肆拾壱【8月12日・午前4時32分】
「んっ……」
水滴が気を失っていた澪の頬に当たる。
それが理由なのかどうかはわからないが、ゆっくりと意識を取り戻した。
少し身体を動かしてみると、腕は縄で縛られており、身動きが取れなかった。
「おい、いいのかよ? そんな事したら殺されっちまうぞ?」
聞いた事のない男の声が聞こえる。
澪は周りに男が数人いることをわかり、警戒する。
「でもよぉ。あのババァ、ヒステリックにも程がねぇかぁ? 大体、澪さんは何も云ってねぇだろうがよぉ」
「まったくその通りだよなぁ。それにしても、澪さんを襲ったやつ、俺たちの中じゃ結構凶暴な方だと思うんだけどな?」
「澪さんを無礼んなよぉ? 厨房ども! この人はなぁ! 何を隠そう、あの長野県警機動隊隊長を負かしてるんだぞ?」
一人の男が興奮状態で云った。
「ああ、知ってるよ。空手を始めてまだ四年だったって話だろ?」
彼らの何人かは澪が空手の大会での経歴を知っている。
その中には、あの時澪を押さえ込んでいた大柄の男がいた。
「それでよぉ、どうだった? 憧れの澪さんの背中はぁ?」
「なっ! 何云ってるんだよ! 本人目の前にして云えるわけないじゃないかぁ」
大柄の男は身形からは想像できないほどに慌てふためいている。
「大丈夫だって、ほら…… 本人は気絶して……」
そう云いながら振り向いた時だった。
「――で、どうだったのかな? 私の背中は……」
澪は極力彼らを怖がらせないように笑った。
が、澪の強さを知っている彼らからしてみれば、軟な鎖に繋がった獅子が喉を鳴らしているように思えた。
後退りしていく彼らを見ながら、澪は彼らが人を簡単に殺せるとは思えなかった。
今、自分が危険な状況である事には変わりないのを澪は思っているのだが、顔をタオルで隠した女から殴る蹴ると暴行を受けて以降、何もされていない事に気付く。
それどころか喋っている事から猿轡も外されており、その事を尋ねると……
「な、何か知りませんけど、澪さんは大事な人質ですから、窒息なんかして、死なれたら困るそうです」
ガタガタと震えながら、一人が答えた。
「他に何か云ってた?」
そう尋ねるが、その場にいた全員が詳しくは聞いていないと答える。
彼らはあくまで澪の監視を任されただけであった。
彼らはよく見ると高校生や大学生だった。中には中学生もいる。
彼らの服装はチャラチャラとしており、どうやら近くで蔓延っている暴走族のようである。
話を聞くと、ある日彼らが所属しているチームが集会をしていた時、初老の男が彼らに高額のバイトを紹介したと云う。
仕事内容は“死体を運ぶ事”であった。
病院や警察の許可書があったため、疑わなかったようだ。
そもそも医療関係においてのアルバイトは高額であると相場が決まっている。
――もちろん、その許可書は全て偽物である事は云うまでもない。
「そ、それが……今度はこの屋敷にいる生きた死体を掃除するから、手伝えって」
その声を聞いて、澪は驚く。
声の主は、あの時、暗闇の中で澪を襲った男の声だったからだ。
澪は少しばかり警戒するように男を睨む。
「そ、そんな目で睨まないで下さいよ。俺だって首絞められたり、鳩尾に一撃食らったんですから」
確かにあの時暗闇だったとはいえ、澪は確かな手答えを掴んだ。
「それに若しかしたら、助けが来るかもしれませんよ」
そう云われ、澪は首を傾げる。
「さっき屋敷からの入り口を見張っているやつが、時間になっても来ないから、不思議がってたんッス」
「どういう……」
澪は訊こうとするが、恐らく屋敷に早瀬警部が来ていて、時間がきたら捜索を始めようとしていたのだろう。
何の理由で遅れているのか、澪は知る由もなかった。
時同じくして、屋敷からの入り口に鎮座する影がふたつあった。
リボルバー式の拳銃を持った男が頻りに畳を押し上げ、真っ暗な部屋を見渡す。
襖に異常が見当たらないため、まだ発見されていないとわかると入り口を塞いだ。
