たる場所に返してやる事だった。