肆拾【8月12日・午前4時12分】
屋敷からの捜索を開始するはずだった午前四時は疾うに過ぎており、舞は先程、自分と早瀬警部の携帯に送られてきたメッセージを見ては、苛立ちと焦りを顔に出していた。
「舞ちゃん、牛乳飲みます?」
厨房から早瀬警部が舞に声をかけるが、舞は黙ったまま早瀬警部を見るだけだった。
まるで“どうしてですか?”と云わんばかりである。
「怒りっぽいのはカルシウムが不足してるからですよ」
と、早瀬警部は笑いながら告げた。
舞は確かにこれくらいの事で苛立って何なのだろうと、頭では理解しているつもりなのだが……。
「先程のメールですけど、どう考えても、身内の人間からでしょうね」
早瀬警部にそう言われ、舞は頷く。
誰なのかはわからないが、自分たちが耶麻神邸に事件の捜査をしている事を知っており、尚且つ自分たちの携帯番号、もといメールアドレスを知っているのは、消去法としては長野県警の人間しか思い浮かばない。
ましてや、二人が持っている携帯は仕事用であり、私事での知り合いではない事は確かである。
「一応聞きますけど、舞ちゃんは誰に番号教えてます?」
「三重野元警察医と大牟田警部、後は機動隊隊長の野々村警視……」
そう言い切った時、舞は有り得ないことを想像する。
もしも野々村警視が犯人グループの一人だったとしたら? 連絡全てをオフにする事も出来る。
それこそ、三十分おきの連絡が一度もなかった事も納得がいく。
「――にしても、よく寝てますね」
早瀬警部は隅で寝ている姉妹達を見遣る。
「こうやって見てると、本当に姉妹みたいですよね」
大聖と霧絵とは昔からの知り合いである早瀬警部は、姉妹達が血の繋がっていない事は知っている。
多くの事件に関わる事で、色々な形の家族を見てきた。
それこそ理解出来ない形の物も含まれている。
人間の憎悪と云うものは荒唐無稽で、当たり前が当たり前じゃない時もある。
自分が幼い頃、悪い事をすれば当たり前のように親に怒られた。
悪友たちと一緒に悪さをすれば、近所で雷親父と云われ恐れられていた人に怒鳴られたりもした。
――が、今はどうだろう。実の子を叱れない親。逆ギレされるのが怖いからといって、触れようともしない人間関係。勿論いい家族もいるだろうが、昨今そういうのが目立ってしまう。
早瀬警部はこの事件が起きる数ヶ月前、ある事件を担当したばかりだった。
「ほんと……あの家族に耶麻神……いや、太田家の絆を煎じて飲ませたいくらいですよ」
それを聞いて、舞はそうだろうなと、思った。
数ヶ月前、ある一家に起きた殺人事件を早瀬警部は捜査していた。事件自体は二、三日で終わったが、腑に落ちないものだった。
容疑者は中学三年生の男子生徒――仮に少年Aと略しておく。
少年Aに掛けられた容疑は殺人である。
被害者は少年Aの父親である。殺害方法は至ってシンプルで、父親の胸に刃渡り二十五センチほどの包丁で二、三度突き刺して殺した。
少年法に基き、少年Aは少年院に送られた。
少年Aが院内入ってからの一週間。監視員の話を聞くと、一度も母親は来ていないという。
その次の週、少年は家庭裁判所に出向き、裁判を受ける事になっていた。
しかし、開廷時間が近付いても、母親は姿を現さない。そして、裁判が終わっても、姿を見せなかった。
知り合いの検視官にそのことを聞き、気になった早瀬警部は、少年Aの家族の家へと伺いに向かった。
住所も何も変わっておらず、母親も普通に出てきた。
早瀬警部はどうして先日の裁判に出なかったのかと訊ねたが、返ってきた言葉に耳を疑った。
“わたしには関係ないことですので”
そう母親が言うと、ドアはゆっくりと閉まり、鍵が掛かった。
――後で聞いた話だが、少年Aは母親の連れ子で、父親とは仲が悪かったらしい。そして母親は息子を疎ましく思っていたという。
少年Aに対して父親は肉体的な虐待を与え、それを母親は見てみぬ振りをしていた。
「胸糞悪い事件でしたね」
「結局それを理由に彼は殺人を犯した……事になりましたけどね。母親は事実を決して話そうとはしない。むしろ、訊きに来る私達を変質者扱いでしたからね」
早瀬警部はそう云うと、霧絵が巴と一緒にトイレに行っている事を確認するや、煙草を咥えた。
「でも、そんな彼にも救いの手があったんですよね……」
携帯灰皿に煙草の灰を落とすと、また紫煙を吹かした。
父親も連れ子がいて、少年Aとは一回り下の小さな男の子がいた。
酒に酔い潰れた父親がその子に対して、気に食わない事があれば暴力を振るっており、少年Aはそれを庇う形で父親を殺したという見解もあった。
あまりの興奮状態でなら……という考えだってある。