そんな男を見て、冷静沈着と云わんばかりに男が視線を送る。
その視線がまるで“黙れ”と云っているようなものだった。
「白馬温泉で変死体が発見されたようだ」
「渡辺洋一は行方を晦ましているようだが?」
広間で舞と早瀬警部の会話を聞いていた彼は、冷静にそう云う。
「あちらさんはこっちに渡辺がいると思ってるみたいだがな」
「姿が見えん相手をどう差し出せと」
「そう云えば、どうする? そろそろあの女、目を覚ますぞ?」
「一応は縄で縛っているが、恐らく時間の問題だろうな」
男はもう一度畳を押し上げ、部屋を見渡す。
「何度も見るな。来た時は来た時だ」
この男はよほどの覚悟があるのか、微動だにしない。
自分たちがやっている事は脅迫犯罪に値する。
何故なら彼らは人を何人も殺している。
「それで、あの方がこんな事をする理由ってのは?」
「さぁなぁ、ボケたばあさんの考える事なんてわかんねぇよ」
自分たちを命令している顔も知れない女を考え、彼は苦虫を噛んだ様な表情を浮かべた。
「金に目が眩んで、殺人を犯してしまったんじゃ、元も子もないな」
「でもよ? 俺たちがしてきた事は、死体処理だろ?」
「わかってるよ。でもなぁ? さっきまで生きてた人間を細かくしたり、わからなくしたりするのは殺人じゃないのか? 中には遣っていくうちに気が狂っちまったのもいるけどよ?」
男たちは自分たちの遣っていた事を大きく悔やんでいた。
しかし、逃げる事も出来ない底なし沼に肩まで浸かった彼らに、最早逃げる術はない。ただ命令されるがまま過ごすしかなかった。
「最初はよぉ? 高額のバイトだから始めたんだよ。死体を解剖して、臓器をホルマリン漬けするっていうやつだったんだけどな? どんどん過激になってきて、樹海に行っては自殺した人間の死体をバラバラにして、それを再利用するとかよ?」
彼は樹海で首吊り自殺をした人間の最後の表情を見ている。
「何の理由で死んだのかは知らねぇけどさ? 自分の手で自分を殺すのは卑怯だと思うんだよ。ははっ……人殺しの俺が言える口じゃないけどな」
苦笑いをしながら、男は呟く。
そんな男をもう一人は何も云わなかった。
「おれさぁ? この屋敷の会話を一週間くらい聞いてるけど……この人たちを殺していいのかなって……人を殺す事に何の躊躇いもなくなってきちまった俺が、今になって躊躇ってるんだよ……本当は昨日、渡辺洋一が農園に行った時、あの冬歌って子供を殺して……」
彼は両目から大粒の涙を零していた。
「俺さぁ? どんどん自分がわからなくなってきちまうんだ。俺は何人生きた人間を殺したんだろうって、何回、目を抉り取ったんだろうかって……」
男は自分の両手を見つめながら嘆く。
勿論既に嘆く事すら赦されていない。
今まで姉妹達を殺していたのは――彼だった。
最初、渡辺洋一が失踪し、混乱に生じて春那、深夏を殺し、目を奪っていた。
しかし、何故三度目の舞台で最初狙われるはずだった秋音があの時殺されなかったのか……
それはあの時、部屋に忍び込んだ彼が秋音を殺す事に躊躇したからだった。
理由としては意味不明だが、彼には妹がいる。
それこそ秋音と同じ年で背格好も対して変わらない。
上二人を何の躊躇いもなく殺した割には、妹に似ているだけで殺さなかったのはどうにも不公平である。
そしてそれは冬歌にも云えた。
「俺さぁ? これが終わったら自首するわ……どんな罰でも受けるよ」
「おい! 待てよ! 裏切るのかぁ?」
拳銃を弄っていた男がそう云う。
「もう後戻りできない事はわかってる。でも! 自首して終わらせるのだって……」
男は言葉を止めた。自分の頭に銃口が向けられていたからだった。
「もう一度言ってみろ? 変な事を言ったら、脳味噌掻き回してやるからな?」
低くドスの効いた声が彼の耳元で囁かれる。
“殺される”と、彼は歯をカタカタと鳴らした。