これは立派な正当防衛ではないかという理由から、少年Aは懲役数年の猶予があるという声も出ている。
「結局、どこで狂ってしまうんでしょうね」
舞は管理官であるため、事件の概要は知らされている。
両親が離婚している舞にとっては、居た堪れない気持ちになってしまう。
「わかりませんよ。他人の考えている事なんて……」
早瀬警部がまだ警官になりたての頃はこんなものではなかった。
時代が変われば人も変わるとはよく言ったものだが、ここ十年で変わりすぎじゃないかと云いたくなってしまう。
理由もなしに殺人を犯すというのは、ただの身勝手な快楽主義者に他ならない。
通り魔にしても、ストーカーが腹癒せに被害者を殺す事や苦しめる事も、結局は“身勝手”と云える。
「そう云えば、以前、深夏さんが変な悪戯電話を執拗にもらっていたと云ってましたけど」
「ああ、その事でしたら、もう解決しましたよ。彼女の通っている高校に、関係者でもない男がいて、学校帰りの彼女を尾けてましたからね。不審に思って、山に入る少し前に職務質問しましたよ」
そう話すと、早瀬警部は苦虫を噛みしめるような表情を浮かべた。
「で、職務質問した後、彼の家に行ってみると、まぁ気持ち悪いったら」
そこまで云うと早瀬警部は鳥肌が立ったのか、全身を震わせた。
「部屋に入ったら、壁一面に深夏さんの写真。しかも全部盗撮。体操着に着替えるところとか、逆によく撮れたなぁと感心してしましたよ。無論、彼にはストーカー罪、並びに盗聴盗撮における被害、彼の行動によって与えられた深夏さんの精神障害等々……」
それを理由に深夏は繭と一緒に携帯を買い換えている。
「友達が多い深夏さんだから、狙われたんでしょうかね?」
舞がそう尋ねると、早瀬警部は首を横に振る。
「いやぁ、ただ純粋に好きだっただけみたいですよ」
「なっ? 男だったら堂々と勝負しろってのよ!」
どうして舞が怒るのかと早瀬警部は首を傾げる。
「だって! 男だったら当たって砕けろじゃないですか! そんな卑怯な事しないで、正々堂々と交際を申し込めばいいんですよ」
「それじゃ舞ちゃんは、相手が告白してきたら、“はい”って云うんですか?」
早瀬警部が訊くや、舞は否定するように手を振った。
「相手や誠実さで違いますね。もっとも、卑怯な真似をして、無理矢理恋人にされるのは、寒気がするほど嫌ですけど」
舞は興奮していて、気付かなかったが、その話を戻ってきた霧絵が聞いていた。
「あ、あの……私は大聖さんに無理矢理つき合わされて、そのまま結婚したようなものなのですけど」
そう云われ、舞はあたふたとする。
が、霧絵はその事に対しては後悔していない。むしろ、大聖のそう云う強引な性格に惚れたところもあった。
「はははっ! 恋愛も家族関係も十人十色と云う事でしょうな」
早瀬警部は無理矢理話のオチを付けた。
「さてと、先程農園に行って、色々と野菜を採ってきましたけど……食べますか?」
霧絵が抱えていた小さな籠には、夏野菜を代表するトマトやキュウリ、トウモロコシが入っている。
「お米の用意が出来てませんから、直ぐに食べられるようなのを用意しました」
確かに蕃茄と胡瓜はそのままでも食べられるし、玉蜀黍は茹でれば食べられる。
さすがに防空壕の入り口に当たる鶏小屋には入れなかったが、それでも冷蔵庫には優々と卵が残っている。
餓える心配は元からなさそうだった。
「犯人グループが何もしてこないと云う事は、何かを準備しているか……」
早瀬警部はすぐにでも開かない襖を全て壊し、屋敷からの入り口を見つけ、妹を助けようとしている舞を宥めた。
むこうが何もしてこないのなら、態々こちらから出向かなくてもいい。
どちらにしても八月十二日の時点では、この箱庭から出る事は出来ないのだから。
何故ならこの日、八月十二日は“武石夏祭り”が催されており、少なくとも夕方から夜にかけては人が歩いているだろうからだ。
恐らくその事は犯人グループも知っているだろうが、その日に逃げると云う事は考え難い。逃げるとすればその真夜中だ……
十二日の午後八時以降、自分から連絡がなければ……という保険を早瀬警部は部下たちに話していた。
武石夏祭り:毎年、8月12日、14日、15日の3日間行われ、12日には、おみこし、夜店、踊りにライブと盛りだくさんの催しが行われます。14日は親善ソフトテニス大会、そして武石の夏の夜空を彩る納涼代花火大会、15日は親善グランドゴルフ大会に親善囲碁大会が行われます。また、14日は武石森林公園マレットゴルフ場が無料開放され、ふるさと武石へ帰省された方々をはじめ多くの皆さんが夏のひととき暑さを忘れて盛り上がります。【武石観光協会HPより】