「わかってるか? 俺たちはもう駄目なんだよ? 社会から見放されて、親からも捨てられた、それはそれは可愛相なゴミなんだよ! そんな俺たちを救ってくれるところなんてあるか? いいか、殺人者はなぁ、死ぬまで殺人者なんだよ!」
そう叫ぶと、男は首元を掴みあげる。
「さぁ! 俺の言う事を繰り返すんだ。“私はゴミです! 人を殺す事しか考えられない人間のゴミです! 生きる価値さえない! 捨てられるためだけに生きてきたゴミです!”ってなぁ!」
男はそう云うや、ケラケラと哂った。
男の顔は醜く歪んでいる。彼も同様に人を殺している。
しかし、徹底的な違いがあるとすれば、後悔している男は言葉通り、自分の犯してきたことを後悔している。
そして、哂っている男は、この殺人は結局ただの遊びでしかないととち狂った考えしかなかった。
彼はある事を考えていた。ここでこの男を殺すと云う事を……。
相手は拳銃を持っている。それに対して自分は何も持っていない。
自分に不利なのは目に見えていた。
が、彼は殺すまではいかなくても、気を失わせる事が出来るんじゃ……
そう考えた時、既に彼の身体は行動へと移されていた。
「がぁっ?」
男に突進をすると、壁に突き出ていた尖った石に背中は突き刺さったが、これでは致命傷にもならない。
「馬鹿かぁ? てめぇはよぉ?」
男は笑いながら、男の腹に銃口をつけ、打ちはなった。
「がはぁっ!」
銃声とともに男が血を吐き捨てる。
「きゃはははははっ!! シネェッ! シネェッ! シネェッ! シネェッ!」
二発目、三発目と男は狂ったような哂い声をあげながら、銃を撃っていく。
自分は間違った行動をしたのだろうか、男がそう意識が遠退こうとした時だった。
スーッと、冷たい空気が流れてきた。
そして朧気な視界の先には、自分の妹と対して変わらない少女が立っていた。
「なんだぁ? おい! どっから入ってきた?」
銃を持った男が尋ねる。それを見て、少女は幻ではないと、男は理解する。
少女は指で示したのは、意外にも畳のあるところだった。
しかし少女はそれよりはるか後方にいる。
それに自分達は今まで畳の下にいて、気付かないわけがなかった。
「嘘吐いてんじゃねぇ! こんのガキャッ! 殺しちま……」
そう男が言った時……
――何かが折れる音が聞こえた。
「……あっ?」
男は何が起きたのかわからなかった。
何回もトリガーを引いても、銃声はならない。
男は銃を持った手を見るや、悲鳴を挙げた。
彼の右手人差し指が真逆に折り曲げられていたのだから……。
一体何時の間に、と男二人は目を疑った。
少女が奇妙な術を使ってやったのかと云わんばかりである。
「こんのくそぁ……」
男は何かを言おうとしたが、口から音は聞こえない。
それどころか息も苦しくなっていく。
「い、一体何を……」
狼狽する男は少女に言うが、少女は話す事が出来ないのか、畳を指した。
銃を持った男には少女が何を云いたいのかわからなかった。
ただ、傷を負った男に関しては、屋敷の人間は誰もあなたを拒まないと……そう云ってる様な気がしていた。
男はどうせ捕まるのなら、腹を括って、早瀬警部たちに場所を教えよう。そう考え、畳を押し上げた。
そして部屋に入るや、襖を止めていた留め金を引き抜いた。
廊下は静かだったが、広間から声が聞こえる。やはりもう何人かは目を覚ましてると知る。
そして彼は意を決し、正樹達の下へと歩み寄っていった。
それを見守るや、少女はホッとしたような表情を浮かべた。
……が、次の瞬間、銃声が鳴り響き、少女の胸を貫いた……はずだった。
それを見て、銃を撃った男は、まるでキツネに化かされたような、そんな心境だろう。
しかし、元々から生きてもいない存在に対して、何の役にも立っていない事に彼は恐らく知る由もなかった。
いや、知る余裕さえ与えられなかった。
次に彼が発見されたのは、防空壕から少し離れた山林の中だった。
捜索を行っていた機動隊がそれを発見し、保護したが、意識を取り戻した彼は、一時的とはいえ、まるで植物のようだったという。